学位論文要旨



No 120867
著者(漢字) 古川,裕介
著者(英字)
著者(カナ) フルカワ,ユウスケ
標題(和) 強光子場における簡単な多原子分子の超高速解離性イオン化過程 : プロトンおよび水素分子イオンの放出
標題(洋) Ultrafast dissociative ionization of small polyatomic molecules in intense laser fields : Ejection of protons and hydrogen molecular ions
報告番号 120867
報告番号 甲20867
学位授与日 2006.03.06
学位種別 課程博士
学位種類 博士(理学)
学位記番号 博理第4763号
研究科 理学系研究科
専攻 化学専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 教授 山内,薫
 東京大学 教授 岩澤,康裕
 東京大学 教授 太田,俊明
 東京大学 教授 濱口,宏夫
 東京大学 教授 柳下,明
内容要旨 要旨を表示する

〔序〕

これまでレーザー分光学は、光学遷移を用いた様々な測定法の開発により、分子の振動準位構造から紫外領域に見られる解離ダイナミクスを明らかにしてきた。レーザー光を用いた真空紫外光発生法や多光子共鳴励起法を用いることによって分子リュードベリ状態・イオン化過程に関する実験が行われてきたが、その一方で、超短パルスレーザー技術の進歩によってレーザー光を集光することによって摂動領域を超える電場強度を持つ強光子場を発生させることができるようになった。この強光子場を用いることによって分子を容易に多重イオン化させることが可能となり、多価分子イオンのクーロン爆発ダイナミクス、また強光子場と分子ポテンシャルの強い相互作用によって非定常的な光ドレスドポテンシャルが形成されることによる分子イオンの構造変形などの解明が行われている。本研究では、1)強光子場におけるアセトンイオンおよびメタノールイオンの解離性イオン化過程において水素分子イオン脱離を観測し、メタノール同位体CD3OHにおけるCD3基とOH基間での分子内水素マイグレーションを水素分子イオンの同位体種によって検出し、分子内水素原子交換ダイナミクスの解明を試みた。さらに近年の超短パルスレーザー光の短パルス化技術によって電場周期を数サイクルしか持たないsub 10-fs超短パルスの発生が可能となった。この短いパルス幅の時間に起こる核波束の時間発展を実験的に観測することができるようになり、分子がクーロン爆発に至るまでの多重励起ダイナミクスの理解が期待されている。そこで、2)水分子H2Oにこの超短パルス光を照射し、イオン化に伴って生成するH+フラグメントの運動エネルギー分布を測定した。照射する超短パルスの時間幅を変えながらその運動エネルギー分布のパルス幅依存性を求め、超短パルス強光子場下でのH2Oの解離性イオン化ダイナミクスの解明を試みた。

〔実験〕

本研究は飛行時間型(TOF)質量分析器とフェムト秒レーザー光を組み合わせて実験を行った。アセトンおよびメタノールの解離性イオン化過程の測定においては、TOF質量分析器の真空チャンバー内(5×10-8 Pa)に超短レーザーパルス光(86fs,800nm,10Hz,0.3mJ)を集光して0.2PW/cm2のレーザー場強度を発生させ、試料分子(CH3OH、CD3OHまたはアセトン)に照射した。試料イオンおよびそのフラグメントイオンはTOF質量スペクトルとして検出した。また、フラグメントイオンの放出角度分布を、レーザー光の偏光を1/2波長板を用いて回転させることで偏光のTOF軸に対する角度を約16°づつ変えながら、TOFスペクトルを測定する質量選別運動量画像(MRMI)法によって測定した。水分子H2Oのsub-10 fs強光子場の発生には、フェムト秒レーザーシステムのレーザー出力を非線形媒質(Ne)を封入した中空ファイバーに導入することによって、そのスペクトル成分を広帯域化した。中空ファイバー内のNeの圧力を変えることによってスペクトル帯域を調整し、チャープミラー対を用いた再圧縮後のパルス幅を6-20 fsの間で可変な超短パルス光を発生させた。この超短パルス光を凹面鏡によってTOFチャンバー内に集光し、超短パルス強光子場によって生成したH2O+イオンおよびフラグメントイオン(H+,H2+,O+,OH+)をTOFスペクトルとして検出した。超短パルス幅を変えてTOFスペクトルを測定することによってフラグメントイオンの運動エネルギー分布のレーザーパルス幅依存性を調べた。

〔結果と考察〕

メタノールおよびアセトンにおける水素分子イオンの放出

水素分子イオンH2+およびH3+の検出強レーザー場(1014 W/cm2)によってCH3OHから生成したフラグメントの質量スペクトルにはHm+(m=1-3)が観測された(図2.a))。また、CD3OHではHmDn+(m=0-1,n=0-3,m+n=1-3)フラグメントが観測された(図2.b))。

フラグメントが持つ運動量は到達飛行時間の分布から求められ、CH3OHから生成したH2+の運動エネルギー分布は図3のように3つのピークがみられ、それらのピーク値はEkin=0.5(2)、4.0(2)、7.2(2)eVであった。また、H3+フラグメントの運動エネルギー分布には2つのピークがみられ、それらのピーク値はEkin=0.0(2)、4.1(2)eVであった。一方、CD3OHを試料としたときに検出されたDH+,D2+,D2H+,D3+の運動エネルギーのピークは、3.7(2),3.9(2),3.6(2),3.7(2)eVであった。D2+のみ6.8(2)eVにピークを持つ成分がみられた。

H2+、H3+の異方性パラメータ

水素分子イオンフラグメントの運動量ベクトルの角度分布について異方性を求めた(図4)。水素分子イオンフラグメントの角度分布はC0P0(cosθ)とC2P2(cosθ)を用いて良く再現することができたため、異方性パラメータβ=C2/C0のみで角度分布を表現した。H2+フラグメントの4.0 eVのピークについて異方性パラメータβがβ=0.51(3)と求められた。同様に7.2 eVにピークを持つ成分についてはβ=1.15(1)と求められた。一方、4.1 eVにピークを持つH3+フラグメントはβ=0.44(3)の異方性を示した。

同様にしてDH+,D2+,D2H+,D3+フラグメントについても、4 eV付近の運動エネルギーを持つ成分について運動量ベクトルの角度分布を求め、その角度分布の異方性βを求めた。OH基のH原子を含むDH+とD2H+の角度分布の異方性はβ(DH+)=0.18(3)、β(D2H+)=0.13(3)と求められ、CD3基のD原子のみから構成されるD2+とD3+の異方性β(D2+)=0.46(4)、β(D3+)=0.52(4)よりも小さいことが示された。

H2+、H3+の生成と水素原子交換反応

メタノール親イオンの生成によってCD3基とOH基の水素原子の分子内水素移動が誘起され、D原子とH原子の配置交換が生じた後にCD2HOD2+のCD2H基からDH+またはD2H+が脱離していると考えると、D2H+とD3+の角度分布の異方性の違いは、親イオンが回転運動する間にD原子とH原子の配置交換が起きていることを示している。DH+,D2+,D2H+,D3+の生成分岐比IをTOFスペクトルからI(D2+):I(D3+):I(DH+):I(D2H+)=7.7(8):3.5(3):1.4(2):1と求めた。この生成分岐比を用いて、H/D水素原子交換の反応速度kexを見積もった。解離が起こるまでに親分子が回転することによってフラグメントの異方性が低下すると考え、メタノール親イオンの平均回転周期を用いて水素原子交換の反応速度kexをkex=0.13(3)Ps-1と見積もった。

水分子H2O解離における超短パルス強光子場のパルス幅依存性

レーザー偏光方向に放出されたH+フラグメントの運動エネルギー分布にはパルス幅に依存して変わるピーク構造が観測された。例えば、8 fsのパルス幅の場合に、運動量45×103u ms-1に観測されるピークは、パルス幅を20 fsに広げた場合には、ピーク幅が広がるとともに低い運動エネルギー側にピークが4×103u ms-1シフトすることが示された。このことは、パルス幅が長くなるほどO-Hの核間距離が伸長し、構造変形を起こしてからクーロン爆発に至ることを示している。また、運動量20-布30×103u ms-1に観測されたピークも同様にパルス幅に依存して運動量分布が変化し、8 fsのパルス幅の場合に、運動量26×103u ms-1にピークが観測され、20 fsのパルス幅の場合には、運動量のピークは3×103u ms-1低エネルギー側にシフトして観測された。また、超短パルスのパルスエネルギーを150μJに保ったままパルス幅を変えると、パルス幅が長くなるほど、レーザー電場のピーク強度は低下しているが、このピークはパルス幅が長くなるほど相対信号強度が強く観測されている。これらの測定結果から、このピークは超短レーザー場との相互作用によってO-H結合の伸長が誘起された後に解離したH+フラグメントであると考えられる。

一方、32.7×103u ms-1に観測されたピークは8-20 fsの間のパルス幅に依存しないピークであり、レーザー偏光方向に対して等方的な角度分布を持つと推測される。このH+の運動量の値32.7×103u ms-1は、 H2O2+→H++OH+を解離経路と仮定すると、全運動エネルギー解放は5.9eV(FWHM O.9eV)と求められる。H2O2+のポテンシャル面から超短レーザーパルスとの最初の相互作用によるH2O+の生成から核の動きがほとんどない非常に短い時間にH2O2+に2重イオン化された後にH++OH+に解離したH+フラグメントであると考えられる。

〔結論〕

超短パルスレーザー光を集光することによって発生する強光子場を用いた分子のクーロン爆発過程の研究において、クーロン爆発に至るまでの分子の構造変形が解明されてきた。本研究では、この強光子場を用いた単分子反応へのアプローチとしてアセトンおよびメタノールイオンの水素マイグレーションおよび水素分子イオン脱離ダイナミクスを解明した。また、短パルス化技術によって実現された超短パルスレーザー光を用いてH2Oのイオン化解離過程のパルス幅依存性を測定し、H2Oにレーザーパルスのパルス幅の変化に構造変形が見とめられるイオン化およびパルス幅に依らない超高速なイオン化の2つの二重イオン化過程が存在することを明らかした。

図2.a)CH3OHまたはb)CD3OHの強レーザー場による解離性イオン化によって生成した水素分子フラグメントイオンのTOF質量スペクトル。

図3.CH3OHから生成したH2+およびH3+フラグメントの運動量分布。

図4.CH3OHから解離したH2+とH3+フラグメントの運動量角度分布

図5.8fsのパルス幅(上)と20fsのパルス幅(下)の超短パルス光(200 μJ)を照射した場合にH20から生成したフラグメントH+の運動量分布。

それぞれ、(実線)レーザー偏光方向に放出されたH+の運動量分布と(破線)レーザー偏光方向に垂直に放出されたH+の運動量分布。

審査要旨 要旨を表示する

本論文では、強光子場中での水素原子を含む簡単な多原子分子の解離性イオン化過程をフラグメントイオンの運動量分布および放出角度の分布を測定することによって実験的に明らかにしている。特に高速で起こる水素原子の分子内移動に伴う分子構造の変形、水素原子マイグレーション、そして水素分子イオン脱離について解析を行っている。

本論文は5章から成り、第1章では強光子場における分子のイオン化過程および解離過程の概要について説明している。特に、多原子分子中の水素原子の挙動に着目し、独創的な研究課題を設定している。

第2章では、強光子場中におけるメタノールの解離性イオン化過程において分子内水素原子交換過程が、水素分子イオン (H3+ およびH2+) 脱離過程と競争的に進行することを、それぞれの過程の速度定数を求めることによって明らかにしている。そして、強光子場によるCH3OHの解離性イオン化過程において CH3OH2+から H3+ が生成することを初めて観測している。また、重水素置換メタノール CD3OH を試料分子として実験を行い、CD3 基から直接脱離した D3+ の角度分布の異方性と、 CD3 基と OH 基の間で分子内水素原子交換が起こった後に脱離した HD2+ の角度分布の異方性が異なることを初めて見出し、この異方性の違いが分子内水素交換過程の反応速度に起因することを示している。

第3章では、アセトン分子について、強光子場中における解離性イオン化過程について調べ、H3+ およびH2+ の脱離を観測している。H3+ の3 eVのピークとH2+の3 eVのピークおよび7 eVのピークについて放出角度の分布を測定することによって、H3+ の脱離が主に2価のアセトンイオンから生成するのに対して、H2+ の脱離は2価アセトンイオンからだけでなく3価のアセトンイオンからも生成することを明らかにしている。

第4章では、強光子場によるH2O の多重イオン化過程を10 fsを切る超短パルスレーザー光を用いた実験によって明らかにしている。超短強光子場に曝されたH2Oにおいては、O-H結合が伸長するとともに多重イオン化が進行することを示している。そして、パルス幅が8 fsの場合には、電子再衝突過程による二重イオン化が主たるイオン化過程であるのに対して、パルス幅が20 fsに達すると核間距離の増加に伴ってイオン化確率が増強する効果がより強く現れることを実験的に明らかにしている。

なお、本論文第2章は、星名賢之助、山内薫、中野秀俊との共同研究であるが、論文提出者が主体となって実験及び解析、考察を行ったもので、論文提出者の寄与が十分であると判断する。また、第4章は、星名賢之助、山内薫、中野秀俊との共同研究であるが、論文提出者が主体となって実験及び解析、考察を行ったもので、論文提出者の寄与が十分であると判断する。

したがって、博士(理学)の学位を授与できると認める。

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