学位論文要旨



No 120881
著者(漢字) 池,麗梅
著者(英字)
著者(カナ) チ,レイバイ
標題(和) 荊渓湛然『止観輔行伝弘決』の研究 : 唐代天台仏教復興運動の原点
標題(洋)
報告番号 120881
報告番号 甲20881
学位授与日 2006.03.09
学位種別 課程博士
学位種類 博士(文学)
学位記番号 博人第521号
研究科 人文社会系研究科
専攻 アジア文化研究専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 教授 末木,文美士
 東京大学 教授 丸井,浩
 東京大学 教授 丘山,新
 駒澤大学 教授 池田,魯参
 創価大学 教授 菅野,博史
内容要旨 要旨を表示する

本論文は、荊渓湛然(711-782)の最重要著作である『止観輔行伝弘決』を研究課題とするが、特にこの著作の成立過程を当時の歴史状況の中において捉え直すことによって、湛然にとっての同書の撰述意義のみならず、彼が主導した唐代の天台仏教復興運動の展開の中で同書が果たした役割を明らかにしようとするものである。

湛然は、中国唐代の社会を根底から揺り動かした安史の乱前後の激動の時代を生き、特に大暦年間(766-779)に江南地域で活躍した仏教者である。彼は、天台大師智〓(538-597)の教学を継承し、伝統的な天台教学史では九代目の祖師、特に「中興の祖」と仰がれてきている。一般に、彼は、隋代の智〓に発する天台仏教を復興し、天台教学の体系を実質的に確立させて、「天台の教義を一個の宗派にまで進めた」ことをもって、中国仏教思想史上、極めて重要な地位を与えられているのである。その一方で、徳川時代の華厳学者普寂徳門の湛然批判に見られるように、智〓によって大成された雄大な教学と実践の体系を宗派的に限定してしまった人物として、否定的な評価を下されることもあるのである。

思うに、湛然の教学や思想は、唐代における天台仏教復興運動の一環として現われたものである。もし、彼の思想や行動の中に宗派的或いは時代的な限界が認められたとしても、それを単なる思想史の文脈の中だけで捉えるのではなく、同時に、天台仏教復興運動という大きな現象の中でそれが有したであろう意味を理解しなければならないと考える。そして、実際に、このような観点から、湛然の生涯や業績、更には湛然において表面化した天台教学の思想的変容を見るならば、湛然は、天台仏教復興運動の原点であり、またその総体でもあった、と認識されるであろう。それは、彼が生涯で最初に撰述に取り掛かり、そして十年もの年月をかけて完成させた著述である『止観輔行伝弘決』についても言えるのである。

現行の十巻本『止観輔行伝弘決』(T46、No. 1912)は、天台大師智〓の説く『摩訶止観』(T46、No. 1911)に対する現存最古の注釈書である。「仏の教えを以って止観の妙行を輔け、一実止観の妙行によって一代の教旨を伝弘する」ことを根本的な趣旨とする『止観輔行伝弘決』は、『摩訶止観』の成立からおよそ二世紀近く経って、初めて現れた注釈書であり、その撰述を通して、湛然は天台観門の奥義の闡明に力を尽くしたのである。しかし、『止観輔行伝弘決』に関しては、それが『摩訶止観』の注釈書という、いわば二次的な性格を有するせいでもあろうか、日本や中国の天台系の学僧による注釈書を除けば、まとまった研究成果はまだないのである。

ただ、『止観輔行伝弘決』に関する短い論文や湛然本人をめぐる諸研究などの蓄積はかなり存在し、同書の思想的特徴が全く解明されてこなかったわけではない。例えば、『止観輔行伝弘決』の重要な特徴の一つは、その全巻を通じて、内部すなわち天台止観の相承者に対しても、外部つまり華厳・禅を始めとする他派に対しても、異義邪説を容赦なく批判排斥することを通して、天台大師の祖意を顕揚しようとすることにあるとされてきた。そして、湛然が、教学面においては華厳教学や法相教学と対決し、更に実践面においては禅門を批判したことが注目され、多くの研究成果が生まれている。

しかし、『止観輔行伝弘決』のもう一つの特徴として、湛然本人の所見が『摩訶止観』本来の趣旨と絡み合いながら提示されているため、どこまでが天台大師の本意で、どこからが湛然独自の発想であるのかが、必ずしも明確にならないことも、指摘しておかなければならない。そして、この特徴は、『止観輔行伝弘決』に対する研究の難度を高めているだけではなく、同書を『摩訶止観』研究に援用する際には細心の注意を払うことを要求するのである。逆に、両者の思想を判別することができれば、『止観輔行伝弘決』の思想的特質のみならず、『摩訶止観』の思想も一層明確になるだろうし、同時に、『止観輔行伝弘決』の撰述に当たって、湛然が対処しようとした、唐代における天台止観伝承そのものが抱えていた課題も明らかになると考えるが、このような観点からの研究は、従来ほとんどなされてこなかった。

この研究上の問題は、『止観輔行伝弘決』と『摩訶止観』という二つの文献を比較する作業の欠如のみに起因するものではなく、また単に両者の比較さえすれば解決できるものでもない。なぜなら、『止観輔行伝弘決』が世に現れるにはそれが対処しようとした時代的な課題が存在し、更に、同書が広く流布することになったのは、必ずそれを受け入れる環境が整っていたからだと考えられる。そして、当時の状況を正確に見定めなければ、『止観輔行伝弘決』に現れる思想的改変が生じた要因を、これまでと同様に、すべて唐代に興起した諸宗派と対抗するためという、いわば天台と他宗との関係の中にのみ追究することになるだろう。しかし、筆者の見るところでは、『止観輔行伝弘決』を生み出し、そして同書を受け止めた当時の思想的状況は、かなり複雑なものである。このような観点から先行研究を見ると、『止観輔行伝弘決』を取り巻く状況に対する認識には不明確な点が少なからず存在するのである。具体的には、実際の湛然の生涯、その中でも、特に『止観輔行伝弘決』の成立に至るまでの数年間における湛然の事跡に対する誤解が、本書が成立した歴史的状況の正確な理解を妨げる要因となっている。従って、既成の湛然の伝記やその生涯を伝える諸資料を徹底的に洗い直して、湛然の伝記を再構築した上で、湛然の事跡および『止観輔行伝弘決』の成立背景と意義について考察していきたい。

上述の如き研究状況を受けて、本論文は、「荊渓湛然『止観輔行伝弘決』の研究――唐代天台仏教復興運動の原点――」というテーマを取り扱うが、そのために、以下の四章を設けて順を追って考察を進めていくこととする。

「第一章 荊渓湛然の伝記」では、湛然の生涯ないし事跡をより正しく理解するためには、後世成立の諸伝記だけではなく、それらが依拠した基礎史料である、湛然の生存年代に近い唐代成立の資料も渉猟・検討しなければならないと考え、個々の唐代史料そして宋代以降に作成された種々の湛然伝と、それら相互の関連について考察、検討した上で、湛然の伝記を再構築する。

「第二章 湛然の天台仏教復興運動の原点を求めて――社会の動乱と『止観輔行伝弘決』の撰述――」では、特に、『止観輔行伝弘決』の撰述が始まる前後の時期に相当する至徳・広徳年間(756-764年)における荊渓湛然の行跡に焦点を当てて、先行諸研究の成果に含まれる疑問点を指摘した上で、上元・宝応年間(760-764)における天台山仏教教団及び湛然の動向を、袁晁の乱という、天台山そして江東仏教を危機に陥れた歴史事件と関連付けながら明らかにしていく。更に、このような歴史的背景の下に続けられた湛然の著述活動の性質、すなわちそれはどのような歴史的課題に対応しようとするのもであったのかを考察していくこととする。このような考察によって、湛然の伝記研究のために必要な史実を補充するだけではなく、中唐時代という大きな社会的転換期において、天台仏教ないし江東仏教もまた新たな展開を示したことに対する認識の深まりを促し、湛然の天台仏教復興運動の原点を見定めようとするものである。

「第三章 『止観輔行伝弘決』と天台止観伝承の正統化――天台宗祖統論の確立と顕彰――」では、湛然の内部において徐々に固まってきた決意は後に結実し、天台仏教の復興運動として歴史の中で具現することになるが、その原点となったのは、やはり『止観輔行伝弘決』そのものと考える。そして、唐代における天台仏教の復興運動が『止観輔行伝弘決』の撰述から本格的に開始されることとなったのは、その運動の担い手である湛然が受け継ぐ伝承の性質からして必然的であり、この運動が天台止観伝承の正統化と天台止観実践法の正規化を意図とするものであったことを明らかにするが、本章では、先ず、湛然とその門下は、どのようにして天台止観伝承の正統化を成し遂げたのかについて考察していくこととする。

「第四章 『止観輔行伝弘決』による天台止観実践理論の正規化――懺悔実践の整備を例として――」では、玄朗―湛然の集団がこの天台止観伝承の正統的な担い手たらんと強く自覚し始めたのは、従来考えられていたように、法灯が途絶えることへの危機感からではなく、むしろ、天台止観の無秩序な流行に歯止めをかけ、止観実践の正統的なあり方を宣揚するためであった、と考える。そこで、『止観輔行伝弘決』の撰述意図を捉え直した上で、湛然がいかなる意図に基づいて、天台仏教復興運動の一環としての天台止観実践の正規化に努めていったのかについて、止観実践の方便行とされる懺悔理論と懺法の整備をその具体的な例として、考察していくこととする。

審査要旨 要旨を表示する

中国の天台宗は智〓(538―597)によって確立され、六祖とされる荊渓湛然(711―782)によって復興されたとされる。湛然は、智〓の『摩訶止観』に対する大部の注釈『止観輔行伝弘決』など、多数の著作を著わし、その後の天台思想に大きな影響を与えているが、従来まとまった研究がきわめて少ない。本論文は、湛然の主著『止観輔行伝弘決』を中心的に取り上げ、膨大な関連資料を丹念に分析して、同書を湛然の伝記や時代状況の中に位置づけながら、その思想の一端の解明を目指したものである。

本論文は4章からなる。第1章は湛然の伝記研究であり、湛然に関する基本的な史料や後代の伝記を検討し、伝記の再構築を図ろうとしている。続いて第2章では、その伝記の中でも『輔行伝弘決』の著述年代とその背景というところに焦点を当て、従来の説を批判して新説を提示している。すなわち、同書の再書時期として『摩訶止観科文』に書かれている「元年」を、従来至徳元年(756)と推定していたのに対して、本論文では元号なしにただ元年とのみ言われた761年のことではないかという仮説を提示した。また、同書の完成のきっかけとなった「海隅喪乱」を、従来安史の乱(755―763)と関連させて考えていたのに対して、本論文では袁晁の乱(762)ではないかと推定した。それによって、同書撰述に関する従来の通説の矛盾が解消し、時代的な転換期にあって、新たに天台仏教の再生を目指した湛然の意図が明白になった。第3章では、同書撰述の意図が明確に示される祖統説を取り上げる。教説の正統性を明らかにする祖統説は、『摩訶止観』の編纂者である灌頂によってすでに示されていたが、湛然はそれをさらに整備し、天台が「教門」(理論)と「観門」(実践)の両方の伝統を兼備していることを、祖統説によって示そうとしたものであることを明らかにしている。第4章では、同書の実践理論の一端として、懺悔の問題を取り上げ、それを手がかりに、湛然の運動が単に衰えていたものの復興ではなく、それまで天台止観が無秩序的に行なわれていたのに対して、それを整備して正統的な方法を確立しようとしたものであることを論証している。

以上のように、本論文は、従来通説となっていた『止観輔行伝弘決』の撰述年代の再検討に基づいて新説を提示し、その基礎の上に同書の撰述事情とその意図を明白にした。その新説は今後学界においてさらに検討されなければならないが、きわめて説得力に富むものであり、中国天台宗の展開、並びに唐代仏教の研究に関して大きな貢献をなしたものということができる。同書の思想内容に立ち入っての検討はいまだ十分になされているとはいえず、今後の課題として残されているが、本論文の大きな成果に鑑み、博士(文学)の学位を与えるのにふさわしいものと判断する。

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