学位論文要旨



No 120852
著者(漢字) 八巻,知香子
著者(英字)
著者(カナ) ヤマキ,チカコ
標題(和) 身体障害者における「障害者への社会のまなざし」の認知障害への対処および主観的ウェルビーイングに関する研究
標題(洋)
報告番号 120852
報告番号 甲20852
学位授与日 2006.02.22
学位種別 課程博士
学位種類 博士(保健学)
学位記番号 博医第2591号
研究科 医学系研究科
専攻 健康科学・看護学専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 教授 数間,恵子
 東京大学 助教授 大嶋,巌
 東京大学 教授 牛島,廣治
 東京大学 講師 神馬,征峰
 東京大学 助教授 松山,裕
内容要旨 要旨を表示する

緒言

障害者の社会参加やノーマライゼーション理念は広く掲げられてきたが、依然として障害者差別が存在することや、障害者を劣位におく価値観があることは国内外で繰り返し指摘されている。しかし、これらのテーマを扱う研究に対しては、受け手である障害者個人がどれほどダメージを受けるのかという観点からのみの測定が大半を占め、価値観自体の議論や把握がなされてこなかった。また、こうしたアプローチにおいては、当事者の主体的な対処やポジティブサイコロジーヘの着眼が弱く、結果的に本来障害者が身につけている積極性や強さを見落としてきたと批判されている。

本研究では、障害のある人が感じている「障害者への社会のまなざし」を把握すると同時に、主体的な対処やホープの状況を把握し、それらが主観的ウェルビーイングに関連しているのかを明らかにすることである。本研究のリサーチクエスチョンは以下のとおりである。RQ1は質的調査により、RQ2から4は量的調査により明らかにする。

RQ1:障害者自身は社会からどのような「まなざし」を注がれていると感じているのか。そして、「障害者への社会のまなざし」をどのように評価し、どのように反応しているのか。

RQ2-1:障害者自身による「障害者への社会のまなざし」の認知はどのように分布しているのか。また、それらはどれほど不快、または広がりを望むものとして認識されているのか。

RQ2-2:「障害者への社会のまなざし」をどの程度肯定的または否定的なものと評価するかどうかについての障害者個人の評価傾向は、何によって形成されるものなのか。日常生活での不快な経験の多寡により形成されるものなのか。

RQ3-1:積極的・消極的な対処スタイルはどのように分布しているのか。

RQ3-2:積極的な対処スタイルは日常の被差別的な経験や不便な経験により抑制されるのか。

RQ4-1:主観的ウェルビーイングは、どのように分布しているのか。

RQ4-2:被差別的な経験や否定的な「まなざし」を感じ取ることは、主観的ウェルビーイングに対して影響を与えるのか。また、社会関係のネットワーク、積極的な対処スタイルやホープは主観的ウェルビーイングを高める資源となりうるのか。

対象と方法

質的調査

調査当時国立身体障害者リハビリテーションセンターに入所していた肢体不自由・視覚障害・聴覚障害をもつ計12名に対して、生活の中で不快、または好ましいと感じる社会の反応について質的な面接調査を行った。調査時期は2002年7月である。調査票の項目策定にあたっては、この面接調査で語られた具体例を多く用いた。

量的調査

対象と調査方法

1979年から2003年の間に国立身体障害者リハビリテーションセンター更生訓練所に在籍した肢体不自由・視覚障害・聴覚障害をもつ人々3190名を対象とし、調査票を郵送配布、郵送回収した。回収票961票(30.2%)のうち、本人以外の回答を除く949票を分析対象とした。

主たる調査項目

障害者によって認識された「障害者への社会のまなざし」:否定的および肯定的な「まなざし」計24項目について、それらがどの程度存在すると思うか、またそれらについての軽減、拡大についての期待について意向を尋ねた。項目は事前調査で語られた事例と文献レビューの結果を参考に設定した。個人の傾向を示す指標としては「『障害者への社会のまなざし』」の肯定的評価傾向」として、24項目からなる多項目スケール(α=.86)を作成して用いた。

「対人的被差別経験」「移動・情報入手の不便経験」どれほど日常的に不快な経験をしているのか、「対人的被差別経験」を8または9項目からなるスケール(α=.76〜.90)、「移動・情報の不便経験」として2項目によるスケール(α=.53〜.72)として用いた。障害への積極的な対処スタイル:事前調査で語られた事例と先行文献を参考に、18項目の積極的な対処と、2項目の消極的な対処について、日常的にどの程度それらを用いるかどうかを尋ねた。個人の対処スタイルの傾向を示す変数としては、計20項目の多項目スケール(α=.82)として用いた。

ウェルビーイングに関する指標:ホープの把握にはHerth Hope Index(HHI)を筆者らが翻訳して用いた(α=.88)。および生活の質の自己評価についての単項目7段階による測定を用いた。

分析方法

「障害者への社会のまなざし」の認知および「障害への対処スタイル」についての具体的な分布は単純集計で示した。「障害者への社会のまなざし」の肯定的評価、障害への積極的な対処スタイル、ウェルビーイング指標の関連要因の検討にはピアソンの相関係数または偏相関係数と重回帰分析を用いた。「障害者への社会のまなざし」の肯定的評価の関連要因の検討においては、基本属性、社会的役割・社会関係、対人的被差別経験、移動/情報入手の不便経験を独立変数とし、精神健康度の問題の有無を制御変数とした。「障害へ積極的な対処スタイル傾向」の関連要因の分析には、上記の変数に加え、「障害者への社会のまなざし」の肯定的評価を独立変数とし、精神健康度の問題の有無は障害に関する変数として用いた。ウェルビーイング指標の関連要因の検討では、さらに「障害への積極的な対処スタイル傾向」を独立変数に加えた。分析には統計パッケージSPSS11.5Jを用いた。

結果

質的調査結果

インフォーマントたちは、「自立への意欲がありながら機会が開かれないこと」「所属集団からの排除・蔑視」「公共の場所での排除・蔑視」を通じて、否定的な「障害者への社会のまなざし」を感じ取っていた。一方、肯定的な「社会のまなざし」を感じる経験についての言及は極めて少なかく、挙げられた事象は、否定的な「社会のまなざし」の要素がないこと、または低減していることを指摘するものであった。

障害者によって認知された「障害者への社会のまなざし」とそれへの評価

個々の否定的なまなざしにについて、現在の日本に「ある」と答えた人の割合は、1項目を除いていずれも過半数を超えた。肯定的なまなざしについても、70%以上の人が「ある」と答えた。いずれの障害においても「障害者への社会のまなざし」の関連要因は、「対人的被差別経験」が最も大きく、障害の状態や社会関係による説明力は極めて小さかった。

障害への対処スタイル

積極的な対処については様々な角度にわたって広く用いられていたが、消極的な対処スタイルをとる人は極めて少なかった。

積極的な対処スタイルに関連する要因は、社会的役割・社会関係を広くもつことと正の関連を示した。対人的被差別経験、「障害者への社会のまなざし」の肯定的評価とは視覚障害者においてのみ関連がみられた。

主観的ウェルビーイング

ホープを測定するHHI得点の平均値は34.6±6.3点であった。単項目で測定した生活の質の自己評価得点が3.37±1.37であり、「とても良い/良い/どちらかといえば良い」と答えた人は50.1%(468人)、「普通」と答えた人を含めると81.9%(765人)であった。

この2つの主観的ウェルビーイング指標に関連する要因は、社会的役割・社会関係を広くもつことと強い正の関連があり、積極的な対処スタイルは最も大きな説明要因であった。この2つ指標の両方またはいずれかにおいて、肢体不自由者では「障害者への社会のまなざし」への肯定的評価の正の関連および対人的被差別経験との負の関連、視覚障害者では対人的被差別経験との負の関連、聴覚障害者では「障害者への社会のまなざし」の肯定的評価との正の関連がみられた。

考察および結論

「障害者への社会のまなざし」

本研究の結果から、従来欧米で指摘されてきた「障害者役割」に合致するような障害者観が存在することが明らかになった。またそれらの「障害者への社会のまなざし」は、日常の生活の実感によって形成されたものであると考えられた。また、これらの「障害者への社会のまなざし」の認知は、市民への調査でもほぼ同値を示し、障害者だけが感じている事象ではなく、障害のない人にも感じ取られている事象であると考えられた。このことから、本研究で用いた尺度は、社会の状態をモニターする手段として有効であると考えられた。

障害への対処と主観的ウェルビーイング

本研究の対象者は、積極的な対処方法をおしなべて広くとっており、ホープの平均点は一般住民のそれと差はなかった。よって、否定的な社会の反応により積極性を抑制される人々ではないと推察された。

社会的役割・社会関係は、積極的な対処スタイル、ホープ、ウェルビーイングのいずれに対しても重要な要因となっており、社会参加の機会やサービスにおいて、人間関係を築き、社会とのつながりが実感されるものとなることが重要であると考えられた。

結論

障害者が感じ取る否定的な「障害者への社会のまなざし」は、明白な差別としては捉えにくい日常の空気のようなものを含めた総体として感じ取られていた。

否定的な要素についても、肯定的な要素についても存在を感じている人は非常に多く、否定的な要素については是正を、肯定的な要素については広がりを望んでいた。

「障害者への社会のまなざし」の肯定的評価傾向は、対人的な被差別経験および移動・情報入手の不便よる日常の不快な経験の多寡と強く関連しており、日常生活の実感に基づくものと考えられた。

障害への積極的な対処は広範に用いられていた。また、ホープ得点の平均は一般住民とほぼ同値の34.6点、82%の人が自分の生活の質を普通以上であると答え、高い主観的ウェルビーイングを保持している人が多数存在した。

「障害者への社会のまなざし」や対人的な被差別経験は、必ずしも積極的な対処スタイルを抑制するものではなかったが、主観的ウェルビーイングに負の影響を持っていた。

障害への積極的な対処スタイルを促進する上でも、ホープやウェルビーイングを高く保つ上でも、社会的役割や社会関係の充実は非常に重要であることが示唆された。

審査要旨 要旨を表示する

本研究は、1)障害のある人に対して、社会がどのような圧力を注いでいるのかについて、新しい「まなざし」の概念を用いて把握すること、2)障害当事者の主体性やポジティブサイコロジーに着眼し、障害への対処と主観的ウェルビーイングの状態とその状態を左右する要因を明らかにすることを通じて、現在の日本社会において是正を必要とする価値観や態度を指摘した。主たる結果は以下の通りである。

質的調査におけるインフォーマントたちは、「自立への意欲がありながら機会が開かれないこと」「所属集団からの排除・蔑視」「公共の場所での排除・蔑視」を通じて、否定的な「障害者への社会のまなざし」を感じ取っていた。これらは障害者が感じ取る否定的な「障害者への社会のまなざし」は、明白な差別としては捉えにくい日常の空気のようなものを含めた総体として感じ取られていた。一方、肯定的な「社会のまなざし」を感じる経験についての言及は極めて少なく、挙げられた事象は、否定的な「社会のまなざし」の要素がないこと、または低減していることを指摘するものであった。

個々の否定的なまなざしにについて、現在の日本に「ある」と答えた人の割合は、1項目を除いていずれも過半数を超え、従来欧米で指摘されてきた「障害者役割」に合致するような障害者観が存在することが明らかになった。一方、肯定的な「まなざし」についても、70%以上の人が「ある」と答えた。否定的な要素についても、肯定的な要素についても存在を感じている人は非常に多く、否定的な要素については是正を、肯定的な要素については広がりを望んでいることが確認された。

「障害者への社会のまなざし」の肯定的評価傾向は、対人的な被差別経験および移動・情報入手の不便よる日常の不快な経験の多寡と強く関連していたが、障害の状態や社会関係による説明力は極めて小さかった。このことから日常生活の実感に基づくものと考えられた。また、これらの「障害者への社会のまなざし」の認知は、市民への調査でもほぼ同値を示し、障害者だけが感じている事象ではなく、障害のない人にも感じ取られている事象であると考えられた。以上より、本研究で用いた尺度は、社会の状態をモニターする手段として有効であると考えられた。

積極的な対処については様々な角度にわたって広く用いられていたが、消極的な対処スタイルをとる人は極めて少なかった。ホープを測定するHHI得点の平均値は一般住民とほぼ同値の34.6点、82%の人が自分の生活の質を「普通」以上であると答え、高い主観的ウエルビーイングを保持している人が多数存在していることが示された。本研究の対象者においては積極的な対処スタイルが広く採られていることにより、主観的ウェルビーイングが高く維持されていると考えられた。

積極的な対処スタイルと対人的被差別経験、「障害者への社会のまなざし」の肯定的評価とは視覚障害者においてのみ関連がみられ、肢体不自由者、聴覚障害者では関連が見られなかった。しかし、対人的被差別経験、「障害者への社会のまなざし」の肯定的評価傾向は、ウェルビーイング指標との関連が認められた。よって「障害者への社会のまなざし」や対人的な被差別経験は、必ずしも積極的な対処スタイルを抑制するものではなかったが、主観的ウェルビーイングに負の影響を持つものと考えられた。

積極的な対処スタイルに関連する要因は、社会的役割・社会関係を広くもつことと正の関連を示した。また、二つの主観的ウェルビーイング指標に関連する要因は、社会的役割・社会関係を広くもつことと強い正の関連があり、積極的な対処スタイルは最も大きな説明要因であった。このことから障害への積極的な対処スタイルを促進する上でも、主観的ウェルビーイングを高く保つ上でも、社会的役割や社会関係の充実は非常に重要であることが示唆された。

以上、本論文は社会がどのような圧力を注いでいるのかについて、新しい「まなざし」の概念を用いて把握した。同時に障害当事者の主体性やポジティブサイコロジーに着眼し、障害への対処と主観的ウェルビーイングの状態とその状態を左右する要因を明らかにした。本研究はこれまで行われてきたステイグマ論を主流とする障害者研究とは異なる枠組みを採用することにより、流布してきたステレオタイプに囚われない障害者理解に貢献すると実証研究であると考えられ、学位の授与に値するものと考えられる。

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