学位論文要旨



No 120837
著者(漢字) 椋,寛
著者(英字)
著者(カナ) ムクノキ,ヒロシ
標題(和) 特恵的貿易協定と多角的貿易自由化に関する研究
標題(洋) Essays on Preferential Trade Agreements and Multilateral Trade Liberalization
報告番号 120837
報告番号 甲20837
学位授与日 2006.01.25
学位種別 課程博士
学位種類 博士(経済学)
学位記番号 博経第197号
研究科 大学院経済学研究科
専攻 現代経済専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 教授 伊藤,元重
 東京大学 助教授 大橋,弘
 東京大学 助教授 澤田,康幸
 東京大学 助教授 松村,敏弘
 東京大学 助教授 柳川,範之
内容要旨 要旨を表示する

1990年代以降、特定の国家間で差別的に貿易を自由化する特恵的貿易協定(PTA)の締結が顕著に増加している。近年のPTAは無差別原則を掲げるGATT・WTOにおける多国間貿易交渉の進展および停滞を背景としている点が特徴であり、PTAが内外に与える経済効果のみならず、PTAの活発化を前提に多国間の貿易自由化を如何に推進させるべきかというテーマが重要な研究課題および政策課題となっている。

第1章で概観しているように、PTAに関する経済分析は比較的過去から行われてきたが、世界経済を取り巻く様々な環境の変化や不完全競争市場に関する理論的な発展を受け、新たな研究成果が数多く提供され続けている。本論文では、多角的な貿易自由化との関係に注視しつつ、3国間の国際貿易モデルを通じてPTAの経済効果について新たな知見を得ることを目的としている。論文では伝統的に行われてきた域外共通関税を設定する「関税同盟(CustomsUnion、CU)」の分析に留まらず、域内国が域外国に独自に関税を設定する「自由貿易地域(Free Trade Area、FTA)」についての分析が多くなされている。

論文の前半は、PTAの静態的な効果に焦点を当てている。Viner (1950)に端を発する旧来の研究においては、PTAの静態的効果としては貿易障壁の撤廃による直接的効果、すなわち貿易コストの減少とそれによる交易条件の変化のみを考えていた。しかし、特に各国の市場が不完全競争の状態にある場合、PTAの締結による貿易障壁の撤廃は独占ないし寡占企業が直面する競争環境や市場構造に様々な変化をもたらす可能性がある。「市場統合効果」はその代表例であり、貿易障壁の撤廃により域内市場で価格裁定活動が活発になった結果、不完全競争企業の価格差別行動に制約が課される状況を想定したものである。実際、PTAの締結国間で同一品目の内外価格差が縮小していることが既存のいくつかの実証研究により指摘されている。本論文の最初の二つの章(第2章および第3章)は、PTAの域内国が設定する対外政策の水準やその効果が域内市場統合の導入によりいかなる影響を受けるかを論じたものである。

第2章"Optimal External-Tariffs of an FTA with Internal Market Integratio"では、国際寡占モデルにより域内市場統合がFTA域内国の設定する域外関税の水準及び各国の厚生に与える影響を論じている。市場が常に分断している状況を仮定した場合、各々の域内国の域外関税には戦略的な関係は生じないため、FTA締結に伴う関税の貿易制限効果の低下のみが最適な関税率を変化させる重要な要因となる。結果として、FTA域内国の最適域外関税はFTA締結前の水準よりも大幅に低いものとなり、域内国と域外国の双方がFTA締結により利益を受けることとなる。しかし、FTA締結に域内の市場統合効果が付随する場合、域内国の域外関税に戦略的補完関係が生じ、域外関税引き上げ競争が誘発される。その結果、均衡での域外関税は比較的高水準なものとなり、域外国はFTA締結により損失を被るケースが生じる。一方、域内国は非協力的な関税引き上げ競争の結果、市場分断時よりも経済厚生が改善する。他の域内国の関税引き上げには自国の輸出を増加させるというプラス面があるため、非協力的な関税引き上げ競争がその外部的なプラス効果を内部化するという逆説的な効果を持つからである。すなわち、域内の市場統合は域外国の犠牲の下にFTA域内国に利益をもたらす側面があるのである。共通域外関税を設定するCUにおいては、このようなレントシフト効果は生じない。

第3章"Economic Integration and Rules of Origin under International Oligopoly"は第2章と同様に国際寡占下の市場統合効果に着目しつつ、FTA域内国が域外国の迂回輸出行動を防止するために設定する「原産地規則(Rules of Origin、ROO)」の経済効果に視点を移している。FTA内では域内で生産された財の市場は統合されるが、原産地規則により域外で生産された財については域内国間での貿易であっても関税が課されるため、その市場は分断される。この「原産地規則の市場分断効果」の存在は原産地規則の経済効果を複雑にする。すなわち、一方で原産地規則は高関税の迂回防止を通じて域外国企業の利潤を下げる要因となるが、他方で原産地規則は同企業に価格差別を行う機会を間接的に提供し、利潤を上げる要因にもなる。また域外企業の価格設定行動の変化は、単一価格をつける域内企業の利潤にも影響を与える。その結果、原産地規則の設定が(1)域内・域外両企業の利潤を同時に上げる、(2)域内・域外両企業の利潤を同時に下げる、(3)域内企業の利潤を下げつつ域外企業の利潤を上げる、といった興味深いケースが見出されている。同様に、原産地規則の厚生効果も曖昧である。これらの結果は、原産地規則の効果として迂回防止や中間財市場に与える歪みのみに注目していた一連の研究に一石を投じるものである。

上記の二つの章がPTAの締結を外生的に扱った静態的な分析であるのに対して、後半の二つの章(第4章および第5章)は時間を通じたPTAの内生的な形成に着目している。分析の重要なテーマは、PTAの締結が将来の多国間の貿易自由化を促進するのかあるいは阻害するのかという、いわゆる動学的時間経路の問題(Dynamic Time-Path Problem)である。また、以下の二章はいずれも国内生産者の政治献金活動が政府の貿易協定締結の決定に影響を与える状況を想定しており、貿易政策の決定と国内の政治圧力の関係に対しても一定の示唆を与えている。

第4章"Multilateralism and Hub-and-Spoke Bilateralism"では、国際寡占モデルを用いて無限期間の逐次的貿易交渉ゲームを定式化することにより、FTAの重複締結を通じたハブ&スポーク型貿易協定が発生する原因とその帰結を論じている。域外共通関税の設定が必要なCUと異なり、FTAにおいては域内各国が域外国と独自に新たなFTAを結ぶことにより、貿易協定の「ハブ国」になることが可能である。さらに、「スポーク国」となった国は自由貿易体制下よりも相対的に不利な立場に追いやられた結果、スポーク国間で独立にFTAを結ぶ誘因がある。すなわち、多数の二国間協定を通じたハブ&スポーク型の貿易協定の拡大は、世界大の自由貿易を達成する効果的な手段となり得るのである。分析の結果、すべての域内国にとって重複協定を結ばないことが通時的な経済厚生を上げる場合であっても、各国には域外国やスポーク国に追いやられる事を避けたいという「消極的な重複協定締結の誘因」が存在するため、非協力的なFTAの締結競争により多国間の自由貿易が均衡結果の一つとして常に達成されることが示された。また、将来に対する時間割引が大きい場合には、初期のFTA域内国の一部に短期的にハブ国になり特恵的な輸出利益を多く獲得したいという「積極的な重複協定締結の誘因」が生じるため、多国間の自由貿易が唯一の均衡結果として達成されることも示された。すなわち、FTAではCUよりも重複協定による自由貿易の拡大ができる分、言い換えれば域内国間に重複協定締結に関する戦略的な関係が存在する故に、結果として多国間の自由貿易が達成しやすくなるのである。

分析ではさらにGrossman and Helpman(1995)型の内生的な政治献金モデルを導入し、寡占企業のロビー活動の影響を検証した。CUに見られる新規参入による協定拡大の場合にはロビー活動は常に自由貿易の達成を阻害するが、重複FTAの拡大の場合には寡占企業がハブ&スポーク型の協定締結を支持するロビー活動を行う可能性があるため、ロビー活動が自由貿易の達成を促進する場合も生じる。特に、政府が政治献金をより重視しかつ初期関税率が低く留まっている状況において、ロビー活動が自由貿易を推進する可能性が高いことが示された。

第5章"Alternative Paths to Free Trade under Endogenous Political Pressures"では、多国間貿易協定による無差別な貿易自由化の経路(MTA-path)を明示的に分析することにより、特恵的貿易協定を通じた段階的な貿易自由化経路(PTA-path)の優位性について検証を行っている。政府の協定締結の決定が輸入産業のロビー活動の影響を受けるとともに、各国のロビー団体の形成が内生的に扱われている点が特徴である。分析の結果、MTA-pathにおいてはロビー活動の利益が大きいため政治的な圧力により自由貿易が達成されないが、PTA-pathにおいてはロビー活動のコストがその利益を上回るために自由貿易が達成されるケースが生じる。MTA-pathと比較してPTA-pathは貿易自由化に時間を要し、かつ域外国となる国の輸出産業に短期的に大きな厚生損失を与えるというマイナス面があるが、それが故に国内の政治圧力が弱まる可能性があるのである。ただし、逆にMTA-pathのみが自由貿易を達成するケースもあり、PTA-pathの存在が貿易自由化の阻害要因となる可能性もある点に留意が必要である。

分析ではさらに、MTA-pathの自由化が漸進的なものであってもPTA-pathの優位性が保たれること、また政府が二つの径路を選択できる場合でも、ロビー活動に伴う(献金により補償されない)厚生損失を回避するためにPTA-pathによる多国間の自由貿易の達成が選択され得る事が示されている。

審査要旨 要旨を表示する

論文の主題と位置付け

椋寛氏の学位請求論文、" Essays on Preferential Trade Agreements and Multilateral Trade Liberalization"は、自由貿易協定や関税同盟を含む地域経済連携協定の下での企業行動、価格構造、自由化プロセスに関わる政治経済的な誘因などについて、様々な角度から理論的考察を行った研究成果をまとめたものである。この分野の先行研究を展望した第1章に続いて、第2章から第5章にかけて、それぞれ異なった理論的問題を考察した4つの研究成果が提示されている。

国際経済学の分野における地域経済連携協定の研究は1950年代から60年代の初めに貿易創造効果や貿易拡散効果をめぐって多くの研究が出たが、その後、現実の世界で欧州以外に目立った動きがなかったことを反映して、しばらく研究成果の進展は止まっていた。しかし、1990年代以降、世界的に地域経済連携協定の件数が増える中で、国際経済学の分野で多くの新たな研究成果が出るようになってきている。この新しい研究の潮流の主たる関心は、地域経済連携協定が拡大していくことが最終的にグローバルな貿易自由化につながっていくのかという動学的経路の問題に移ってきている。そしてそこでの通商政策の決定に関わる政治経済学的なメカニズムにも強い関心が払われるようになってきている。

椋氏の研究は、こうした1990年代以降の研究の成果の中に位置付けることができる。また、1980年代以降多くの研究成果が出されている不完全競争の下での貿易モデルを積極的に取り入れている。不完全競争、政治経済的メカニズム、そして原産地規則などの制度的要因を取り入れた先進的な研究となっている。これらは最近の学界の一連の研究の流れとその主たる関心を同じくするものであり、椋氏の研究も高く評価されており、第2章の成果はJapan and the World Economy (vol. 16, 2004)に刊行されており、第3章の元となる論文がInternational Economic Reviewに、そして第4章の元となる論文がReview of International Economicsに刊行を前提として受理されている。

以下では各章の内容とその主な貢献、残された課題などについて述べる。

各章の概要と評価

第1章はこの分野の研究展望であるので、ここでは詳しく取り上げる必要はないだろう。最近出されたこの分野の多くの研究についてのよく整理された展望が行われており、この学位請求論文の位置付けが明確にされている。

第2章は、3国3企業2市場のクールノモデルを用いて、地域経済連携協定の経済統合効果についての分析が行われている。特定の国々が域内の貿易の自由化が起こると、それは単に当事国の国境での貿易障壁が撤廃されるだけでなく、当事国の中での裁定活動が活発になり、あたかも一つの市場に統合するような影響が出てくる。この点はたとえば欧州で、関税同盟の形成を受けて、域内での流通市場の一体化や企業の様々な域内流通に関する投資が活発化し、あたかも一つの統一された市場へと変化していくという経験などで語られている。

こうした現象は、当事国が地域経済連携協定の締結前と締結後で、域外国に対してどのような関税障壁を形成する誘因を持つのかという点に影響を及ぼす。関税設定の背景にあるメカニズムとして考えているのは、自国経済厚生を最適化するような最適関税の考え方である。最適関税の水準そのものを厳密に計算することがどれだけ現実的であるかという点について議論はあるだろうが、当事国の関税引き下げ誘因の大きさを考察する上で有力な考察手法であることは事実である。

椋氏はこの章で、地域経済連携協定締結の結果、域内での財の裁定活動が活発になり、当事国内で価格差が生じることがないような状況を「市場統合状況」、締結後でも当事国内で裁定活動があまり起きず当事国の間で異なった価格が着くような状況を「市場分離状況」とよび、両者を、地域経済連携協定を結ぶ前の状況と比較している。得られた主たる結論は、モデルの中の二つの国が自由貿易協定を結べば、その結果、域外国に対しても関税を引き下げる誘因を持つというものである。特に市場が分離されている状況ではその要因がさらに強くなるという。後者の場合には、域外国の経済厚生をも高めることになる。ただ、自由貿易協定と比べて関税同盟の場合には、域外国への関税をより高い水準で維持する誘因が残る。

最適関税を計算する作業はかなり煩雑な計算を伴う。ここでのモデルは線形型の需要曲線をもたらすような単純化が行われ、それが結論を導出する上で大きな役割を演じている。こうしたモデルの単純化は結論の一般性という観点からは問題を含んでいる。ただ、この分野の先行研究でも同じような単純なモデルが利用されている。重要なことはそうしたモデルの結果がどのような洞察を提供するのかということだ。この章では、市場統合効果の程度が企業の価格設定にどのような影響を及ぼすのか、そして当事国がそれぞれ異なった域外関税を課すことができる自由貿易協定と共通関税を課す関税同盟では、当事国の関税率の設定の誘因がどのように違ってくるのか明快な説明が提示されている。これは評価すべきであろう。

第3章では、完全代替を想定したクールノモデルを利用した第2章と異なり、不完全代替を想定した寡占モデルを用いて、原産地規則という制度の果たす役割についての考察が行われる。自由貿易協定の場合には、原産地規則が必要となる。さもないと自由貿易協定を締結している当事国の中のもっとも関税率の低い国に海外から輸入された財が、他国に関税ゼロで再輸出されることになる。こうした再輸出を防ぐため、域内国の貿易には原産地規制が適用されるのだ。

椋氏はこのような状況で、原産地規則は域外の企業に価格差別を可能にさせるという付随的な影響があることを指摘する。ここでは第2章のモデルとは異なり、自由貿易協定を結んだ二つの国の間で裁定活動が活発に行われていると想定されている。しかし原産地協定があれば、域外国の企業にとって、協定を結んでいる域内の異なった国でそれぞれ異なった価格を設定することができる。つまり、原産地協定という自由貿易協定独特の規制が、域外国の企業にとって価格設定上有利な状況を提供することになるのだ。その結果、原産地協定がある結果、域外国の企業の利益がかえって上昇し、域内国の企業の利益や消費者余剰が下がるケースが存在する。この章ではどのような条件の下でこのようなことが起きるのか考察が行われている。これまで自由貿易協定に関する研究で、原産地協定に関してこのような角度から分析が行われてきたことはなかった。これはこの研究の大きな貢献であろう。

第4章と第5章では、いわゆる動学的時間経路の問題が取り上げられている。すなわち、地域経済連携協定が続けられていくことが最終的にグローバルな自由化につながっていくのかどうかという問題である。この問題については90年代後半以降多くの研究成果が出されているが、椋氏の二つの章では新しい視点から興味深い指摘がなされている。

第4章では、ハブ・アンド・スポーク型の経路という考え方を導入して、これまでとは異なった可能性を提示している。先行研究では、すでにできあがった自由貿易協定に新たな国を加える誘因が出るかどうかという形で、自由貿易がグローバルな自由化につながっていくのかどうかという検討が加えられてきた。当然のことながら、多くの場合に、すでにできあがった自由貿易協定締結国は他の国を新たに協定の仲間に入れる誘因を持っていない。そのため、自由貿易協定を締結していくと、どこかでそのプロセスが停止してしまい、最終的なグローバルな自由化にたどりつかない。これが先行研究の主たる結論である。

椋氏の研究の興味深いのは、すでに自由貿易協定が締結されているとき、その中の一国あるいはいくつかの国が、域外の国(国々)と別の自由貿易協定を結ぶ可能性を考慮したことだ。この場合、複数の国と異なった自由貿易協定を結ぶ国をハブと呼び、そのハブを経由してスポークとして異なった国々の間に自由貿易協定が広がっていくのだ。もちろん、原産地協定があるので、異なったスポークの上に乗った国の間には関税が残ることになる。

現実の世界でも、このような形のオーバーラップした形の自由貿易協定が多く存在する。たとえば、メキシコは、アメリカ・EU・日本とそれぞれ自由貿易協定を結んでいる。しかし、だからといって日本とアメリカやEUの間の関税が撤廃されるわけではないのだ。

さて、椋氏の研究成果の興味深い点は、不完全競争的な世界では企業は自由貿易協定を締結させるような誘因を強く持つだけでなく、複数の自由貿易協定ができるとき、そのハブになろうとする誘因を強く持つという点だ。企業のこのような誘因は、企業の政治活動を通じて国家としての自由貿易という制度の選択にも反映されるだろうし、そもそも不完全競争モデルということで企業利潤の存在が経済厚生そのものに影響を及ぼす。ハブ・アンド・スポーク型で自由貿易協定が広がっていったとき、スポークの位置にある国はハブの位置にある国よりも不利になると感じる。そこでスポークの国同士が自由貿易協定を結ぶことになり、それがグローバルな自由化につながっていくのだ。もちろん、そのような誘因の存在は当初の関税率の高さや割引率の大きさなどに大きく依存する。この章ではこうした誘因の構造がこれらの変数にどのように依存するのか検討が行われている。

第5章では、輸入制限を行うようなロビー活動が献金を通じて行われる3国モデルで、どのようなケースでグローバルな貿易自由化が達成されうるのかを検討している。ロビーを内生化したモデルとしては、GrossmanとHelpmanのモデルが標準的であるが、この章ではそのモデルを利用して実際にロビー活動が貿易自由化をブロックできるかどうか検討が行われている。この章の研究の特徴は次の2点にある。一つは多国間の貿易自由化への経路として、自由貿易協定を拡大していく経路と、一挙に多国間協定で自由化を実現していく経路の両方を比較している点である。もう一つは自由貿易協定を拡大していく経路における時間要素、とりわけ割引率の重要性を明示的に考慮した点である。

ロビー活動にかかる固定費の存在、ロビー活動で政府に提供される金銭的貢献の金額を内生的に決めるという設定の中で、自由貿易協定の経路でのみ多国間の貿易自由化が実現できる可能性を示した。その背後には、多国間交渉による自由化はロビー団体にブロックされる可能性が大きいこと、自由貿易協定を通じた経路の場合には、将来は多国間自由化が実現することが予見できても、将来の自由化の負担が割り引かれるため、自由貿易協定という形の自由化が実現されてしまう、というメカニズムが働いている。

貿易自由化が政治経済プロセスの中で実現するのか否かということは、基礎にある政治プロセスの定式化やそこでのパラメターの大きさに依存する。ここではそうしたタイプの一つのモデルの成果が提示されたわけで、この結論が一般化できるわけではない。ただ、これまでの他のモデルと異なったタイプの結論が提示され、その背景にある経済学的な解釈がきちっと示されている点はこの研究の大きな成果である。

全体的な評価

以上で説明してきたように、本論文は4つの、関連してはいるが異なった理論的研究から構成されている。すでに上で詳しく述べたよう、これらの個々の研究には椋氏の独創的な成果が出ており、現在国際経済学の分野で大きな注目をあびている経済連携協定の研究の進展に新たな貢献をしていると評価できるだろう。モデル分析には手堅さが見られ、重要なポイントをごく簡単なモデルで的確に分析している。

もちろん、本論文には改良の余地がないわけではない。まず、用いられている需要曲線などが非常に単純な線形であるという制約が、この研究の成果の一般性に疑問を投げかけている。もとよりここで取り上げているような複雑な問題を考察するためにはモデルの単純化が必要ではあるが、今後はここで得られた議論がどこまでモデルの単純化に依存しているのかさらに検討が必要だろう。また、すべての議論が3国モデルのフレームワークで行われているが、そこで得られた議論がより一般的なn国のケースで成立するのかどうか検討してみることが望まれる。ここで得られている結論の多くはn国のフレームワークでも成立するとは考えられるが、その点も厳密に検討することも今後の検討課題であろう。

経済連携協定の現象は、ここでの主たる分析対象である貿易だけでなく、直接投資にも大きな影響を及ぼす。また直接投資と貿易の相互関係も、経済連携協定の効果を考察する上で重要である。この論文の主たる定式化である不完全競争を前提とするような産業では、そうした直接投資の重要性はさらに高いと考えられる。椋氏が今後、そうしたより広範な問題にここで示された分析を広げていくことを期待したい。

いずれにしろ、提出された論文は博士論文として十分なレベルに達しており、審査員一同、高い評価を与えたいと考えている。審査員一同は、論文審査と所定の審査委員会による口頭試問の結果から、椋寛氏に東京大学博士(経済学)の学位を授与することが適当であると判断する。

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