学位論文要旨



No 120879
著者(漢字) 佐野,誠子
著者(英字)
著者(カナ) サノ,セイコ
標題(和) 魏晉南北朝怪異記録の研究 : 志怪書とその周辺
標題(洋)
報告番号 120879
報告番号 甲20879
学位授与日 2006.03.09
学位種別 課程博士
学位種類 博士(文学)
学位記番号 博人第519号
研究科 人文社会系研究科
専攻 アジア文化研究専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 教授 戸倉,英美
 東京大学 助教授 大西,克也
 東京大学 教授 川原,秀城
 東京大学 教授 大木,康
 京都大学 名誉教授 小南,一郎
内容要旨 要旨を表示する

中国では魏晋南北朝時代に、志怪と呼ばれる怪異の記録が大量に書かれた。そして志怪書は、現在中国小説史の冒頭に位置づけられている。しかし、志怪書は、本来は小説としてではなく、歴史書として書かれていたことが既に指摘されている。本論文は、志怪書及び当時の怪異に関する記録が何故書かれたのかを探究し、また小説ではなかった志怪書が、後に小説として受容された原因を探ろうとするものである。

本論文はII部からなる。第I部では、志怪書が書かれる前から存在する、歴史書の中の怪異記録「五行志」と志怪書を比較する。

第一章では、正史五行志と志怪書の性質を全体的に比較することで、志怪書を特徴づけた。五行志は国家の命運に関わると考えられた災害と怪異に関する記録とその解釈である。五行志はただ怪異が起こった事のみを記し、怪異を体験したはずの人間の目撃や対応は記録されない。また、人物に起こる怪異の記録も僅かに存在するが、それは、主体を持つ人間としてではなく、記号的なヒトとして記述される。

いっぽう、志怪書には、特定の個人に関する凶兆の話や民間伝承など、国家とは結びつけがたい怪異の記録に溢れている。そして、基本的には人間が登場し、怪異はその人物の体験として描かれる。これは、魏晋以降の史学が国家の大事のみを記すのではなくなったことと連動している。経学が国家の学問であった後漢以前、史とは、国家の歴史を記すことが全てであった。しかし、経学が衰えたことで、国家主義の呪縛がなくなった。

志怪書に記録される怪異は、それ以前の文献には記されない種類の怪異が多い。怪異現象自体は、古くより同種の怪異が起きたと信じられてきたことだろう。しかし、それらは記録として残されなかった。五行志と志怪書では「異」として記録する基準が違うのである。

また、五行志は国家に報告された記録をもとに編纂されている。いわば一次史料は受動的に収集したものである。それに対して、志怪書の記録の来源は多様である。

まず、志怪書著者本人の身近で起きた怪異の見聞をそのまま記すことがある。このような身近なことを記録に留める風潮は、後漢末期から起こっており、第二章で取り上げた応劭の『風俗通義』はその一例である。『風俗通義』には、志怪書に類似した怪異を記す「怪神篇」があり、そして、五行志に類似した災異を記す「服妖篇」が佚文として残される。怪神篇」も「服妖篇」も、『風俗通義』の著者である応劭が体験・見聞した事件をもとに記されている。応劭が怪異記事を記した意図は、怪異について妄りに騒いではいけないということであり、志怪書と百八十度異なるが、このような身近な風俗を記すという後漢当時の風潮が魏晋の志怪に繋がることを指摘した。

また志怪書は、他の書物からの引用も行った。一般には、志怪書は他の志怪書からの引用を行うだけである。しかし、晋・干宝『捜神記』だけは、後漢以前の書物からも引用を行っている。『捜神記』に五行志の記事が多く見られることはしばしば取り上げられる。小南一郎氏の推測によれば、原本『捜神記』の構成は、元来はテーマ毎に、過去の記録を先に配置し、後半に干宝と同時代の記録を配置していたという。第三章では、この小南氏の推定から出発し、干宝の五行志引用の意図を探った。そして、干宝は、同時代の怪異が古くよりあったことを証明するために、怪異の質的な差異には多少目をつぶって、五行志に限らず、過去の書物の怪異記録を収集・引用していたことを論じた。

干宝は東晋王朝において、佐著作郎という史官の役職についており、王朝の意向を受けて祥瑞・怪異の記録の収集と解釈に従事していた。このような王朝の方針は、干宝をはじめとする初期の志怪書に大きな影響を与えたと考えられる。第四章では、『宋書』「五行志」には『捜神記』『異苑』『幽明録』といった志怪書との重複が見えるものの、これらは志怪書からの引用ではないことを証明した。また、劉宋以降は王朝において、怪異記録収集も解釈も熱心に行われていないことを『宋書』「五行志」の時代毎の怪異記録の違いをもとに指摘した。そして劉宋以降は仏教志怪が志怪書の中心となる。

このように、仏教志怪以外の志怪書の編纂が低迷する中、隋が南北に分断されていた中国を統一した。この時、讖緯思想や災異を重んじる風潮が再来し、『五行記』という書物が編まれた。第五章は、この隋・蕭吉の撰とされる『五行記』と、その続編ともいうべき唐・竇維 撰の『広古今五行記』についてとりあげた。『五行記』が編纂されたのは、当時の隋・高祖文帝の讖緯思想好みを受けたものである。『五行記』は過去の五行志、志怪書からの怪異記事の引用と、他書には見られない、梁代から隋代にかけての怪異の記録からなる。このように宗教に偏らない怪異を記す志怪書が再興したかに思えたが、続編ともいうべき『広古今五行記』では、仏教的な因果応報までもが記録されるようになり、古い志怪書の性質と方向が変わってしまった。そして、唐代以降も志怪書は書かれたが、虚構性・創作性を持つようになった。また、怪異の概念が変成し、恋愛のようなことまでが「奇」とされ、志怪書の持つ人物記録の性質を引き継いで、伝奇小説が書かれた。また、志怪書の実録の精神は筆記へと引き継がれた。

志怪書は『隋書』「経籍志」では史部雑伝類に分類された。第六章では、五行志との比較を離れ、志怪書が史部雑伝類に分類された意味について考えた。雑伝書とは、あるテーマに関する人物伝記集である。そして、志怪書も人物の登場がほぼ必須であり、また『史記』の列伝を創始とする紀伝体に則った記述を行っている。志怪書は怪異をテーマとした人物伝記集と見なすことができたため、史部雑伝類に分類されたのだと指摘した。

このように、魏晋南北朝時代は、国家以外の史を史として記述することが可能になった。そして、宗教や信仰に関する記録も増加する。第II部では志怪書のみにとらわれず、当時の宗教や信仰に関する怪異記録について考察する。

第七章では、中国における「天」や「神」の概念がどのようなものであり、また魏晋南北朝当時、その概念がどのように利用されていたかを、志怪書の記述を素材として検討した。中国における天や神に関する基礎概念は、古くから変わっていない。天は唯一絶対の存在であり、感応はするものの、姿を現わすことはない。この概念は仏教徒も道教徒も取り入れている。また神は多数存在し、姿形を持つものである。魏晋以降は、神の外見が異形のものから人間へと変化した。そのため、志怪書においては、人間化した神と人間との交流が多数記録された。

魏晋南北朝時代、国家による儀礼の記録だけではなく、民間信仰の記録が増え、その中で歳時儀礼に関する事柄も多く記録されるようになった。歳時儀礼は、しばしばその由来に死者に関する物語りが存在する。第八章では、この祭日にまつわる死者の物語りを取り上げた。死者が出たために、命日が祭りの日になった訳ではなく、歳時儀礼の本質が払い・祓禊にあるため、もともとあった祭日に、由来として死臭のする物語りが求められ、結合されたことを指摘する。志怪書にも歳時儀礼の由来に関する話が多数収められる。そして、また南朝になってはじめて歳時記が編まれたのは、この民間信仰を記録することと関係すると指摘した。

当時は宗教者の伝記が書かれるようになり、中国神話に見られる感生帝説話と同様のモチーフが宗教者の出生についても見られる。第九章では、このような宗教者の出生の不思議に関する記録は、はじめ仏教徒の側に、それから道教徒の側に積極的に取り入れられていくことを証明した。ただ、古代の感生帝説話は、時代が降るにつれて、大衆化しており、宗教者の出生の不思議も、本来の神話が有していたような神秘性や畏怖の面は薄れ、単純な祥瑞に堕落してしまっていることを指摘した。この時代、既に古代神話のような語りは不可能になってしまっていた。

このような記録が魏晋以降見られるようになったのは、当時、史の範囲の拡張に伴い、民間信仰に関心が持たれ記録されるようになったこと、また宗教者が自ら記録を残すようになったことが大きい。しかし、それ以上に重要なのは、後漢以前の宗教は、国家や社という単位で信仰するものだったのが、魏晋以降、道教や佛教という、家族や個人という単位で向き合う新しい宗教が勃興したことである。個々人の宗教への関心が高まりが、信仰に関する怪異記録の背景にある。

魏晋南北朝時代において、志怪書をはじめとする怪異記録は史として記されたのだった。志怪書をはじめとする魏晋南北朝の怪異記録は、それ以前の怪異記録とは、内容も、記録された意図も異なることが明らかになった。そして、これらの怪異記録が書かれた背景には、史の範囲の拡大による、史書の増大があった。家学であり世襲の職であった史官が、寒門人士の登竜門となり、正史編纂も制度化されていない中、各人が自由に様々な種類の史書を編んだのである。

また、志怪書は後に小説的な受容がなされた。フランス語の小説を表す単語、histoireが歴史という意味から派生しているように、歴史と小説は元来密接な関係を持つ。しかし、全ての史が小説となる訳ではない。例えば編年体で編まれた歴史書、また紀伝体の歴史書にある種々の表や志といった部分は、物語りを自動演奏できない。なぜなら、そこには人間が息づいていないからである。小説は人物の物語りを求めている。また、怪異、あるいは怪異が拡張・変質した「奇」という要素だけでは小説は成り立たない。物語りには主人公が必要である。そして、志怪書には主人公が存在した。

また怪異を記すことは、合理主義の「史」からは疎まれる。志怪書も後には歴史書扱いされなくなった。しかし、古代より今日に至るまで、我々は怪異の物語りの魅力を完全に否定することができない。そこで、史から追い出された怪異は、虚構としての物語りに安住の地を見つけたのだった。

志怪書は怪異の歴史記録として書かれており、決して小説と同一視してはならない。しかし、小説的なものとして、小説史にも居場所を持つべき書物なのである。

審査要旨 要旨を表示する

魏晋南北朝時代には、簡潔な文体で不思議な出来事を記した書物「志怪」が大量に現れた。志怪は叙述内容が非現実的であることから、従来中国小説史の源に位置するものとされてきたが、執筆された当時は史の一部と認識されていた。本論は、志怪が史であったことの意味とこの時代に発生した理由とを、怪異を記録した他の著作との比較を通して考察したものである。

本論の成果の第一は、志怪と五行志を全面的に比較し、その違いを明らかにしたことである。五行志は『漢書』に始まり、後に歴代の正史に継承された。奇怪な現象を簡潔に記述するという点では、志怪の先駆とも考えられるものである。しかし大量の記述を詳細に検討した結果、両者の記す怪異には、殆ど重複する部分のないことが明らかになった。我々の目には等しく荒唐無稽に見える事柄も、古代の人々の心中では明確な区別がなされていたのである。さらに五行志の怪異は、天が国家に対して下す警告であり、警告の意味を考察することが重要であったのに対し、志怪が記すのは個々人の身に起こる出来事であり、殆どの場合何故起こったかは追求されないという違いが明らかにされた。

成果の第二は、後漢末の著作『風俗通義』が、五行志に通じる「服妖篇」と、志怪に通じる「怪神篇」とを持つことに着目し、この書の記す怪異を分析したことである。その結果、著者応劭は、国家に対する警告として天が起こす怪異は肯定し、警告の意味を考えるのに対し、個人の身に起こる怪異はその存在を否定し、怪異に惑わされることを戒めるために「怪神篇」を執筆した事が判明した。六朝の書物である志怪は、怪異を現実に起こったこととして記録するものであり、志怪と『風俗通義』の怪異に対する態度には、大きな相異のあることが示された。

成果の第三は、唐初に編まれた図書目録『隋書』「経籍志」において、志怪が史部雑伝類に分類されていることに着目し、その意味を考察したことである。雑伝類に収められるのは、隠士・孝子・忠臣など主題別の人物伝記集であるが、志怪は、出来事の起こった「時」の表示で始まるものよりも、人名で始まる話が多いという点でも他の雑伝書と共通する。これらの点に基づき、志怪は、怪異に遭遇した人物の記録であるという新たな見方が示された。佐野氏によれば、志怪を含む雑伝書発生の背景には、王朝史に限定されていた歴史概念の拡大があった。一人一人の人間に関心が向けられ、その記録を残そうとする意欲の生じたことが、志怪発生の原動力であったというのが本論の主張である。

以上のような成果を持つ一方、本論には残された課題も少なくない。歳時記や宗教者の出生の記録など、多様な文献に怪異の記述を探りながら、志怪発生の背景を考察するためには十分有効に働いていないこと、志怪の書名と他の雑伝書の書名の違いという重要な事実を指摘しながら、その意味の考察が不十分なことなどである。しかし独創的な視点を元に果敢に研究を進め、志怪という他に類のない著作に対し、新たな知見を提出した点で、価値ある成果であることは間違いない。よって本審査委員会は本論文が博士(文学)の学位に値するものと判断する。

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