学位論文要旨



No 120882
著者(漢字) 鴻野,わか菜
著者(英字)
著者(カナ) コウノ,ワカナ
標題(和) アンドレイ・ベールイの『モスクワ』
標題(洋)
報告番号 120882
報告番号 甲20882
学位授与日 2006.03.09
学位種別 課程博士
学位種類 博士(文学)
学位記番号 博人第522号
研究科 人文社会系研究科
専攻 欧米系文化研究専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 教授 長谷見,一雄
 東京大学 教授 金澤,美知子
 東京大学 教授 沼野,充義
 東京大学 教授 西中村,浩
 早稲田大学 教授 貝澤,哉
内容要旨 要旨を表示する

本論文で扱うのは,ロシア象徴主義の作家アンドレイ・ベールイの晩年の大作『モスクワ』である。本論は,序論,第1部「『モスクワ』の世界――都市のイメージ」,第2部「『モスクワ』の人間――カロープキンの神秘劇」,結論という2部構成である。大きな枠組みとしては,第1部で『モスクワ』の世界像を,第2部で『モスクワ』の人間像を扱う。

第1部「『モスクワ』の世界――都市のイメージ」では,『モスクワ』における世界,トポスの問題,都市のイメージを考察する。初期詩集『瑠璃の中の黄金』以来,ベールイの作品を支える代表的な創作技法の一つは,世界観,思想,信条,時代の変化,感情といった目に見えないものを,登場人物の部屋,持物,風景描写など目に見えるもので表現する手法である。こうした手法はベールイのみならず多くの作家に共通するが,ベールイ自身も詩集『灰』の序文で述べるように,ベールイにとって,居酒屋,教会,都市などの場所は「現実の象徴」であり,場(トポス)は世界観,思想を表現するための重要な要素である。第1部で明らかにするのは,『モスクワ』におけるモスクワは,滅び行く都市,人々を監視する都市であり,仮面を被り,宇宙との接点を消失した都市であることである。『モスクワ』において,これらの都市のイメージの多くは,同時に登場人物達の特性でもある。それは,世界と人間の照応(コレスポンダンス),外界と内界の結びつきを重視するベールイの思想に基づいている。また,『モスクワ』のモスクワはアナクロニズム的で,革命前のロシアであると同時にソ連的な時空間の要素も持ち合わせており,モスクワの終末性,監視都市というイメージは,ベールイのソ連観を表したものでもあると考えられる。従来の研究では,ベールイとソ連という国家の関係が『モスクワ』にどのように反映されているかという視点が欠如していたが,本論では,『モスクワ』には,ソ連政権への歩み寄りとソ連に対する皮肉な視点という矛盾する態度が,複雑に絡み合いながら表れていることを明示する。

また、なぜベールイはこの小説の舞台にモスクワを選んだか、ベールイはモスクワの崩壊を描くことで,何の崩壊を象徴的に描いたかという問題を考察する。『モスクワ』のモスクワには,少なくとも次のようないくつかの特性を見ることができる。第一に注目するのは,学問の町としてのモスクワの性格である。ベールイが『モスクワ』を捧げ,エピローグで引用したミハイル・ロモノーソフ創立のロシア最古の大学があるモスクワは,学問の過去,現在を問い直す小説の舞台としてふさわしい。ベールイが『モスクワの奇人』の序章で述べているように,小説のテーマの一つは,古い学問の世界の腐敗を描くことだった。滅び行くモスクワの描写は,一つには,学問の腐敗を示している。

第二に,モスクワは宗教的な都市である。モスクワは教会が多いことから,「四十の四十倍も教会がある都市」と呼ばれてきた。ベールイも『モスクワ』で,モスクワが様々な時代の多くの教会を抱えていることを述べ,宗教都市としてのモスクワの一面を強調している。この文脈で考えるなら,モスクワの滅亡,堕落は,宗教の失墜を象徴的に表わしている。

第三に,モスクワは,ロシア全体を象徴しうる歴史ある都市である。モスクワの歴史性は,カロープキンが日本から来た研究者イシニシをモスクワ観光案内する場面で,クレムリン,救世主大聖堂などの歴史的建造物を通じてパノラマ的に語られる。『モスクワ』のモスクワは,ロシアの長い歴史そのものであり,滅亡に瀕したモスクワ像は,ロシア全体の状況を語っている。

第四に,モスクワは,ベールイ自身の故郷であり,作家の人生の様々な重要な瞬間に立ち会い,ベールイの創作活動と深く結びついた場所だった。モスクワの否定は,自分自身の過去の否定に繋がっている。『モスクワ』執筆時のベールイは,友人達への書簡で,繰り返し,モスクワが自分とは疎遠な町になってしまったことを嘆いている。ベールイはこうした感情を胸に,「故郷」モスクワの滅びゆく姿を半ば自虐的に『モスクワ』というカンバスになぐり描きしている。故郷であると同時に故郷ではないモスクワは,故国であると同時に故国ではないソ連の比喩でもある。

第五のモスクワの特性,それは,ソ連の首都であるということである。『ペテルブルク』で,崩壊するペテルブルクの姿に,帝政ロシアと世界の終末を重ね合わせたベールイは,『モスクワ』で,新生ソ連の威容を全く予感させない滅び行くモスクワを描くことで,ソ連と世界に対する不信任を表明しているかのようだ。

第2部「『モスクワ』の人間――カロープキンの神秘劇」では,カロープキンのイメージを中心に、小説の全体的なテーマの研究と,テーマとディテールの関係を考察する。この長大な小説の表面上のプロットは,カロープキンによるある科学的発見をめぐる国際スパイ達の暗躍,革命運動の高まり,四つの家庭の崩壊などの形而下的な出来事を軸に展開する。しかし,本論では,小説のそうした表面上のプロットに対して,小説の隠れたテーマ,小説の軸となるのは,イワン・カロープキンの精神的再生であるという仮定を立てる。なぜなら,イワン・カロープキンの精神的再生,復活という軸を中心に考えることで,一見不可解な『モスクワ』のストーリー展開,ディテールや,なぜマンドロがカロープキンの目を焼き,セラフィーマは目を治療するのか,なぜカロープキンは精神病院から退院した後に以前とは全く違う原理に基づいて行動するようになるのかなどの様々な謎が,初めて全体的な構図の中で理解できるようになるからである。

イワン・カロープキンの精神的変容と再生を,主に二つの観点から考察する。第一の視点は,眼,「見ること/見られること」という主題である。『モスクワ』中を埋め尽くすような夥しい目の描写が,実はカロープキンの精神的発展と拘わる重要な要素であることを論じる。カロープキンの精神的新生が,巨大な目になりたいという願望の消失の結果として生じたという仮定を立て,検証する。第二の視点は,『モスクワ』における聖書のコンテクストである。カロープキンの受難と再生は,キリストの十字架上の死と復活と密接に関わっている。第二部では,カロープキンの描写と聖書におけるキリスト像を比較し,両者の「復活」を比較する。『モスクワ』においては,「見ること」と聖書のテーマも互いに関連していることを論じる。ベールイの作品においては,狂気が,しばしばキリスト,預言者というテーマと結びつき,超越的世界へ参入する一つの方法として描かれていることにも注目し,カロープキンの狂気と精神的再生の関係を考察する。

小説の最終部において,カロープキンは,「新しいキリスト」として誰をも最終的に救済することができず,周囲の世界は滅亡に瀕したままである。カロープキンの神秘劇は,まだ途上であるか,あるいは壮大な失敗として描かれている。『モスクワ』で救済やカタルシスが示されないのは,『モスクワ』が未完の作品だからでもあるが,ベールイが否定の詩学を貫いた作家だからでもある。否定の詩学は,ベールイの創作上の原理であり,初期作品から『モスクワ』に至るまで,ベールイは作品において(一度は自分が熱狂的に受け入れた)様々な哲学,世界観,宗教を意識的に否定することで,それに代わる新しい世界観を探求しようとしてきた。たとえば『銀の鳩』では,村の教会におけるミサの場面や,聖なるロシアの野の光景が様々な手法で冒涜的に描写され,キリスト教や聖なるロシアのイメージが否定されていた。『ペテルブルク』で否定の対象となったのは,若い頃に傾倒したアルゴナウタイ神話,西洋哲学,都市文明,永遠の女性像である。それと同様に,『モスクワ』においても,古いキリスト教,学問,文明,シュタイナーの教義を否定し,革命,新しいキリスト像,ソ連にも希望を託そうとしなかった。むろん,作者自身の思想,世界観の変遷を作品に読み込むことには問題もある。作者と語り手は当然イコールではなく,一度書かれ始めた作品は独自の生を持っているからである。しかし,ベールイが,作品を,自分自身の思索を深め,思想的な諸問題を深く考察するための手段として位置づけていることも無視することはできない。「東か西か」という命題を設定して執筆した『ペテルブルク』でロシアの都市の運命を否定的に描いた後に,ヨーロッパへ旅立ち,シュタイナーの教団に身を投じたように,ベールイの作品と生涯はしばしば重なり合い,作品は芸術作品であるのみでなく自己探求的な場としての意味を持っている。また,ベールイは,作品を周囲の人への意思表明としてのメディアとして捉えてもいた。V.ブリューソフ,A.ブロークなどの同時代の作家達の作品を皮肉な形で引用し,彼らへの明らかな批判を随所に滲ませた。『モスクワ』も,ベールイのこのような否定の詩学の系譜に連なる作品である。

『モスクワ』において興味深いのは,先述のように,ベールイのソ連批判が隠されていることである。ソ連を称揚する作品と見せかけて,ソ連への批判,懐疑を何重にも塗り込めた『モスクワ』は,ベールイの「否定の詩学」の中でももっとも入り組んだ仕掛けを持っている。また,シュタイナーに関しては,ベールイは『モスクワ』執筆時にもなおシュタイナーと人智学を敬愛し,強い影響下にあったにもかかわらず,マンドロやドクトルという登場人物を通じて否定的に描くという矛盾した行動を取っている。ベールイは,回想記等で,自分達人智学の信徒はシュタイナーの子供であるという表現を使っている。シュタイナーへの複雑な愛憎から発した『モスクワ』におけるシュタイナー批判,マンドロ殺しは,ある意味で,ベールイにとっての父親殺しにほかならなかった(だからこそマンドロは,ベールイの父親をモデルにしたカロープキン教授の「影」であり,分身なのである)。

審査要旨 要旨を表示する

ロシア象徴主義のみならず,20世紀ロシア文学を代表する文学者の一人アンドレイ・ベールイ(1880-1934)は,詩・批評・小説・自伝などのジャンルで数多くの優れた作品を残しているが,中でも今日最も研究が盛んでまた高い評価を得ているのは『ペテルブルグ』(1913-1914)を代表作とする小説の分野での業績である。しかしこの分野の遺作である大作『モスクワ』3編(1926,1926,1933)に関しては,連作小説としては未完に終わってしまった経緯や言語面での過度の難解さの故か,従来の研究が主に伝記的,言語的側面に偏る傾向があったことは否めない。本論文で鴻野氏は近年飛躍的に増大した種々のベールイ関連研究資料を粘り強く博捜し,この作品の総合的解明・解釈に意欲的に取り組んでいる。

まず序論では先行研究の丁寧な吟味と,論文の目的・構成についての明確な説明がなされる。続く第1部では,世界観,思想,時代思潮といった不可視的なものが,登場人物の部屋,持ち物,衣服,さらには建物,風景など可視的なものの描写によって暗示的に表現されるというベールイの象徴主義的文学手法に注目し,作品中で描かれるモスクワという都市のイメージの具体的な細部が綿密に分析される。その結果導き出されるのは,『モスクワ』で描かれる古都モスクワが革命直前当時の古い滅び行くモスクワでありながら,同時に作品執筆当時の抑圧的なソ連的時空間の特徴も備えているというアナクロニズム的状況であり,そこにベールイの新生ソ連体制に対する不信任が密かに示されているとされる。

続く第2部では,第1部で示された背景の前に現れる人物像の周到な分析が行われる。鴻野氏は表面上のストーリーとは別に,小説の隠れた主題は主人公の精神的再生とその失敗であるという仮説を立てる。その実証のため,連作における主人公の精神的発展の跡が綿密にたどられ,科学者である主人公の真理探究と結びつく「見る」という行為の意味が幅広く分析される。その上でさらに作品中に見られるシューベルトの『冬の旅』のモチーフ,聖書的モチーフ,狂気のモチーフがそれを支える重要な傍証となることが説得的に示されている。

審査では方法論や伝記的資料の扱い方についての若干の疑問が呈され,またベールイ自身の時間的変化や文体・言語面の特徴に対する注意が不足しているという指摘などもなされた。しかし,一般読者の理解を拒もうとするかのような小説言語,支離滅裂で荒唐無稽とも感じられる筋立てのため,旧ソ連時代は失敗作と断じられることさえあった連作小説『モスクワ』を再評価し,正当な解釈の出発点に立たせることに成功した力業とも言える功績は審査委員会が一致して認めるところである。

以上により,本審査委員会は本論文が博士(文学)の学位授与に値するものとの結論に達した。

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