学位論文要旨



No 120887
著者(漢字) 板垣,竜太
著者(英字)
著者(カナ) イタガキ,リュウタ
標題(和) 朝鮮の地域社会における植民地経験 : 慶北尚州の歴史民族誌
標題(洋) Colonial Experience in Korean Local Society : A Historical Ethnography of Sangju, Kyeong-buk
報告番号 120887
報告番号 甲20887
学位授与日 2006.03.09
学位種別 課程博士
学位種類 博士(学術)
学位記番号 博総合第620号
研究科 総合文化研究科
専攻 超域文化科学専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 教授 伊藤,亜人
 東京大学 助教授 岩本,通弥
 東京大学 助教授 長谷川,まゆ帆
 東京大学 助教授 名和,克郎
 東京大学 教授 吉田,光男
内容要旨 要旨を表示する

本論文は、朝鮮の地域社会における植民地経験を、慶尚北道尚州(Sangju)の事例を中心として具体的に明らかにすることを目的としている。本論文の焦点は<近代>、なかんずく1920〜30年代の社会変化であるが、それを16〜19世紀の<近世>に形成されてきた社会関係の持続と転換という観点から明らかにする。地域社会の分析スケールは<邑>(=郡県)である。尚州という<邑>の社会変化について、地域史料・刊行物・政府記録などの広範囲な史料調査と聞き取り調査を併用し、多角度から分厚く記述する。

第1章では、<近世>の尚州の社会構造を動態的に概括した。

「尚州牧」は、高麗時代から朝鮮王朝時代にかけて、徐々に<邑>として形成されていった。ここに地域社会における支配エリートとして定着していったのが士族であった。ほとんどの士族は14〜17世紀にかけて尚州に「入郷」してきた。士族は農村部に定着し、16世紀頃になると、郷案・郷射堂・洞約・書堂などを媒介として、相互の結束を固め、地域の支配を強めていった。そこに起こったのが壬辰倭乱(1592)であった。乱に対し、多くの士族は義兵として立ち上がった。乱後、そうした士族やその家門が中心となって復興が進められるとともに、書院建設や邑誌の編纂など、それまで以上に地域エリートとしてのネットワークを強め、地域社会の支配秩序をつくりだしていった。一方、吏族は世襲の役務として地方行政実務を担当する地域エリートであり、士族よりは一段低く扱われていた。吏族は郷役を分担しながら地方行政を担うとともに、邑内(邑城およびその周辺)を中心とした活動を展開していった。

19世紀になると、そうした地域エリートの支配秩序は変動を示すようになった。士族志向の吏族、「幼学」をかたる民衆などがあらわれたり、士族から「土豪」となる一族が出てきたりなど、士族の権威が徐々に揺るがされていた。また官、吏、土豪らによる民衆への収奪が激しくなっていき、小農民の間では不満が広まった。そうした中で壬戌民乱(1862年)や、甲午農民戦争(1894年)が起こった。こうした矛盾を抱えながら、<近世>の関係性が<近代>に持続していくことになった。

第2章では、20世紀前半における尚州社会の変容を、「植民地化」と「都市化」という側面から検討した。

「植民地化」のプロセスに関しては、軍隊・警察という植民地支配の暴力装置の展開、官僚機構の再編、日本人社会の形成という3つの側面から検討した。1907年以降、日本の軍隊が、尚州にも入り込み、警察と結合して1910年代の憲兵警察制度が確立した。1919年に普通警察制度に転換するとともに急速に駐在所が拡充され、1920年までに1面1駐在所制度が確立した。官僚機構に関しては、まず韓末の徴税制度改革とともに、地方行政を担っていた郡守−郷吏が排除され、日本人官僚が入り込んできた。1910年代には郡の下の「面」が急速に末端の官僚機構として拡充され、30年代になると、農村振興運動を契機に、「面」の下の「部落」に統制が及んでいくことになる。こうした支配機構の再編とともに、尚州社会に植民者たる日本人が入り込んできた。日本人は、邑内を中心に居住し、邑内人口の8〜12%を占めていた。職業構成としてはまず商業・交通業が多く、ついで農業、公務・自由業、工業の順となっていた。

そうした中で、邑内の再編が進んだ。邑城および官衙は併合に前後して、植民地行政機関が置かれるなど換骨奪胎させられていった。また邑内は、産業構成、交通、風景などの点において農村部とは異質な「市街地」となっていった。

こうした変化にさらされた農村部を、養蚕業と酒造業を中心に検討した。養蚕業においては、1910年代に繊維資本に適合するように行政の介入が急速に進み、1920年代後半になると、繊維大資本と行政が直接養蚕農家を支配に置こうとする動きが加速した。しかし尚州では<近世>以来の養蚕業の地域的広がりがあり、地元で製糸・製紬されたものがかなりの程度みられた。一方、酒造業においては、酒税法令の導入により、自家用酒造ができなくなるとともに、地域資本家としての酒造業者が形成されていった。しかし<近世>以来社会に深く浸透していた酒類の自家用酒造は絶えることがなく、それに対し税務署と酒造業者がつるんで「密造」摘発をおこなうなど、酒の製造は、植民地当局−地元資本−農家が対峙する日常的な政治の場となっていった。

第3章は植民地期における地域エリートの転換について論じた。

士族および吏族のネットワークは、植民地支配下での変化に呼応しつつも、積極的に存続されていた。一方、邑内の事業で士族・郷吏の地域エリートが共同で事業をおこなうなど、新たな結合の様態もみられた。

こうした状況は、三一運動や、1920年代に地方においても開けた政治空間にも反映していた。尚州の三一運動は、士族家門出身ないし漢文の素養をもった者で、なおかつ新式教育を受けた「青年」または「有志」とよばれる人々がかなりの役割を果たしていた。また、1920年代において地域の社会運動を主導していたのはやはり「青年」「有志」であったが、その一方で、そのなかには士族や吏族の家門の者が多数いた。そうした政治の場として格別の空間だったのが邑内である。邑内には多様な団体が集中していただけでなく、青年会や新幹会のように、邑内を中心として農村部とも連動した運動体が出現した。日本人と朝鮮人の民族対立や、新旧のエリート間の対立がより明確にみえるのも邑内においてだった。

このように、いわゆる「文化政治」下で邑内を中心に限定的ながら開かれた政治空間は、1920年代の後半以降、徐々に官憲の介入を被る等の理由によって変容したり、淘汰されたりしていった。それとともに「有志」ということばの意味が、次第に体制に近い有力者というような意味合いに固定化していったと考えられる。

第4章は、教育を軸として、社会変化の様態を明らかにした。

<近世>の漢文教育の場は、士族家庭の男性とそのネットワークを中心に、家庭―独先生―私塾―書堂のように重層的に連なって形成されていた。書院や郷校の教育機能はいち早く喪失したが、書堂や家庭の漢文教育は植民地期を通じて幅広く存続した。一方、士族の中には、ネットワークを利用して韓末に新式の学校を建てようという運動を展開する者もあらわれた。

1910年代には学校数・生徒数において漢文教育施設がはるかに圧倒していたが、1920年代に入ると、新たな動きが二つあらわれてくる。一つは「有志」らによって私設の講習所が結成されたことである。そうした講習所は、毎年道当局の認可を受けなければならないなど、制度的に不安定な側面をもっており、1930年代になると影を潜めることになった。もう一つは、公立普通学校(公普)の設立運動である。公普は地域の「有志」の運動によって建てられ、しばしば講習所設立の財政的な基盤を吸収統合するかたちで設立された。新しくできた学校は父兄会をはじめとした組織化、行事の開催、農業経営への介入などを通じて地域社会との関係を構築していった。

こうしたなかで、学校に通う者も徐々に増えてきた。しかし学校の絶対的な少なさに加え、市街地であるかどうか、いつ頃普通学校が設立されたか、男か女かといった要因に規定されて、広く不就学者を生みだしていた。本論文では、学籍簿・除籍簿から学校と子どもとの関係を具体的に分析した。1920年代には漢文教育・私設講習所などのオルタナティブな教育施設が入学前の学歴として大きな位置を占めていたが、30年代になると徐々に周辺化していった。それと並行して通学者の低年齢化が進行した。また、学校への就学が経済的条件によって左右され、そうした階級性は女児においては男児よりも鮮明にあらわれた。さらに除籍簿の分析からは、10人に1人の退学者という流動性の高さに加え、階級による退学動機の差異が明らかになった。

第5章は、第1〜4章で記述したような<近代>の社会を生きる日常の経験とはどのようなものかについて1930年代の一農村青年「S氏」の日記の記述に即して検討した。

まず、S氏の消費行動を中心とした検討からは、メディア、通信、交通、時計、医療などと新たな文物を積極的に取り入れつつも、かならずしもそれを全面的に受容するわけでもなく、陰暦や漢方医療を評価したりなど、「旧い」と思ったものを価値に見いだすということもあった。これは、<近世>の関係性が広く残る地域社会において生活するなかで身体化されたものの根強さを物語っているといえる。すなわち、S氏は単純に受動的に消費行動をしていたのではなく、自らの置かれた社会条件のなかで能動的に取捨選択をしながら活動していたことをみてとることができる。

S氏の社会認識に関係した日記の叙述からは、新しい文物への接し方と旧いものへの思い、農村へのアンビバレントなまなざし、都市へのあこがれ、分裂した「日本」の存在、働くことへの思いなど、社会に対するS氏の認識を見いだすことができた。と同時に、目の前の貧困から「同胞」を想像したり、面事務所で日本語が強制されて「困難」を感じたり、「憂鬱症」になやまされたりなどの矛盾や暴力の痕跡を垣間見ることができた。すなわち、S氏の経験において、<近世>と植民地支配下の矛盾を含む<近代>とが重層的に折り重なっていたのである。

以上のように、<近世>の関係性の持続と、<近代>の不均等性とが重層的に絡まり合いながら、地域社会における植民地経験をかたちづくっていったのである。

審査要旨 要旨を表示する

本論文は植民地期の朝鮮における社会変化の実態を、慶尚北道尚州という地域社会を事例として、近世から植民地体制にいたる長い歴史的な軸のもとに、多角的かつ重層的に記述・分析したものである。

本論文は序論と五つの章と結論とからなっている。

序論では本論文の問題設定がなされている。人々による具体的な植民地経験を記述するための準備として、それ以前の社会過程を近世という概念で捉え、植民地以後の近代については「植民地近代論」を採用する展望が示される。そして「植民地近代」の経験を、近世における地域社会の状況を踏まえて、植民地化に伴う新たな制度的状況、地域エリ−トの政治空間の変容、新式教育の展開について検証した後、具体的な個人の側から植民地近代の実際の経験によって吟味するという本論文の方針と構成が示されている。

第1章では、尚州における近世が形成される過程について、地理的条件、郡行政の邑の成立、後の植民地体制において重要な地域エリ−トを提供した漢文知識層の士族と彼らの婚姻および書院を拠点にしたネットワ−クの形成、郷吏層の形成と活動が具体的に紹介されている。

第2章では、植民地化の具体的な記述として、軍事警察面の支配装置の確立と、地方行政の拡充と農村振興運動における農村への組織的な介入過程、邑内の市街地化、商業的農業への産業政策の介入の事例として養蚕業と酒造業の例が検証されている。

第3章では、地域エリ−トのネットワ−クが担った三一独立運動とその後の社会運動の諸団体の動向を通して、「有志」や「青年」の政治活動の先鋭化した動きが官憲の弾圧を受ける一方で、30年代以降は地域内で体制内化してゆく過程と、その近代経験の有り方を出版物の分析によって明らかにしている。

第4章では、近世以来の地域エリ−トの知識基盤である漢文教育が、植民地政策による新式教育とどのように共存しながらやがて吸収されていったのか、また彼ら「有志」が学校設立にどのように関わったのかという点から、「植民地近代」を教育面においてどのように経験したかを、具体的な学校の事例について検証している。

以上の章が、地域社会における植民地化過程の状況について、主として制度と組織および事業と運動に注目して、地域エリ−ト層の関与と経験を農業・経済や政治・思想や教育・啓蒙といった分野について検証したのに対して、第5章では、個人の具体的な生活に即した植民地経験を取り上げることによって検討するものであり、筆者は日記の分析によって、植民地の農村青年の置かれた複雑な状況を生き生きと分析している。そして、最後に全体の論点を的確に総括して結論としている。

本論文は、時期としては植民地期という今世紀前半を対象としており、しかも多くの文献資料を用いているが、その分析にあたっては、地域社会の持続と変遷についての考察、士族・吏族というエリ−ト社会における社会関係と組織と活動についての認識、運動や組織における多様性と重層性および指導や運営に関する洞察、個人の状況認識や行動の両義性などの洞察などの点で、複雑社会を扱う人類学的な考察が存分に発揮されており、厚みのある民族誌による記述・分析として高く評価される。

さらに、植民地期の朝鮮社会の研究として本論文が評価される点をより具体的に示すなら、次のとおりである。

植民地期朝鮮の社会変化の研究として、特定の地域社会について近世状況からの持続的な展開の中に植民地過程を位置づけ、植民地行政の介入と地域住民との相互性の中で捉えている。

社会変動を経験する主体として地域エリ−トに注目することによって、士族社会の人類学・歴史学的な研究を踏まえ、かれらの行動を通して植民地経験の具体的な記述に成功している。

地域社会の単位として具体的な邑を設定することによって、「植民地近代論」について行政、農業経済・政治・思想運動、教育・啓蒙活動の諸分野にわたって相互関連のもとに集約的な記述によって明らかにした。

植民地という体制、地域エリ−トという範疇、組織や制度や運動という集合的な状況を扱う一方で、特定個人の行動と認識についてきわめて微視的な接近法を併用しており、レヴェルの異なる現実をつき合わせて相互検証することによって、社会記述に厚みと説得力をもたらしている。

植民地状況における個人の近代経験に迫る方法として、S氏という個人の日記資料を活用して、日常生活に注目した記述と分析はたいへん斬新なものである。日記の中でS氏は植民地そのものについて直接は言及していないが、筆者は、日記の中にしばしば登場する新聞、雑誌、蓄音機、郵便、鉄道と駅、時間と暦、病院と薬、衛生と理髪といった具体的な物や消費に注目して、それら「新しいもの」が「近代のメディア」として、青年S氏の生活空間にどのように作用したのかを慎重に分析することによって、植民地経験を個人の認識と行動を踏まえて記述している。とりわけ、「新しいもの」と「旧いもの」、都市と農村の対比をめぐるS氏のアンビバレントな表現に注目した分析は、植民地状況における仕事の評価では満たされない知識青年の「憂鬱」な生活現実を明らかにしている点で、たいへん優れた成果と評価できる。

このように本論文は、問題の設定からはじめて、近世についての歴史的な状況を踏まえた上で、植民地化過程における近代経験としての具体的な社会変化の記述、そうした「植民地近代」を経験する個人の内面の葛藤に至るまで、一貫して「植民地近代」の実態に迫っており、民族誌的な記述・分析に成功している。また、複雑かつ難題といえる植民地期における社会変化の実態研究において、日記を含めて多彩な文献資料を活用することによって、植民地経験のアンビバレントな様相を浮き彫りにする上で、意欲的で独創性あふれる手法を提起した点でも貴重な成果である。

審査委員の中からは、朝鮮社会の歴史的な専門用語について注の中で多少の説明が欲しい箇所があるという意見が出されたほかは、ほとんど欠点らしい欠点も指摘されず、全体としてたいへん完成度の高いという評価で審査委員の意見は一致した。

したがって、審査委員会は本論文が博士(学術)の学位に相応しいものと認定した。

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