学位論文要旨



No 120891
著者(漢字) 篠田,真理子
著者(英字)
著者(カナ) シノダ,マリコ
標題(和) 20世紀前半の日本における天然紀念物 : 科学・政策・自然保護の接点
標題(洋) Natural Monuments in Japan in the first half of the 20th century : the interface among science, policy and nature preservation.
報告番号 120891
報告番号 甲20891
学位授与日 2006.03.09
学位種別 課程博士
学位種類 博士(学術)
学位記番号 博総合第624号
研究科 総合文化研究科
専攻 広域科学専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 助教授 廣野,喜幸
 東京大学 教授 橋本,毅彦
 東京大学 助教授 信原,幸弘
 東京大学 助教授 岡本,拓司
 和光大学 助教授 堂前,雅史
内容要旨 要旨を表示する

本論文は、20世紀前半の日本における天然紀念物について論じる。天然紀念物とは学術的に貴重な植物、動物、地質鉱物を法律で指定し、保護する制度である。日本では日露戦争後に保存運動が高揚し、1919(大正8)年に史蹟名勝天然紀念物保存法が制定された。

天然記念物の概念は北米、ヨーロッパの18世紀後半から19世紀初頭に遡ることができるが、自然保護と結びついたのは19世紀後半以降である。日本では主に19世紀末以降のドイツの天然記念物制度の影響を受けて概念と制度が整備された。本論文で中心的に扱う年代は、日本で天然記念物概念が紹介された1906年から、史蹟名勝天然紀念物保存法が文化財保護法に編入された1950年までである。

本論文の問題設定は科学者が始めた運動である天然紀念物保存運動・制度を科学と社会の接点として捉え、科学と政策、科学と自然保護の関係性の観点から考察することにある。考察すべき課題としては(1)科学と自然保護(2)自然保護と政策(3)科学と政策の3つがある。

生態学と自然保護・管理の関係。天然紀念物の中でも植物学部門は8割以上という大きな役割を占めていたため、本論文は植物学と天然紀念物の植物部門との関係に焦点を当てる。三好学は彼は「生態学」という訳語を作った人物であり、日本で始めて東京大学植物学教室で植物生態学講座を開いた人物でもある。彼が天然紀念物制度の必要性を提唱し、植物部門で主導的な役割を果たし、中心となって指定基準を作成した。当時の生態学的研究と天然紀念物はどのような接点を持っていたのか、三好が考える植物学的重要性とは何か。学術的貴重性は天然紀念物を調査・指定する際に重視された基準であるが、唯一の基準ではなく、移植された植物や飼養動物も指定対象に含まれ、指定地周辺の保存への積極性なども重視された。「非科学的」基準と「学術的」基準はどうやって整合性を取ろうとしていたか。

天然紀念物の指定前調査と指定後の管理で、指定対象物の地域に住み、日常的にそれに接触し、観察し、調査し、手入れをするのは、学者たちではなく地域の住民であった。天然紀念物を指定するためには必ず実地調査が行われ、調査報告書が書かれた。現地で調査・研究・保護に従事するのはアマチュアも多かった。プロフェッショナルとアマチュアの役割や相互交流というテーマは科学史上しばしば論じられてきたが、天然紀念物の調査は20世紀前半の日本においてこの関係性を考察しうる格好の事例である。

20世紀前半の日本で、なぜは国家が自然保護の一種である天然記念物保存を法律で推進していたのか。欧米では19世紀末から20世紀前半に至る数十年間、自然保護と結びついた近代化に対抗する言説が保守的な思想・立場に属していたことは、先行研究により指摘されていることである。特にドイツや英国では、ロマン主義的心情に依拠し、体制を変革することよりも、彼らの考える古きよき時代の痕跡を残したいと望む教養のある上・中層階級が担い手となり、そのことが国家との結びつきを容易にした。国家側から見ても自然保護と郷土愛を結び付けて国土への愛、ひいては愛国心の涵養を図り国民統合のために用いることにメリットがあった。また郷土愛は「道徳性」を高め、堅実な小作農の生活を維持させることによって社会不安を宥め、社会思想、反国家主義的思想への防波堤になるとも考えられた。

日本はドイツから郷土愛と天然紀念物の複合体を輸入したのであり、往々にして論じられがちな日本独自の「伝統的自然観」に起源があるのではないことを本論文で明らかにする。だが、輸入思想であるとしても、法律の元での制度として継続されていくことにより、日本ではドイツと異なる経緯を辿った。史蹟名勝天然紀念物保存法の制定に携わり、最初に所管したのは内務省地理課である。内務省はどのような政策的意図を持っており、またそれは天然紀念物の概念と実践にどのような影響を与えたかを検討する。

天然記念物が依拠しているナチュラルヒストリー的な知が国家政策とどのような関係にあったかを考察する。内務省では、史蹟名勝天然紀念物が思想的な影響力を及ぼすことへの期待があったと考えられる。地方改良運動には収税率の向上や生活習慣の「改善」、産業振興などの具体的な経済的目標があると同時に、農村を構造転換し思想的な方向付けをするというという側面が存在した。天然紀念物を推進した三好学らの学者らは、郷土愛や地方自治の浸透に対する天然紀念物の役割を積極的に説いていた。調査・研究・保存するための便宜的な主張であるというより強い関与が伺える。

第1章では日本で展開した天然紀念物の前史として、欧米における天然記念物概念の形成史を論じる。天然記念物の概念は啓蒙思想が新大陸の自然に接した時に形成された。新大陸の圧倒的な自然に直面したとき、境界線上に存在する文化的存在として旅行記に記された。19世紀後半に至ると、自然が損なわれていくという感情が生じたことによって、天然記念物にも損なわれやすく守るべきものという意味が付加された。また郷土意識と結びついたことによって、天然記念物は郷土を、ひいては国土を象徴するものとされるようになった。

第2章は日本の天然紀念物制度の形成までを論じる。ドイツにおける天然記念物の制度的展開を概観し、それがどのように日本に影響を与えたかを論じる。内務省地理課は地方改良運動と、その理念に沿った村を表彰する模範村制度を推進しているところで、郷土思想と連関した史蹟保存や天然物保存が注目されていた。官僚と学者のつながりが作られ、徳川頼倫というパトロンの出現により財政的、象徴的支柱が作られて半官半民の天然記念物保存協会が設立された。天皇とも接近し、また多くの議員の支援により法律は議員立法として成立した。

第3章では法律成立後の天然紀念物制度の展開を論じる。内務省によって地方自治が天然記念物保存にも適用された。地方行政は、自力で天然紀念物を調査し、保存するように促され、さらに村民は自らの意思で天然紀念物を見守るようになることが内務省の狙いであった。1928年には文部省へと事務移管が行われ、天然紀念物は教育との連関が強まり、思想教育を含めた教化政策の側面が一層強まる。

第4章では諸外国における同時代の自然保護制度や運動を概観し、20世紀前半での自然保護運動の中で天然紀念物保存の位置を確認する。日本の天然紀念物は諸外国の自然保護制度とも協調し、また科学界の人脈の網目の中に存在して時期がある。中欧でのアルプス登山鉄道への反対運動は、保存協会が日本のケーブルカー敷設に対して反対したことに影響を与えている。牧野富太郎の批判に代表される、保護の実効性評価についてはフィードバックできる仕組みが出来ていなかった。

第5章では天然紀念物の学術的背景について論じる。当時の天然紀念物の指定基準は、現在の生態学や自然保護の観点から科学性・客観性に疑問を呈される理由を検討する。

天然紀念物を指定する指針(保存要目)は植物学部門においては三好学を中心に決定された。植物の生息する諸条件(地理的位置、温度、水分、土壌その他)が植物の形態や生理、生育に影響を及ぼすとする、ネオラマルク的な進化論に基づく当時の植物生態学の考え方である。これが現在の生態学的観点とずれているという理由が一つの回答である。もう一つの理由として、同時代人の見方からしても、学術的貴重性は完全に徹底されたわけではなく、地方の事情や熱意、歴史的経緯などが重視されたことがある。例えば非科学的であるという批判を石川千代松から受けている。

第6章は教科書、教育現場、新聞を通じて広く一般的な層に天然紀念物がどのように普及と浸透を果たしたかを検証する。時代を追って天然紀念物の「科学的」側面の説明が増しているのは、受容する側にも科学的啓蒙に対する関心が高まっていたのではないかという推論を示す。

第7章では天然記念物の実際の調査研究に当たってアマチュアの果たした役割について植物学における三好学と地方の協力者、牧野富太郎と全国各地で行われた植物観察会、及びアマチュアから専門家になった天然記念物調査嘱託田代善太郎の例を挙げて論じる。

第8章では茨城県において深刻な煙害に襲われた地域における関天州という人物が天然記念物制度とどのように接近していたかということと、彼が煙害への企業賠償を要求する闘争の先頭に立つとともに、植物学調査によって山林の再生を図っていたことを示す。

第9章では岐阜県を中心として分布するハナノキを例にとり、どのように「発見され」、調査され指定されていたかを示す。

結論

日本における天然紀念物は、日本の伝統的な自然観から生じたのではなく、ドイツの郷土保護と結びついた天然紀念物制度の移入から始まり、科学者が主導して発展した。天皇制や内務省の国策との強いつながりから、戦前の体制維持や思想統制に結びついた側面もある。しかし視点を理念から、実践に移し、地方における協力者層を考えると、自ら進んで知識を取り入れ協力するアマチュアの存在が浮かび上がる。指定基準も単に学術的基準のみを押し立てるのではなく、地域の事情に合わせた指定を行ったことが、地方のアマチュアを巻き込んでいくことができた要因であった。20世紀前半の日本の天然紀念物制度は、自然保護の先進的な事例としてみるのではなく、また思想的側面からのみ見るのでもなく、それを通じて中央の科学者と地方の協力者がどのように結びつきネットワークを形成して行ったか、非常に多様な狙いや目的の複合によって推進されていた。

審査要旨 要旨を表示する

本論文の狙い

本研究は近年活発になってきた環境史学の流れに棹さす研究であり、日本における天然記念物(研究対象同時の正式表記は「天然紀念物」)制度の解明を試みた論考である。

日本において、天然記念物という制度は1919年に法律という支えを得て以降、連綿と存続してきた。しかし、単独の樹を1本指定するなどといった性格から、今日では、面としての保護・保全を目指す自然保護には、ほとんど役立っていないのではないかという批判も存在する。本論文で篠田氏が試みたのは、天然記念物という制度を当時の文脈で理解することである。その結果、そうした批判がいかに現在からの視点のみにとらわれているかが明らかになっている。

本論文の構成

本論文は制度が成立する以前において、天然記念物なる概念がいかにして生みだされたかが探求される(1章)。そして、「史蹟名勝天然紀念物保存法」の成立(1919年)以降、文化財保護法が成立(1949年)し、その一部に組み込まれるまで、天然記念物という制度がいかに展開してきたかが検討される(2-4章)。しかるのち、当該制度を支えてきた人々について、学者層の動向(5章)や地方において実際保存に尽力したさまざまな人々の様相(6-9章)が解明される。

本論文における寄与

本論文の寄与は以下の点にある。

天然記念物に関して、これまで断片的な研究はあるが、一定期間のまとまった通史を明らかにした試みはない。本研究によって、初めて天然記念物という制度の全体像を明らかにする筋道がつけられた。

天然記念物という制度は、制度が成立する以前に、まず概念として成立した。通常、記念物という概念は人為的な対象に付与される。したがって、天然物を記念物とみなすためには、それ相応の理論的構築が必要になる。かつてその嚆矢はシャトーブリアンとされてきたが、篠田氏はジェファソンにまで遡らせる意欲的な仮説を提起した。

日本において、天然記念物という制度は、当初、徳川頼倫というパトロンに頼ることで運営が保障されていた。しかし、徳川頼倫の死後、財政的基盤が脆弱になった。政府も資金を調達することはかなわなかった。こうした危機を救ったのが、民間人による記念物保存運動であった。

これまでの天然記念物に関する論考では、学者層の動向のみが追われていたが、天然記念物という制度は学者のみでは十全に機能することになく、民間人にネットワークに支えられて初めて運営がうまくいっていたことを明らかにした。

また、民間人のネットワークが作られたのは、教師がキャリアアップをはかるための文部省検定(いわゆる文検)によって、教師層が周囲の自然の知識を持つことが期待されたためであることも解明した。

天然記念物という制度は当初より、自然保護という機能だけでなく、地方振興運動の側面をもっていたことも鮮明にした。したがって、冒頭の批判は、天然記念物なる制度の自然保護に関する側面しか見ていない一面的批判であることも明確にした。

審査委員からの指摘

審査員からは、いくつかの質問・指摘がなされた。

まず、天然記念物は、植物・動物・鉱物の各部門から成っているが、本論文で考察されているのは、主に植物の部門である。植物の部門からの知見がどの程度天然記念物一般に当てはまるのかはなお検討の余地があるのではないかという指摘がなされた。

次に、天然記念物なる制度においては、自然保護および地方振興という2契機が共存していたことは納得できたが、両者の関係のダイナミクスがなお不明であるとの指摘がなされた。

最後に、民間にネットワークについて、関与した人物の一部しか具体的な経歴等を明らかにすることに成功せず、民間のネットワーク概要を解明したというには時期尚早ではないかという指摘があった。

以上は確かに本研究の欠落部を指摘しているが、考察対象が植物に偏っていたとしも、あるいは活動を解明したのが一部の人物に限られていたにせよ、全貌の解明を待たずとも一定程度の結論を引き出せることより、民間のネットワークの全貌解明などは今後の課題であろうことが確認された。

結論

以上のように、篠田氏の論文は、天然記念物制度について体系的な描像を与えることに成功している。環境史学においては、その成立期に、「郷土史としての環境史」を明らかにする必要性を中山茂氏が指摘していたが、本研究はその課題に見事に応えるものとなっている。また、上記のように、個別にも独自な指摘・貢献が数点見られることにより、審査委員全員から、博士(学術)にふさわしいものであると評価された。

したがって、本審査委員会は博士(学術)の学位を授与するにふさわしいものと認定する。

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