学位論文要旨



No 120855
著者(漢字)
著者(英字) HILL RAQUEL ANNE-LOUSE
著者(カナ) ヒル・ラクエル・アン=ルイズ
標題(和) 〈第三の空間〉への旅 : ジャネット・フレイムと大庭みな子の作品におけるディスプレイスメントの修辞学
標題(洋)
報告番号 120855
報告番号 甲20855
学位授与日 2006.03.01
学位種別 課程博士
学位種類 博士(学術)
学位記番号 博総合第611号
研究科 総合文化研究科
専攻 超域文化科学専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 教授 瀧田,佳子
 東京大学 教授 三角,洋一
 東京大学 教授 ジョン,ボチャラリ
 東京大学 教授 菅原,克也
 東京大学 助教授 中尾,まさみ
内容要旨 要旨を表示する

本論文はジャネット・フレイム(Janet Frame, 1924-2004)と大庭みな子(1930-)という、それぞれニュージーランドと日本を代表する女性作家の作品を、ディスプレイスメントという切り口から比較考察するものである。ディスプレイスメントは一般に社会や制度などからはみ出した者が経験する居場所のなさ、所在なさといった「場所」にまつわる喪失感を意味することが多いが、フレイムと大庭の作品においては、地理的なディスプレイスメントはもとより、時空間的、精神的、文化的、言語的、ナラティヴ的ともいえる多種多様な形をとったディスプレイスメントが現われる。このような夥しいディスプレイスメントは、文学的な戦略としてはどのような意味をもつのだろうか。本論文では、分析対象の文学作品におけるディスプレイスメントが、「場所 (place)」、「故郷(home)」、「国家(nation)」(日本、ニュージーランド、国民、国家、国土などの広い意味を含む)という概念や、自己アイデンティティが構築されていく過程を考察するための新たなフレイムワーク枠組みを提供してくれることを明らかにする。フレイムと大庭の作品は、それぞれ「ニュージーランド文学」ないしは「日本文学」の解釈と自己規定のプロセスに抵抗し、国家や歴史の名の下になされるカテゴリー化を破壊する<第三の空間>(third-space)でときおり互いに対話をする関係にある。この文学的空間はアイデンティティとは確固たるものでも場所に固定されたものでもなく、むしろ移動と転移のなかで絶えず交渉され続けるものであることを示唆する。

本論文の構成だが、研究対象と重要概念を解説する序章と結論部分である終章のほかに、二つに大別することができる。そのうち、第一部ではフレイムを、第二部では大庭を論じる。「ジャネット・フレイムの作品における<第三の場>」と題した第一部は四つの章から成っている。<第三の場>という言葉はベストセラーとなったフレイムの自叙伝三部作の第一巻『現在(イズ=ランド)の国へ』(To The Is-land, 1982年)の冒頭に出てくるキーワードであり、第一章でその意味を探る。フレイムの自叙伝(以下『自伝』)をとりあげる理由がいくつかある。まず、『自伝』は旧イギリス領植民地の移住者であるニュージーランド人(パケハ)の両義性に満ちた文化的アイデンティティを鋭くとらえている。パケハのアイデンティティをめぐる描写は本論文でとりあげる作品を理解するための重要な背景となる。第二に、フレイムの『自伝』はナラティヴ的なディスプレイスメントの問題――せめぎあう複数の語り部の声とその語り部の信頼性の問題――を提起する。フレイムは物語の形式、とりわけ、「語り方」に深い関心を寄せており、とりあげる作品においても問題視されてゆくので、フレイムの『自伝』における語りの問題を最初に概観しておくことは後に取り扱う作品の理解に寄与すると思われる。

第二章では、中心(イギリス)/周縁(ニュージーランド)といった二項対立に着目しつつ、フレイムの三作目の作品であるThe Edge of the Alphabet(直訳は『アルファベットの縁』、1962年)という長編小説を考察する。とりわけ、アイデンティティを構築する過程において、祖国および故郷、場所、言語が果たす役割を探求してゆく。

第三章では、フレイムの六作目の長編小説であるA State of Siege(直訳は『包囲の状態』、1966年)をとりあげる。一見したところでは、この小説は、ニュージーランドの南島で長年美術の教師を勤めた独り身の婦人が北島の荒涼たる小さな島に引っ越す物語にしかすぎないように思われる。しかし、この小説の多くを占める風景の描写に注目すると、先住民であるマオリのような、生まれた土地に対する強い帰属意識に憧れるパケハの心情がその風景描写の編み込まれていることが見えてくるだろう。

第四章では、フレイムが書いた最後の小説となったThe Carpathians(直訳は『カルパチア山脈』、1988年)において、多層的に生起する地理的、時間的、文化的、言語的、ナラティヴ的なディスプレイスメントに焦点を当てる。主人公であるアメリカ人の女性が「記憶の花」というマオリの伝説の真偽を確かめるためにニュージーランドの小さな町にやってくる。しかし、マオリも含め、その町のほとんどの住民がその土地に対する帰属意識をもたず、むしろ自らをあたかも異邦人であるかのように感じ、その地に違和感をもっていることから、真正のアイデンティティを追求している主人公の期待はくじかれてしまう。『カルパチア山脈』は「土着性(indigeneity)」と「真正性(authenticity)」の意義と、故郷=場所とアイデンティティとの関係に対する疑問を読者に投げかける。

第二部では、大庭みな子の『浦島草』(1977年)に登場する「第三の世界」という意味空間について考えながら、大庭文学において、故郷や祖国や国家などという構造概念がどのように使用されているか、またどのように位置づけられ、どのような意味を付与されているかを探る。

第一章では、自叙伝ともいうべき『舞へ舞へ蝸牛』といくつかのエッセイ集をとりあげ、十四歳のときに原子爆弾投下直後の広島を目撃したことと、アメリカ大陸で過ごした十年の余りが大庭に与えた影響を明らかにする。とりわけ、「日本」と「日本文化」を鋭く洞察するこれらのテクストにおいて、これまでの大庭みな子研究ではもっぱらフェミニズムというカテゴリーに限定されてきた大庭のポストコロニアル性をより大きな文脈で捉え直す。

第二章では、『がらくた博物館』(1975年)において、<異境=outlandish>空間が作品内でどのように構築されており、そして何のために用いられているかを考える。大庭の作品におけるアラスカという場所は、日本人のアイデンティティのみならず、主体性というもの自体に揺さぶりをかける場所として重要な意味を担っているが、特定な場所を越えるヘテロトピアとして<がらくた博物館>を読む試みをする。とりわけ、国家と故郷といった概念に基づくアイデンティティと、それとは対照的なものとしてのディスプレイスメントのモデルに基づくアイデンティティとの反目に焦点を当てて考察する。

第三章では、アメリカとヒロシマという場所が複雑に絡み合っている長編小説『浦島草』(1977年)をとりあげ、地理的、文化的、言語的、時間的、ナラティヴ的なディスプレイスメントの構造を分析する。長年アメリカで過ごした主人公は、二三歳になって日本に帰ってくる。彼女は二つの国と二つの言語のなかに宙吊りにされた状態で日本をさまようが、記憶の世界に入り込み、日本で出会う血縁者たちの一人ひとりの物語をその身に引き受ける。記憶とディスプレイスメントの関係に重点を置くことによって、公式な歴史を転覆する魔術的リアリズムとしての『浦島草』を読み直す可能性を提起する。

終章では、第一部と第二部の分析を踏まえて、フレイムも大庭も自らの作品にディスプレイスメントの修辞学を用いることによって、既存の国家やアイデンティティの概念にしばられない、時間と場所を横断する新たな文学空間を志向していることを示唆する。その新しい文学空間を、ホミ・バーバの「第三の空間(Third Space)」とエドワード・ソジャの「第三空間(Thirdspace)」を援用しつつ、<第三の空間>(third-space)であることを明らかにする。

審査要旨 要旨を表示する

ラクエル・アン=ルイズ・ヒル氏の博士学位請求論文「<第三の空間>への旅─ジャネット・フレイムと大庭みな子の作品におけるディスプレイスメントの修辞学」は、ニュージーランドの現代作家ジャネット・フレイムの三つの作品と、大庭みな子の主要長編小説とを、地理的のみならず、さまざまなナラティヴ的ディスプレイスメントという分析概念で比較考察した研究である。直接影響関係のない二人の女性作家は、ともに国家や歴史の枠の外にでようとする新しい空間を模索する点で強い共通点をもち、本論文はその点に注目し、対比研究としてテクストを精緻に読み解いた労作である。

ヒル論文の特色は、これまで全く比較研究されることのなかったフレイムと大庭という地域も言語も異なる作家間にある問題意識の共有、アイデンティティの揺らぎに着目した点にある。ディスプレイスメントは通常、移動、居場所のなさといった場所に関する喪失感を意味するが、フレイムと大庭の場合、そういった地理的なディスプレイスメント以外に時間的、精神的、文化的、ナラティヴ的ともいえるディスプレイスメントが作品のなかに表現される。ヒル氏はまず両作家のすべてのテクストを丁寧に読み、その上でフレイムの自伝を含む四作品、大庭の三作品を選び、従来なされることのなかった解釈を試み、それぞれの作品に独自の視点を提供した。その結果、フレイム研究としても大庭論としても従来の研究を一歩進める貢献をなしているといえよう。

本論文は問題提起や分析概念を説明する序章に続き、大きく二部に分かれており、第一部ではフレイム、第二部では大庭を扱っている。以下、構成にしたがって内容を紹介する。

まず、序章では、日本ではまだあまり知られていないがニュージーランドでは極めて重要な作家であり、ノーベル賞候補でもあって昨年亡くなったジャネット・フレイムの『カルパチア山脈』と、大庭みな子の『浦島草』において、主人公がともに世界の反対側への旅に出かけ、真正(オーセンティック)なアイデンティティを探求するというテーマを紹介した上で、先行研究を整理する。その上で二人の作家を比較して論じることにより、これまでフェミニスト批評が主流であった大庭作品を、フレイム論に使われるポストコロニアル批評が問題とする「場所」という面から研究する可能性をも示唆した。

第一部第一章ではジャネット・フレイムの自伝三部作『現在(イズ=ランド)の国へ』(1982)、『天使が私の食卓に』(1984)、『鏡の街からの公使』(1985)を取り上げ、冒頭に出てくる<第三の場>という本論文のキーワードとなる言葉の意味を探る。自伝は旧イギリス植民地の欧米系移住者であるニュージーランド人(パケハ)の複雑な文化的アイデンティティを問題にしているが、ここではさらに作者フレイムの語りの構造を捉え、ナラティヴ的ディスプレイスメントを論じる。

続く第二章では、中心(イギリス)/周縁(ニュージーランド)に着目しつつ長編小説『アルファベットの縁』(1962)を考察する。「アルファベット」が言語を表し、「縁」が場所を意味するように、この小説は、場所と言語を通してパケハのナショナル・アイデンティティへの挑戦をおこなっていると指摘する。

小説『包囲の状態』(1966)を扱う第三章は、ディスプレイスメントを起こす南島から北島への国内移住の過程で主人公が遭遇する見慣れぬ場所や風景が彼女の主体性にどのように揺さぶりをかけているかを検討する。作品中に際立つ風景描写を詳細に読み、文化的帰属意識について独自の解釈をおこなった。

第四章では、ヒル氏がフレイムの代表作と考える『カルパチア山脈』(1988自伝以外のフレイムの上記の小説はこの作品も含めすべて邦訳はない)における地理的、時間的、文化的、言語的、ナラティヴ的ディスプレイスメントに注目する。「記憶の花」というマオリの伝説を確認するためにニュージーランドの小さな町を訪れたアメリカ女性は、土地の住民のほとんどが自分たちを異邦人と感じていることに衝撃を受ける。この章では土着性(インディジェニティ)と真正性(オーセンティシティ)を追求することとは何であるかが鋭く論じられている。

第二部では大庭みな子の文学世界における祖国、故郷、国家について考察するが、フレイムの「第三の場」を連想させる「第三の世界」(『浦島草』)が重要な手がかりとなる。第一章では大庭の自伝的作品『舞へ舞へ蝸牛』(1984)を取り上げる。原爆投下直後の広島体験による戦争のトラウマと、結婚後10年にわたるアメリカ生活というディスプレイスメントを重視し、従来の大庭研究がデビュー作「三匹の蟹」以来構築してきたフェミニスト批評的枠組みからテクストを解放し、新しい文脈で大庭文学を捉えなおそうとした。

次いで第二章では『がらくた博物館』(1975)における異境空間に目を向ける。作品の舞台はアラスカを思わせる設定にはなっているが、本質的には特定の場所を越えるヘテロピアと考え、さまざまな人種的背景を持つ登場人物を通して、固定したものではない、ディスプレイスメントによるアイデンティティを考察する。

さらに第三章はヒル氏が大庭の作品中最も重要とみる『浦島草』(1977)を時間、文化、記憶などの重層的なディスプレイスメントの観点から詳細に分析する。また11年間のアメリカ生活を切り上げて帰国した女性が体験する故郷日本と記憶の問題を、一種の魔術的リアリズムとして読む可能性を提示する。

最後に、第一部と第二部での分析を踏まえて終章では、フレイムと大庭の諸作品におけるディスプレイスメントの修辞学が、個人の主体性の形成における場所や風景の果たす役割を思考するための空間を開くのではないかとヒル氏は結論づけた。こうしてニュージーランドと日本という離れた場所で独自の作家活動をおこなった二人の作品世界は、思いもかけない関係性をみせることになる。ヒル論文の対比研究は新たな比較文学の可能性を示すものとも考えられる。

以上のように要約されるヒル氏の論文に対し、審査委員から次のようなコメントや評価、批判がなされた。まず評価すべき点としてはテクストを丹念に読むことにより、これまでの研究に再考を促す重要な指摘をおこなったことであろう。その上で複数の委員が疑問点として挙げたのは、タイトルにもある<第三の空間>の意味である。確かにフレイムも大庭もそれぞれ「第三の場」、「第三の世界」という表現を作品中に使っているし、ヒル氏もホミ・バーバの「第三の空間」(サード・スペース)、エドワード・ソジャの「第三空間」を引用しつつ説明を加えているけれども、なお本論文で設定されているこの空間がいかなるものであるのか説得力に欠けているのではないか。このこととも関係するが、いくつかの興味深い発見のあとの論述にもう少し深まりがほしかったという注文もあった。第一部ではニュージーランドの歴史的背景への考察がもっとあるべきであろう。また第二部第三章で述べられている魔術的リアリズムは、ここにはあてはまらないのではないかという意見もあった。さらに、これは対比研究そのものの持つ難しさとも関係するが、この二人の作家を比較して論じることの必然性に関する質問も出た。

その他細かい点ではあるが、日本語表記の問題点、誤字等について指摘がなされた。これらは今後も日本語を母語としない著者が注意すべき点ではあるが、ヒル氏の論文の価値を損なうものではないことが認められた。

したがって、本審査委員会は、ここにラクエル・ヒル氏に対し博士(学術)の学位を授与するにふさわしいものと認定する。

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