学位論文要旨



No 120846
著者(漢字) 榎本,渉
著者(英字)
著者(カナ) エノモト,ワタル
標題(和) 日宋・日元貿易と人的交流
標題(洋)
報告番号 120846
報告番号 甲20846
学位授与日 2006.02.08
学位種別 課程博士
学位種類 博士(文学)
学位記番号 博人第513号
研究科 人文社会系研究科
専攻 日本文化研究専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 教授 村井,章介
 東京大学 教授 五味,文彦
 東京大学 助教授 小島,毅
 中央大学 教授 石井,正敏
 花園大学 教授 西尾,賢隆
内容要旨 要旨を表示する

本稿は、9-14世紀東シナ海海域の中で、特に宋元代中国と日本との間の経済的・人的交流をテーマとする。日本史の時期区分では、平安時代から南北朝時代までに当たる。前後の時代と比較した時、9-14世紀東シナ海の特徴は、海商が中心的役割を果たした点にある。これは貿易だけでなく人の移動手段(商船への便乗)も規定しており、人的交流、ひいては文化交流のあり方を考える上でも意味がある区分である。地域として設定した東シナ海海域は、中国・朝鮮半島・日本列島の沿岸部・島嶼部をその範囲とするが、本稿では、その中でも史料上もっとも分析に適している日中関係をテーマとして設定する。

東シナ海海域は国家を超えた地域としての性格を持つ。しかしそこに国家が関係を持たなかったわけではない。むしろ当該期の東シナ海海域は、海商の活動が公的なバックアップを受けていた点に特徴があり、国家と海域は必ずしも対立的な関係にはなかった。これは15世紀、外交活動と関わらない海商の活動が国家権力によって禁圧の対象とされたことと大きく相違する点である。そこで本稿では、当該期の東シナ海における海域と国家の関係をもっともよく示すものとして、管理貿易港、あるいは貿易管理のあり方を特に重視し、分析の対象とする。

また従来の研究史上の問題点として、日本側の視点に偏っていたこと、史料の発掘が十分でなかったことなどが挙げられる。そこで本稿では、従来の研究視点を相対化させるために中国側の視点を重視し、また仏教史料・中国側史料(詩文集・地方志など)から可能な限りの史料発掘を行ない、新事実の呈示などに努めた。

以上の関心・方法に随い、本稿では三つのテーマを設定し、第一部・第二部・第三部として配列して、諸側面から宋元代中国と日本の交流のあり方を具体的に明らかにする。その内容を以下で示す。

第一部「宋代市舶司貿易体制と日宋貿易」は、日宋貿易に関する専論というよりも、宋代海上貿易を考察する上で、日宋貿易を材料とするという形を採っている。日本は高麗・東南アジアも含め、宋海商の活動圏の一部であり、宋代貿易史の一部としてとらえられる側面が大きいと考えるからである。

第一章「明州市舶司と東シナ海海域」は、宋代を中心に東シナ海海域における明州(南宋〜元代:慶元/明代〜:寧波)の位置を確認したものである。明州は、宋初以来市舶司が置かれ、日本・高麗方面に対する窓口となった。本章では日本史料を中心に、9-14世紀日中間交通における明州の利用状況を確認した。日宋貿易における明州の位置は圧倒的なものであったが、当時の貿易は決して明州市舶司でのみ行なわれたわけではなく、その他の港湾での密貿易も盛んに行なわれた。この密貿易の盛行という事態も見据えた上で、東シナ海海域(あるいは南シナ海海域も含め)における市舶司貿易の位置を確認する。

第二章「宋代市舶司貿易にたずさわる人々」の内容は、第一章のテーマとも関わる。市舶司貿易にたずさわる人々としてここで取り上げたのは、市舶司官吏・海商・仲介商人(牙人)である。彼らの行動は当然市舶司の法的制度のみに規定されるわけではなく、それぞれが利益を得るための最適行動を選択しようとするが、その具体相を追ったものである。市舶司貿易は、狭義には市舶司の公的管理下で行なう貿易を指す言葉であるが、広義には官吏との癒着のもとでの贈答や、海商と仲介商人との間の違法取引も含む財の移動を考えるべきであり、さらに市舶司貿易体制という場合、第一章で考察した市舶司管理港以外での密貿易も含め、総合的に考察しなくてはならない。そして宋代の海外貿易―当然日宋貿易も含む―を考える場合、往々にして必要とされるのは、市舶司貿易体制の究明である。なお本章では、市舶司貿易と比較するため、日本など他地域との比較も試みた。

第三章「宋代の「日本商人」の再検討」は、1160年代から宋代史料に現れる「日本商人(倭商・倭船)」の実態を考証したものである。従来「日本商人」の出現は、宋海商による日宋貿易独占に対する日本人海商によるカウンターととらえられてきたが、日本史料に見える限りでは、1160年代以降の日宋貿易は博多綱首と呼ばれる宋海商によって担われている。そこで本章では、「日本商人」とは何かという問いを設定し、日本における貿易の形態と、宋における外国商人の扱いを検討することで答えを導くことを試みた。結論としては、「日本商人」は日本から来た商人という以上の意味は持たず、直接には博多綱首を指しているということになるが、この結論は「高麗綱首」にも当てはまり、日本以外について考察する場合にも参考になると考える。

補論「『栄西入唐縁起』からみた博多」は、第一〜三章が中国側を中心に置いたのに対し、日本側の貿易港博多についての論考となっている。従来対外関係史料としては用いられていなかった『栄西入唐縁起』の史料的価値を確認し、そこに見える「唐房」=チャイナタウンと、栄西の祈願した航海神についての関係記事を紹介したものである。

第二部「日元貿易の展開」は、第一部と同様に、中国側を中心に据えているが、時代とともに叙述方針も、第一部とは異なっている。日元貿易研究の問題点として、研究がほとんどないこともあるが、時代を通じた変遷がほとんど度外視されているという点がある。そこで第二部では、日元貿易の展開を通史的に叙述することを目的とした。第二部で積極的に試みた点が三つある。一つは、従来利用されてこなかった中国側の詩文集や地方志などを積極的に利用することで、元側の倭船対策を丁寧に追うこと、一つは、軍事的緊張や海上の治安など、日元両国の客観的情勢を参照すること、一つは、元朝の政策や日元両国の情勢が日元交通に与えた影響を、僧侶の渡航状況により確認することである。これによって、従来は不可能だった日元貿易の通史的叙述が可能になったと考える。

第一章「蒙古襲来と日元貿易」は、クビライ期における日元貿易の展開を論じたものである。具体的には1276年における元朝の臨安府(杭州)入城以降、クビライ没の1294年頃までということになる。二度の軍事衝突にもかかわらず盛んだったといわれることの多い日元貿易であるが、宋元交替から14世紀初頭までの四半世紀は、日元双方の軍事的な緊張から貿易は不安定・低調であった。

第二章「元朝の倭船対策と日元貿易」は、日元貿易の盛期と考えられる14世紀前半を扱う。この時期、元朝は日本招諭を放棄し、日本不臣を前提とした貿易環境の整備=警備強化を志向する。だが一方で、管理が強まったことに対する倭商の不満は大きく、日元貿易はしばしばトラブルに襲われる。その過程を、中国側史料と日本の禅宗史料を中心に叙述する。日元貿易がトラブルが多く不安定なものだったことが分かるが、『元史』などからはまったく知られない事件も多く、それらを紹介した点でも、本章は意味があると考える。

第三章「元末内乱期の日元交通」は、方国珍の蜂起(1348)から朱元璋への降伏(1367)までの日元交通を扱う。方国珍は浙東を拠点としたが、ここは日本への窓口となる地である。同時期、江東・浙西では張士誠が蜂起し、福建ではムスリム反乱である亦思巴奚の乱が起こっている。こうした元末内乱の進展は、日元交通に大きな影響を与え、日元間の新航路開拓と、日本禅林における渡海ブームの沈静化という副産物も産んだ。宋代以来の日中交流のあり方が、元末内乱を機に大きな曲がり角を迎えたことを象徴する出来事といえよう。

第三部「人的交流の諸相」は、第一部・二部が貿易史としての側面が強いのに対し、文化交流史の視点から日宋・日元関係を描いたものである。タイトルにあるように、いずれも日中間を移動した人をテーマとしている。ただし文化論そのものというわけではない。日中交通を取り巻く環境の変化が人の移動をどのように規定したのか、逆にいえば人の移動を見ることで日宋・日元関係のどのような側面が見えてくるかという関心から論じたもので、その意味であくまでも日宋・日元交通史研究の一環である。

中世日本において、史料に渡来人が集中的に現れる時期が何度かある。第一部「鎌倉後期日本在住宋人の出自」は、その最初に当たる弘安年間以降の時期について論じたものである。本稿では様々な条件を勘案した上で、彼らを弘安の役における宋人捕虜であると考えた。13世紀第4四半世紀の日元間では、僧侶の往来が極めて少なく、入元僧・渡来僧を通じた文化交流は低調だったと考えられるが、彼ら捕虜の存在は、一面では交流の裾野を広げたという側面もあった。

第二章「一四世紀後半、日本に渡来した人々」は、渡来人の二度目のピークである14世紀後半を扱ったものである。彼らは元末内乱を避けて来日した。彼らの往来は元明交代の後にも確認され、洪武期において海禁が充分に機能していなかったことを示す最良の証拠といえよう。渡来人の中でも特に注目されるのが、陸仁・道元文信である。この二人は、従来は知られていなかったが、中国側にも多くの史料が残り、文学上の評価も高い高名な文化人だった。彼らの属した平江崑山の文人サークルは日本僧とも関係が深く、それが来日の契機の一つになった可能性も高い。

第三章「中国史料に見える中世日本の度牒」。以下二本は僧侶の往来に関する論考である。本章は入宋・入元に当たって携行したと考えられている現存の偽造度牒について、中国史料中から関係記事を見出し、従来の説の妥当性を確認したものである。さらにそこから、日中交通のあり方を唐末から明代まで見通し、その中で南宋・元代にのみ偽造度牒が現れる事情も考察した。

第四章「中世の日本僧と中国語」は、鎌倉・南北朝期を中心に、中世の日本僧が中国語をどの程度使用できたのか考察したものである。もっとも高い語学力を備えたと考えられる14世紀の禅僧は、渡来僧や留学経験者に師事し、さらに自ら留学することで中国語を身に付けた。だが室町期になり、中国僧の渡来もなく、留学の機会もほとんど失われ、あっても短期的なものに限られるようになると、日本僧の語学力は低下したと考えられる。

補論1「浄土僧白蓮社入宋説の典拠をめぐって」は、浄土僧白蓮社入宋説の真偽とその成立過程を考察したもの、補論2「『鄂隠和尚行録』を読む」は、室町期の禅僧鄂隠慧〓の伝記に見える日明関係記事の出典・真偽について確認したもので、いずれも文化交流史研究の基礎作業に当たるものである。

審査要旨 要旨を表示する

本論文は、9〜14世紀の東シナ海域史を「海商の時代」と特徴づけ、その中心をなす日中間の交流の姿を、「宋代市舶司貿易体制と日宋貿易」「日元交通の展開」「人的交流の諸相」の3部に分かって論述する。遣唐使廃止と勘合貿易開始にはさまれたこの時代は、日中交流陥没期のように思われがちであるが、近年の諸研究は多様な交流の姿を明らかにしつつある。そうした動向のなかで、本論文は、制度的背景を充分に踏まえながらも、「人的交流」を前面に推し出すことにより、貿易や文化交流をなま身の人間の営為として描き出すことに成功した。

また、徹底的な史料の博捜により、森克己の古典的研究以来停滞気味だった日宋・日元の貿易・交通研究のレベルを、大きく塗りかえた。全編にわたって、禅宗史料を中心に僧侶の往来を示す史料を余さず収集し、先行学説にするどい批判を加えた。とくに、日本史研究の立場から、中国側の詩文集や地方志をこれだけ利用した業績はかつてなかった。一方、縁起・語録・抄物など日本側史料についても、従来利用されていなかった素材を多く発掘している。引用した史料にはかならず読み下しを付けた点も高く評価しうる。

以下、本論文の目覚ましい成果としてとくに注目すべきものを列挙する。

日中交通の媒介者となった貿易関係者の実体について、「日本商人」「倭舶」等の史料上の表現に徹底した批判を加え、利益獲得のための最適行動という観点から、日本(とくに博多)に拠点をもつ中国人海商のプレゼンスの大きさを浮かびあがらせた(第一部)。

従来一般的に盛んだったと言われてきた日元交通について、時期を細かく区分して、戦争や国家側の動向とからんだその盛衰を解明し、従来知られていなかった史実を豊富に提示するとともに、初めて詳細な通史的叙述を行った(第二部)。

「人的交流」の具体的な姿として、弘安役の宋人捕虜、元明交替期の亡命中国人の事例や、中国に渡航した日本僧の身分証明や意思伝達手段の具体的方法を、従来使われていない史料も活用して描き出した(第三部)。

国家を超えた地域に着目する近年の研究動向を踏まえつつも、国家をも地域の一つとしてとらえ、国家による管理・保護をも地域交流の重要な構成要素として位置づける、という理論的な見通しを打ち出した。

本論文を構成する各章の多くは、すでに個別論文として発表され、学界に議論を呼んできたものである。そこでの評価や批判を踏まえて、現時点での著者の見解が随所に示され、一層の研究の進展に資するものとなっている。

このように本論文は、9〜14世紀の日本の貿易史・文化交流史を一新したすぐれた業績である。もとより、中国人海商の主導性が強調されすぎて、時代による変化が見えにくくなっていること、日元交通が制約的な位相のみでとらえられ、経済交流の規模自体の拡大が議論に組み込まれていないことなど、不満を感じさせる部分もなくはないが、本論文の画期的な意義を損なうほどの弱点ではない。

以上より、本委員会は、本論文を博士(文学)の学位を授与するにふさわしい優れた業績として認めるものである。

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