学位論文要旨



No 120841
著者(漢字) 吉田,隆嘉
著者(英字)
著者(カナ) ヨシダ,タカヨシ
標題(和) 地域医療におけるReputation Mechanismの検討
標題(洋)
報告番号 120841
報告番号 甲20841
学位授与日 2006.01.31
学位種別 課程博士
学位種類 博士(医学)
学位記番号 博医第2589号
研究科 医学系研究科
専攻 社会医学専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 教授 甲斐,一郎
 東京大学 教授 吉田,謙一
 東京大学 教授 北村,聖
 東京大学 講師 長野,宏一朗
 東京大学 講師 佐藤,元
内容要旨 要旨を表示する

緒言

病院、とりわけ大規模病院への外来患者の集中は『大病院志向』と呼ばれ、本邦の医療体制が抱える大きな課題の一つとなっている。地域の診療所で対応すべきプライマリーケアの機能を病院に担わせることは、限られた医療資源の非効率的な運用につながるため早期に是正すべきだとの主張が行政当局や識者よりなされている。大規模病院への集中を招く原因として、患者にとって地域医療を担う診療所に関する情報が欠如しており、このため安心して受診できる診療所を見つけだすことが困難となっている可能性が指摘できる。

多くの先行研究により、地域医療機関の選択に地域住民の評判が寄与していることが指摘されている。ところがこれまで医療分野では評判について患者満足度調査の中で部分的に扱われるに過ぎず、地域医療における評判による市場調節機能(以下、Reputation Mechanismと呼ぶ)そのものを中心に扱った大規模な研究は本邦では行われていない。

Reputation Mechanismは、肯定的情報と否定的情報では非対称的であること、送信者と受信者との社会的絆の強さに影響を受けることなどが、多くの先行研究により指摘されている。そこで本研究では、地域における診療所に関する肯定的情報と否定的情報のそれぞれのReputation Mechanisinについて、社会的連帯に影響を与えることが予想される現住所の居住歴・年齢・性別などに関し解析を行なうと共に、診療所に関する評判の伝達頻度と大規模病院への集中との関係を分析し、Reputation Mechanismを利用した地域医療向上の条件を探った。

方法

調査対象とした地域は、首都のベッドタウンとして宅地開発が進展した横浜市郊外である。都市近郊では、地域コミュニティー内での社会的連帯が希薄化している転入住民と、従来から居住しているため社会的絆が強い住民とが混在している特長を持つことが指摘されており、このためパーソナル情報の伝達についても異なる個人が同一地域に居住している可能性が高く、研究対象地域として望ましいと考えた。

基礎調査として面接による聞き取り調査を実施し、 「地域の診療所に関して個人間で伝達される私的な情報(以下、パーソナル情報と呼ぶ)の送受信の頻度は、現住所の居住歴が長いほど高い傾向にある」「地域の診療所に関するパーソナル情報の送受信の頻度が高ければ、大病院志向が抑制される傾向がある」などの仮説を立て、これを証明する目的で質問票を作成し、住民900人(社会的絆が比較的強いと考えられる集団Aと弱いと考えられる集団Bのそれぞれ450人)に対して郵送法による自記式回答形式の調査を行った。質問票では、診療所に対する肯定的パーソナル情報・否定的パーソナル情報を発信。受信する頻度や参考にする程度、パーソナル情報を受信した時の医療サービスの各要素に対する重視の程度などについて5段階尺度で回答を求めた。また、医療機関の選択行動については、実際の行動を把握する目的で受診歴を大規模病院・小規模病院・診療所に分けて尋ねるとともに、心理的側面を知る目的で、提示された架空の症状に対し、どの規模の医療機関を選択するかも尋ねた。

解析はすべて、集団Aと集団Bのそれぞれに対し個別に行った。まず、すべての項目について、居住歴・年齢・健康状態・性別に関しKruskal-Wallis testなどを行い有意な差が認められないかを検証した。さらに、実際の受診行動については病院受診傾向ダミーを、また、架空の症状に対する問については病院志向ダミーを以下のように定義し、居住歴や年齢における格差やパーソナル情報の送受信の頻度などとのSpearmanの順位相関係数を求めた。

[病院受診傾向ダミー]:

過去1年、病院しか受診していない⇒1、

診療所のみ・あるいは診療所と病院を併用⇒0

[病院志向ダミー]:

提示された架空の症状に対し、受診先として病院のみを選択⇒1

提示された架空の症状に対し、受診先として診療所のみを選択⇒0

さらに、病院志向ダミーまたは病院受診傾向ダミーを従属変数に、パーソナル情報の送受信の頻度や居住歴・年齢・性別などを独立変数に投入したロジスティク回帰分析を行い、病院選択の要因を解析した。

結果

調査票を郵送した900人中、590人(65.6%)から有効回答を得た。

居住歴・年齢・健康状態・性差によるReputation Mechanismの格差

集団A、集団Bのいずれについても、地域の診療所に関するパーソナル情報の受信頻度は居住歴が長いほど概ね高い傾向にあり、男性よりも女性の方が肯定的パーソナル情報の送受信の頻度が概ね高い傾向にあることが認められた。

パーソナル情報を受信した時の医療サービスの各要素に対する重視の程度に関しては、集団A、集団Bのいずれについても肯定的情報・否定的情報ともに、居住歴・年齢・健康状態・性差のそれぞれとの間で統計的に有意な格差は、ほとんどの項目で認められなかった。

肯定的情報と否定的情報の比較

パーソナル情報を送信・受信する頻度はいずれも、集団A・集団Bともに肯定的情報が否定的情報を上回る傾向がみられた。

パーソナル情報を話す場合に伝える評価の程度、及び、聞いた時に参考にする程度に関しては、集団A・集団Bともに否定的情報が肯定的情報を有意に上回った。

診療所と病院の選択に関する分析

集団A、集団Bのいずれについても、心理的側面を表す病院志向、及び、現実の受診行動を反映した病院受診傾向には、年齢・健康状態・性差のいずれに関しても有意な差は認められなかった。

病院志向については、集団Aでは、診療所に関する肯定的パーソナル情報の受信頻度・送信頻度と比較的強い有意な負の相関が認められた。一方、集団Bでは弱い相関しか認められなかった。ロジスティク回帰分析においても、集団Aでは肯定的パーソナル情報の受信頻度・送信頻度は病院志向の減少を有意に説明する要因と認められ、集団Bでも有意ではないが同様の傾向がみられた。

病院受診傾向については送受信頻度と弱い相関しか認められなかった。ロジスティク回帰分析においても、パーソナル情報の伝達頻度は病院志向の増減を有意に説明する要因とは認められなかった。

考察

否定的情報は肯定的情報に比べて送受信される頻度は小さいが、話し手はより極端に話し、受け手はより重く受け止める傾向が一般の商品市場に関する先行研究で指摘されており、"Negativity bias"と呼ばれている。本調査においても、まったく同様の傾向が認められた。話し手がより程度を大きく話すのは、(1)否定的パーソナル情報の送信が、粗悪な商品やサービスの提供に対する一種の私的制裁としている。(2)否定的情報を話すことが劣悪な商品やサービスの購買に対する心的浄化作用となっている点が指摘されており、同様の解釈が医療でも成り立つものと考えられる。このように、一般市場における先行研究による知見が医療機関の選択市場でもかなり広範囲に援用できる可能性が指摘できる。

患者の心理的側面を表す病院志向については、肯定的パーソナル情報が頻繁に送受信される場合に抑制される傾向があることが認められた。これは、地域住民同士が肯定的評価を抱く近隣の診療所に関して情報を活発に交換すれば、診療所受診に伴う不安感を緩和する効果を持つため、病院志向が抑制されるものと考えられる。また、この肯定的パーソナル情報による病院志向の低下作用は、集団Bよりも集団Aで顕著に認められた。このことから、社会的絆が強い群でこうした作用はより強く働く可能性が指摘できる。

一方、否定的パーソナル情報に関しては、このような病院志向の抑制効果は肯定的情報の場合ほど顕著には認められなかった。これについては、否定的パーソナル情報の伝達には医療サービスに対する不満の表出など他の目的も関与しているため、情報の伝達機能が相対的に希薄となって病院志向の抑制効果を減弱させた可能性が指摘できる。

また、病院受診傾向に関してはパーソナル情報の伝達には有意な抑制効果が認められず、病院志向とは異なる結果であった。これは、いざ実際に医療機関を受診する段階に遭遇すると、就労者が時間的制約から大規模病院の受診を断念するなど、受診行動には患者の志向以外の様々な要因が複雑に影響しているため、コミュニケーションによる効果が相対的に希薄になったものと考えられる。さらに、病院受診傾向ダミーは継続受診も含む受診歴を利用した便宜的な指標に過ぎず、初診時の医療機関選択を正確に表していない可能性も考えられる。

以上より、貴重な医療資源の効率的な運用を妨げている大病院志向を低下させるには、地域住民同士が診療所に関して肯定的情報を交換できる環境を整備する取り組みが有効だと考えられる。

結論

本研究により以下の知見が得られた。

一般に否定的パーソナル情報は肯定的パーソナル情報よりも送受信の頻度は低いが、いったん伝達されると重く受け止められる傾向にあるとされている。こうした"Negativity bias"の存在は、地域の診療所に関するパーソナル情報においても認められることが確認できた。

地域の診療所に関する肯定的なパーソナル情報の送受信の頻度が高ければ、心理的な大病院志向は抑制される傾向がる。ただし、こうしたコミュニケーションの効果は、必ずしも実際の受診行動に反映しているとはいえなかった。

審査要旨 要旨を表示する

本研究は、外来患者による大規模病院への過度な集中緩和の条件を探ることを目的に、都市近郊の地域コミュニティー内における診療所に関する情報の交換と医療機関の選択との関係について解明を試みたものである。横浜市青葉区。緑区の住民900人を対象に、地域の診療所に関するパーソナル情報の伝達や診療所と大規模病院の選択行動などについて質問紙調査を実施し、以下の結果を得ている。

地域の診療所に関するパーソナル情報の受信頻度は、居住歴が長い住民ほど概ね高い傾向が認められた。このことから、地域コミュニティー内における社会的絆が強いほど、診療所に関するパーソナル情報の伝達が活発になる可能性が指摘できた。また、男性よりも女性の方が肯定的パーソナル情報の送受信の頻度が概ね高い傾向にあることが認められた。

診療所に関するパーソナル情報を送受信する頻度については、肯定的情報が否定的情報を上回る傾向が認められた。このことから、住民は診療所に関して否定的、情報を送信することで、自らの人格的評価の低下や相手の気分を損ねることを懸念している可能性が指摘できた。

診療所に関するパーソナル情報を参考にする程度については、否定的情報に関する場合は肯定的情報に関する場合よりも有意に高い値を示した。このことから、個人的な人間関係によって得られた情報を、優良診療所の選別よりも不良診療所の回避により重きを成して利用しているものと考えられた。

診療所についてのパーソナル情報が伝達される場合、伝えられる評価の程度の強さについては、肯定的情報に関する場合に比べ否定的情報の関する場合に有意に高い値を示した。このことから、否定的評判の伝達が不満の表出手段としても用いられている可能性が推論できた。

ロジステック回帰分析の結果、地域の診療所に関する住民間の肯定的なパーソナル情報の送受信は、住民の心理的な大病院志向を有意に抑制する傾向が認められた。一方、否定的なパーソナル情報の送受信については、こうした心理的な大病院志向を抑制する傾向は認められなかった。このことから、診療所に関する肯定的なパーソナル情報が頻繁に得られれば、診療所受診に対する漠然とした不安感を払拭できるため肯定的情報の伝達は大病院志向を逓減させる効果を持つ可能性が推論できた。

心理的な大病院志向について認められた診療所に関する肯定的なパーソナル情報の伝達による抑制効果は、実際の受診歴を元に算出した医療機関の受診傾向については認められなかった。これは、心理的には大規模病院の受診を希望しても、実際には就労者が時間的制約から大規模病院の受診を断念するなど、心理的な大病院志向以外にも様々な因子が影響を及ぼしているものと解釈できた。

一般の商品に対する購買行動に関し評判情報の果たす役割については、これまで多くの研究がなされてきた。だが、大規模病院と診療所の選択行動に関しては、評判情報について本邦で大規模調査が行なわれた例はない。本論文は、地域における診療所に関する評判情報の送受信と患者の大病院志向との関係について着目し、両者に相関があることを、情報の非対称性に対する緩和機能の観点から実証した最初の研究であるという点で独創性が認められる。

また本論文は、地域コミュニティーにおいて住民同士が診療所に関する肯定的な評判情報を円滑に交換できるよう環境を整えるなど、コミュニケーション面での改善が過大な大病院志向の抑制に役立つ可能性を示した。大規模病院への患者の集中は、とりわけ都市近郊において近年、社会的な課題となっており、その緩和策に一つの道を開いたという点で医療政策の立案の上でも有用性がある研究だと認められる。

以上より、本論文は学位の授与に値するものと考えられる。

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