学位論文要旨



No 120856
著者(漢字) 柳沢,田実
著者(英字)
著者(カナ) ヤナギサワ,タミ
標題(和) 神を欲望すること : ニュッサのグレゴリオスにおけるパトス概念の可能性
標題(洋)
報告番号 120856
報告番号 甲20856
学位授与日 2006.03.01
学位種別 課程博士
学位種類 博士(学術)
学位記番号 博総合第612号
研究科 総合文化研究科
専攻 超域文化科学専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 教授 宮本,久雄
 東京大学 教授 大貫,隆
 東京大学 教授 岡部,雄三
 東京大学 教授 北川,東子
 東京大学 助教授 中島,隆博
内容要旨 要旨を表示する

本論文は、四世紀のキリスト教教父ニュッサのグレゴリオスの思想を、pathosという概念を中心に読解し、また、その読解を通じて、この概念自体が持つ可能性について考究したものである.pathosとは、神と人間との間隙を埋める何ものかとしてグレゴリオスの思索の随所に登場する広範な意味内容を持つ概念である.それは、神の人間に対する先行的愛の発露である受肉・受難であると同時に、神の愛に対する人間側による受け容れとしての人間の可変性、諸感情でもあり、更には神の愛に対する積極的応答である欲望でもあるとされている.

グレゴリオスによれば、神は、知性的把握によっては決して捉えることはできない。しかしその神が受肉した神として到来することによって、神は人間によって欲され、愛され得る対象となる〔第一章〕。人間が神を欲望の対象とする契機は以下のように論じられている.すなわち、人間は、神をある種の形・イメージ(eidos)として捉え、その形に欲望を抱き、神に向かって超出してゆくことになる.この複数のeidosは、神の働き(energeia)であるとされる.そして、その個別的な働きを感受するものとして、人間には通常の身体的な感覚と異なると同時にそれと類似的な「霊的感覚(aisthesis pneumatike)」が備わっているとグレゴリオスは述べる.この神のeidosには、万物に潜在する神の働きも含まれるが、それ以上に重要なものとして、受肉し受難した(pathein)イエスの姿(eidos)が挙げられていた〔第二章第一節〕.十字架上で死する神を美しいものとして愛すること、しかも不断に愛し続けることこそが、人間の神への超出を可能にするのである〔第二章第二節〕.そして、この超出によって人間は神に似たものへと本性的変容を始め、本来神を映す鏡のような自らの本性を復元してゆくのだが、こうした神への変容を可能にする可変性もまた、pathosという言葉に含意されるものであった〔第一章、第二章〕.

以上のように死すべき神を愛するためのトポスを、グレゴリオスは、「幕屋」という象徴に託していた。そして本書の分析において確認されたのは、このように神の死を悼むトポスは、単一の物語連関に回収されぬまま、語り得ぬものとして留まり続けるということである〔第三章第一節〕.また、このように死すべき神を愛することは、自らの欲望や諸感情(pathos)を陶冶することを通じた神の死と復活への参与(metousia)と言い換えられてもいたが、この神の死への擬似的な参与という概念装置は、死それ自体への接近し難さという、おそらくはグレゴリオス自身の肉親の死という私的経験とプラトンの『パイドン』読解を通じて創出されたことも確認された〔第三章第二節〕.

このようにpathosは、神と人との間にまたがる中間領域を、様々な位相において埋めてゆく役割を担っていた.しかし、このことは、神と人との格差・差異が完全に埋められ得ること、あるいは両者の関係が固定的で閉鎖的な関係に尽きることを意味するわけでは決してない.本文でも述べていたように、神が把持しえない無限な存在であることこそが、人間の無限な欲望による無限な変容(epektasis)の成立根拠になっている.こうした無限な神との関わりを、グレゴリオスは友愛(philia)と呼び、父子関係よりも高次のものとして位置付けた.父子関係において人間の諸情念(pathos)は祈りとして分節化されるが、この祈りは「全てを語ること(parrhesia)」として、ある種無媒介に神に伝達されるものとして保証されている.しかし、友愛においては、人間は神に一方的に「呼ばれる」ことから始める以外にない.この友愛という関わりにおいて現れる絶対的に超越する神こそ、本論文の出発点になっている把握不可能な神、しかも先行的に愛を与える神である〔第四章第一節〕.グレゴリオスによれば、このように知性認識を超えた神を体験することは、神的光の経験を超える「輝く闇」と表現される体験でもある.この撞着的表現の意味するところとは、創造の始原の無限定性それ自体の現れを経験することであり、したがってこの「輝く闇」への到達とは創造の始原への遡及になっているのであり.人間はこの体験を経て、再び創造されることになるのだが、この再創造のプロセスへと人間を媒介するのもまた、受肉し受難する神・イエスに他ならない.こうしてグレゴリオスの神認識論は、再創造論へとコスモロジカルな展開を見せるのだが、この再創造論においても神の位相から被造物の位相へと人間を媒介としてpathos(受肉・受難)の神イエス・キリストが登場するのである.そして、このイエス・キリストによる媒介によって初めて、「目も眩むような」神体験が、人間にとって媒介可能な善として、具体的な実践を通じて(すなわち善い行いとして)第三者にも媒介可能になる、その可能性が開かれると結論付けられた〔第四章第二節〕.

以上の議論から、とりわけ思想史的観点において、明らかになったこととして以下の二点が挙げられる.まず第一に、グレゴリオスが、神的領域と被造的世界との中間領域に極めて意識的であり、両者のインターフェースで生じる複数の媒介作用・接触を語るためにこのpathosという概念を用いたという事実である.グレゴリオスの議論は、基本的にはギリシア哲学、とりわけプラトン及びその後のプラトニズムの概念を用いて展開されていた.実際pathosが様々な位相で働くとされる、神と人との間の中間領域の問題は、そのまま知性的世界と感性的世界あるいはイデアと個物をいかに媒介するかというプラトニズムが抱え続けた問いに対応している.すなわち、このプラトニズム的な問いに対して、キリスト教徒のグレゴリオスは、人性と神性を媒介するものとしては神でありながら人になったイエス・キリストを、知性的美と感性的美を媒介するものとしては神の働きや人間イエスによってもたらされる様々なイメージ(eidos)を、そして魂と身体を媒介するものとしてはキリストに対して抱かれる人間の感情や欲望等を、全てpathosという言葉のもとに導入したと考えられるのである.しかもそれはしばしば「傷」「刻む」という比喩と併せて語られていたように、単に間を繋ぐというよりは、むしろ直接的で無媒介な接触として捉えられるべきものであった.

第二に重要なこととして、グレゴリオスの議論においては、規定性・限定性としての視覚的形相が第一義を占めるプラトニズムの秩序が、明らかに転倒しているという点が挙げられる.むしろ限定・規定性によっては捉えきれない事態こそがpathosという概念の下に主題化されていたのである.このようにプラトニズムにおいては否定性でしかないpathosという概念がグレゴリオスによって重用された理由として考えられるのは、彼が当時直面していた時代的要請である.グレゴリオスは、ニカイア公会議の信条「子は父と同一本質である」の熱心な擁護者であり、子であるイエス・キリストの神性のみを認める単性説を積極的に批判する立場にいた.つまり、神が完全に人になったということを説得的に示すために、グレゴリオスは、人性の持つ可変性、弱さ、可死性といったもろもろの諸性質をpathosに担わせつつ、あえて同じ言葉で神の受肉・受難について論じたと考えられる.

以上のように展開されたグレゴリオスのpathos概念の可能性を、より開かれた射程において意義づけるならば、それは、pathosの直接性や無媒介性に見出される.グレゴリオスは、愛の矢の比喩によって、人間が、神の愛/pathosに傷つくことで、それを「直ちに」愛してしまうという、いわば愛/pathosの転位のプロセスについて論じていた.この無媒介性を支持する基盤となるのが、インターフェースとしてのpathosである.この人間の応答的な愛には、不可避的に、神以外のものへのあらゆるpathosの棄却・犠牲が付随するとされるが、この人間の犠牲を要請する神の受難もまた、言うまでもなく、神の自己犠牲に他ならない.以上から導きだされるのは、犠牲は、他者の犠牲をごく私的に受けることによって内発的に生じる実践以外にはあり得ず、犠牲とする対象は自己以外のものではあり得ないという結論である.この単純な結論は、しかし、犠牲とは決して第三者に媒介し得ないという結論を導き出すのではないだろうか.徹底した二者関係においてのみ愛と自己犠牲は一体をなす.グレゴリオスのpathosが示すのはこのような愛/犠牲だと考えられる.

グレゴリオスが描き出した愛とは、他者である神の自己犠牲である受難(pathos)を美しいものとして感受し、その美しき犠牲への応答として、自らを犠牲にしながら他者を愛するというpathosの実践であった.第三者に媒介不可能なこの犠牲/愛は、媒介された瞬間即座に、加虐的であれ被虐的であれ、ある種の暴力と化す.昨今、犠牲の問題はとりわけ宗教との関係では、極めて否定的にしか論じられないが、こうした事例はまさに第三者によって媒介された、既に暴力へとスライドした犠牲であるように思われる.犠牲をとりまく上記のような言説に対して、グレゴリオスの第三者に媒介不可能なpathosの転位の問題は、犠牲/愛が成立し得るトポスについての、より繊細な理解を可能にするだろう.〔了〕

審査要旨 要旨を表示する

柳澤さんの研究は論文題目「神を欲望すること―ニュッサのグレゴリオスにおけるパトス概念の可能性―」に示されているように、四世紀のギリシア教父ニュッサのグレゴリオスにおけるパトス・欲望概念の分析を通して神認識論を考察することにある。その場合、グレゴリオス自身がヘブライ・キリスト教と、プラト二ズムを主流とするギリシア思想という二つの異文化の出会いを、新たな思想・文化に止揚した一つのパラダイムと成っている。そうである以上、本研究は今日まで欧米さらには欧米文化の影響下にある日本にとって根源的な巨大な異文化の邂逅に関する稀有な比較研究となっていると言えよう。

本論文の結構は四章構成で各章は二節構成である。序では如上の研究目的とギリシア語テキスト解釈の方法論を述べ、読者の便宜のためパトスが有つ四つの意味(可変性、死を含む身体的蒙り、諸感情などを含む魂の蒙り、悪しき情念)が予示される。それを踏まえて、第一章の主旨では、無限な神が有限な人間の認識を不断に超出し続けるゆえ、その認識論的限界の拓開の可能性はパトスに拠ると言う。というのも、パトスはpathein(他者から蒙る)という原義に由来し、他者(例えば神)からの誘発という人間の根源的受動性を意味する。そこに神を欲望することは人間存在の無限前進(エペクタシス)と成る。続く第二章では、人間的欲望を無限に誘発する神が美とされ、その美の誘発を感受する人間存在の感受性が身心合一的霊的感覚として示される。さらにその美が一般的快・感覚的美醜を超えたイエスの受難(神のパトス)として理解され、従って霊的感覚は他者の死を美として感受する。そこに神人イエスの受難に応える人間のパトス、すなわちシュンパテイア(共苦)が成立する。第三章に到るとこの人間のシュンパテイアが、人間に受肉した神イエスの死に対して「喪」を営み続ける愛として示され、このイエスへの喪的愛の参与が、人間の諸他の情念(パトス)的欲求からの浄化(カタルシス)であり、不受動心(アパテイア)の徳を形成することが考察される。そこにイエスを媒介にした無限の超越者・神との関わりが友愛として成立する。さて第四章では、イエスの受難が自分とは別な他者でなく、自分自身を犠牲として捧げるという犠牲であり、人間が喪を通してイエスの受難に参与することはこの犠牲に参与すること、愛には自己犠牲を伴うことが明らかにされる。こうして一般的な感覚美への欲望は、ここで自己犠牲的受難の美への愛として倫理的次元へ転位するわけである。

以上のような論述を通して通常日本人の思考にとって疎遠な「神への欲望」という形而上学的テーマが、欲望(パトス)の丁寧な分析によって倫理的美学的な他者問題として解釈学的に転位されている。その解釈がギリシア思想とヘブライ的思想との困難な比較研究を通じ、さらにギリシア語テキストに対する綿密な分析を通じなされている営為は、柳澤さんの本論文が有つ卓越した第一の特徴を成すと思われる。

次に本論文がもたらした新しい思想的文化的知見を第二の特徴として、存在論、認識論、美学、人間論、倫理上の諸点に分けて挙示した。

存在論的視点で柳澤さんは「神の降下」に着眼し、絶対的不動的存在観に対してヘブライ的な動的で自己超出的存在(例えば受肉)をまず剔抉する。それはギリシア的な本性(physis)に可変的性格を導入することであり、それは従来可変性や女性性の原理とされて無視されてきた質料概念を活性化し、変化・変容の視点を強調することに連動している。そうすると種的不変の原理である規定的形相性よりも変化を誘発し続ける「無限」概念が質料と共に存在論の中枢に用いられることになる。一見抽象的と見える以上の存在論的な新視点は以下で重大な諸帰結を生み出す。

認識論的視点では、無限は対象化できない以上、神的存在に対しては視覚的知覚や知性的対象認識よりも、意志的エロス的アガペー的な広義の「欲望」が強調されることになる。それは同時にギリシア的視覚文化よりもヘブライ的な音声的聴覚的文化の性格を際立たす認識論的転位を促す。

如上の認識論と人間論をからめて語れば、質料の強調が人間の身体性の尊重をもたらす以上、神的存在や精神的存在の感受における身心融合的な認識「霊的感覚」という地平がここに拓かれる。従来の身体的感覚対知性・理性という対比図式がここに崩れて、他者認識は今や全的人間の実存に拠ることになる。これを美学的視点からすると、調和や適合というロゴス的なギリシア美学のカテゴリーに対して、受難(パトス)の美学が先述のように倫理性を伴って成立するわけであるが、その美学を支えるのは「霊的感覚」なわけである。

倫理学的視点からすると「神を欲望する」といういわば超越論的で神秘主義的なテーマは、如上の受難の神・自己犠牲の美に対する愛・シュンパテイア(共苦)という欲望の転換を経て、他者との関係構築という倫理的地平を披いてくる。その倫理的地平では、死や喪の価値が新しく浮彫りにされ、死者への喪の持続が他者を犠牲にしない自己犠牲という倫理の源泉として語られるのである。それは、他者を自分のために犠牲にする権力に対する告発でありかつ変革的倫理となる。

以上のように柳澤さんは、ギリシア思想や西欧思想一般に対してヘブライ・キリスト教を血肉としたグレゴリオスの思想的文化的な拓けを独創的に示したと言える。

このように倫理的共存を、神という超越的無限存在から引き出す本論文は、倫理的宗教的文化的対立抗争の中で混乱した倫理に対して新しい倫理的実験とも呼べる内容を有つ。

以上のような独創的知見にあふれた本論文の審査において諸審査員から次のような質問と研究上の意見が寄せられた。

第一に、論文後半に強調される、死すべき神を美と感受し彼の喪に服すという極限的二者関係(美学)と論文前半で強調される他者の複数性(倫理学)が簡単につながらないこと、これはE・レヴィナスにおける顔と「わたし」との局所的関係と第三者を加えた正義の協働態とが簡単につながらない程問題性を秘めていること、それが今後の大きな研究課題になると指摘された。

第二にパトスが大前提となっているが、それは人間生来の能力なのか、あるいは外部から人間の生に与えられる贈与ないし衝撃なのかとの問いがつきつけられ、さらにパトスと陶冶との関係が問われた。第三に新プラトン主義やグノーシス主義ではパトスが克服されるべきものであるのに対し、グレゴリオスにあっては神認識論の中に情念論的身体論的タームが積極的に活用され、当時の知の体系を転換していると指摘され、この問題性の今日的深化が勧められた。それに関連して歴史的身体性の考察および研究の必要性も指摘された。最後に喪と共に誕生も同時に考慮されるべきだとの指摘があった。

以上の諸意見や問題性の指摘にも拘らず、審査員一同は本論文全体の独創性やテーマの深い考察および前例をみない思想史文化史上の問題提起などに関して全き意見の一致を見た。

したがって、本審査委員会は柳澤さんに博士(学術)の学位を授与するにふさわしいものと認定する。

UTokyo Repositoryリンク