学位論文要旨



No 120872
著者(漢字) 熊澤,紀子
著者(英字)
著者(カナ) クマザワ,ノリコ
標題(和) 海馬でのシナプス伝達と可塑性におけるシナプス前機能分子の役割
標題(洋) Roles of presynaptic functional molecules in synaptic transmission and plasticity in the hippocampus
報告番号 120872
報告番号 甲20872
学位授与日 2006.03.08
学位種別 課程博士
学位種類 博士(医学)
学位記番号 博医第2594号
研究科 医学系研究科
専攻 脳神経医学専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 助教授 尾藤,晴彦
 東京大学 教授 井原,康夫
 東京大学 教授 山本,稚
 東京大学 教授 渡邉,すみ子
 東京大学 講師 辻本,哲宏
内容要旨 要旨を表示する

学習によって獲得された情報は、海馬が中心となって短期記憶から長期記憶へと変換され、最終的には大脳皮質に貯蔵される。動物個体を用いた薬理実験をはじめとした様々な脳の機能解析により、近年では海馬におけるシナプス可塑性は記憶・学習の細胞レベルの分子基盤であると考えられている。シナプス可塑性には長期増強(long-term potentiation:LTP)を代表とする長期可塑性(long-term plasticity)と短期可塑性(short-term plasticity)の2つのタイプがあり、LTPは記憶貯蔵の細胞レベルにおけるモデルであるとされている。LTPの分子メカニズムについては盛んに研究が行われているが、まだ不明な点も多い。

数多くの機能分子がシナプス可塑性の誘導や発現に関与しているが、今回、海馬CA1領域においてシナプス前機能に関与すると思われる2つの機能分子に注目し、それらのシナプス可塑性の誘導閾値の修飾やLTPの発現における役割について研究を行った。

クラスリンアダプタータンパク質AP-3B欠損マウスにおけるGABAによる海馬CA1領域シナプス可塑性誘導の修飾の異常

AP-3は、アダプタータンパク質(AP)複合体の一種であり、分泌やエンドサイトーシス経路の小胞輸送に関与している。AP-3には全身に分布するAP-3Aと神経特異的なAP-3Bという2つのアイソフォームが存在する。AP-3Aの生理的役割については近年かなり明らかになってきているが、AP-3Bの役割についてはよく分かっていない。AP-3Bの海馬における役割を明らかにするために、AP-3Bのサブユニットの1つであるμ3Bを欠損するマウスが作成された。このマウスでは興奮性および抑制性シナプスのいずれにおいてもシナプス小胞の密度および径の低下がみられた。また、野生型マウスと変異型マウス間において正常状態ではγ-aminobutyric acid(GABA)の放出には差がみられないが、高カリウムにより細胞の興奮性を高めた状態では変異型マウスにおけるGABAの放出に著しい低下がみられた。

そこで、このマウスにおいて、このような興奮時におけるGABAの放出量の低下が海馬CA1領域のLTPにどのような影響を及ぼすかを検討した。GABAA受容体のアンタゴニストであるピクロトキシン(PTX)の存在下あるいは非存在下で、比較的強い誘導条件および弱い誘導条件によって誘導されるLTPについて検討を行った。その結果、LTPの誘導条件が相対的に強い場合には、GABAA受容体のアンタゴニストであるピクロトキシン(PTX)の有無にかかわらず両遺伝子型で同様のLTPが誘導された。しかし、野生型マウスではPTXが存在しないときにLTPが誘導されないような弱い誘導条件においても、変異型マウスではLTPが誘導された。一方、この表現型はPTX存在下では認められなかった。したがって比較的弱い誘導条件によるLTPの誘導においては、変異型マウスではGABAによる抑制効果が減弱したことにより、LTPが誘導されたものと考えられる。

これらの結果より、GABAを含有するシナプス小胞形成と興奮時のGABA放出に関与するμ3Bは、シナプス可塑性の誘導閾値の修飾や発現においても重要な役割を果たしていることが明らかとなった。

海馬CA3-CA1シナプスにおけるシナプス前性TrkB受容体のシナプス可塑性における役割

BDNFやNT-4/5をリガンドとするTrkB受容体は、神経分化、神経シグナル伝達やシナプス可塑性に重要であるといわれている。しかし、TrkB受容体は海馬CA1領域においてシナプス前終末およびシナプス後細胞のいずれにも存在しており、それぞれの詳細な役割については不明な点が多い。そこで、シナプス前部に存在するTrkB受容体の役割を明らかにするために、海馬CA1領域へ求心性線維を投射する海馬CA3領域特異的にtrkB遺伝子を欠損させた成体マウスの海馬スライスを用い、電気生理学的解析を行った。はじめに、神経伝達物質の放出確率とシナプス前性の短期可塑性について検討するために、N-methyl-D-aspartate (NMDA)受容体のアンタゴニストであるD-2-amino-5-phosphonovaleric acid(D-APV)の存在下で、2発刺激促通(PPF:paired-pulse facilitation)および低頻度刺激(LFS:low-frequency facilitation;5Hz)に対する応答について検討を行った。その結果、いずれにおいても両遺伝子型間で差はみられなかった。また、D-APVの存在下でより強い刺激条件(100Hz/1s)により誘導されるシナプス前性の短期可塑性の1つであるテタヌス後増強(PTP:post-tetanic potentiation)について検討を行ったところ、変異型マウスにおいてテタヌス後0分から2分にかけて、PTPの減弱がみられた。さらに、N-タイプカルシウムチャネル阻害剤の存在下でPTPを検討したところ、コントロールマウスでは非存在下に比べて有意な減弱がみられたが、変異型マウスでは阻害剤の存在下および非存在下でPTPに差はみられなかった。

これらの結果より、シナプス前性TrkB受容体は、より強い誘導条件(100Hz)によりシナプス前終末への大量のCa2+の流入されるような短期可塑性であるPTPに関与し、そのPTPにおけるN-タイプカルシウムチャネル依存性成分に必要であることが示唆された。

さらに、D-APVの非存在下でLTPにおけるシナプス前部に存在するTrkB受容体の役割についても検討を行った。はじめに、PTPと同じ誘導条件(100Hz/1s)で検討したところ、変異型マウスにおいてシナプス増強がやや減弱する傾向がみられたが、有意な差はみられなかった。また、200Hz/200ms、10回というよりBDNFが放出されやすいと報告されている誘導条件でLTPを誘導したところ、変異型マウスでシナプス増強の有意な低下がテタヌス後20分まで見られた。さらに、200Hz/200ms、1回という誘導条件でLTPを誘導したところ、変異型マウスにおいてLTPの減弱がテタヌス後60分までみられた。

これらの結果から、シナプス前終末に存在するTrkB受容体は、より高頻度の1回の誘導条件で誘導されるLTPの発現において重要な役割を果たしていることが明らかになった。

審査要旨 要旨を表示する

本研究は、海馬CA1領域においてシナプス前終末に発現する2つの機能分子に注目し、それらのシナプス可塑性の誘導閾値の修飾や発現における役割に関する研究を行った。海馬急性スライスを用いた細胞外記録法にて、様々なシナプス可塑性における2つの機能分子の役割について検討を行ったものであり、下記の結果を得ている。

AP-μ3B欠損マウス:

アダプタータンパク質(AP)複合体の一種であるAP-3Bは、神経特異的に発現し、神経伝達物質の分泌やエンドサイトーシス経路の小胞輸送に関与しているといわれている。本研究ではAP-3Bのサブユニットの1つであるμ3Bを欠損するマウスを解析し、この変異型マウスでみられるGABAの放出量の低下が海馬CA1領域の長期増強現象(LTP:Long-term potentiation)にどのような影響を及ぼすのかを検討した。その結果、LTPの誘導条件が相対的に強い場合には、GABAA受容体のアンタゴニストであるピクロトキシン(PTX)の有無にかかわらず両遺伝子型で同様のLTPが誘導された。しかし、野生型マウスではPTXが存在しないときにLTPが誘導されないような弱い誘導条件においても、変異型マウスではLTPが誘導された。一方、この表現型はPTX存在下では認められなかった。したがって比較的弱い誘導条件によるLTPの誘導においては、変異型マウスではGABAによる抑制効果が減弱したことにより、LTPが誘導されたものと考えられる。

これらの結果より、GABAを含有するシナプス小胞形成と興奮時のGABA放出に関与するμ3Bは、シナプス可塑性の誘導閾値の修飾や発現においても重要な役割を果たしていることが明らかとなった。

海馬CA3領域特異的TrkB受容体欠損マウス:

シナプス前部に存在するTrkB受容体の役割を明らかにするために、海馬CA1領域へ求心性線維を投射する海馬CA3領域特異的にTrkB遺伝子を欠損させた成体マウスの海馬スライスを用い、電気生理学的解析を行った。はじめに、神経伝達物質の放出確率とシナプス前性の短期可塑性について検討するために、N-methyl-D-aspartate(NMDA)受容体のアンタゴニストであるD-2-amino-5-phosphonovaleric acid(D-APV)の存在下で、2発刺激促通(PPF:paired-pulse facilitation)および低頻度刺激(LFS:low-frequency facilitation;5Hz)に対する応答について検討を行った。その結果、いずれにおいても両遺伝子型間で差はみられなかった。また、D-APVの存在下でより強い刺激条件(100Hz/1s)により誘導されるシナプス前性の短期可塑性の1つであるテタヌス後増強(PTP:post-tetanicpotentiation)について検討を行ったところ、変異型マウスにおいてテタヌス後0分から2分にかけて、PTPの減弱がみられた。さらに、N-タイプカルシウムチャネル阻害剤の存在下でPTPを検討したところ、コントロールマウスでは非存在下に比べて有意な減弱がみられたが、変異型マウスでは阻害剤の存在下および非存在下でPTPに差はみられなかった。

これらの結果より、シナプス前性TrkB受容体は、より強い誘導条件(100Hz)によりシナプス前終末への大量のCa2+の流入されるような短期可塑性であるPTPに関与し、そのPTPにおけるN-タイプカルシウムチャネル依存性成分に必要であることが示唆された。B)D-APVの非存在下でLTPにおけるシナプス前部に存在するTrkB受容体の役割についても検討を行った。はじめに、PTPと同じ誘導条件(100Hz/1s)で検討したところ、変異型マウスにおいてシナプス増強がやや減弱する傾向がみられたが、有意な差はみられなかった。また、200Hz/200ms、10回というよりBDNFが放出されやすいと報告されている誘導条件でLTPを誘導したところ、変異型マウスでシナプス増強の有意な低下がテタヌス後20分まで見られた。さらに、200Hz/200ms、1回という誘導条件でLTPを誘導したところ、変異型マウスにおいてLTPの減弱がテタヌス後60分までみられた。

これらの結果から、シナプス前終末に存在するTrkB受容体は、より高頻度の1回の誘導条件で誘導されるLTPの発現において重要な役割を果たしていることが明らかになった。

以上、本論文は、マウス海馬CA1領域におけるシナプス可塑性において、いままでよく分かっていなかったシナプス前終末に存在する2つの機能分子がシナプス可塑性において重要な役割を果たしていることを明らかにした。本研究は、シナプス可塑性の分子メカニズムの解明に重要な貢献をなすと考えられ、学位の授与に値するものと考えられる。

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