学位論文要旨



No 120864
著者(漢字) 吉田,明弘
著者(英字)
著者(カナ) ヨシダ,アキヒロ
標題(和) 変性剤勾配ゲル電気泳動法と多次元尺度法を用いた海洋細菌群集組成に関する研究
標題(洋) Studies on marine bacterial community structure using denaturing gradient gel electrophoresis and multidimensional scaling,
報告番号 120864
報告番号 甲20864
学位授与日 2006.03.01
学位種別 課程博士
学位種類 博士(農学)
学位記番号 博農第2940号
研究科 農学生命科学研究科
専攻 水圏生物科学専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 教授 木暮,一啓
 東京大学 教授 渡部,終五
 東京大学 助教授 渡邉,俊樹
 東京大学 助教授 浦川,秀敏
 東京大学 助教授 佐藤,弘泰
内容要旨 要旨を表示する

微生物は通常、共通の遺伝子を持つ他の細胞と共存し、個体群を形成している。個体群もまた他の個体群と相互作用を行いながら群集を形成している。

生物の維持と増加には物質とエネルギー源の供給が必要であり、それぞれの化学的環境はそれを利用する微生物の種類を規定する。また、供給された物質とエネルギー源は細胞内の一連の化学反応により使われ、最終産物が細胞外に排出される。こうした排出はその場の化学的環境を変えるとともに、群集構造自体をも変化させる。化学反応の速度は温度などの物理的条件に依存するので、細胞の増殖も物理的な条件に左右される。

このように、海洋の細菌群集構造はその化学的、物理的環境によって規定されると同時に、生物間の相互作用を反映している。微生物の群集構造の解明はこうした生物と環境との統合的理解に必須の基本情報と言える。

群集構造の解明の条件は、第一に全ての個体群を把握できること。第二に定量的であること、第三に個々の種変動ではなく全体の変動を何らかの形で数値化し、把握できることである。こうした条件を考慮すると、培養に依存する方法は全体のごく一部しか把握できないので、適当でない。従って培養によらないいわゆる分子生物的な方法の利用は必須である。分子生物的方法にも様々あり、主要には三つがあげられる。まず、クローンライブラリー等を用いた網羅的解析で、近年報告されたメタゲノム解析もこれにあたる。これらの方法は第一、二番目の条件を満たすことができるが、解析にかかる時間、費用、手間が多大であり、第三の目的に対しては現実的でない。2つ目は蛍光in situハイブリダイゼ−ション法等の遺伝子ハイブリダイゼーション法を用いた微生物群集の現存数解析であり、個々の細胞を顕微鏡下で直接識別、計数するために、第二、三番目の条件を満たす。しかし、これで把握できる群集の範囲はプローブに依存しており、現実には例えばg-Proteobacteria のように、極めて大きな範囲、または特定の個体群のみの検出のように極めて狭い範囲での把握しかできない。一方、変性剤勾配ゲル電気泳動法(DGGE)や末端制限断片長多系法(T-RFLP)等のフィンガープリンティング法は微生物群集の遺伝的多様性を見ることができ、群集組成の空間的多様性や時間的変動を見るのに適している。中でもDGGEは得られた結果から直接遺伝情報を解析できるため、上記の三つの条件をかなり満足させうる。しかしそれぞれの条件については体系的な検討が必要であると判断される。

第三番目の条件を満たす解析手段としてバンドパターンを解析する手法は最も適していると考えられる。中でも多次元尺度法(Multi Dimensional Scaling、MDS)は群集組成の変化を二次元座標上の点の位置で視覚的に捉えることができ、微生物群集組成の動態解析にとって有用な解析手法であると考えられる。

本研究では、代表的ないくつかの環境要因による微生物群集組成の動態をDGGE-MDSによって解析し、群集組成の変化のプロセスを知ることを目的とした。この目的を達成するにあたり、まずDGGE法の検討を行い、上記の条件を満たすような解析法を体系的に確立した。第二に、この方法を化学的条件の異なるメソコズム中の細菌群集に適用して群集構造の変化を連続的に追跡し、どのような要因がその変化に寄与するかを明らかにした。第三に、海洋の鉛直的な群集構造の変化に着目し、それがどのような条件に応じて変化するのかを真正細菌、古細菌のそれぞれについて解析を行った。

DGGEの標準化

DGGE-MDSにおける標準化を細胞濃縮、DNAの抽出、PCR、DGGEの項目において行った。細胞の濃縮は濾過装置を作成し、濃縮にかかる手間と時間を大幅に削減することができた。DNAの抽出は複数の手法の検討を行い回収率、群集ごとの抽出効率を比較してSomervilleら(1989)の方法を採用した。PCRは増幅ミスを回避するためホットスタート法、タッチダウンPCR法を行い、PCRのバイアスを回避するためPCRのサイクル数を調整して行った。信頼性のある群集組成解析を行うにあたり、DGGEの定量性の検討も行い、PCR産物200ngをDGGEゲルにアプライし、SYBR Green Iで染色、レーザースキャナを用いて検出することで感度・解像度の向上を図った。

化学的要因による細菌群集組成の変化:石油と分散剤の細菌群集に与える影響

上記の検討によって確立したDGGE-MDS法を用い、メソコズムにおける細菌群集構造の時系列的な変動を解析し、その変動を招く主要因について検討した。このメソコズムは石油汚染およびその際に添加される分散剤が微生物食物連鎖構造にどのような影響を与えるかを調べる目的で設置されたものである。

メソコズム実験は、直径1.5m、水深3m、容量5000Lのメソコズムに浜名湖沿岸海水を満たし、何も添加しないもの(天然海水区)、A重油水溶性画分を添加したもの(石油区)、A重油水溶性画分と分散剤を添加したもの(石油分散剤区)を用いて行った。マイクロコズム実験は容量5Lの滅菌したボトルに横浜港海水を満たして行った。この際、メソコズム実験に加え分散在のみを添加したもの(分散剤区)を追加して行った。それぞれの実験で1日毎に5日間サンプリングを行った。得られたサンプルからDNAを抽出し、 PCRを行い、得られたPCR反応物を用いてDGGEを行い、MDSにより、類似度を視覚化した。

メソコズム実験では石油区では細菌数が一旦増加した後に減少したが、石油分散剤区では石油と分散剤の添加直後に石油区の3倍程度の増殖が見られ、その後も細菌数は高い値で維持された。一方それぞれの群集組成の変化は石油区では細菌数の減少と同時に起こっているのに対し、石油分散剤区では細菌の増殖と同時に起こっていた。また、石油分散剤区の群集組成の変化は石油区のものとは大きく異なっていた。石油分散剤区で見られた以上の変化はマイクロコズム実験の分散剤区でも確認された。以上の結果から、分散剤の添加が細菌群集の数と群集組成に大きく影響することが明らかになった。また、この解析にはDGGE-MDSの方法が有効であり、従来のDGGE法のみでは群集全体の変化を適切に表わすことができないことが確認された。

物理的要因による微生物群集組成の変化:スールー海とその周辺海域における微生物群集組成解析

上記のメソコズム実験は、特定の環境条件を人為的に作りだし、どのような条件が微生物群集の遷移に大きな役割を果たすかを実験的に検証することができる。しかし天然海水中の細菌群集の解析にはそのようなアプローチはできない。どのような物理化学的要因が微生物群集構造を規定しているのかを知るには、相互に条件の異なる場から海水試料を採取し、比較する必要がある。そこで、海洋での鉛直方向の群集組成の変化に着目し、水深1000m以深においても比較的高い水温(約10℃)を保つ特殊性の高い海域であるスールー海とその周辺海域で解析を行った。また、この解析は真正細菌および古細菌のそれぞれについて行い、2つのドメイン間の違いを調べた。

採水した測点はスールー海4点と北太平洋、セレベス海、南シナ海各1点であった。すべての測点で水深10、100、1000m、北太平洋、セレベス海、南シナ海で水深4000m、スールー海の測点のうち2点では水深3000mでそれぞれ採水を行った。採水はニスキン採水器にて行った。

得られたサンプルから微生物細胞を濃縮しDNAを抽出後、細菌と古細菌にそれぞれ特有なプライマーを用いてPCRを行った。得られたPCR反応物を用いてDGGEを行い、MDSにより、類似度を視覚化した。

細菌群集組成は水平方向よりも、むしろ鉛直方向に大きく異なっていた。1000m以深ではスールー海と周辺海域では温度・溶存酸素が大きく異なるにもかかわらず群集組成は類似していた。一方温度がスールー海の1000mと3000mでは温度・溶存酸素が等しいにもかかわらず群集組成が異なっていた。以上より深海の細菌群集を決定する要因として温度・溶存酸素は重要でないことが示唆された。溶存有機態炭素の現存量と種類、または水圧が深海での細菌群集組成を決定する大きな要因であると考えられた。

古細菌群集組成もまた鉛直方向に大きく異なっていたが、深海では細菌群集と異なり深度による群集組成の成層構造が弱かった。また、古細菌の種の多様性は細菌の多様性に比べて高かった。以上より細菌と古細菌の群集組成を決定する要因は異なっていることが示唆された。

本研究では、DGGE-MDSを確立後、化学的環境条件を変えたメソコズム、およびスールー海とその周辺海域において微生物群集構造の変化を時空間的に解析した。その結果、この方法が群集全体の変化を把握するのに有効であること、メソコズムでは分散剤という化学物質がその組成変化を規定していること、外洋では海域によらず鉛直的な方向に群集組成が変動する傾向を示すが、その応答は真正細菌と古細菌の間に違いがあることが明らかになった。

審査要旨 要旨を表示する

海洋環境中の原核生物は海洋生物の中で最大の生物量を持ち、その機能および物質循環に果たす役割は極めて多様である。例えば光合成を通じた有機物生産を担っているラン色細菌、有機物分解を担っている従属栄養細菌群集はその中でも典型的なものであるが、これに加えて窒素固定や硝化、脱窒などの窒素代謝に関わる細菌群集、イオウ化合物の酸化や還元に関わる細菌群集、メタンの生成や分解に関わる細菌群集などが存在する。近年、これらの海洋細菌群集の存在や機能を知るための多くの技術が開発され、その物質循環に果たす役割がかなり明らかになってきた。例えば、RIを用いた方法により、細菌群集は一次生産された有機物の30−50%程度の分解にあずかっていることが分かってきた。さらに分子生物学的な手法により、培養を経ることなくそれらの群集構造を知ることが可能になってきた。海洋細菌群集の99%は通常の方法では培養ができないことが知られており、こうした手法によって初めて細菌群集の中身が明らかにされつつある。

吉田明弘君の学位論文は、こうした学問的背景の上に立ち、DGGE(Denaturing Gradient Gel Electrophoresis)法という新しい分子生物学的手法の基礎的な検討をするとともに、これをMDS(multidimensional scaling)という方法と組み合わせて天然水界中の細菌群集に当てはめ、群集構造に関する新たな知見を得ようとしたものである。その主要な学問的意義は以下の3点にまとめられる。

DGGE法の基礎となる知見が得られたのは1970年代(Fisher and Lerman 1979)であるが、自然環境に適応しうる形として提案されたのは、1990年代に入ってからである(Muyzer et al. 1993)。この方法は環境中から抽出、増幅された特定遺伝子断片の塩基配列の違いを、変性剤の勾配のついた電気泳動上での速度の違いに置き換え、ゲル上のパターンとして示す方法である。近年はいわゆるspecies richnessを示す方法として広く使われているが、具体的な方法論の細部は研究者によって異なり、そのデータの相互比較は今だに困難である。吉田君は、天然海水中の細菌試料の濃縮量、DNAの抽出法とその条件、PCRの条件、DGGE法に適用するDNA量とその定量性との関わり、電気泳動の条件について詳細な検討と標準化を行い、その再現性と定量性とを確保することを可能にした。

海洋の化学的な要因は細菌群集構造に影響を与えることが知られるが、その具体的な作用を知るには、現場に近い環境を維持した実験的な施設に特定の化学物質を添加して観察を行うのが有力な方法である。浜名湖に設置されたメソコズムにおいて、油およびその処理剤の添加効果が細菌群集の群集構造にどのような影響を及ぼすかを調べた。DGGE法およびMDS法を用いることにより、油の添加よりも、処理剤の添加が大きな構造変化を招くことを世界で初めて明らかにした。さらにこれをマイクロコズム実験を併用することにより証明した。

スールー海およびその周辺海域の細菌群集の水平的、鉛直的分布を調べ、環境要因と群集構造との関わりを調べた。スールー海は北方は南シナ海と、南方はセレベス海とつながる閉鎖的空間で、水深は約4,500mに及ぶものの、水温は約10℃に保たれている。これは周辺海域と比較すると高いが、その溶存酸素量は逆に周辺海域より少ない。こうした基本的な環境要因が細菌群集構造にどのような影響を与えるかについてはこれまで知見が欠落していた。吉田君は第一に鉛直方向にデータを統合することにより、海域間で群集組成が違うこと、第二に、これらの海域では、その群集組成は水平的よりは鉛直的に大きく変化する傾向があり、そのパターンには共通性があること、第三に、古細菌(Archaea)と真正細菌(Bacteria)を比較することにより、前者の多様性が一般に後者より高いこと、を明らかにした。

吉田君は浜名湖の実験結果をMarine Pollution Bulletinに、スールー海の解析結果をDeep-Sea Researchに投稿している。前者は既に受理され、後者もminor revisionで受理可能とのコメントを受け、改定稿を送付済みである。いずれも著名な国際誌であり、論文の書き方およびeditorとの対応などについて基本的な技術を全て習得している。

上記の諸点を考慮し、審査委員一同は、吉田君は独立した研究者として研究を遂行していくのに必要とされる全ての能力、知識、経験、学問的実績を持っており、博士(農学)の学位を授与するのにふさわしいとの結論を得た。

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