学位論文要旨



No 120880
著者(漢字) 李,季樺
著者(英字)
著者(カナ) リ,キカ
標題(和) 文明と教化 : 19世紀台湾における道徳規範の構築と変容
標題(洋)
報告番号 120880
報告番号 甲20880
学位授与日 2006.03.09
学位種別 課程博士
学位種類 博士(文学)
学位記番号 博人第520号
研究科 人文社会系研究科
専攻 アジア文化研究専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 教授 岸本,美緒
 東京大学 助教授 吉澤,誠一郎
 東京大学 助教授 横手,裕
 東京大学 教授 並木,頼寿
 東京大学 教授 黒田,明伸
内容要旨 要旨を表示する

本稿の目的は、19世紀台湾の「風俗」事象の考察によって、台湾が一つの社会として、規範・秩序・道徳面である種の慣習を形成していく過程を理解することにある。そのために主として、〈1〉19世紀の清朝官僚と教育者、19世紀末の明治期に来台した日本人の台湾に対する認識の中に表出する風俗観、〈2〉清朝の風俗改正策と、移風易俗という時代的な要求に対して、教化を受ける側の先住民がとった対応と文化の変容、〈3〉知識人がどのように風俗理念を広め、成功したかについて、その実証分析を行った。具体的にいうならば、まず竹塹社を事例として、清朝の教化とその受容の過程を、フィールド調査によって収集した史料をも多分に用いて分析し、地方官や知識人が番人に求めた宗族形成、具体的には姓を持ち、異性不養、同姓不婚などの原則の維持を求めたが、現実には姓は受容しても、異姓宗族が多く見られるなど、王朝の教化は選択的に受容されていた実態が明らかになった。さらに教化は、儒教的価値観のみならず、例えば道教・仏教においても尊重された惜字の習慣を徹底させるという点においては相当程度の成功を見、「教化」が必ずしも正統儒教によってのみ行われたのではなく、受容側の台湾の人々の選択的な受容によることが明らかになった。こうした台湾の社会を、支配者すなわち滿清帝国、日本帝国などがいかに見ていたかを、風俗をキーコンセプトとして地方志その他の史料を用いて検討したとき、清朝知識人からは、中国本土の福建などと比較して台湾は富んだ豊かな土地ではあるが、徳のない風俗を有していると考えられ、また近代合理性を台湾にもたらした日本植民地支配者たちは、在来の様々な宗教的・慣習的習俗を迷信のなせるわざであると理解し、これを教化すなわち改善しようとした。

かかる考察を通じて、台湾の社会秩序の構築は、必ずしも清朝の官僚、台湾の漢人、平埔族、生番、さらには日本人といった族群間の対立的な関係から見る視点によってのみ、あるいは儒教を推進した清朝と、近代性を持ち込んだ日本という文明対立図式によってのみ、理解され得るものではなく、台湾社会、つまり中国・日本という二つの大文明の「教化」を通じて形成された台湾島の人々の、選択と受容の過程として理解されるべきことを、本稿は提示している。

以下、章別構成にとらわれず、明らかになった事柄を内容別に、順次述べてゆく。

風俗改変と国家の関係

中華的風俗観の検討という点に関し、本論文ではまず、地方志や個人文集などの史料分析を通じ、19世紀に来台した知識人、官僚、教諭などが観察した台湾認識の中に現われる風俗観に分析を加え、こうした士人の秩序意識、思想、行為価値観が示す傾向、特色、変遷について初歩的な整理を行った。

19世紀の官僚・知識人によって編纂された台湾地方志の風俗観が提示するものは、官側の正統的立場で、それは清朝の統一政治秩序観を中心とするものであった(第三、四章)。その風俗論理は、中華古典思想と文明観を主としたものであり、その風俗観は尚古的で、政治的関心に偏る傾向がある。それが内包する道徳中心思想と価値観は、清初以来、儒教的な「礼」の実践、人倫、文教価値を重視していた。また清初の台湾地方志と比較してみると、19世紀後期の志書は、「女徳」と「行善」の徳目が特に重視される傾向があった。

現在の研究では、清代の正統的位置を占める儒教が民衆に最も大きな影響を与えたと見なす傾向が強いが、その地方教化像に対してはなお再検討が必要である。本論文で見た異端の道教的「扶鸞勧化」思想は19世紀中後期以降広まり、欽定の儒教的規範である「聖諭」と共に、徐々に地方生活の道徳規範の中心となっていった。受容する側から見るならば、信巫尚鬼の台湾においては、儒教教義と比べればむしろ仏教・道教思想を基礎とする教化方式のほうが、士庶の別なく受け入れやすい側面もあった。すなわち、教化成功の鍵は、儒教思想の影響力行使の正しさ・強力さではなく、むしろ各々の地域的背景を持った民衆の生活思考とそれに対応した教化思想が、いかに融合できるかにかかっていた。

もちろん、本論文とくに惜字などの部分で取り扱った教化成功事例(第二章)に関して見ても、国家による強化策を強調する従来からの見方は否定されるべきものではないが、それは決して成功するための唯一の鍵ではない。「違制の極み」「無法の土地」が通り名であった台湾に生きる民衆の意識における規範とは、主として宗教的な力による「陰律」(罰、因果応報、たたりなど)への恐れであり、国家の力による「陽法」(法律、行政、地方官の命令、裁判など)のみではなかった。

さらにもう一つの教化事例である竹塹社の「宗族」の形成に関してみても(第一章)、官が普及させようとする宗族・道徳秩序が実際に受容される度合いは、理想と大きな距離があった。台湾漢族の「奢惰」といった経済道徳の問題についてみても(第三章)、官僚の批判にもかかわらず、漢人に儒教的な経済道徳を守らせることは容易ではなかった。

地方社会における道徳と規範の受容と内面化

受容側における規範の内面化の実情に関しては、第一章、第二章、第三章でそれぞれこの問題に言及した。第一章では、主に「竹塹社」の宗族制度の問題に焦点を当て、賜姓、宗族の形成、中華式祭祀の導入といった移風易俗策の受け入れを検討した。その結果、台湾北部のこの地域で宗族に関わる語彙の受容や漢風姓名の導入といった表面上の諸側面においては間違いなく成功したが、漢族も番族も、風俗規範に対する重大な違反である「異姓継承」を実践していたことに着目すれば、それは失敗であったといえる。清代の移風易俗の目標から言うと、竹塹社が中華式祭祖の儀礼を部分的に行い、人を殺して神に捧げる旧習を改めただけでも、教化の目的を達したと言えるだろう。

第二章では、主に「敬惜字紙」の習俗について検討した。その結論として、20世紀初頭の台湾において「惜字」は既に、漢族と番族との境界を越えて日常生活に根付いた「禁忌」行為となり、来台した日本人にも強い印象を与えたことを指摘した。惜字という規範は、宗族諸制度と比較すれば台湾の人々に受け入れられたということができよう。

第三章では、清朝の官僚や知識人が、漢人の経済生活における礼儀規範の実践程度をどのように見ていたか、という点を考察した。礼儀規範を知っているはずの漢人が私利と物欲の追求に努力する姿は、当時の官僚の批判の対象となり、富と徳の実践をめぐる問題は、20世紀初頭になってもまだ議論の的であった。

上述した三つの事例の分析によって、教化を受ける側の規範実践の受容の程度について、いくつかの所見を得ることができた。士人による庶民に対する惜字勧化はかなり成功したが、全体的にみれば、漢人と先住民に対して官府が行った文明規範化の効果は、一概に成功とも失敗とも言うことはできないものであった。中華文明の立場に基づく清朝の教化政策の成果は、日本時代の知識人が評したように微々たるものであったとは言い切れないが、近代中国の民族主義研究者が主張するように、清末に既に中華文明化の程度が理想に達していたというわけでもない。

19世紀から20世紀に至る台湾風俗の動向

台湾認識の中の風俗観が呈する思想傾向や秩序意識は、清代地方志の考察から、19世紀半ばまでは大きな変化はなく、主な変動は19世紀後半以降に飛鸞勧化思想の影響力の増大によってもたらされたことがわかった。日本時代の19世紀末になると、明治期日本の知識人の近代的風俗観が出現し、日本帝国の国家理性と近代的合理的思考に基づく教化の思想が旧来の風俗観に取って代わった。明治期日本の知識人は中華文明の風俗観に対して、完全に肯定するのでもなく、また否定するのでもない態度を示していた。日本の知識人が風俗観察において重視した思想や信仰の側面から見ると、儒教的理念とそれが重視する祖先崇拝、道徳規範は、まだなお日本人に重視され、肯定されるものであった。しかし、中華的風俗観の中で異端と見なされる仏道教思想に対しては否定的で、基本的に仏教に対しては尊重する態度を示したが、道教は一種の低俗な信仰と見なしていた。清朝官僚や文人が実践した道徳中心思想と教化の主力となった「飛鸞勧化」行動は、全面的に否定される運命となった。

竹塹社を例にすると、宗族形成の各側面で中華文明化が理想とする宗族形態が完成したのは、大体1910年代であり、清代ではない。伝統を象徴する族群の祭儀儀式を中止したのは清代ではなく、主に1940年代の日本統治時代に行われた寺廟整理運動の時期で、戦後になって中止したものさえある。惜字習俗の勧化過程では、もともと民間で提唱された惜字活動が、1860〜1870年代に官府の協力を得て盛んになり、1900〜1910年代にはかなり普及したが、1940年代になると、当時の人々の目に「迷信」と映るようになっていった。この方面だけで、台湾の慣習発展の主な趨勢を概括することはできないが、ここで強調したいことは、台湾社会の風俗秩序全体の変動は、政権の交替を以て時代を区分する歴史像によっては、19世紀以降の台湾社会内部の秩序変化を完全に捉えることはできないということである。

以上三点にわたる総括をもとに、本稿から導き出される若干の結論を、従来の一般的な見方と対比しつつ、以下にまとめる。

仏教、道教思想、異端思想の影響力

東アジアの文明化の普遍的な価値である儒教規範の浸透、近代化は、多くの論者によって共有されていた前提とは異なり、社会や個人に新たな規範をもたらすうえで、必ずしも唯一の要素ではなかった。それ以外の最も大きな要素は、仏教・道教思想、異端思想である。

教化における原住民の選択

19世紀末、台湾西部では先住民は帰順し、清朝の教化政策に馴化され、漢人の支配的文化に屈服し、族群の伝統文化は回復不能なほどに破壊されたと考えられてきた。ただ、本論文で見た竹塹社の事例から見れば、原住民は教化の様々な側面において自主的な選択の余地をなお有していたのであり、清末にいたるまで、当時の官僚の中華化すなわち移風易俗の思想が貫徹されたということは、決してなかったのである。

清朝期の中華文明化と日本統治下の近代化

清朝治下の19世紀は、最も熱心に中華文明化が推し進められた時期であるが、最も中華文明の理想に近づいた時点は、清朝の台湾統治が終わり、日本統治時期に入った1910年代である。言い換えるなら、社会文明化の発展の画期は、政権交替や政権による教化の強弱の趨勢と必ずしも一致するものではない。

文明教化と台湾慣習の形成

清代19世紀から日本統治時代における教化の過程は、単に国家による文化の強制及び既存文化の消滅の過程と捉えることはできないし、また一方、伝統的族群文化の根強い残存を強調するだけで説明することもできない。こうした過程は、実際は台湾の新たな慣習形成の過程と見なすことが可能で、この時期が台湾の道徳秩序の構築と規範変遷における重要な段階であったことが、本論文では明示されたように思われる。

そして以上を概括したとき、言えるであろうことは地域という概念は簡単に定義できるものではないということである。「台湾」はたしかに一つの地域とされているが、それは必ずしも一つの地理的枠組みでも、行政や国家空間でも、族群に固着した観念的アイデンティティでもない。本稿で文化的諸事象を叙述するに際して用いてきた用法を、ここで振り返り、改めて「地域」なる概念を整理してみるならば、それは地理的・行政的・観念的等これらすべての要素を包摂しつつ、清朝、日本統治時代という、歴史的な環境に対応しつつ形成されてきた一定の空間的な拡がりであり、我々はそれを一つの「地域」と称することができる。だが新たな課題も残されている。同時代東アジア諸地域におけるこの時代の文明化、さらには近代に入っていった世界の他の地域の状況、そして中国の状況など、本稿で十分に検討できなかった課題は少なくない。今後の検討課題としたい。

審査要旨 要旨を表示する

本論文は、台湾社会の特質の歴史的な形成過程を探究するという問題関心に基づき、19世紀台湾における日常的な秩序・規範の形成と変容を長期的な視野に立って分析したものである。19世紀台湾の社会文化史を論ずるに当たっては、従来、清朝や日本の統治のもとでの「文明化」「近代化」の進展に着目する論調と、多様なエスニック集団によって構成される台湾社会の文化的多元性に着目する論調とが二つの流れをなしてきたが、本論文はその双方の視点を結び付けつつ、国家権力によって推進される日常的風俗の規範化の動きが住民に受容され内面化されていった複雑な過程を、実証的に跡付けようとしている。地方志・随筆などの刊本史料が網羅的に集められ検討されているほか、著者自身がフィールドワークを通じて収集した契約文書やインタビューも、史料の一部として生かされている。

第一章では、清朝に帰順した先住民集団の一つである竹塹社を取り上げ、清朝が先住民社会に導入しようとした漢式姓名、宗族制度、祖先祭祀など家族に関わる中華的文化規範がどのような変容を被りつつ受容されていったかを論じている。第二章では、19世紀台湾において、「敬惜字紙」(字の書かれた紙を尊重する)の慣習がどのような社会的背景のもとで大陸にもまさる広範な普及を見せたのかを検討する。第三章・第四章はそれぞれ19世紀前半と後半における清朝の官僚知識人の台湾風俗観を分析し、台湾漢人の風俗の特色として強調される奢侈の問題や、道教的勧善思想の影響の拡大の趨勢を検討している。第五章では、19世紀末に台湾が日本に割譲されて以降、明治期日本の官僚・知識人によって行なわれた台湾風俗の考察を取り上げ、特にその「迷信」観を中心として、第三章・四章で扱われた清朝知識人の台湾風俗観察との異同を論ずる。

以上の克明な考察により、19世紀台湾の日常的規範の変容の諸側面がリアリティをもって描き出された。特に、竹塹社の人々が中華的宗族規範を受容するに際して自らの社会組織や祭祀のあり方と融合させつつ生活文化を変容させていったこと(第一章)や、「敬惜字紙」慣行が儒教的規範や道教的信仰の普及とは必ずしも結びつかず日常実践における禁忌として台湾社会に深く根をおろしたこと(第二章)、台湾社会における中華文明規範の普及は日本統治下の1910年代にそのピークに達したこと(第一・二章)、などは、規範の受容者側の主体性に注目した新しい事実発見であり、研究史上重要な指摘ということができる。

問題提起のスケールの大きさと鋭さに比して、本文の実証的分析がその問題提起に全面的に答えるだけの広がりを欠いていること、また、第一・二章の個別トピックの研究と第三章以下の風俗論・迷信論の考察とが十分に有機的に組み合わされていないことなど、問題点も存在するが、全体として、19世紀台湾の日常的規範の変容について新味ある視角から丁寧な考察を行ない、従来見逃されてきた諸側面を明らかにした意義は大きい。

以上より、本委員会は、本論文を博士(文学)の学位を授与するにふさわしい業績と認定するものである。

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