学位論文要旨



No 120878
著者(漢字) 李,宇玲
著者(英字)
著者(カナ) リ,ウレイ
標題(和) 平安朝漢文学研究 : 宮廷文化と漢詩
標題(洋)
報告番号 120878
報告番号 甲20878
学位授与日 2006.03.09
学位種別 課程博士
学位種類 博士(文学)
学位記番号 博人第518号
研究科 人文社会系研究科
専攻 日本文化研究専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 教授 藤原,克巳
 東京大学 教授 小島,孝之
 東京大学 教授 多田,一臣
 東京大学 助教授 渡部,泰明
 東京大学 助教授 月本,雅幸
内容要旨 要旨を表示する

本論文は、奈良天平期から平安朝にいたるまでの文学史を視野に入れ、古代日本における中国文化の受容の様相および宮廷文芸と漢詩の関係について考察したものである。七世紀から九世紀にかけての古代日本は、つねに積極的に制度文物を輸入することを通して、唐王朝と同質の文化を共有しようとする、一種の擬似大唐帝国の様相を呈していたと考えられる。だが、そこから生まれた漢文学は唐のそれと必ずしも同質のものではなかった。多重な受容の背景には、どんな文化的要因が潜在していたのだろうか。

本論文ではこの問題意識をもとに、第一部と第二部に分けてそれぞれ奈良天平期と平安朝に焦点をあて、「風流」と「省試詩」という二つの視点を中心に研究考察を行なった。従来の枠組み(通念的な常識・定説)にとらわれず、また特定の詩人や個別事象の指摘にとどまらず、その背景にひそむ広範な歴史的経緯に目配りしながら、思想や時代・環境をトータルに見据えた検証を行なうことが、本論文の基本的な姿勢である。

第一部「奈良天平期における風流の受容」では、天平期の文献に集中的にあらわれた「風流」の問題をとりあげ、唐の「風流」と比較することを通して、同時代的文化受容の可能性を検証してみた。第一章「風流と遊宴」では、諸文献における風流の用例を分析し、唐代にいたるまでの語義の変化を概観したうえで、六朝における士大夫と遊宴の関係から、風流の文化理念がいかに成立したかを考察した。魏晋の乱世に反発する文人のあいだから生まれた風流が、現実の政治世界に超越する文化的価値としてやがて南朝の文人天子によって領導される宮廷文化にも吸収され、そしてとりわけ自由奔放な雰囲気につつまれた盛唐において、その傾向が顕著になっていったことについて確認した。

第二章「風流と踏歌」は、宮廷踏歌の受容を手がかりに、天平期の風流と盛唐の風流の関連性について考えてみた。聖武朝の踏歌・歌垣が、唐の先天・開元年間の宮廷儀礼を取り入れていたことを確認し、踏歌の主役が「風流有る者」(『続日本紀』天平六年二月一日条等)と称されたのは、盛唐宮廷の風流精神の影響を受けたものであると論じた。さらに、こうした受容の深層にはより早く、より新しい唐の制度文物を吸収して、新たな宮廷文化を創出し、聖武治世を潤飾しようとする意図が託されていたことを指摘した。

第二部「平安朝における宮廷詩と省試詩」は四章からなり、主として平安朝と唐代における省試詩(試帖詩)を比較し、両者の類似と相違を明らかにすることを通して、平安朝の漢詩文芸と唐代のそれとの根本的な性格の違いを浮き彫りにするものである。

第一章「『経国集』の試帖詩考」は、題名どおり、『経国集』巻十三、十四にまとまった形で残っている二十三首の試帖詩をとりあげ、形式と内容の両面から唐の先例の受容を把握し、ひいては文章生試における詩賦が、平安朝の漢文学全体にいかなる意味をもつものかについて考えてみた。とくに注目すべきなのは、もっとも古い延暦期の二例(南淵弘貞と小野岑守作)が、盛唐の試帖詩の詩題や表現様式をそのまま踏襲していることである。つまり、桓武朝では文章生試の導入にしたがい、盛唐の進士科に倣って作詩試験を取り入れただけでなく、それとほぼ同等のきびしい基準を採用していたことがわかる。さらに、こうした共通が単なる試験形式の借用ではないことは、試帖詩の作者をはじめとする文章道の出身者が、実務に堪能な官僚として朝政に参画するいっぽう、勅撰三集の撰定など国家的な文化事業にもたずさわり、いわば唐代の科挙出身者さながらの活躍を果たしていたところからもうかがわれる。唐代と同様の試験形式を採用するところに、文章道を唐の進士科と同レベルの文化制度として位置づけ、そこから有為な官僚人材を抜擢し、唐と比肩する文化帝国を建設しようとする桓武朝の意図が読み取れることを指摘した。そして、この新たな発見により、文章生試導入の背景に関する通説が見直されることになることが予想される。

以上のような類似をふまえたうえで、つづく第一章第三節「『王昭君』と試帖詩」と第四節「試帖詩と文章経国」では、唐代と平安朝の試帖詩における性格の相違に注目し、こうした違いはなにに由来するものか、そしてそれぞれの文学のありかたといかにかかわっているかについて検討した。唐代の試帖詩に見られない遊戯的な詩作と艶情の楽府が、平安朝では試帖詩としてあらわれ、かつ「文章経国思想」を反映するものとなりえたところに、嵯峨朝の唯美的な詩風と『凌雲集』の序文によって言挙げされた経国的文学観の矛盾、という平安朝漢文学の本質に通底する問題がはらまれているととらえた。

第二章「平安朝における唐代省試詩の受容」では、承和期以降における省試詩の史料の不備を考慮して、主に史書・故実書類に散見する省試詩題の記述を手がかりに、平安朝の漢文学全体における唐代省試詩の受容の傾向をさぐってみた。まず第一節「省試詩題の類似」では、現存する唐代と平安朝の省試詩題を比較することによって、両者のあいだに七例の共通例があることが判明し、平安朝の文章道関係者が、唐の先例をことのほか尊重していたことが明らかになった。

第二節「唐の省試詩題と平安朝の侍宴詩題」では、さらに視野を広げ、平安朝における漢詩題と唐の省試詩題との類似・一致例を調査した。その結果、十五例を見出すことができた。そのほとんどが平安朝では内宴や重陽宴の詩題として用いられており、しかもそのうちの十四例はすべて、承和期から延喜期に集中している。いっぽう、唐の作詩年代を見てみると、全十五例のうち、十三例が中唐のものである。このような両者の傾向を、九世紀後半における文章道の興廃と中唐において科挙の果たした役割とに結びつけて考えると、もはや偶然的な出来事として済まされないような大きな問題が横たわっていることを指摘した。第三節「『冬日可愛』と省試詩題」では、具体的に『田氏家集』の例を通して、唐代の省試詩題のみならず、省試詩じたいも平安朝では確実に受容されていたことを確認した。そして第四節では、なぜ九世紀後半の宮廷詩宴において、唐代の省試詩題が頻繁に取り入れられたかについて、もっとも作例の多い菅原道真の詩賦観の問題として措定してみた。寛平二年の宮中作文会において、指定された題をもとに詩賦各一篇(『未旦求衣賦』と『霜菊詩』)が課されたのは、その形式といい、題目といい、唐代の省試の形式をそのまま再現したものである。このように天皇主催の文遊において、唐の省試と同じ形式で詩賦を製作する行為そのものに、科挙・進士科において詩賦が重視され、白居易らその進士科出身者が中央政治に深く参画したような、唐代における政治と文学のありかたに倣おうとする意図が明瞭に看取されると指摘した。なお、以上の二章は、平安朝の省試詩の問題についてはじめて詳細に考察を加えた論文である。

第三章「菅原道真における古体詩と近体詩」は、省試詩と関連して、平安朝最大の詩人である道真はどんな作詩教育を受けて宮廷詩人に成長し、またいかにそこから離陸して、みずからの心情を詠じる方途を見出していったかについて考えてみた。まず、『菅家文草』所収の省試詩の習作を分析し、道真が文章生試の準備段階において、はやくも本場中国の詩人にもひけをとらぬほどに近体詩の作詩技量を身につけていることを明らかにした。やがて父是善の死や世間の誹謗中傷などにより、人生最大の苦境に直面した道真は古体詩の世界に目覚め、率直に心情を吐露する数々の秀逸な作品をつくりだした。平安朝の漢詩文学を俯瞰してみると、道真の古体詩と類し、あるいはその流れを受けつぐ詩作はほかに見られない。古体詩は道真詩の特質の一面を示していると同時に、詩人道真が平安朝漢詩史においていかに特別な存在であったかをも物語っていると論じた。

第四章「夕霧の学問」は、これまでの各章とやや趣を異にし、『源氏物語』における文章道の問題を取り扱った一章である。少女巻に現存の平安朝の記録類にも文学作品にもみられない、字をつける儀式が描かれていることを起点に、夕霧の学問の物語を歴史の文脈のなかで立体的に浮かび上がらせてその意味づけを考えてみた。まず、入学に先立つ元服や六位の設定に、文章道の精神を尊重する物語の方針が端的にしめされていることを析出し、宇多天皇の皇子、斉世親王の先例と照らしながら、夕霧の入学式は大学寮ではなく、二条東院において行なわれたとする旧注以来の解釈に疑問を呈した。つぎに、なぜ学問の物語の掉尾に放島試が描かれているかについて考察した。先行研究では、延喜十六年九月二十七日における醍醐天皇の朱雀院行幸を、放島試の初見例とする見解が、諸家の一致するところとなっており、行幸にともなう放島試を省試の余興化ととらえる観点もほぼ通説となっている。だが、諸記録を精査した結果、寛平八年二月二十三日の宇多天皇の神泉苑行幸に、すでに省試が行なわれていたことが判明した(『日本紀略』)。しかもそのわずか十日前に、宇多天皇はみずから最愛の皇子、斉世親王を大学に入学させていたのである(『西宮記』親王入学条)。また、寛平八年前後における大学寮の隆盛と文章道の繁栄は、斉世親王の読書始に参列した学生数が現存の史料にのこる最大の在学者数であることからもうかがわれる(『日本紀略』)。これらの歴史的背景をふまえ、放島試を、学問重視の姿勢を打ち出し、文治聖代の頂点を飾る文化行事の一環として位置づけるべきことを、平安朝における放島試と勅題の関係を通して論じた。さらに以上の考察を通じ、摂関政治の伸長により、文章道が著しく廃退した時代の趨勢にあえて背を向け、虚構の世界において文章道の理想を語らずにはいられない物語作者の心意と、平安朝文学に底流する精神の関係を透視してみた。

審査要旨 要旨を表示する

本論文は、詩によって賢才を選ぶという儒教的な政治文化理念が、平安朝の宮廷文化と漢文学の根幹をなしていたことを明らかにした論文である。論文構成は、第一部「奈良朝天平期における風流の受容」と第二部「平安朝における宮廷詩と省試詩」の二部からなる。

第一部は、平安朝の宮廷文化と漢文学の本質を、中国的な文化国家の創建という奈良朝以来の課題の継承と展開の相において捉える。第一章「風流と遊宴―六朝から唐へ―」は、「風流」の観念が、漢代の儒教的文化理念を核として、魏晋期の老荘的超俗性、六朝後期の文芸性・遊楽性を加味しつつ盛唐期の宮廷文化に継承されたことを明らかにし、第二章「風流と踏歌―天平宮廷文化の創出背景をめぐって―」は、「風流」を理想として掲げた天平期の漢文学に、盛唐玄宗朝の宮廷文化のいち早い受容が認められるとする。

第二部第一章「『経国集』の試帖詩考」は、平安初頭期の勅撰漢詩文集『経国集』に収録された試帖詩(文章生試に課された詩)が、唐代科挙の進士科の省試に課された詩の詩題・詩体形式を模したものであることを明らかにし、平安前期には文章生を経て出身した者たちが、唐代の進士科出身官僚さながらの活躍をしているのであって、日本でもこの時期には詩によって賢才を選ぶという理念が実を得ていたのであると論ずる。第二章「平安朝における唐代省試詩の受容」は、平安朝の公宴詩題にも、唐代進士科の省試詩題が多く取り入れられていたことを明らかにした。とくに、宇多天皇が菅原道真らに課した「霜菊詩」と「未旦求衣賦」は、道真が書いた後者の序文に示された政教的文学観によって従来からも注目されてきたものであるが、この詩賦の課題もまた唐代進士科の詩賦課題を模したものであったことを指摘した意義はきわめて大きい。第三章「菅原道真における近体詩と古体詩」は、天子に詩を献ずる宮廷詩人たることを以て自ら任じていた菅原道真が、近体詩律に徹底的に習熟していたことを明らかにする一方、荊棘の多かった人生の感懐を古体詩に託しているところに、宮廷詩人として括ることのできない詩人的本質を看取する。第四章「夕霧の学問―字の儀式から放島試へ―」は、放島試を省試の遊楽化とする従来の通説を批判して、放島試は勅題が慣例であり、天子が省試に親臨して自ら積極的に有能な文人を登用する姿勢を示す意義があったとし、『源氏物語』において夕霧の省試が放島試に設定されたことは、光源氏の二条東院で催行された字をつける儀式とともに、光源氏と冷泉帝によって領導される文治聖代の到来を描出するものであったとする。

本論文は、第一部第二章の考証にやや不十分な所を残しているが、第二部で、唐代科挙の進士科において詩賦が課せられていたことが、従来考えられていた以上に平安朝の漢文学に深い影響を及ぼしていたことを実証的に明らかにした功績はきわめて高く評価できる。よって本審査委員会は、本論文が博士(文学)の学位に値するとの結論に達した。

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