学位論文要旨



No 120884
著者(漢字) 井口,高志
著者(英字)
著者(カナ) イグチ,タカシ
標題(和) 呆けゆく者の自己をめぐるコミュニケーション : 認知症ケア「変革期」における他者理解の問題
標題(洋)
報告番号 120884
報告番号 甲20884
学位授与日 2006.03.09
学位種別 課程博士
学位種類 博士(社会学)
学位記番号 博人第524号
研究科 人文社会系研究科
専攻 社会文化研究専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 教授 武川,正吾
 東京大学 教授 上野,千鶴子
 東京大学 教授 佐藤,健二
 東京大学 助教授 佐藤,俊樹
 お茶の水女子大学 教授 平岡,公一
内容要旨 要旨を表示する

本稿は、家族介護者が、呆けゆく者とのコミュニケーション過程についての社会学的考察である。呆けと名指される身近な他者の変容と出会うわれわれが、呆けゆく者をどのように理解し付き合っているのか、その過程は、いかなる条件や社会関係によって支えられているのかといった諸点を明らかにすることを試みている。そうした考察が要される背景として、呆け・認知症に関する、新たな理解と対応の仕方のモデルが、現在、社会的な実践の中、ならびに社会学、精神医学、心理学をはじめとする学的な考察の中にも登場してきているという問題認識がある。新たな理解モデルとは、それまでの呆けゆく者への対応への反省を前提に、呆けゆく者を「人間」としてとらえ、彼/彼女の尊厳への配慮を強く説くという方向性のものである。そして、その方向性は、関係論的な自己という発想を中核に置く社会学と親和性が高い。だが、介護者たちは、呆けゆく者と出会っていく中で、相手の理解と付き合いを試みており、その過程で、既に呆けゆく相手の自己や人間性の存在に直面してきている。本稿では、そうした経験の実際を検討した上で、呆けゆく者を「人間」としてとらえるということの意味を問い直している。すなわち、新たなモデルの出現と強調という社会的状況の下、われわれが、呆けゆく者を「人間」としてとらえ、彼/彼女の自己に配慮して付き合っていくとはいかなることなのか/いかにしたらよいのか。そのために、社会学は何を考えていくべきなのか。さらに、新しいモデルが強調するような方向性は、呆けゆく者を「人間」としてとらえていく上で妥当なものなのか。それらの問題群について、呆けゆく者とのコミュニケーション過程の実証的検討を踏まえた上で、一定の見通しを導き出す試みなのである。

1章と2章とでは、本稿で呆けゆく者とのコミュニケーションを考察していく上での背景、すなわち呆けゆく者に対する、社会的および学的なまなざしの変容と現状について検討した。1章では、主に1980年代以降の、呆けや痴呆を含む要介護老人への「はたらきかけ」について言及している政策言説の変遷を素材に、相互作用の主体という認知症高齢者像の設定と、呆けや痴呆とされる人に対する周囲のかかわり方の重要性という認識が出現・強調されてきていることを確認した。一方、2章では、呆けや痴呆に関する社会学的な考察の展開について検討した。痴呆に関する社会学的な議論の典型的な形式である「認知症の医療化」論は、認知症症状と言われる相手の様態が、脳の器質的原因から生じると規定されていく傾向を、「生物-医療化」ととらえ、「生物-医療化」された認識モデル(=疾患モデル)に基づく「はたらきかけ」による、呆けゆく者の統制やアイデンティティの決めつけなどの否定的効果を批判してきた。そうした批判の延長に、周囲のかかわり方によって、認知症の「症状」とみなされている振る舞いが変容するという関係モデルが主張されたり、呆けゆく本人の自己の存在の実証を試みる研究が展開されてきた。

1、2章の考察からは、いくつか考察課題も抽出した。1章からは、相互作用の主体としての呆けゆく者の位置づけは、呆けゆく者と関わる周囲の者の有責性を意識させていくような論理にもなっていることが見出された。そのため、呆けゆく者と彼/彼女と付き合う周囲の者とが置かれている状況を踏まえて、その論理がもたらす帰結を検討していくことの重要性を指摘した。2章では、疾患モデルに対して関係モデルの重要性を素朴に提示していくという、社会的要因に配慮した認知症論の試みの不十分さを提起した。「認知症の医療化」論に代表される、これまでの社会学的な認知症論の本来の意義は、認知症という現象が、周囲からの何らかの認識モデルに基づくはたらきかけによって生じているという認知症現象の認識論(=<関係モデル>)の提示であった。そうした認識論の立場に立つと、疾患モデルに基づく周囲からの「はたらきかけ」も、<関係モデル>の枠内で説明される現象となる。そのため、社会学的な実証研究は、関係モデルを素朴に示していく作業ではなく、(1)呆けゆく者との出会いの局面で重要だとされている疾患モデル参照の効果の問い直しを起点に、(2)介護者は呆けゆく者をいかなる存在として定義してコミュニケーションを継続しているのかということを精緻に分析し、(3)その上で、関係モデルの強調という傾向がもたらす帰結へと考察を進めていく必要がある。

3章以降は、呆けゆく者と/をめぐるコミュニケーション過程を、事例を基に考察していった。3章では、呆けゆく者との出会いの局面に注目し、家族介護者が、呆けゆく者と出会っていく際に、相手をどのように理解していくのかを、特に、認知症に関する知識(疾患モデル)の獲得と参照という観点から考察した。疾患モデルという知識に基づく、呆けゆく者の「問題行動」の解釈・理解は、出会いの局面で直面する、相手の行動を免責していく上で、重要な役割を果たしている。だが、より重要な発見は、そのモデルに基づく理解を、実際のコミュニケーション過程で貫徹することが困難だということであった。困難なのは、呆けの過程の特性、相手との慣れ親しみといった要因から、相手の「正常な人間」像に出会わざるを得ないためである。続いて4章と5章とでは、介護者として介護を継続していく中で、呆けゆく者が、いかなる存在として定義付けられていくことになるのかを考察した。呆けや認知症とされている人への介護ではない事例も含む3つの家族介護の過程を比較考察する中から、呆けゆく者に対する介護過程の特徴について指摘した。その特徴の1つは、「正常な人間」という目的を置き、それに対する手段の連鎖を設定するといった相手に対する「はたらきかけ」の形が、特に困難となっていくということであった。より重要な2点目は、「はたらきかけ」の目標とすることが難しいが、「正常な人間」という他者像の想定を持ち続けざるを得ず、また「正常な人間」としての面を見出すことが、肯定的な経験として介護者の目標とされていくということだった。そのため、「正常な人間」像と「衰える相手」の双方を付与するような、両義的な他者定義のまま呆けゆく者との付き合いの過程は続いていかざるを得ないのであった。

6、7章では、3、4、5章で見た他者定義の特徴を踏まえて、介護者と呆けゆく者との外部の他者とのコミュニケーションが持つ効果を考察した。6章では、呆けゆく者を見つめる介護者同士の集まりが持つ意味を「話し合い」活動に注目して考察した。「話し合い」活動が介護者にもたらす効果は、(1)目標設定の困難さ(5章)に対して代替の目標設定の機会を提供することと、(2)呆けゆく者とのコミュニケーションの中で直面し、保持せざるを得ない「正常な人間」像(3章、5章)を所与として認めた上で「問題行動」の理解や免責を試みることであった。7章では、呆けゆく者自身の身体が、介護者との関係以外の社会関係に入ることの重要性を指摘した。呆けゆく者とのコミュニケーションの中で、介護者が、相手の「人間性」の存在の発見を強く目的とするがゆえに、相手の意思・意図のリアリティが失われるという逆説が見出された。そうした状況に対して、呆けゆく者が、介護者とは違う他者との関係に入り、その様子を介護者自身が見ることや、第三者から、別の社会関係の中の呆けゆく者の様子を指摘されることが、呆けゆく者が意思・意図を有している存在であるというリアリティ感覚を保持するために重要になってくる。

以下2点を結論として指摘した。第1点は、呆けゆく者を「人間」としてとらえ続けていくためには、疾患モデルに対立する関係モデルという図式の強調のもとで、相手の意思・意図への配慮を単純に強調していくだけでは不十分だということである。介護者は、身近な者の呆けとの出会いの中で、「正常な人間」としての姿に既に出会っており、それは疾患モデルに基づく理解の必要性を自覚していても消去されない。むしろ、疾患モデルに基づく理解が貫徹できないことが、関係モデルの目標である「人間」としての配慮に反してしまう場合もある。その点を踏まえると、6、7章で検討したように、以前から知る相手の意思・意図と付き合うことを支える他者、あるいは新たな「人間」としての姿の発見を可能にするような他者の存在が重要になってくる。第2点は、「関係」の内実を問い直した上で、呆けゆく者を取り巻く周囲の主体への責任帰属のメカニズムを探求していくという、これからの認知症の社会学の取り組むべき方向性である。関係モデルの提示する<関係>とは、主体の意図的なはたらきかけに還元できないような場(先駆的な宅老所やグループホームなど)における呆けゆく者の変容を根拠に主張された。そうした場における呆けゆく者の変容とは、呆けゆく者の「人間性」の発見という介護者にとっての肯定的な経験に資するような出来事である。だが、日常的な介護場面において、呆けゆく者の変容は、最も近しい位置で介護・ケアを行う者の行為や能力に帰責されがちである。特に、呆けゆく者へのはたらきかけのための十分な資源がない状況での目標水準の上昇(=はたらきかけによる呆けゆく者の変容の可能性)は、「無限定」な介護遂行を要請する可能性を有している。その点を踏まえた、認知症の社会学の第一の課題は、呆けゆく者を取り巻く関係の中で、不可避に生じる責任帰属のメカニズムについて考察し、その責任帰属の存在を踏まえて呆けゆく者の自己の存在を経験できる場や条件を見出していくことである。

審査要旨 要旨を表示する

この論文は認知症患者のことを「呆けゆく者」と規定している.本研究は,この「呆けゆく者」とその家族介護者との間のコミュニケーションの過程を,自らのフィールドワークに依拠しながら実証的に明らかにしようとしたものである.近年の認知症ケアは,患者の主体性を重視するようになっており,論文題目が示すように,現在は認知症ケアの「変革期」にあたる.このようなケアのあり方の変化のなかで,「呆けゆく者」と家族とのコミュニケーション過程がどのような状態に置かれるようになっているか,といった点を社会学的に明らかにすることが本論文の目的である.

本論文は大きく三つの部分に分けることができる.最初の部分(1章と2章)では,1960年代から現在に至る日本の高齢者ケア政策における言説と認知症に関する社会学的研究の成果を資料としながら,認知症に対する「まなざし」の変化が分析される.その結果,従来の疾患モデルに立脚した認知症理解が,次第に,関係モデルに立脚したものへと変化を遂げてきたことが明らかにされる.さらに,この関係モデルに対して,著者は社会学的な観点からの洗練を加えている.第二の部分(3章〜5章)では,家族介護者へのインテンシブな面接調査のデータを利用しながら,「呆けゆく者」と家族介護者のコミュニケーション過程を明らかにしている.家族介護者は,「呆けゆく者」との出会いのなかで,相手の「正常な人間」像に直面するために,相手の「問題行動」を免責することが困難となる.また,家族と「呆けゆく者」との関係は,異質な他者との一時的な出会いではなく,相手の生活を支える介護関係として展開していくことになる.このため介護者は通常とは異なるコミュニケーション上の課題を引き受けることになる.第三の部分(6章と7章)では,介護者同士の集まりやデイサービスなどをつうじて「呆けゆく者」と関わる複数他者と接することが,家族介護者にとって重要な意味を持っていることが明らかにされる.さらに「呆けゆく者」を一人の人間として扱ううえで,こうした複数他者の存在が介護者に対する支援の機能を果たしていることが論じられる.

本論文の審査の過程では,家族介護者だけでなく施設介護者への言及も必要ではないか,使用するデータがナラティブに限定されているが,観察データも用いるべきではないか,などの意見も出された.しかし本論文は,以下の点で,社会学の研究に対する貢献が少なくない.(1) 認知症ケアの「変革期」にあって,自我を有する人間としての「呆けゆく者」とのコミュニケーションは,社会学の先端的な研究テーマである.本論文は,このテーマに対して,長期のフィールドワークから得られた詳細なデータを提供した.(2) このテーマに関する従来の社会学の研究は,負担感研究,ソーシャルサポート研究などとして行われてきたが,本論文は,介護者と被介護者の二者間関係の外部にあるコミュニケーションに注目した点,ミクロの水準のコミュニケーション分析とマクロの水準の認知症ケアの思想の変化を結びつけようとした点などにおいて従来の研究にはない独自性を備えている.(3) 医療社会学の蓄積を踏まえて,社会学的な<関係モデル>を提起している.

よって当審査委員会は,本論文が博士(社会学)の学位を授与するに値するとの結論に到達した.

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