学位論文要旨



No 120876
著者(漢字) 久保寺,俊朗
著者(英字)
著者(カナ) クボデラ,トシオ
標題(和) 視覚系における特徴検出器間の相互作用
標題(洋)
報告番号 120876
報告番号 甲20876
学位授与日 2006.03.09
学位種別 課程博士
学位種類 博士(心理学)
学位記番号 博人第516号
研究科 人文社会系研究科
専攻 基礎文化研究専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 教授 佐藤,隆夫
 東京大学 教授 立花,政夫
 東京大学 教授 高野,陽太郎
 東京大学 助教授 横澤,一彦
 東京大学 助教授 村上,郁也
内容要旨 要旨を表示する

初期視覚系では,網膜より送られてくる視覚情報を複数のモジュールを用いて,独立,かつ並列に処理している。例えば,ある形状の認知は,輝度あるいは色情報を抽出する機能に基づき処理することも可能であるし,運動や両眼視差によって処理することも可能である。すなわち,初期視覚系では,視覚情報に対する多重解析が行われていると言える。

初期視覚系は複数のモジュールを持つほかに,方位,空間周波数,運動方向といった刺激特徴に対して選択性を持つ複数のチャンネルと呼ばれる処理単位を独立的,かつ並列的に持っている。初期視覚系におけるチャンネルは,順応実験やマスキング実験といった心理物理学的手法を用いて,分離,同定される。視覚チャンネルは,選択性を示す属性に応じて異なるモジュールを構成する。さまざまな方位や空間周波数に選択性を持つチャンネルは,物体の形態を処理するモジュールを担うと考えられる。その一方で,いろいろな運動方向に選択性を持つチャンネルは,運動情報を処理するモジュールを担うと思われる。このように初期視覚系には複数のモジュールを構成するために,その機能に適した画像特徴を抽出するチャンネルが備わっている。

初期視覚系の視覚チャンネルは,視野全体を隈なく処理することができるように配置された複数の特徴検出器の配列で構成される。特徴検出器の大きさを心理物理学的に推定する方法には,空間加算による方法と線形システム解析による方法とが挙げられる。心理物理学的に推定される特徴検出器の大きさは,個々の特徴検出器が処理している空間的範囲を表すため,知覚的受容野と呼ばれることもある。心理物理学実験から推定される知覚的受容野の大きさは,提示した空間周波数の1.5--2.5波長に相当する。この結果は,V1の神経細胞の受容野の大きさと良い一致を示すとともに,初期視覚系の検出に関わる特徴検出器が空間的位置に選択性を持ち,その範囲が比較的小さい領域に限定されていることを示している。

このように,初期視覚系の特徴検出器は視野内の比較的狭い範囲に提示された刺激だけを処理している。したがって,この仮定に完全に従うならば,個々の特徴検出器の出力は周辺の刺激の影響を受けないと考えられる。しかしながら,異なる位置に選択性を持つ特徴検出器間の相互作用によって説明できる知覚現象が報告されている。この空間的に異なる位置にある複数の特徴検出器間の空間的相互作用を心理物理学的に検討する手法には,以下に述べる3つの方法がある。第1の方法は,中心刺激の周囲に周辺刺激を同時提示し,中心刺激の見えのコントラストを測定するものであり,抑制性の空間的相互作用が報告されている。第2の方法は,ラテラルマスキングを用いて検出閾を測定する方法で,促進性の空間的相互作用が報告されている。第3の方法は,輪郭線抽出課題と呼ばれる方法で,促進性の空間的相互作用が報告されている。

心理物理学の分野では,この3つの手法を用いて空間的な相互作用に関する検討が行われてきたが,静止刺激による検討のみが行われ,運動刺激を用いた例が少ないという問題がある。静止刺激の検出を担うさまざまな方位や空間周波数に選択性を持つ特徴検出器は,物体の形態を処理するモジュールを担うと考えられる。そのため確認されてきた空間的相互作用は,一般に,静止画像における形状処理(輪郭線統合,領域分割,ポップアウト)において何らかの役割を担うものと考えられてきた。

しかしながら,静止刺激を用いた検討だけでは,その他のモジュールを担う特徴検出器間の相互作用を知ることはできない。運動方向に選択性を持つチャンネルも空間的に限られた知覚的受容野を持つ。このことを考えると,運動刺激における空間的相互作用の解明は不可欠なものであると考えられる。さらに言えば,運動刺激にも形状に関する情報は含まれるため,形状処理に関るとされている処理が運動刺激とまったく関係がないとするには無理がある。

近年,中心--周辺刺激における抑制効果と輪郭線検出課題の手法を用いて,空間的に異なる位置に存在する複数の運動検出器間の空間的相互作用を調べる試みが始まっている。しかしながら,ラテラルマスキングに運動刺激を用いた例は未だにない。本研究では,運動刺激を用いたラテラルマスキングの実験を行うことによって,異なる位置に存在する複数の運動検出器間の空間的相互作用を検討することを第1の目的とした。

ラテラルマスキングでは,視野の中心に提示したガボールパッチ(ターゲット)の両側に別のガボールパッチ(フランク)を配置して,フランクのターゲット検出閾への影響を測定する。ガボールパッチは正弦波格子に2次元ガウス関数をかけたもので,無限に続く正弦波格子の一部を滑らかに切り出したものである。この実験では,ターゲットの中心とフランクの中心との距離(中心間距離)を変化させながら,フランクを提示した場合と提示しない場合について,ターゲット検出閾を測定する。ガボールパッチは空間次元で局在する刺激であるため,空間的相互作用に関る特徴検出器の数を可能な限り限定することができる。

第2章では,運動刺激を用いたラテラルマスキング実験を行い,異なる位置に存在する複数の運動検出器間の相互作用を検討した。実験においては空間的に局在するガボールパッチを使用し,空間的相互作用に関与する検出器を可能な限り限定した上で視野の中心に提示した運動刺激に対する検出閾が,周囲に提示された運動刺激からどのような影響を受けるかを測定した。実験の結果から,運動刺激を用いた場合でも適切な位置に提示されたフランクによるターゲット検出閾の低下が生じる(実験1),運動刺激を用いた場合に生じるターゲット検出閾低下はさまざまな時間周波数において確認できる(実験2),フランクによるターゲット検出閾の低下は運動方向に選択性を持つ(実験3),運動方向が共線的に並ぶ場合にもターゲット検出閾の低下が生じる(実験4),フランクによるターゲット検出閾の低下は位相関係に依存しない(実験5),といった新たな知見を得ることができた。

第3章では,フランクのコントラストの効果を検討し,運動刺激を用いた際に相互作用が生じる範囲がフランクのコントラストに依存して変化することを見出した(実験6)。さらに,フランクのコントラストが増加すると,フランクを提示することでターゲット検出閾が最も低下する中心間距離が長くなる傾向があることを示唆する結果も得ている(実験7)。

局所的な刺激を統合するメカニズムは,大きくわけて2つの結合パターンを考えることができる。ひとつは同じレベルに存在する複数の検出器間の促進的な水平結合によるものである。もうひとつの結合パターンは,上位のレベルに存在する検出器へのフィードフォワード経路を介した統合によるものである。水平結合とフィードフォワード結合との間には,フランクがターゲットに影響を及ぼす時間スケールが異なることが予想される。これらの可能性を検討するために,逆相関法を用いて方位刺激間の相互作用の時間特性を検討する。逆相関法による解析から,どのタイミングで提示したどのような刺激が被験者の判断に影響を及ぼしたのかを推定することができる。第4章では,逆相関法を用いて,空間的相互作用における方位選択性が表れる時間特性を推定した(実験8)。この章では,ターゲット提示に対してどのような時間関係を持ったフランク提示が,ターゲット検出閾に最も影響するかを空間的相互作用の基本的な特性である方位選択性に注目して推定した。実験の結果から,(1)空間的相互作用の方位選択性が表れる時間的ピークはターゲットが提示されるよりも早い段階で生じる,したがって,(2)相互作用を担うメカニズムの時間特性は比較的遅い,といったことを明らかにした。

第5章では,本研究で得られた知見から,運動視機能を司る運動検出器間の結合様式を推測した。運動方向選択性が同一である運動検出器間には,方位(運動方向と直交する方位)が共線的に並んだ検出器間と運動方向が共線的に並んだ検出器間とで強い促進性結合があると考えられる。一方,運動方向選択性が反対である運動検出器間には,少なくとも本研究の実験結果からは,促進性の結合が存在しないことが予想される。これらの結合様式は,(1)方位を共線的に配置した刺激布置で閾値低下が生じること(実験1),(2)方位共線的な閾値低下が運動方向に選択的であること(実験3),(3)運動方向を共線的に配置した刺激布置で閾値低下が生じること(実験4),から導かれたものである。このような促進性の結合によって,検出器の入力に対する感度が上昇し,検出閾の低下が生じると考えられる。さらにフランクによる検出閾低下はさまざまな時間周波数領域(2--8 Hz)で確認された(実験2)。異なる時間周波数を持つ刺激が必ずしも異なる時間周波数チャンネルで処理される保証はないものの,実験2の結果は複数の時間周波数チャンネルでこのような結合が存在することを示唆している。このような結合により相互作用が生じる範囲は刺激強度に応じて変容することが第3章の結果から示唆される。さらに第4章の結果からこれまで空間特性が明らかにされてきた方位検出器間の相互作用の時間特性を逆相関法を用いて検討した結果,これらの検出器間の相互作用は同一レベルに存在する水平結合によるものである可能性を示唆する知見を得た。これまで構築してきた運動検出器間に存在する結合は静止刺激を用いて明らかにされてきた方位検出器間の結合と類似点が多いため同一レベルに存在する水平結合によるものである可能性がある。一方,運動方向を共線的に結合するメカニズムに関しては,方位検出器間の相互作用の時間遅れを伴う結合を考えることで説明できるモデルを考案した。

審査要旨 要旨を表示する

本論文は,初期視覚過程の古典的な受容野として想定されている範囲よりも広い領域で生起する促進性の相互作用について,主として運動情報の効果,及び,相互作用の時間特性という二側面から心理物理学的に検討したものである.具体的な実験手法としては,ラテラルマスキング法を用いている.この手法は,刺激として空間的に局在する縞刺激(ガボール刺激)を用い,視野中心に提示された標的刺激の検出閾が,標的の両側に提示された周辺刺激によってどのような影響を受けるかを測定するものである.

第1章では,心理物理学的な受容野の概念を定義し,受容野の局所性や独立性に言及した後に,そうした局所性を越えた空間的な相互作用について,これまで報告されている主として静止刺激に関する研究を概観している.その上で本論文の主要検討課題である上記二側面の重要性を論じている.

第2章では,運動刺激間の促進効果を検討している.その結果,運動する標的刺激の検出に対しても,静止刺激の場合と同様に周辺刺激からの促進的な効果が存在すること示し,さらに,その効果が運動方向に関する選択性を持つことを明らかにした.また,こうした促進効果が縞の方位に関して共線的な刺激配置のみならず運動方向に関して共線的な配置においても増大することも見いした.

第3章では,周辺刺激のコントラストの効果を検討している.運動刺激を用いた場合,促進的な効果が生じる空間的な範囲が周辺刺激のコントラストに依存して変化することを見出した.さらに,高コントラストの周辺刺激を用いた場合,最大の促進効果が得られる周辺・中心間距離が広がる傾向も見いだした.

第4章では,逆相関法と呼ばれる手法を用い,方位選択的な促進効果の時間的な側面を検討している.その結果,周辺刺激の促進効果に関する方位選択性は標的刺激の出現よりも早い段階で最も強くなることを見いだした.この結果から,促進効果を支えるメカニズムは比較的遅い時間特性を持つと推論している.

第5章では,上記の実験結果を概観した上で,受容野間の相互作用のアーキテクチャーについての考察を行い,今後の検討課題を指摘し,さらに生理学的な知見との対応関係について論じている.

本研究は,古典的受容野外からの促進効果に関して緻密な検討を行ったものであり,特に促進効果における運動情報の役割を明かにした点は大きな貢献である.また,これまで研究例のほとんど無い促進効果の時間特性に関し新たな実験手法を導入し,ある程度の結果を得ることに成功している.時間特性に関しては未だ端緒的な試みではあるが,促進効果研究に新たな側面を切り開いた意義は大きい.以上より,本審査委員会は本論文が博士(心理学)の学位を授与するにふさわしいものであるとの結論に達した.

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