学位論文要旨



No 120847
著者(漢字) 斎藤,久美子
著者(英字)
著者(カナ) サイトウ,クミコ
標題(和) 16-17世紀東部アナトリアにおけるオスマン支配の構造 : 征服と定着
標題(洋)
報告番号 120847
報告番号 甲20847
学位授与日 2006.02.08
学位種別 課程博士
学位種類 博士(文学)
学位記番号 博人第514号
研究科 人文社会系研究科
専攻 アジア文化研究専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 教授 鈴木,董
 東京大学 教授 羽田,正
 東京大学 教授 小松,久男
 東京大学 教授 本村,凌二
 慶応義塾大学 教授 坂本,勉
内容要旨 要旨を表示する

東部アナトリアは、古来よりアナトリアとイラン、シリアを結ぶ要衝であり、軍事的戦略上あるいは通商路確保のために各王朝の争奪の的であった。十三世紀頃に東部アナトリアに移住してきたといわれるクルド系諸部族は、十四世紀中頃までに地方政権となるまでに勢力を伸長させ、同時に周辺王朝に従属することによりその社会を維持していた。十六世紀初頭にオスマン朝がサファヴィー朝をチャルディランの戦いで破ると、以後約四百年にわたり、東部アナトリアはオスマン朝の支配下にとどまった。次々と支配者がかわった東部アナトリアにおいて最終的に覇権を握ったのがオスマン朝であった。本論文は、従来、史料的制約もあり、十分な分析が試みられてこなかった東部アナトリアをとりあげ、記述史料のみならず文書史料も包括的に利用しつつ、同地域におけるオスマン支配の導入と定着の過程を明らかにすることを目的とする。そして、同地域におけるオスマン朝の長期間にわたる安定した支配を可能とした支配システムの構造について明らかにすることを目指す。

本論では、第一章で先行研究と史料を紹介し、第二章ではオスマン朝の東部アナトリアの征服について、セリムー世によるデイヤルバクル地方の征服と、スレイマンー世によるヴァン地方の征服という二つの段階にわけて考察した。デイヤルバクル地方の征服の際、セリムー世は東部アナトリアの支配層であるクルド系アミール(部族連合の長)の既得権を認めた上で彼らをオスマン朝に臣従させ、対サファヴイー朝の軍事協力を取りつけることに成功した。ヴァン地方の征服の際には、スレイマンー世はクルド系アミールにアフドナーメを授与し、アミールの既得権を明示的に子々孫々にわたって認めることにより、オスマン朝への忠誠を維持させ、軍事的支援を引き出した。ここでは、征服地の旧来の秩序を維持しながら体制内に緩やかに統合するというオスマン朝の征服地統治の方法が、東部アナトリアでも適応されていたことが明らかとなった。

第三章では、東部アナトリアにおけるオスマン支配の導入と定着について地方行政組織の点から検討した。オスマン朝は、十六世紀、アミールの領地支配の実態を把握した上で、アミールの領地をサンジャク(県)というシステムに組み込んだが、オスマン朝の一般のサンジャクとは区別していた。その後、クルド系のサンジャクのうち、大きな勢力を有するアミールの管理するサンジャクをヒュクーメトと呼び、クルド系のサンジャクの間での差別化を図った。十七世紀に入り、ヒュクーメトとされたサンジャクが固定化するとクルド系のサンジャクの差別化も完了し、クルド系アミールが管理するサンジャクは、いくつかのタイプに画然と分かれつつ、総体的に地方行政組織に明確に位置づけられた。

各アミールが管理するサンジャクについては、オスマン朝は、アミールの領地支配権をサンジャクの管理権におきかえることでアミールの領地を地方行政組織に編入したが、サンジャクベイ(県知事)への任命の際、アミールに経済的な条件を課したり、アミール位を巡る内紛に乗じて既得権の切り崩しをはかるなど、徐々にではあるが体制内に統合していった。以上は、元来東部アナトリアに本拠地を持っていたアミールに対する政策であるが、オスマン朝は、東部アナトリアに本拠地を持っていなかったアミールに対しては、ヴァン州で新たに創設されたサンジャクを授与することでオスマン朝の地方行政組織に編入していった。さらに、勢力の大きなアミールが管理するサンジャクを意味するヒュクーメトを、特定の州に集中させず諸州に分散して帰属させることでヒュクーメト間の一体性を弱め、個々のヒュクーメトを中央と直接結びつけることを目指した。このように、十六世紀を通して導入された支配システムを通じて、十七世紀にオスマン朝の支配体制が東部アナトリアに定着していく過程を明らかにした。

第四章では、オスマン朝の軍事・土地制度の根幹を成すティマール制について検討した。ティマール制とは、在地の騎兵であるスィパーヒーに対し、軍事奉仕への代償として、土地の徴税権を付与するものであった。オスマン朝は東部アナトリアにもティマール制を導入したが、ティマール授与に際しては、土地の権益に関わる地域の慣習を排除せず、そのままティマール制の中に取り込んだことが明らかになった。

征服地の伝統的な秩序や慣習に配慮しつつ、徐々に体制内に統合していくという統治方法は、ティマール制だけに限られたものではなかった。オスマン朝は、ティマールと同様に国家が収入源を保証する制度であるが、より集権化に即した制度であるゲディク制度も導入し、アミールの一族や配下の者にゲディクを授与することで彼らを辺境防衛組織に組み込んでいった。しかし、ゲディクの授与に関しては、アミールに一定の権限を認めていた。アミールはオスマン朝の一般のサンジャクベイと同様に、ゲディク保有候補者を選定し、上奏する権限を有したが、さらに、アミールの配下のゲディク保有者が死亡した場合、そのゲディクは再びアミールの配下の者に授与されることが保証されていた。オスマン朝はティマールと同様にゲディクについてもオスマン朝の支配システムとして導入はしたが、アミールに一定の権限を認めることにより、緩やかに体制内に統合しようとした。

さらに、ティマール制に関連して、未だ全容が解明されていない、東部アナトリアの特性を表わすユルトルク・オジャクルクとヒュクーメトという用語について検討した。ユルトルク・オジャクルクとは、アミールが自身の支配領域をサンジャクベイとして世襲的に管轄すること、そして、アミールの支配領域における土地に関する権益をティマール体制下に世襲的な土地の徴税権として保有することを意味した。ヒュクーメトは勢力あるクルド系アミールが管理した特定のサンジャクを意味したが、検地が行われないという原則があり、その結果、ティマール制は施行されず、一切の税収をアミールが保有するという特権が認められていた。ヒュクーメトとされたサンジャクが確定した十六世紀末から十七世紀前半は、東部アナトリアにおいてオスマン朝の地方行政組織が定着し始めた時期でもあった。東部アナトリアにおけるオスマン支配は、一方では土着的事情を考慮した特殊な制度も創り出しつつ、他方では着実に定着し体制は安定していった。

第五章では、第四章のティマール授与に引き続き、ティマールとして授与された土地の権利配分の内実についてビトリスを例に検討した。ビトリスでは、オスマン朝による征服の前から、土地に関する権利が部族に属する者たちにも細かく割り当てられていた。オスマン朝は、ビトリスにおいてティマール制を導入する際、征服の前から存在した土地の権利に関わる慣習を反映しつつティマール授与を行ったが、アミールに対しては既得権を徐々に切り崩しつつその影響力を限定させるような、そして、アミールの配下の者に対しては以前の権利を容認するような政策を取っていた。

第六章では、東部アナトリア社会の内部構造について分析した。東部アナトリアの社会とは、アミールを頂点として、クルド系の部族勢力が中心となった社会であった。部族連合を統率していたアミールの出自については、アミールは自身が統率する部族とは関係のない高貴な家系を自らの出自と主張していた。アミールに加えて、アミールを支えた部族連合の有力者である一部のアガ(部族長)の出自も部族外からであると考えられた。このように.アミールの支配領域では部族以外の外部の出自を主張する者たちによる支配体制が成立していたが、アミールはこの伝統的な支配体制を維持するために、近隣のアミールと姻戚関係を結ぶなど、アミール間の連携を強化していた。

アミールをはじめとする部族内の支配階層が固定的であった反面、部族連合を構成した個々の部族の動向は流動的であった。部族連合を構成した部族については、核となる部族を除けば、結びつきが比較的緩やかであり、部族連合への参加やそこからの離脱はアミールや他の部族との関係に拠るところが大きかった。そして、部族連合の枠組みを超えて、複数のアミールの支配領域にまたがって広範囲に活動した部族も存在したように、部族間や部族連合間ではかなりの人的な流動性が見られた。

東部アナトリアで支配層を形成していたのはクルド系の部族勢力であったが、被支配層について見ると、その人口構成は、検地台帳に表れた納税者人口という数値から見る限りでは、多数派を構成したのは非ムスリムであったことが明らかになった。

東部アナトリアではクルド系の部族を中心とした勢力が覇権を握っていたが、東部アナトリアの伝統的な秩序を容認したオスマン朝は、従来の様々な慣習をオスマン朝の支配システムに適応させることにより、同地域をオスマン支配体制という枠組みに徐々に組み込もうとした。このオスマン支配の導入の過程の中で、東部アナトリアの伝統的な社会システムは十六世紀を通じて徐々に変容を遂げた。そして、十七世紀に入り、オスマン朝の支配システムが定着したことにより東部アナトリア社会は一応の安定を見た。オスマン朝は東部アナトリア的秩序を徐々に、しかし着実にオスマン的秩序に融合させようとしたのであり、それこそがオスマン支配の本質であった。そして、このような支配システムを有していたからこそ、変転果てしない東部アナトリアで最終的に覇権を確立し永続的に支配しえたのであった。

審査要旨 要旨を表示する

本論文は、16世紀から17世紀にかけて東アナトリアがいかにしてオスマン帝国により征服され、オスマン支配が定着していったかについて、トルコ語・ペルシア語・アラビア語の記述史料および膨大な量のオスマン語の未刊文書史料の博捜に基づいて解明した研究である。

東アナトリアは、アジアとヨーロッパの交通の要衝に位置し、古来地政学的に最も重要な地域の一つであった。この地域は、オスマン帝国による征服後、20世紀初頭に至るまでオスマン支配下に留まった。この地域は、その重要性にも関わらず、史料上の諸困難があり、従来、本邦はもとより周辺諸国においても欧米諸国においても十分な研究が行われてこなかった。とりわけ、四世紀にわたる安定的支配を実現したオスマン帝国によるこの地域の征服と支配体制の定着の過程については詳細な実証的研究に乏しい。本研究はその欠缺を埋める労作である。

本論文の第一章においては、研究史の紹介に続き、従来、十分用いられてこなかった文書史料類の各々の性格について詳細な解説が行われる。第二章においては、16世紀におけるオスマン帝国による征服過程について、ディヤルバクル地方とヴァン地方の征服の二段階にわけ詳細に検討している。第三章においては、オスマン支配定着過程の分析に入り、地方行政組織の形成と上級地方官の任免の様態につき未刊文書史料を博捜して詳細に分析している。第四章においては、オスマン朝の地方支配体制の根底をなすティマール制が東アナトリアにおいていかにして定着し地域的偏差を生み出したかを明らかにしている。ここでこの地域に特徴的なティマールの類型についてまったく新しい見解を提示することに成功している。第五章においては、このティマール制下の土地に関わる権利の配分の様態とその特色を明らかにしている。第六章においては、東アナトリア社会の構造に立ち入り、アミール権力と部族の内部構造と東アナトリアの人口構成と社会構造の一端を明らかとした。

本論文は、当該テーマについて、記述史料のみならず、未刊の膨大な文書史料の博捜に基づいた画期的な論文といえる。まず第一に、オスマン朝による同地方の征服過程を同地域の内部構造と絡めつつ解明した点は重要である。第二に、オスマン支配体制の定着過程を地方行政組織・その基礎としてのティマール制の特性・ティマール制を通じての権利配分の実態について史料の実証的分析に基づきつつ新知見を提示した点において極めて高い評価に値する。第三に、同地域の社会構造の分析も新しい取り組みとして評価に値する。

ただ、本研究にも若干の欠点はある。第一に、膨大な史料を利用しながらヴィヴィッドな歴史記述に必ずしも成功していない点が挙げられる。第二に、社会史的分析においてなお未完成な部分が散見される。第三に、東アナトリアのケースとオスマン体制一般との対比分析においてなお不十分な点が見られる。

しかしながら、全体として、当該分野においては国際水準に達する貴重な学術的貢献であり、博士(文学)の学位を授与するに十分に値すると認められる。

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