学位論文要旨



No 120848
著者(漢字) 山口,誠
著者(英字)
著者(カナ) ヤマグチ,マコト
標題(和) 放送オラリティのメディア史
標題(洋)
報告番号 120848
報告番号 甲20848
学位授与日 2006.02.08
学位種別 課程博士
学位種類 博士(社会情報学)
学位記番号 博人第515号
研究科 人文社会系研究科
専攻 社会文化研究専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 教授 吉見,俊哉
 東京大学 教授 佐藤,健二
 東京大学 教授 花田,達朗
 東京大学 助教授 北田,暁大
 昭和女子大学 元教授 竹山,昭子
内容要旨 要旨を表示する

本論文は、一九二五(大正一四)年に開始された日本の放送事業を研究対象とし、「放送」という様式のマス・コミュニケーションが近代日本において成立する過程を歴史分析した。

メディアは、それを可能にする技術の出現によって誕生するのではなく、それと共にある同時代の人々の社会認識(リアリティ)に編入されてはじめて社会的に誕生する。これに関して蓮實重彦は「あらゆるメディアは二度誕生する」と述べたが、本論文ではこの二つの誕生の「あいだ」に生起する様々な諸契機の連なりを「メディアの生成過程」と捉え、「メディアは長い誕生日を持つ」という問題認識をもとに実証的な放送史研究を試みた。

近代日本における「放送」の長い誕生日は、一九二五年の放送「局(station)」という形式に基づく事業開始に始点を認めることができる。しかし、その草創期には放送局の現場で活動する者でさえ明確な「放送」像を持たず、また「放送」を聞く人々も、いかにそれを「聞く」ことが可能なのか、という身体作法を身に付けていなかった。こうした複数で多様な「放送」の可能性が開かれていた草創期を経て、一方で放送「局」が「番組」を定時発信し、他方で不特定多数の「オーディエンス」たちが家庭で同時受信する、といった今日のわれわれが想定する「放送」の様式がいかにして生成していったのかを、初期放送が出現した社会文脈に即して具体的に考察した。

本論文では、「放送」という様式のマスなコミュニケーションを、(1)放送局の活動(従来の放送史研究が中心的課題としてきた「番組内容」)だけに還元せず、(2)それを「聞く」人々(オーディエンス)の身体技法と、(3)そうした「放送」を可能にするメディア技術の成立という、三要素からなる重層的な社会的行為として捉えた。ここで参照したのが、ウォルター J. オングによる二次的オラリティという分析枠組みである。

オングは、メディア技術の変容が人々の社会認識(リアリティ)を規定するという視角から、声の文化としてのオラリティと文字の文化としてのリテラシーが生成する歴史的過程を比較分析し、電子メディア時代に出現した第三のことばの文化を「二次的オラリティ」という概念で問題化した。オングの議論において本論文が注目するのは、(1)「ことばの表現」は「ことばの性質」と方法論的に区別できること、また(2)前者は後者にもとづいて成立すること(あるいは後者は前者よりも先行して生成すること)、の二点である。

(1)については、ソシュール以降の言語学や記号論でも多く指摘されてきたが、本論文にとって(2)の視角がより重要である。オングは「ことばの性質」が「ことばの表現」を規定し、あるいは下支えするという認識に立ち、その「ことばの性質」の生成過程と特性を、「ことばの技術」の変容によって分析しようと試みた。そうした狙いは、「ことばの技術化の方法(The Technologizing of the Word)」という同書の副題でも明示されている。

「ことばの技術」は、これまでのメディア史研究において周縁的なテーマとして扱われてきた。とくに日本の放送史研究において、その「放送」を可能にするメディア技術を科学技術史の問題ではなく歴史的・社会的問題として考察した先行研究は極めて少ない。しかしオングによれば「技術とは、たんに外的なたすけになるだけのものではなく、意識を内的に変化させるものでもある。そして、技術がことばにかかわるときほど、こうしたことが言えるときはない」という。こうしてオングが示した「ことばの表現」「ことばの性質」「ことばの技術」の三者の関係を本論文の問題意識から整理すれば、二次的オラリティは「表現層」と「形式層」に区別可能であり、後者は前者を規定すること、さらに両者は「技術層」によって下支えされている、という三層構造が見えてくる。この三層構造の作業仮説によって、「声」の複製技術であるラジオ放送の二次的オラリティを分析したのが、本論文の特徴である。

以上の問題関心から本論文では、(1)「声」の生成過程としての「放送局」の諸実践、(2)「耳」の生成過程としての「聞く」ふるまいの内実、そして(3)両者をつなげる回路の結晶体としてのラジオ受信機の変容、という三層を文脈的に分析することを試みた。その分析対象として、放送初年度に新設され、日本の放送の歴史とほぼ同じ長さの歴史を持つ英語講座シリーズと、一九二七年に開始され、瞬く間に突出した人気を博した野球放送の二つを選び、「放送」オラリティの表現層の変容を前者の分析によって、また形式層の変容を後者の分析によって明らかにし、さらには技術層をラジオ受信機の変化の分析によって明らかにすることを試みた。

本論文は三部・一六章で構成されている。まず序章で本論文の研究課題を設定し、上述の「放送の長い誕生日」と二次的オラリティの三層構造という作業仮説について論じた。

第一部では、「放送」を「聞く」という社会的行為の生成過程を検証した。具体的には、ラジオ放送がまったくのニュー・メディアであった時代に、人々はいかにして「放送」を「聞く」ことと出会い、そして「聞く」習慣を身に付けていったのかを、ラジオ受信機の技術的変容とその標準化の過程を中心に分析した。さらに「聞く」人々の外側には多数の「聞かない」人々が存在し、「聞く」ことと「聞かない」ことの交渉が様々なかたちでおこなわれ、そうした交渉過程の果てに「放送」を「聞く」という社会的行為の意味が立ち上がる状況を問題化するため、「オーディエンス」という概念を問う作業をおこなった。

第一部の考察から明らかになったことは、「放送」という様式のコミュニケーションは、単に放送「局(station)」という主体が事業を開始すれば成立するものではなく、本論文の第2章で議論した「聞く」行為の諸実践や、第4章で分析した受信機メーカーによる日本放送協会への抗争などの要素が大きく関与している状況である。

第二部では、放送オラリティの表現層と形式層の生成過程を検証するため、野球放送を事例にとりあげ、いかなる性質の「声」が最初期の「放送」で発信されていたのかを考察した。最初の野球放送のアナウンサーである松内則三が得意とした「松内節」に代表されるように、草創期の「放送」の「声」はアナウンサー個人の「芸」に頼りきっていた。しかし河西三省が開発した野球放送アナウンスによって、ラジオ放送の「声」は共有可能な「技」となり、「放送」独自の「声」の形式層が出現する。その一つの達成が「生」という集合的リアリティの創出であり、放送メディアは「いま」という限定的時制を同時複製し、それを「聞く」人々のあいだに共有体験を創出する。こうした「生」の集合的リアリティの出現は「放送」という様式のマス・コミュニケーションに特殊であり、活字メディアなど他のメディアには見られない独自のリアリティの様式である。

こうして第二部では、「放送」が独自の「声」と「耳」を手に入れ、「放送」オラリティの一つの達成を遂げた中心的事例として、「生(live)」という集合的なリアリティが出現する状況を明らかにし、それを野球放送のアナウンスとオーディエンスの交渉過程において実証的に分析した。

第三部では、放送初年度から今日まで発信されている英語講座シリーズに注目し、同シリーズにおいて開発されたラジオ放送の「声」の性質を考察した。同シリーズは言語学者・岡倉由三郎によって制作され、岡倉は語学番組の一講師に留まらず、東京放送局の顧問として「放送」すべき「声」の設計に深く関わっていた。本論文では、英語講座シリーズの番組内容と岡倉由三郎の言語思想の分析を通じて、放送局が「英語会話」という新しい「声の文化」の開発に着手する過程を追った。この「英語会話」という知は、かつて放送局が岡倉から借用した「英文学」中心の学校教育とは異質の言語思想であり、それは「英語」と「放送」が出会い節合してはじめて出現した、放送局独自のオラリティの結晶体である。「英語会話」の発信と同じく三四年、放送協会は岡倉由三郎を中心とする放送用語委員会を設置し、「共通語」という独自の言語思想を立ち上げ、またアナウンサーたちの「声」を標準化するためアナウンサー学校を新設し、放送局は「声」の標準化に着手した。

第三部の議論から明らかになったことは、草創期に放送外部の「声の文化(オラリティ)」を借用していた放送局が、一方で「英語会話」という新しい知を開発し、他方で「共通語」の開発と「声」の標準化(アナウンサー学校の新設)に自覚的に着手する時期を迎えたことである。それは一九三四年、放送事業の開始から九年後のことであり、「放送の長い誕生日」が一つの達成点を迎えたことを意味する。

本論文の考察から見えてきたラジオ放送に独自の二次的オラリティの「声」と、それを「聞く」人々の新しい身体技法(それを本論文では「耳」と呼ぶ)のあり方は、単にラジオ放送という音声メディアの技術的特性によって生成されたものではない。ラジオ放送の「声」と「耳」のあり方を理解するためには、本論文が注目した一九二〇年代から三〇年代の近代日本におけるトーキー映画、大衆雑誌、そして新聞といった同時代のメディアとの位置関係を視野に入れた「間メディア的状況」の分析が必要となる。本論文をまとめたことで、「間メディア的状況」における「声」と「耳」の考察という次の課題が明確に見えてきた。筆者は本論文の成果をさらに深化させるため、この新たな課題に取り組む所存である。

審査要旨 要旨を表示する

本論文は、1925(大正14)年に開始された日本のラジオ放送事業とその社会的受容を対象に、「放送」というコミュニケーション様式が近代日本において成立する過程を、(1)放送局の活動、(2)それを「聞く」オーディエンスの身体、(3)「放送」を可能にするメディア技術という3つの要素からなる重層的過程として綿密に捉えた全3部、16章の労作である。

序章で著者は、ウォルター J. オングによる「二次的オラリティ」の概念を基礎に、「放送」という二次的オラリティの構成次元を、表現層、形式層、技術層という3つに分ける。その上で、これらと緩やかに対応して、(1)「声」の生成過程としての放送局の実践、(2)「耳」の生成過程としての「聞く」ふるまい、(3)両者を繋げる回路としてのラジオ受信機の変容という3つの社会過程・行為について、歴史の具体的文脈のなかで検討していこうとする。

第I部では、放送される「声」を「聞く」という関係行為が生成されてくる過程が、当時、放送局が抱いていた「放送」概念の分析(第1章)や、受信機の技術的変容(第3章)とその標準化プロセス(第4章)の分析を通じて明らかにされる。また第2章では、1920‐30年代の日本で、放送を「聞くこと」と「聞かないこと」がいかに社会的に意味づけられていたかを、社会調査や雑誌への寄稿など様々な一次資料の分析から描き出している。

第II部では、野球放送が事例に取り上げられる。著者は一方で、いかなる性質の「声」が初期の放送で作られつつあったのかを、松内則三と河西三省という2人の代表的アナウンサーの野球中継のスタイルを詳細に比較分析することから示していく(第6‐8章)。他方、そのような野球放送は、家庭の団欒においてではなく、街頭で集合的に聴取されるものであったことが、同時代の電力供給・消費の実態から説得的に明らかにされていく(第5章)。

第III部では、ラジオ放送の初年度から始まった英語講座に注目し、そこで開発された放送の「声」の性質を考察する。同番組は、言語学者・岡倉由三郎によって制作されたもので、岡倉は語学番組の一講師だけでなく、東京放送局の顧問としてラジオの「声」の設計に深く関わった。著者は、英語講座の内容や岡倉の言語思想を分析し(第10−11章)、草創期には放送以前からの「声の文化」を借用していた放送局が、「英語会話」の番組化(第13−14章)や「共通語」の開発、アナウンサー学校の新設による声の標準化を通じ、1930年代半ばには独自の「二次的なオラリティ」の文化を制度化していったことを描き出していく。

以上のように本論文は、放送局と受信機メーカー、アナウンサーと聴取者、娯楽番組と教養番組などの多層的な相互作用を丹念に跡づけ、日本における「放送」の歴史的生成を立体的に描き出している。著者は、雑誌投稿からメーカーの一次資料までを含む関連文献を広く渉猟し、従来のマスコミ史研究の枠を大きく広げ、実証的に厚みのある記述に成功した。理論と実証が適切に結びついた力作であり、本審査委員会は、本論文の学術的意義を高く評価し、全員一致で博士(社会情報学)の学位を授与するに値するものと認定した。

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