学位論文要旨



No 120889
著者(漢字) 市野川,桃子
著者(英字)
著者(カナ) イチノカワ,モモコ
標題(和) プランクトンの個体サイズを基にした食物網構造 : 沖合い表層の3生態系比較
標題(洋) Oceanic food web structures based on the plankton body size : comparison of three epi-pelagic plankton ecosystems
報告番号 120889
報告番号 甲20889
学位授与日 2006.03.09
学位種別 課程博士
学位種類 博士(学術)
学位記番号 博総合第622号
研究科 総合文化研究科
専攻 広域科学専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 教授 嶋田,正和
 東京大学 助教授 伊藤,元己
 東京大学 助教授 増田,建
 高知大学 教授 橋,正征
 長崎大学 教授 石坂,丞二
内容要旨 要旨を表示する

序論

海洋の外洋域生態系において、表層の光合成環境下での浮遊生物群集が形成する食物網は、漁業生産や物質の鉛直輸送といった外洋の生態系機能を支えている。浮遊生物群集が一次生産段階を支える食物網/生態系モデルを用いて、外洋域の生態系機能を再現・予測する多くの研究が進められている。その際、食物網の構造は、モデルの動態や安定性に大きな影響を及ぼすため、構造のより正確な理解が必要である。また、ただ一口に外洋浮遊生態系といっても、熱帯から寒帯にいたる大きな環境変化のある海洋では、地理的に食物網構造が異なっている可能性がある。例えば、熱帯や亜熱帯の貧栄養・高水温環境では、微小な植物プランクトンが優占する傾向が強く、特定の高次捕食者へ至るまでの食物連鎖数が長くなると考えられる。特定の捕食者までの食物連鎖数は、長ければ長いほど、一次生産物が上位の栄養段階へ効率的に伝達されないことを示す。しかし、食物網の複雑性や食物連鎖数を定量化し、海域間で比較した研究はまだない。

特に、群集が非常に微小なプランクトンで構成されていて把握が難しいこと、外洋域調査の利便性の悪さといった理由から、外洋域の浮遊生物群集の食物網構造はまだ概念的にしか理解されていない。一般に、プランクトン捕食者の捕食では餌と自身の個体サイズ比が深く関係する。そのため、プランクトンの体サイズを一桁ごとのピコ (0.2-2μm)、ナノ (2-20μm)、ミクロ (20-200μm)、メソ(200μm以上)プランクトンと分類し、ピコ→ナノ→ミクロ→メソという捕食・被食関係が多くの食物網モデルに当てはめられている (図1)。

しかし、実際の外洋表層浮遊生物群集は、個体サイズや分類群がともに多様な種で構成されている。さらに、同じ個体サイズの捕食者でも、最適な餌の大きさは捕食形式によって異なることも明らかになっている (Hansen et al. 1994)。また、捕食のサイズ依存性を考えると、同一の捕食形式を持つ捕食者でも、体サイズの違いによって餌の大きさが異なると考えられる。そのため、プランクトン群集の食物網の構造把握では、捕食者の捕食特性と個体サイズの両方を考慮する必要がある。

本研究は、外洋表層浮遊生物群集の実測データを用い、分類群と捕食形式をもとにした機能群と個体サイズの両方を考慮した食物網構造を推定し、外洋域生態系におけるプランクトン食物網の機能評価を目的とした。そのために、食物網の複雑性と食物連鎖数を定量的に推定する食物網指標を定義し、この指標を用いて、異なった海域の浮遊生態系の特徴の把握を試みた。対象として、東経175度に沿った熱帯域 (北緯0度、第2, 3章)、亜熱帯域 (北緯24度、第4章)、亜寒帯域 (北緯44または48度、第5章) と、環境が大きく異なる3海域を選んだ。3海域で推定した食物網指標の比較から、プランクトンの群集組成の違いによる生態系機能への影響を評価した (第6章)。本研究で用いたプランクトンの野外観測データは、新エネルギー・産業技術総合開発機構の受託事業である「海洋中の炭素循環メカニズムの調査研究」 (North Pacific Carbon Cycle Study, NOPACCS, 1990-1996) で得られたものである。この調査研究では、西部太平洋の東経175度の北緯0度、24度、44または48度の水深0-200mにおける全プランクトンが、毎年ほぼ同時期に同じ方法で採取・固定・同定され、大きさ別の生物量が測定されている。

サイズ依存捕食を仮定して推定した赤道外洋浮遊生物群集の食物網の構造と機能

対象浮遊生物群集で見いだされた全プランクトンは、捕食形式と分類群をもとにして定義した10機能群と20個体サイズ区分に分類された。サイズ区分は、0.2μmから20000μmの5桁にわたるサイズ範囲を0.25桁ごとに20分割したものである。食物網は、この機能群と個体サイズを考慮したコンパートメント間の捕食・被食関係で表した。捕食者の捕食は、文献情報で植食と肉食に分け、さらに捕食サイズを文献で得て、実際の捕食活動を推定した。さらに、本研究では植物プランクトンとバクテリア(本研究では、植物プランクトンの生産物の侵出分が一次生産に組み込まれていないので、従属栄養バクテリアがそれらを利用すると仮定した)を基底生産者とし、生態効率を0.22-0.30と仮定した。

1990-1994年の年1回、計5回分の赤道域のデータをもとに食物網構造を推定し、さらに食物網内での炭素流を求めた。その結果、対象生物群集内の主要な捕食・被食関係は従来の概念的な食物網 (図1) とよく一致した。さらに、主要な炭素経路に加えて、年によってミクロ動物プランクトンによるピコプランクトンやミクロプランクトンの捕食が優占し、カイアシ類にいたるまでの食物連鎖数が変化していた。また、この食物網解析で推定されたカイアシ類の総捕食量は、経験式で推定した炭素要求量を常に下回った。そのため、対象群集内のカイアシ類の現存量の支持機構は、定常状態下での生食食物連鎖だけでは説明できず、デトライタス食や食物網構造の非定常性を考慮する必要性が示唆された。

分類群の解像度および関連パラメータが食物網指標の計算結果に与える影響

食物網構造の特徴を示す指標として、カイアシ類にいたる平均食物連鎖数とカイアシ類の群集呼吸効率(カイアシ類への炭素供給速度に対する全カイアシ類の呼吸速度の割合)を考えた。さらに、これらの食物網指標が食物網の解像度および仮定したパラメータに対する依存性を調べた。

対象とした赤道浮遊生物群集において、カイアシ類にいたる平均食物連鎖数は、赤道湧昇が見られ栄養環境の良好な1994年が貧栄養状態の1990-1993年に比べて約0.3短くなっていた。これは、1994年の原核緑藻類(ピコ植物プランクトン)が、他の年に比べて植物プランクトンの総生物量内で占める割合が低かったことを影響していた。

また、カイアシ類の食性を、雑食に加えて、肉食を考慮することで、平均食物連鎖数は長くなった。また、デトライタス食を加えることで、カイアシ類の呼吸効率は約一割程度小さくなった。しかし、カイアシ類の全生物量の7-22% を占めたデトライタス食者のカイアシ類は、第2章で推定した炭素不足の説明に不十分であることも明らかとなった。さらに、パラメータの不確実性を考慮しても、ほとんどの場合で、カイアシ類の群集呼吸は非現実的な高い値の範囲をとった。これより、カイアシ類の炭素要求量が供給量を上回る現象は、食物網の記述不足やパラメータの不確実性の問題ではなく、対象生物群集動態の非定常性を示しているものと考えられた。

亜熱帯外洋浮遊生物群集の食物網の構造と機能

亜熱帯域のプランクトン群集では、赤道域と同様に原核緑藻類とバクテリアが優占し、両者が全生物の66-87%を占めた。後生動物は原生動物の0.5-2倍の生物量があった。また、貧栄養状態が赤道域よりも顕著だったため、一次生産速度は赤道域の約半分で、原核緑藻類も赤道域に比べてより優占していた。

そのため、総一次生産物を捕食する原生動物プランクトンの割合は84-94%となり、赤道域 (74-89%) に比べて微生物食物網の卓越が顕著であった。その結果、カイアシ類にいたる平均食物連鎖数 2.4-2.8は、赤道域の 2.1-2.5 に比べて長くなった。従って、亜熱帯の表層浮遊生物群集は、赤道域に比べて一次生産が低いだけでなく、高次生産を支える食物網自体も非効率的な構造を持っていることが示唆された。そのため、カイアシ類の群集呼吸率も赤道域のものより高くなっていた。

亜寒帯外洋浮遊生物群集の食物網の構造と機能

亜寒帯域のプランクトン群集では、植物プランクトンと後生動物プランクトンの全生物量の変動係数が赤道や亜熱帯群集に比べて高く、季節変動の影響を大きく受けていることが推察された。特に、カイアシ類の総生物量は最少の321 mg C m-2と最大の12883 mg C m-2で、約40倍の差が見られた。また、植物プランクトン群集に原核緑藻類の出現は見られず、年によって、ナノ・ミクロ植物プランクトンが優占していた。カイアシ類が直接捕食可能な大型植物プランクトンの割合が高く、カイアシ類にいたる平均食物連鎖数の1.6-2.0 は赤道域・亜熱帯域に比べて短かった。また、一次生産速度が高かった1991, 1996 年以外の1992−1995年は、カイアシ類への炭素供給量の不足も見られた。

総合考察

カイアシ類にいたる平均食物連鎖数は、亜寒帯域、赤道域、亜熱帯域の順に長くなった (図2)。これは、この順に原核緑藻類が植物プランクトン内で占める割合が小さく、その結果、原生動物プランクトンの一次生産の消費割合が増し、カイアシ類にいたる食物連鎖数が長くなったためである。同じ海域内でも、カイアシ類の栄養段階は、機能群内での捕食や栄養段階のショートカットなどの効果によって変動していたが、これらの要因は海域間での食物連鎖数の違いには貢献しなかった。このことは、逆に、原核緑藻類の割合以外は、どの海域のプランクトン群集も共通の群集構造を持つ可能性を示している。実際、原核緑藻類を除いた植物プランクトンと原生動物プランクトンのサイズ区分毎の相対生物量分布には、海域間で有意な差が見られなかった。同様に、ほとんどの海域で見られたカイアシ類の炭素不足も、海域間での共通の特徴と考えられた。炭素収支の不釣合いは、地域的・時間的な異質性による食物網動態の非定常性を示唆しているが、そのような非定常な群集が海域内・間で共通した群集構造を全体として持つに至るプロセスには、本研究で考えたような複雑な食物網内の相互作用が関係している可能性が考えられる。

本研究から、種や属レベルでの多様性とそれによって構成される食物網の複雑性が、生態系全体の機能に与える影響の一部が明らかになった。個々の捕食・被食関係は、実際の生態系で実測するのは非常に困難で、種や属レベルの生物プロセスや多様性の重要性をこのようなモデルの枠組みの中で評価していくことは重要と考える。

図1.1桁ごとの体サイズで表現された一般的なプランクトンの食物網概念(ex.Azam et al. 1983).括弧内は、外洋表層プランクトン群集でよく見られる分類群を示した。

図2.カイアシ類にいたる平均食物連鎖数と、総一次生産速度が原生動物プランクトンに捕食される割合の海域間比較。

審査要旨 要旨を表示する

外洋生態系においては、浮遊生物群集が形成する食物網は生態系機能、特に一次生産を大きく支えている。しかし、熱帯から寒帯にいたる大きな環境変化のある外洋では、海域ごとに食物網の構造が異なっている可能性がある。また、動物プランクトンによる捕食の体サイズ依存性を考えると、同一の捕食様式を持つ捕食者でも、体サイズの違いによって餌の大きさが異なるであろう。そのため、プランクトン群集の食物網の構造把握では、捕食者の捕食様式と体サイズの両方を考慮する必要がある。しかし、食物網構造の複雑性や食物連鎖数を定量化し、海域間で比較した研究はまだない。よって、本研究では、外洋浮遊生物群集の実測データをもとにして、分類群と捕食様式の双方をまとめた多数の機能群に区分し、さらに体サイズを考慮した「食う−食われる」の関係を逐一推定する。それによって外洋生態系におけるプランクトン食物網の機能評価を目的とした。

1章で博士論文の研究背景とその目的を説明し、2章では論文全体に共通した解析法を説明している。用いたデータは、新エネルギー・産業技術総合開発機構によるNorth Pacific Carbon Cycle Study(NOPACCS, 1990-1996)である。このデータセットでは、太平洋の東経175度に沿って、北緯0度、24度、44または48度の水深0-200mにおける全プランクトンが、毎年ほぼ同時期に同じ方法で採取・同定され、体サイズ別の生物量が測定されている。これを基にして、浮遊生物群集の食物網の複雑性と食物連鎖数を定量的に推定するモデルを構築し、異なった海域での浮遊生態系の構造を比較した。海洋生態学の分野では、このような生物群集のモデルを解析した研究はきわめてユニークな研究であるといえる。

引き続いて、2章の後半と3章では赤道海域(北緯0度)を解析した。その結果、年度によってミクロ動物プランクトンによるピコプランクトンやミクロプランクトンの捕食が優占し、カイアシ類にいたるまでの食物連鎖数が変化していた。また、カイアシ類の推定総捕食量は、経験式で推定した炭素要求量を常に下回っていた。つまり、カイアシ類の現存量を支持するメカニズムは、定常状態下での生食食物連鎖だけでは説明できず、生物群集の動態の非定常性を考慮する必要性が示唆された。

4章の亜熱帯域 (北緯24度)の解析では、原生動物プランクトンの割合は赤道域に比べて高く、微生物食物網の卓越が顕著であった。その結果、高次捕食者のカイアシ類にいたる平均食物連鎖数 2.4-2.8は、赤道域の 2.1-2.5 に比べて長くなった。従って、亜熱帯外洋の浮遊生物群集では、高次生産を支える食物網自体が非効率的な構造を持っていることが示唆された。

5章の亜寒帯域 (北緯44または48度)の解析では、植物プランクトンと後生動物プランクトンの全生物量の変動係数が赤道や亜熱帯群集に比べて高く、季節変動の影響を大きく受けていることが推察された。カイアシ類が直接捕食可能な大型植物プランクトンの割合が高く、カイアシ類にいたる平均食物連鎖数は赤道域・亜熱帯域に比べて有意に短かった。

最後の6章は総合考察として、3海域における解析の比較を行なっている。カイアシ類にいたる平均食物連鎖数は、亜寒帯域、赤道域、亜熱帯域の順に長くなった 。これは、この順にシアノバクテリア類が植物プランクトン内で占める割合が小さく、その結果、原生動物プランクトンの一次生産の消費割合が増し、カイアシ類にいたる食物連鎖数が長くなったためである。また、ほとんどの海域で見られたカイアシ類の炭素収支の不釣合いは、地域的・時間的な異質性による食物網動態の非定常性を示唆している。

以上、本研究から、外洋における機能群と体サイズ組成の多様性によって構成される食物網の複雑性と、生態系全体の機能に与えるその効果の一部が明らかになった。外洋では個々の捕食作用を実測するのは非常に困難であり、本研究のように、大量のデータセットを利用して推定モデルを駆使して評価していくことは、今後ますます重要となるだろう。したがって、本審査委員会は博士(学術)の学位を授与するに相応しいものと認定する。

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