学位論文要旨



No 120883
著者(漢字) 細田,満和子
著者(英字)
著者(カナ) ホソダ,ミワコ
標題(和) 病いの経験と主体の「変容」 : 再び〈生きる〉ために
標題(洋)
報告番号 120883
報告番号 甲20883
学位授与日 2006.03.09
学位種別 課程博士
学位種類 博士(社会学)
学位記番号 博人第523号
研究科 人文社会系研究科
専攻 社会文化研究専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 教授 似田貝,香門
 東京大学 教授 松本,三和夫
 東京大学 教授 武川,正吾
 東京大学 助教授 佐藤,健二
 上智大学 教授 吉野,耕作
内容要旨 要旨を表示する

本論文は、中年期に脳卒中を発症した人々へのヒアリングと参与観察を基本的なデータとし、人生の途中で病いや障害を持つことを、主体の変容という観点から考察したものである。病いや障害を持つことは、人が自ら選び取ったものではなく、受身的にこうむる痛みや苦しみであり、当事者にとってそれまでの自分のあり方や生活が全く成り立たなくなってしまう危機と認識される状況をもたらす。この危機の状況の只中で彼らは、「新しい自分」になるという認識を得て、病気になる以前よりも向上した人間性を持つと認識するようになることがある。本論文では、これを主体の変容と捉える。主体が変容する契機としては、一定の条件を兼ね備えた重要な他者との相互行為が決定的に重要である。それを本論文では「出会い」と概念化した。「出会い」は、支え合うという関係性を持ちながら互いに行為しあうことである。脳卒中になった人々は、重要な他者によって支えられつつ、また自らが他者を支える人になるという、支え合いの関係性を作りながら、従来とは異なる「新しい自分」になるという変容を遂げるのだ。本論文では、この点に着目して、危機の只中から再び<生きる>までのプロセスを実証的に明らかにすることによって、受動的で弱くあることから出発する主体の形成について、その条件を示し、そうした主体の今日的意味を論じた。

序章では、中年期という人生の途中で脳卒中を病むという経験を研究対象にすることの目的と意義について述べた。脳卒中は、国民病といわれることもあるくらい多くの人が罹る可能性があり、心筋梗塞や癌と並んで死亡率の上位を占めている。この病気は、ある日突然に起こる脳血管の異常によって引き起こされ、生命の危機を脱したとしても後遺症として半身麻痺や失語などの障害が残ることが多い。発症後、人々はかつてのように動かすことのできない身体を抱え、それまでの仕事や社会生活を追われ、死を考えるほどの深い苦悩を経験するが、多くはその後の生を生き抜き、中には脳卒中の発症がかえって自分の生を豊かにしたという逆説を経験している人もいる。本論文ではそうした人々の辿ってきた過程に着目し、そこで起こっていることを主体の変容と捉えて検証した。ヒアリングをした人々のほとんどは、それまで健康で効率よく働けることに高い価値を置き、自らそのように振舞ってきた。そして、働き盛りと自他共に認める中年期に脳卒中になった。この状況は、当初人々にとって危機としか定義できないものであるが、彼らは自らの価値を大きく変更してその後の生を<生きる>ことを選択してきた。この彼らの辿ってきた経験を理解することによって、病いや障害を持つようになったとしても、絶望だけでなく希望を持てる可能性を示すことができる。

今日医療は人の誕生から死までに広く深く介入し、従来なら救命が不可能だった状態の人々の命を救える可能性は拡大し、病気や障害を持ちながら生きるという人々の状況を作り出した。また、老いることは病気や障害を伴うことであるが、高齢化の進展は、病気や障害を持ちながら生きるという状況を拡大させている。その一方で病気や障害を持つ人々や高齢者は、社会の周辺領域に追いやられ、施しを受ける者という存在のまま取り残されているという状況がある。こうした状況の下で、脳卒中になった人々へのフィールドワークを元に、人々が病気や障害を持ちながら生きる世界を明らかにすることは、健康で効率よく働くというひとつの価値に縛られることから自由になるとことによって拓かれる、現代社会における新しい主体像の可能性を示唆できる。

第一章では、病いになることをそれまで自明であった世界の崩壊として捉え、そのことが人々の<生きる>ことを困難なものにし、危機的な状況をもたらしていることを指摘した。人生の途中で脳卒中になり病気や障害を持つことは、当事者にとってそれまで当たり前で揺るぎないものとしてあった身体、生活、自己が崩壊する危機と認識される状況を作り出す。彼らは、健康で効率よく働け、他人に迷惑をかけないことを価値として内面化し、そうした能動的な存在こそまさに自分であると認識してきたが、脳卒中になると身体を自分で把握している感覚を奪われ、病人役割や障害者役割を押し付けられ社会生活を追われ、徹底した受動性の中で自己を喪失し、自分が何者であるのかという根源的な問いを突きつけられる。身体の麻痺は、麻痺であること以上の帰結をもたらすのだ。この時、家族もまた危機を迎える。成員のひとりが病いになった時、家族もその日常性に亀裂が入り、それまでの関係性を維持することが困難になる。第一章では、そうした自明性の崩壊としての危機の状況がいかにして現れてくるのかということを、インフォーマントの個別な生の経験として描き出した。

第二章では、人が病気になることや障害を持つことに関する先行研究を整理し、本研究の特徴を述べると共に課題を明確化した。まず、T.パーソンズやA.L.ストラウスらの医療社会学を概観し、パーソンズが概念化した病人役割の有効性と限界を検討し、病人役割の今日的展開について議論した。そして近年台頭してきている健康と病いの社会学や障害学を中心に、人が病気になることや障害を持つことに関する研究の蓄積を概観し、それらが十分に議論してこなかった受苦的で受動的な主体の立ち上がり、「弱い主体」が他者との相互行為によって支えられつつ主体化するという変容の過程についての関心の必要性を示し、本論文ではそのことに注目することを示し、テーマを明確化した。本論文では脳卒中になった人々へのヒアリングや患者会や病院での参与観察を元に、彼らが脳卒中になってから辿ってきた諸経験を当事者の視点から描き出すこと、その際病者・障害者と医療専門職や家族などの他者とが、互いの本性を変えるような変容を伴いながら支え合うという相互行為に着目し、それを「出会い」と概念化して検証するという課題を提示した。

第三章では、危機に陥った身体と生活を、医療という制度と自らの自発性の双方に導かれ、自らに課した課題を挑戦しては失敗するという試行錯誤を繰り返しながら、動かなかった身体を動くように訓練したり、復職して元の生活を回復しようとしたりする姿を、病いを克服する過程として描き出した。これは病人役割の遂行と解されることであるが、このように病いを克服しようとすることは、主体が立ち上がるひとつの道筋になっていることが改めて確認された。

第四章では、動かないことを前提にしつつ、歩いたり字を書いたりする動作を新しく獲得したりしながら、身体を再構築してゆく過程と、危機に陥った生活を、医療・福祉や会社の制度と自らの自発性の双方に導かれながら、試行錯誤を繰り返し、新しく模索したりして再構築してゆく過程を描いた。ここでは、病いや障害を受け容れて、それに合わせて身体の振舞い方や生活のあり様を変えてゆくことが、主体が立ち上がるひとつの道筋になっていることが示された。

第五章では、人々が、脳卒中になった後の生を生き抜くために、よそよそしくなり自分のものとして把握することができなくなった身体と生活と自己を取り戻し、かつ新たに作り上げてゆく姿を描いた。ここに危機における主体の立ち上がりが見出せる。他者から強要されることなく自らが身体や生活を新しく意味づけ、かつての活動的で能動的主体とは異なる、受動的で弱くあるがより豊かな「新しい自分」を見出すことによって、病いや障害を持つ生を豊かなものとして捉え返している姿が明らかになった。

第六章では、脳卒中の発症による危機的状況から、病いや障害を持ちながら生き抜くことが可能になるという転換点においては、決定的に重要な他者との相互行為(=「出会い」)が経験され、それによって「新しい自分」の誕生という主体の変容が促されていることを検討した。脳卒中になり、全てにおいて喪失感を抱き、自尊心を失い、他者からも尊敬されないようになったと考える人々は、互いに敬意を払う関係を作りうる他者と相互行為をすることによって、再び自尊心を取り戻し、病いや障害を持つ現在の自分を肯定できる認識を得ていることが指摘された。

最後に終章で、危機に陥った主体が再び<生きる>ために、かつての自明であった世界を相対化し、主体としてありうる可能性を広げていることを示した。病いや障害を持つ自分を肯定できる主体は、かつてのように健康で効率よく働ける活動主義的な強い者だけに高い価値を置くのではなく、自らの弱さを引き受けつつ、弱い者や虐げられた者などさまざまな生の在り様に共感やいとおしさを抱き敬意を払う存在となる。それは、人によって様々な具体的な形をとる、他者の個別の生に対して拓かれることである。こうして病いは主体が多様性に拓かれる契機になっているといえる。この弱さから出発する主体の形成過程は、健康で効率よく働ける強いものだけが支配層となることによってもたらされている閉塞した現代社会において、新しい主体像を構想する上での参照点になりうる。

審査要旨 要旨を表示する

本論文は、中年期に脳卒中を発症した人々の、人生途上の障害等による主体としての危機から再び希望をもって〈生きる〉までの過程を、ケース・スタディを用いて実証的に明らかにし、受動的で弱いところからの主体の再形成を考察することによって、人に生き方に多様に開かれている可能性を示そうとした研究である。

第一章は、この研究の課題と方法の枠組みを示すため、ひとが病や障害を持つことについて、特に、T.パーソンズが概念化した「病気役割論」、A.L.ストラウスらが定式化した「適応モデル」、最近展開しはじめた健康と病の社会学や障害学を主として社会学的の研究を整理し、そこからこれらが十分に展開してこなかった視点として、受苦的・受動的主体が、他者との相互行為によって、〈生きる〉という主体変容過程を主題化することを論じ、あわせて、方法的には個別的・具体的ひとびとの営みを、脳卒中になったひとびとへの集中的な聞き取り、患者会や病院の参与観察から行ったことを論じる。ひとの〈生〉を生命からコミュニケーション、身体、家庭生活、社会生活にわたる5つの位相を立て、各位相が危機になるとそれらはバラバラになり、逆に、このような状態から各位相を再統合することが、再び「生きる」という方向に向かうという理論的枠組みを提示し、この道筋を可能ならしめる条件がどのような関係、相互行為から生み出されるかを課題としている。

第二章は、これまで自明であった自分と自分を取り巻く環境世界が、病や障害が発症するとともに崩壊していくプロセスを、先の理論的枠組から論ずる。すなわち、働き盛りの中年期の脳卒中発症は、生命の危機(第1の位相)、コミュニケーション能力や身体を自分で把握する感覚の消失(第2、第3位相)、家族と暮らす生活の存続の危うさ(第4位相)、当事者は病人役割や障害者役割を引き受けざるを得なくなり、社会生活からの退出を余儀なくされる(第5位相)、という〈生〉をかたどる各位相が危機的に陥る。そこでは徹底した受動性とそれに伴う自己喪失が深く各人の全〈生〉を覆おうこと論じる。

第三章、第四章は、こうした〈生〉の危機から、可能性と不可能性の間を往復し、発症・障害によってよそよそしくなった自分の身体や家族生活、社会生活を、やがて「新しい自分」を見いだして、再び〈生きる〉という再形成の可能性の条件を、聞き取りによるケース・スタディから分析している。第三章では、ひとびとが試行錯誤しながら危機を克服していくプロセスとその道筋を、第四章では、可能な限り努力しても元には戻らないという限界性をひとはやがて受容していくプロセスを、いずれの章も、発症直後、救命病院、リハビリ病院を経て、自宅療養にいたる時間的推移と先の5つの位相を相互に組み合わせながら検証している。その結果、当該の主体が、医療専門職、家族、同病者等の他者との「出会い」により、相互に必要な関係を形成しているという経験的ファインディングスを見いだしている。

第五章は「あたらしい自分」になるための条件となる「出会い」と「変容」について総括を論じている。「各位相の再統合と自己の「変容」は同時相即的であるという。つまり、あたらしい自己の「変容」は、発症前の自己像(「仕事人間」、「会社人間」、「企業戦士」)のもつ自立的で、活動的ないわば「強い主体」から、自然を慈しむ自分、家族を大切に思う自分、他者から助けられながら生きる自分、というようなこれまでとは異なる新しい自己像を形成している。各位相はこのような自己像を取り結ぶレベルで安定化し、再統合されている、と論ずる。同様に、「出会い」と自己の「変容」もまた同時相即的関係にあるという。脳卒中になったひとの「変容」プロセスは、医療専門職、家族、同病者等の他者との「出会い」を不可欠な条件であり、またこれらの他者と自己とが相互に「変容」するということも、モメントであり、重要な条件であることが指摘される。

このように本論文は、危機に陥った主体が再び〈生きる〉ための試行錯誤の過程での〈出会い〉と〈変容〉は進展することによって、かつての自明的世界を相対化し、それによってひとの〈生〉の多様性への開示を論じている。

本論文については、実存的な〈生〉を経験的に把握し記述することの方法的課題性とか、再回復される〈生〉の多様化の広がりについて記述、「出会い」の関係の経験的条件の分析等に工夫が必要でないか、という意見にあった。

しかし、社会の中核をなす中年期年齢の病と障害による〈生〉の挫折からの立ち直り、受動性からの主体化というテーマは、高齢化社会のケア等の研究や、受難者の主体化の議論のフレイムワークに関するに多くの主題とその手がかりを与えた努力を貢献は大きい。

したがってこの研究は学界に大きく貢献するものく評価されよう。よって本審査委員会は、本論文が博士(社会学)の学位に相当すると判断する。

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