学位論文要旨



No 120858
著者(漢字) 三澤,真美恵
著者(英字)
著者(カナ) ミサワ,マミエ
標題(和) 植民地期台湾人による映画活動の軌跡 : 交渉と越境のポリティクス
標題(洋)
報告番号 120858
報告番号 甲20858
学位授与日 2006.03.01
学位種別 課程博士
学位種類 博士(学術)
学位記番号 博総合第614号
研究科 総合文化研究科
専攻 地域文化研究専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 教授 若林,正丈
 東京大学 教授 村田,雄二郎
 東京大学 助教授 矢口,祐人
 東京大学 教授 刈間,文俊
 東京大学 助教授 瀬地山,角
内容要旨 要旨を表示する

同じく日本の植民地下にあった朝鮮半島や、「半植民地」「次植民地」と評された中国では民族資本による映画製作が産業化したにもかかわらず、植民地期の台湾における民族資本による映画製作は実験的な試みにとどまり終に産業化しなかった。いわゆる「抗日」映画を製作することのなかった植民地下の台湾人による映画史は、戦後台湾において「奴隷化」された声なき者の歴史、語る価値のない歴史として長らく等閑視されてきた。

いっぽう、植民地期台湾に生まれた台湾人のなかには、植民地支配を脱し中国へと越境して映画人として活躍した劉吶鴎や何非光のような者もいた。ところが、劉吶鴎は日中戦争期の上海で日本軍の映画統制に協力したことにより「漢奸」とみなされて暗殺され、何非光は日中戦争期の重慶で国共両党の合作下、「抗日」映画を監督するものの、戦後は国共の双方から「裏切り者」として不断に断罪され記憶の対象から除外された。越境して活躍した台湾出身の映画人もまた、「抗日」的であったか否かに関わらず、植民地下の台湾の映画人と同様に、戦後東アジアにおいて長らく忘却されていたのである。

では、中国へ越境し映画界で活躍した植民地台湾出身の劉吶鴎や何非光は、なぜ生まれ育った植民地台湾では映画人となりえなかったのか。言い換えれば、なぜ彼らのような映画人が植民地下の台湾で出現しなかったのか。また、彼らの映画活動は、なぜ「裏切り」行為として汚名化され、忘却されることになったのだろうか。

以上の問題意識を出発点として、本論文は、植民地期台湾人による映画活動の軌跡を調査・分析することを課題としている。その際、被植民者たる台湾人としての生い立ちや身分、映画というメディアの特質が、個人の思想や生き方の違いを超え、彼らの活動を構造的に規定していたのではないか、というのが、分析を開始するにあたっての見通しのひとつであった。

論述にあたっては、植民地期台湾の歴史記述をめぐる現況にいかに応答するかということも意識された。なぜなら、植民地期台湾の歴史記述をめぐっては、きわめて深刻な問題状況が存在しているからである。すなわち、日本、中国、韓国などにおいて戦争や植民地支配について批判的な言説ですら、「国民国家の枠組み」において台湾や台湾人の歴史を周縁化してしまうという状況、そうしたなかで排外的な日台のナショナリズムが結びつき植民地支配の暴力的な側面を軽視するような状況である。こうした問題状況にいかに応答するかという関心から、次の二点を意識することにした。まず、第一に、発話者が日本人であると台湾人であるとを問わず、植民地支配を肯定するために強調されているのが、「植民地下において近代化が進展し、被植民者もまたそこに主体的に参加した」という文脈であることから、近代を追求する被植民者が直面していた抑圧的な諸側面について、その実態を具体的に示すこと。第二に、戦争や植民地支配について批判的な言説ですら、それ自身のナショナリズムによって抑圧され、国民国家の枠組みにおいて周縁化された地域・住民の被害を黙殺する場合があるという事態に鑑みて、帝国主義や植民地主義を批判するにはナショナリズムのもつ抑圧的な側面をも批判の射程に入れるということである。

以上の二点に留意しつつ被植民者による映画活動の軌跡を考察するにあたり、本論文で分析概念として用いているのが「交渉」と「越境」である。ここでの「交渉」とは、被支配者が自らの主体的な活動領域を拡大するために直接・間接に支配的な権力と接触する「かけひき、談判」などの行為を指し、「越境」とは、国家間あるいは植民地−植民地本国間などの地理上にひかれる境界を越えることのみならず、ナショナリズムやイデオロギーによって想像上にひかれる「我々」と「彼ら」との境界を越えることをも含意している。

なお、論文題目に「映画活動」という用語を用いているのは、本論文においては、映画がもつテクストとしての側面よりはむしろ、映画をめぐるコンテクストのほうに比重をおき、そこにかかわる諸活動を分析対象とすることを明示するためである。それはまた、映画が巨大な資本と流通システムを必要とする大衆娯楽産業であり、それゆえにこれを自ら製作ないし配給・上映しようとする場合には、文学のように個人で密室的には行うことができず、公的な権力や社会的な組織とかかわらざるを得ないという構造に着目することでもある。そして、ここにこそ、被植民者が映画という近代を追求しようとするときに、「交渉」や「越境」を迫られる要因があったといえる。したがって、「映画活動」とは、映画をめぐって個人が主体的に行う活動が、社会の構造的な問題によって規定されるような局面、言い換えれば、個人のレベル、社会のレベルに偏在する権力関係を見ていくのに適合的な領域といえる。副題にある「ポリティクス」とは、そうした偏在する権力関係を指す用語として使用している。

本論文の構成は、序章と結章を除き、3章で構成されている。第一章では、植民地台湾における映画をめぐるポリティクスを資本主義産業としての映画の普及、植民地権力による映画統制、台湾人による映画受容の特徴などの側面から調査・分析している。第二章と第三章では、中国大陸へ越境した劉吶鴎と何非光の映画活動を、植民地台湾出身者であるという生い立ちや身分に焦点をあてながら、調査・分析した。

以上の検討を通じて、まず明らかになったのは、被植民者たる台湾人が主体的に映画という近代に参加しようとしたとき、そこには交渉か越境か、二つの道しか残されていなかったということである。巨大な資本とシステムを必要とする映画というメディアの特質ゆえに、映画活動は「合法的」な活動のなかにとどまらざるを得ず、植民地下で活動を展開する場合には恣意的な「法」の下、圧倒的に不利な形で支配者と交渉せざるをえなかった。そして、そうした交渉の限界を突破するものとして目指されたのが、越境である。しかし、越境先においても、巨大な資本とシステムを必要とする映画を追求しようとする以上、映画活動を行う当該地域における支配的な政治権力との交渉は避けられなかった。

しかし、いっぽうでは植民地期の台湾総督府、南京政府期の国民党など為政者による映画受容空間の掌握は必ずしも常に支配的ではなかったことも明らかになった。すなわち、大衆の支持による商業的な映画市場が拡大した場合、為政者による映画統制が相対的に掌握力を失う場面も確認された。つまり、映画を追求する個人が支配的な政治権力から相対的に自律した形で活動を展開しうる契機は映画受容空間における「大衆の支持」にあったといえる。しかし、植民地下の台湾、日本軍に占領された上海、日中戦争下の重慶などの各地域においては、民間映画産業が停頓し、映画受容空間が政治権力によって強力に掌握される状況が出現した。そこでは、映画製作が必要とする巨大な資本もシステムも、支配的な政治権力との交渉を抜きにして入手することは困難だった。

本論文が二章と三章で焦点をあてた二人の植民地台湾出身の映画人の場合も、上海にあった劉吶鴎は日本軍という政治権力と交渉し、重慶にあった何非光は対立しつつ合作する国共両政党の政治権力と交渉することになった。巨大な資本とシステムを必要とする映画を通じた自己表現という主体化は、政治権力に対する従属化を必然的に伴ったのである。もちろん、映画を通じた自己表現による主体化と従属化は、被植民者たる劉吶鴎や何非光に限ったことではない。しかし、その交渉と越境の過程において、劉吶鴎の場合は日中ナショナリズムの間、何非光の場合は国共イデオロギーの間という「はざま」を生きることを迫られたのは、彼らが植民地台湾においても、植民地本国たる日本「内地」においても、また「祖国」中国においても、当然には「国民」に統合されない被植民者であったからにほかならない。その結果、劉吶鴎は日中ナショナリズムの境界を日本の側へ越境したことで暗殺され、何非光は国共イデオロギーの境界を国民党の側へ越境したことで戦後中国大陸において断罪され、台湾海峡という境界を大陸の側へ越境したことで戦後台湾において記憶の対象から除外されることになった。

したがって、本論文の問題意識に立ち戻るならば、中国へ越境し映画界で活躍した植民地台湾出身の劉吶鴎や何非光が、生まれ育った台湾では映画人として活躍することができず、また劉吶鴎や何非光のような映画人が台湾という植民地に出現しなかった背景には、台湾の映画市場が植民地権力による統制から自由にはなりえず、交渉のもとで展開された映画製作も植民地権力から自律的になる契機すなわち「大衆の支持」を十分に獲得することができなかった、という事情があったことがわかった。さらに、劉吶鴎や何非光の足跡から、映画活動における彼らの「主体性」は、個人の思想や生き方によってのみ規定されていたとはいえず、各地域における映画をめぐる構造レベルのポリティクスによって規定されていた事態も明らかになった。とりわけ、抗日ナショナリズムという観点からは全く正反対とみなされるにもかかわらず、彼ら二人が同様に「裏切り者」として断罪された事実は、植民地主義や帝国主義のみならず、「国史」的な記述においては解放の契機と考えられるナショナリズムやイデオロギーも、被植民者たる台湾人、すなわち「いずれの地域においても当然には国民たりえない」彼らを抑圧する側面をもっていたことを示しているといえよう。

審査要旨 要旨を表示する

本論文は、1920年代から40年代にかけて中国の上海、南京、重慶などで活動した劉吶鴎(1905-40年)と何非光(1913-97年)という二人の、ごく最近まで「忘却」されていた植民地台湾出身の映画人の映画活動の軌跡を、その「忘却」と「想起」のポリティックスも含めて、現時点の資料条件において可能な限り克明に描き出した東アジア映画史研究の力作である。

論文は、論文本論A4版207頁(400字詰原稿用紙換算約730枚、脚注を含む)で、序章と結章を含め全5章で構成されている。注は文献注も含む形で脚注として付されている。また、本論の理解を助けるため図表計12点が本論中に挿入され、巻末付録として、劉吶鴎と何非光のそれぞれの関連年表および「参考文献リスト」が付されている(全20頁)。

著者によれば、中国国民党版の「国史」においても、中国共産党版の「国史」においても、植民地台湾の映画史は、被植民者である台湾人による一本の「抗日」映画も生まなかったものとして長く等閑に付されてきた。加えて、植民地支配の束縛を逃れて中国にわたり活動した台湾出身の劉吶鴎や何非光の映画活動も、それぞれの「対敵協力」の汚名の故に、政治的に造成された忘却が長く維持されてきた。すなわち、劉吶鴎は一旦南京国民政府下の機関で映画制作に従事しながら日本占領下の上海に舞い戻って活動し「漢奸」として暗殺され、何非光は抗日戦時期の重慶において監督した「抗日」映画が高く評価されながらも同時期末期に国民党に入党したことをもって共産党政権に断罪され、一切の映画活動を認められなかったのであった。本論文は、いわばその「失われた映画史」を掘り起こそうという試みである。

序章(「『失われた映画史』をもとめて」)は、その掘り起こしのための視角を提示している、本論文の副題に言う「交渉と越境のポリティックス」である。映画は一定規模の資本、制作組織、流通組織を必要とする文化的営為であり、作品の制作・流通のため何らかの形で公的な権力と社会組織とに関係を持たざるを得ない。このため、映画人は資源を求めて社会組織と渡り合い、作品上映によって大衆の支持獲得に努めるとともに、直接間接に公的権力とのかけひき、談判などの接触を行い、合法的な空間を確保しなければならない。これが「交渉」である。しかし、植民地下では被植民者にとってこの「交渉条件」は構造的に極めて不利である。「交渉」を経て被植民者が映画活動における主体性を貫ける空間は乏しく、そのため新たな活動の空間を求めて「越境」を試みる映画人が登場することになる。植民地出身の映画人にとって植民地の境界の外に活動空間を求めることが第一義的「越境」であるが、越境した先でも新興のナショナリズムやその内部のイデオロギーを体現した諸権力との「交渉」が待っており、その成否によりさらに異なる性格の「越境」が試みられることになる。そしてそれらの越境先にも植民地主義・帝国主義は干渉の手を伸ばしてくる。著者は、劉吶鴎、何非光という植民地台湾出身の二人の映画人の映画活動の軌跡をこのような錯綜し重層する「交渉」と「越境」のポリティックスの視点から脈絡づけることによって、「失われた映画史」の復元が可能となり、そこに、東アジアにおける植民地主義、帝国主義、ナショナリズム、そしてナショナリズム内部のイデオロギー的対立の錯綜し重なり合う抑圧や暴力の構造が浮き彫りになるとする。

第一章「台湾−−植民地台湾映画人の交渉」は、植民地台湾における映画の普及、統制、受容の展開と様態を検討して、台湾の被植民者映画人にとっては台湾総督府との「交渉」によって確保し得た主体的映画活動の空間は極めて限定されたものであり、劉吶鴎、何非光のごとき「越境者」が登場する背景を示そうしている。本章の植民地台湾における映画の普及、統制、受容のあり方の把握は、創見に富む。映画の普及については、営利・非営利の別、活動形態(常設館か巡回か)、主催者の日本人・台湾人の別、使用言語の日本語・台湾語の別、対象とする観客が日本人か台湾人か双方かの別によって、普及の経路を分け、それぞれに異なった統制と受容のあり方が現れたとする。当局による統制については、当局にとっての負の要素を削減する消極的統制と正の要素を増そうとする積極的統制(宣伝工作)に分けて、普及・受容のあり方と関連づけて論じる。受容については、被植民者台湾人を観客とする受容経路において、無声映画時代はもちろんトーキー時代になっても、映画の使用言語(日本語台詞及び洋画の日本語字幕、輸入中国映画の中国普通語台詞)と消費者大衆の言語(台湾語)との距離の故に、台湾語弁士が消えることなく存在し、その弁士の翻訳的というよりは解釈的な台湾語解説を通じて映画が受容されたため、台湾人制作による台湾語映画でなくても大衆は擬似的に「自分たちの映画」として受容してしまうという状況が発生した。著者はこれを外来映画の「混成的土着化」の現象と呼んでいる。この用語にはやや誤解、混同を招きやすいところがありまだ工夫が必要と思われるが、著者は、植民地台湾大衆の映画受容においてこうした状況が生じたため、台湾総督府の強い規制と相まって、植民地的台湾では民族資本の映画産業の成長が抑えられたと見る。すなわち、こうした受容のあり方は、一面日本映画を通じた「積極的統制」への抵抗を内在するものであるが、同時に民族資本の映画制作の制約条件ともなって、台湾人映画人の「交渉力」を低下させたからである。それはまた植民地台湾映画人の「越境」への衝動を促すものでもあったのである。序章の最後に、著者は「植民地台湾における台湾人の映画活動の足跡は、映画という近代への強い憧れに突き動かされながら交渉と越境を繰り返した、挫折の足跡」であり、劉吶鴎と何非光とはその象徴的存在であると総括して、次章以下への橋渡しとしている。

こうして、第二章では劉吶鴎の、第三章では何非光の映画活動の軌跡が具体的にたどられる。いずれの章においても、中国国民党政権の映画政策の実態と中国共産党の潜在的政治権力を文化界において代表していた左翼文化人の動向とを、前者は一次史料からの著者自身による実証をも試みつつ、後者については比較的厚い先行研究の成果に多くを依拠しつつ、具体的に論述した上で、これらに引照しつつ、劉吶鴎と何非光の上海、南京、重慶などにおける映画活動を、「越境」と「交渉」の視角から脈絡づけていく、すなわち、それぞれの「越境」や「交渉」の様態の提示、行動の動機の探求していく、という手法がとられている。劉吶鴎についてはその監督作品がまったく実見できない状況なので、実作からの論究が行われるのはかろうじて一部作品の実見が可能であった何非光のみである。

第二章では、劉吶鴎の漢奸として暗殺されてしまうまでの三段階の越境と交渉の経緯と様態が示される。植民地台湾から「帝都」東京留学を経て、「非国民国家的空間」であった上海への第一の「越境」とそこでの文学・映画活動、上海から南京の国民党政府経営の映画スタジオスタッフへの第二の「越境」とそこでの映画制作、ついでその南京から日本占領下上海に舞い戻る第三の越境と漢奸として暗殺されてしまうまでの「交渉」である。著者は「国旗を胸の底に持っていない、悲しい人の気持ちを僕は知っている」との劉吶鴎自身の言葉を強く引証しながら、台湾南部の裕福な家に生まれ育ち植民地的な抑圧と暴力の場面を「静観」できる立場にあったにもかかわらず劉吶鴎が抱えてしまった植民地支配によるトラウマが、ナショナリズムに自己同定していかない(それが「祖国」に向かうものであれ)、自分はいずれの国民国家にも帰属し得ない人間であるとの自己認識の形をとっていたとして、第二、第三の「越境」も、彼にとって「目で食べるアイスクリーム、心で座るソファー」である大衆娯楽としての映画制作の空間と資源を求めての、非政治的な動機からの、いわば「純映画的な」越境であったと分析する。だが、それぞれその前段階での越境先で活動をともにした陣営からすれば彼の越境は極めて政治的な越境、甚だしくは裏切りであったのであり、それゆえ「漢奸」として暗殺されるという最後を迎えたのである。しかし、「漢奸」として暗殺されたということは、劉吶鴎が中国での活動において中国人として振る舞っていたからであり、一方日本当局が彼を占領下上海での映画統制に利用しようとしたのは、まさに彼がそのように振る舞える、日本国籍を持つ台湾人であったからである。

第四章は、何非光の植民地台湾から上海への第一の「越境」とそこで悪役俳優(ブルジョワ的二枚目悪役および日本軍人役)として一定の成功を治めるまでの「交渉」、台湾にいったん帰還を余儀なくされた後東京を経て重慶入りする第二の「越境」とそこで「抗日」映画監督として成功するに到る過程での「交渉」、国民党・共産党関係の変化の影響が重慶文化界に波及する状況の中での国民党入党という第三の政治的「越境」、そしてそれに災いされた共産党政権下での長い「忘却」とその後の「想起」のプロセスを論じている。劉吶鴎と違い何非光は成長の過程で家族や自身が植民地当局からの直接の抑圧(植民地警察の迫害による兄の死、台中一中でのストライキ参加と中途退学)の経験から、中国への越境に際しては「祖国」に自己同定していくナショナリズムが存在した。しかし、植民地台湾出身者であることは最後まで何非光につきまとったと著者は指摘する。上海で悪役俳優として成功できたのは、中国人観衆にとっての「他者性」が身体に刻み込まれていた(日本教育を受け日本語と日本人的所作が可能である、東京の生活を経験して都会モダンボーイ的振る舞いが可能である)からであり、「抗日」映画監督として重慶で成功できたのは東京で学んだ映画技術に加えて、当時重慶にいた日本兵捕虜を有効に題材とできるような「日本」に関する事柄を処理し得る文化的スキルを植民地支配下に生まれ育ったことによって否応なく身につけていたからである。

加えて、実見可能であった何非光監督作品の分析から、著者は何非光の「抗日」映画が、劇中の日本人を単に中国ナショナリズムの敵として排除されるべき存在の符号としてではなく、「顔のある他者」として描く語りを行っていると指摘し、ここに悪役としての成功から一貫する何非光の「他者性を刻まれた身体」が見いだせると主張している。そして「解放」後の「忘却」が重慶時代からの左派文化人との公私にわたる摩擦が直接的原因としつつも、このような「他者(敵)にも顔がある」という何非光監督作品の語りが、それに対する容認が「解放」後において事後的に当時重慶において指導的立場にあった左派文化人の政治的負担になり得た(台湾人何非光の「日本コンプレックス」を容認した)という意味で、「忘却」(実は政治的迫害)の間接的原因であったろうと論じている。

結章「交渉と越境のポリティックス」では、著者は、それまでの議論を要約した上で、劉吶鴎や何非光が「越境」した時点での上海には、映画人の「交渉力」の基盤となる「大衆の支持」獲得の可能性が残っていたが、両者が再越境していった日本軍占領下の上海、抗日戦争の「大後方」となった重慶においては、映画製作が必要とする資本・組織、さらには受容空間までもが、支配的な政治権力の直接の支持がなければ確保できない状態にあったことを再度強調し、劉吶鴎と何非光は、かれらが「祖国」においても(植民地支配本国である日本「内地」においても)当然には「国民」に統合されない植民地出身者であったことにより、劉吶鴎は日中の狭間に、何非光は国共の政治的イデオロギー的狭間に、政治権力への従属を深めつつ、映画を通じた自己表現の場を求めざるを得なかった、それ故に、劉吶鴎は日本側に越境したことによって暗殺され、何非光は国民党側に越境したことによって断罪され「忘却」された、劉吶鴎と何非光の「越境と交渉のポリティックス」からはナショナリズムのいわゆる「自信に満ちた記憶」は立ち上がってこないものの、彼らが映画という近代を、文字通り命がけで追求したという一面の史実は残るのだ、と結論している。

以上が本論文の概要であるが、本論文の最大の貢献は、日本、中国、台湾においてそれぞれの歴史的、政治的理由によって、取り上げられることが無く、にも関わらず、それなくしては東アジア映画史の輪郭を描くことが困難であるような劉吶鴎と何非光という二人の映画人の映画活動の軌跡を、現時点で活用しきれる限りの多元的な史料・資料を博捜し、それらを立体的に用いることによって描き出したことである。劉吶鴎、何非光研究にとっての最大の資料的制約は、両者の監督作品が必ずしも十全に鑑賞・分析できない(特に劉吶鴎作品は全く見れない)ということである。このため、著者は、論述の焦点を「映画活動」の定め、徹底的にそのコンテキストにこだわるという方法をとった。だが、この方法は単に資料的条件の制約を回避するというに止まらない意義を有している。この方法は、映画という社会性の高い表現活動の性格から一面論理的に必然とされるものでもあり、また、テクストとしての作品鑑賞・分析が容易な状況における研究がややもすれば関連する史実についての入念な追跡・確定を怠り印象批評の羅列に陥りがちであるという流弊を避け、東アジア映画史のミッシンリングをつなげていく上で、有効且つ不可欠の方法である。審査委員会は、本論文において著者がこの方法を成功させていること、そのことによって、既存の植民地台湾映画史研究、現代中国映画史研究にも、今後の研究者が無視できない重厚な問題提起を行っているものと高く評価した。

細かい語句やレトリックの問題点の他、審査委員会において論議が集中したのは、それぞれに豊かな実証的内容を有している各章の関連づけの問題であった。審査委員から出されたコメントは、(1)植民地台湾の映画状況と一方で国民国家の体裁作りが進みながら「半植民地」的状況が残存している中国大陸の映画状況との対比とこれを把握する方法の上での関連づけにやや不十分な点が見られた。(2)植民地主義、帝国主義、ナショナリズムの折り重なる抑圧という構造の中での劉吶鴎、何非光の共通性の描出を持って、両者を繋ごうとする傾きがあるが、しかし、映画活動との関わり方から見ると、劉吶鴎は理論家・制作者として、何非光は俳優として自己の「身体」を使用してこれとかかわったという大きな違いがある。この違いにより自覚的に対処することによって、全体の組み立てはいっそう立体的なものになったのではないか。この他、(3)1930年代中国のナショナリズムや映画状況にはなお未定型な部分や混沌の状況が存在した。その中に劉吶鴎と何非光に明確に位置づけようとする余り、ナショナリズムや映画状況の把握にはやや図式的に感じられるところもあるとの指摘もなされた。ただし、学界における研究の現状に照らせば、これらはやや望蜀の望みであることも同時に指摘された。

しかし、上記のような問題点も本論文の価値を損なうものではない。本論文は東アジア映画史研究の大きな成果であり、一定の修正を経て公刊されるなら、関連分野の研究を着実に前進させる業績となるものと考えられる。よって、審査委員会は、本論文の査読および口述試験の結果により本論文提出者が博士(学術)の学位を授与するにふさわしいものと認定する。

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