学位論文要旨



No 120892
著者(漢字) 佐藤,隆
著者(英字)
著者(カナ) サトウ,タカシ
標題(和) 資本による資本の生産
標題(洋)
報告番号 120892
報告番号 甲20892
学位授与日 2006.03.09
学位種別 課程博士
学位種類 博士(経済学)
学位記番号 博経第198号
研究科 大学院経済学研究科
専攻 経済理論専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 教授 小幡,道昭
 東京大学 教授 柴田,徳太郎
 東京大学 教授 丸山,真人
 信州大学 教授 青才,高志
 法政大学 教授 佐藤,良一
内容要旨 要旨を表示する

資本の形式

第1章「資本の定式」では,『資本論』の読解を通じて,商品の流通と対比しながら資本の運動に一般的な表現を与える.商品流通では,その形式が形態変換,内容が素材変換であるのに対し,資本運動では形式が姿態変換,内容が自己増殖であることが本章前半において確認される.伝統的には,姿態変換を繰り返す自己増殖運動と捉えられることの多い資本の一般的定式に対して,本論文では,姿態変換という資本の形式には貨幣流出入の交差的な運動との規定を与え,自己増殖という資本の内容には流出入を通じて得られる正の格差との規定を与えている,資本の一般的定式とは,これら二つの規定の統合である流出入格差原理であり,資本の形式と内容の総体をもって定式化される.次に本章後半において,この一般的定式から,資本の三つの定式,すなわち商人資本的・金貸資本的・産業資本的の各形式を導き出す.複数の流通圏を設定し,商品と貨幣の増殖がいかにして複数の流通圏の間で流出入するかを定式化することによって,資本三形式を導き出すことができる.だが,単一の流通圏を設定すると,産業資本的形式のみが自己増殖可能であることが明示される.

第2章「資本の循環」では,産業資本的形式が資本の一般的定式である流出入格差原理を満たすことを明らかにする.まず,幾つかの代数的な定義を与えた後,産業資本の三つの循環定式である貨幣・生産・商品の各資本の循環を定式化する.三資本各々の増殖分について,貨幣資本は貨幣流入から貨幣流出を引いたもの,生産資本は投入から費消を引いたもの,商品資本は産出から販売を引いたものと定義することができ,それら三循環がすべて資本の一般的定式に当てはまることが立論される.次に,それらの総和として産業資本的形式が定式化される.産業資本的形式の増殖分は,利潤という流入分と配当という流出分との格差として定式化され,産業資本的形式が一般的定式に当てはまることが主張される.なお,産業資本的形式は,その個別形式である貨幣資本の循環形式とは区別される.

第3章「資本の過程」では,産業資本における流入から流出への移転または伝達の過程を考察する.生産・販売・購買の三つからなるこれらの過程は,生産・商品・貨幣の各資本の姿態変換の運動過程に対応している.各局面において「時間の履歴」が定義され,これを用いて流出入間の伝達が定式化される.これは,流入(入力)と流出(出力)が既知で,未知のシステムの増殖分を求める資本システムの同定問題を解くことに帰着する.これを解くと,流入と流出のフロー総体が満たさなければならない動的システムの特性方程式が導き出され,資本制システムが正のフィードバックをもった閉ループシステムであるという結論が得られる.つまり,入力が出力の増大を呼び,出力が入力の増大を呼ぶようなフィードバックをもち,貨幣・生産・商品のどの循環定式から出発しても元の定式に戻ってくるループを描くシステムであることが分かる.こうしたサイバネティックな資本制システムは,あたかも資本それ自体が自律的で自動的に運動するかのように振る舞うことになる.さらに,ストック総体の水準を構成する生産・商品・貨幣の各資本水準が回転期間を用いて定式化され,産業資本水準総体が併せて導出される.しかしながら,産業資本水準そのものは,価格体系や利潤率,数量体系や成長率に依存しており,個別資本の水準は社会的総資本の再生産過程から独立には決定されないことが論決される.

資本の内容

資本の内容を論ずる第二部では,まず最初に,資本の内容として適切なのは自己増殖「量」ではなく「率」であるべきことが主張される.第一部で資本の形式を通じて得られた特性方程式が,未知数を決定する方程式である一方,第二部では,利潤率,成長率,利子率といった増殖に関する比率が内生変数とされ,これらを決定するのが第二部の主要な役割であることが主張される.

第4章「資本の再生産」では,前半において,伝統的には利潤論で論じられた均等利潤率および価格体系の存在が論じられる.まず,利潤率の定義から利潤・成長フロンティアが導き出される.これは任意の成長率に対する均等利潤率の軌跡のことであり,緩やかな仮定のもとで右下がりとなる.次に,特性方程式から資本の整合条件を示すケンブリッジ方程式が導出される.これは利潤率に蓄積性向を掛けたものが成長率に等しいことを主張する方程式であり,この成長率は概念上,ほぼ保証成長率と一致する.したがって,この二つの方程式の交点で均等利潤率と保証成長率が決定され,あわせて正の価格体系の存在が保証される.だが,そこで決定される保証成長率は,需給が一致し市場が清算されるような現実成長率ではない.本章の後半では,再生産表式論を参照しつつ数量体系を明示しながら,保証成長率と現実成長率とが一致する条件を探る.貨幣を明示的に導入した再生産表式の下では商品の需要総額と供給総額とは一致せず,その差額である商品の超過需要総額は,貨幣の超過供給総額に等しくなってしまう.貨幣の超過需要が0となる条件は,成長率が0である単純再生産の場合か,購買期間が0であるセイ法則を仮定した場合かであることが明らかとなる.逆に,セイの法則が仮定されていない場合,商品を購入するのに少しでも時間がかかれば,保証成長率と現実成長率とは一致せず,資本の自己増殖運動と社会的総資本の再生産とのあいだに亀裂が生じてしまうことになる.

第5章「資本の調達」では,保証成長率と現実成長率とが一致する条件を探るべく,セイ法則の仮定をゆるめると同時に,商品購入の資金が商品販売によってのみ調達されるという仮定をゆるめ,資本制経済に信用を導入する.前半において,商業信用と貸付資金が存在する場合の超過需要が考察される.商業信用では,約束手形とキャッシュフローの流出入がそれぞれ定式化される.商業信用における約束手形は,各個別資本に対しては貨幣資本の過不足を調整する役割を果たすことができる.だが,それは部門間不均衡を調整することはできても,総需要の不足については調整することができない.そこで,負債を考慮した産業資本の循環定式が定式化される.明示的に貸付資金や利子率が導入されると,たしかに総需要と総供給を一致させるような自然利子率の存在が言えるものの,そのもとで保証成長率と現実成長率が一致するのは,成長率が利子率よりも大きくなってしまうような,借金によって借金を返済していくポンジ金融経路だけであることが立論される.ゆえに,ポンジ金融禁止条件がこの経済に課されると,正の成長率は存在しなくなる.本章の後半では,銀行資本・中央銀行および株式資本が定式化される.市中銀行は株式会社として産業部門に対して貸出業務を行い,資本家家計からは預金の受入業務を行う.また,中央銀行は市中銀行から準備金を受け入れ,市中銀行に貸出を行う.また,株式資本は資本還元によって株価が決定され,株主はその株価のもとで売買を行い,預金の提供とともに資金供給の担い手として定式化される.

第6章「資本の分配」では,前章での定式化を踏まえ,銀行部門と株式部門という間接・直接金融が導入されると,現実成長率と保証成長率が一致するような条件が成立することが確認される.需給一致条件が成立する場合,資本家家計・個別資本・銀行資本の各々で独自のケンブリッジ方程式の成立が本章前半において確認される.それらは,市場清算が成立する場合の主体均衡条件に他ならない.資本家家計は利子率と貯蓄性向の積が成長率に等しく,個別資本の場合は,企業者利得率と蓄積性向の積が成長率に等しく,銀行資本の場合は貸出利子率と蓄積性向の積が成長率と等しくなる.本章後半では,今までに導入された未知数を決定するための追加方程式が論じられる.まず,貸出利子率と預金利子率,そして産業部門の企業者利得率と銀行部門の企業者利得率の2つの裁定条件により2本の式が追加される.また,限界利潤率が意外の利潤に等しいという条件より,貯蓄から独立な投資関数が1本追加される.合計3本の追加によって,金融市場を含めた「順調な拡大再生産軌道」の存在が確認される.

資本の形式と内容

最終章「資本の形式と内容」は,経済学史上で資本がどのように捉えられてきたかを簡略ながら振り返ることによって,本稿独自の理論的意義を浮かび上がらせようとする.経済学史上の伝統的な立場は,二つの陣営が存在した.ひとつは資本を資本金と同一視し,もうひとつは資本を資本財と同一視していた.資本金を資本と見なしたのは,それが将来利子をもたらすからであり,資本財を資本と見なしたのは,それが労働と用いられ余剰生産物を産出するからであった.これらはそれぞれ,将来利得をもたらすものとして資本を捉える未来志向的,過去に生産され蓄積されたものとして資本を捉える過去志向的な側面をもっている.だが,これらの立場はともに,資本の素材を資本そのものと見なしていたり,資本が増殖するという資本の内容をもって資本そのものであると見なしたりする立場であるに過ぎない.そうした旧来の資本観は,本稿で得られた資本概念が物象化した派生形態であることが立論される.それに対して本稿は,資本形式の資本内容に対する論理的先行性が主張され,資本の姿態変換という形式を通じて自己増殖運動という内容がもたらされるということが確認される.この意味でまさに,資本は本質的に資本を生産するのである.

なお,数学的付録においては,回転期間と成長率との関係に関する仮定の検討が行われているほか,価格ベクトルと利潤率,数量ベクトルと成長率の存在証明が与えられており,また,回転期間が成長率に依存する場合のマルクスの基本定理の証明も行われている.

審査要旨 要旨を表示する

概要

本論文は、48字×41行A4判137ページからなり、目次、序論、3部7章からなる本論、および数学的付録、参考文献で構成されている。本論文は、全体として「資本とはなにか」という課題に対して、姿態変換運動としての「資本の形式」と自己増殖としての「資本の内容」という二つの観点から理論的に検討を加え、両者の統合として、従来の資本観を批判的に深化したものである。本論文の概要は次のようにまとめることができる。

第1部の要点

第1部「資本の形式」は3つの章からなる。第1章「資本の定式」は、全体のアウトラインを与える。ここでは、Kマルクス『資本論』の「貨幣の資本への転化」の検討を基礎におきつつ、商品流通W-G Wが形式としての「形態変換」と、内容としての「素材変換」という両面をもつのに対して、「資本の一般的定式」G-W-G'は、形式としての「姿態変換」と、内容としての「自己増殖」との統合をなすと定義する。そして、この資本の姿態変換運動を価格タームで捉え、〓と定式化する。資本の増殖は流通圏内部の価格差〓を利潤の根拠とする「商人資本的形式」貨幣フローの流出入のギャップmi-m0によって増殖する「金貸資本的形式」、および商品生産量の増大〓によって増殖する「産業資本的形式」の三つの形式をとるが、単純な流通圏が存在するという条件の下では、資本の増殖は「産業資本的形式」によってしか成立しないという立場が示される。

第2章「資本の循環」では、産業資本の一般的定式が、貨幣資本、生産資本、商品資本のそれぞれのストックに対するフローの増減の観点から規定される。産業資本の増殖分ΔKは、収入から購買を差し引いた貨幣資本の増殖分ΔG、投資から費消を差し引いた生産資本の増殖分ΔP、投入から費消を差し引いた商品資本の増殖分ΔWの総和からなり、それはまた利潤から配当を差し引いた額にあたるとしている。

第3章「資本の過程」では、従来資本の回転期間として論じられてきた内容が、一般的な連続時間の想定の下で、投入から費消にいたる生産過程、産出から販売にいたる流通過程が定式化される。ここでは産出も販売もgの率で斉一成長するという仮定の下で、投入が費消にどのように伝達されるかを示す生産の伝達関数〓,産出が販売にどのように伝達されるかを示す販売の関数〓,支出あたりの収入の逆数である、販売から購買への伝達関数〓が規定される。マークアップ率をγ,利潤のうち蓄積のために留保される部分の比率をsとおくと、産業資本の固有方程式〓が導きだされる。さらに、前貸資本量K,原価をc,総回転期間を〓とおくと、 〓が成り立つ。こうして、r,s,〓といった変数のもとで、ある期間を通じて産出を再投入するかたちで循環的に成長する資本の定式を記述することができるというのである。

第2部の要点

第2部「資本の内容」も3つの章で構成されている。第4章「資本の再生産」では、まず、利潤・成長フロンティアが導かれている。マルクス経済学では一般に利潤率は成長率とは独立にきまるとされることが多いが、成長率の上昇は回転期間の長期化をまねくことを勘案すれば、右下がりの利潤・成長フロンティアを想定すべきであるという。次に、ある利潤率に対して、利潤率、蓄積率、成長率の間にπ=g/sという関係(ケンブリッジ方程式)が導入される。そして、利潤・成長フロンティアとケンブリッジ方程式を同時に満たす均等利潤率πと成長率gとがきまることになるが、この成長率は、個別資本が増殖運動をつづけてゆくために、その過程でさまざまな意志決定を変更する必要がない成長率(保証成長率)を意味する。しかし、この保証成長率は、需要と供給が均衡するなかで実現する成長率(現実成長率)と一致するとはかぎらない。売ろうと思えば即座に売れる状態、セー法則が成りたち、貨幣の滞留が存在しないという状態を想定すれば、二種類の成長率が一致することは明らかである。しかし、商品の販売に時間がかかり、貨幣保有がみられる一般の市場では、両者の間に乖離が生じる。保証成長率が成立している場合に、貨幣資本の増加分が正であるかぎり、かならず供給過剰となるという結論が導かれることになる。

第5章「資本の調達」では、第1に商業信用が導入され、このレベルで先の供給過剰が解除されるかどうかが検証され、商業信用は、個別資本の間の貨幣資本の過不足を調整するというはたらきはあるが、全般的な貨幣資本の調整をなしうるわけではなく、先の供給過剰の状態を解消することは期待できないという結論が導かれている。第2に、個別資本が負債を通じて資本調達をなしうるという条件が導入される。貨幣資本の増加分は、収益と購買との差額に借入という因子が加わり、負債比率〓とすると、自己資本の増加分は〓となる。総需要と総供給との差は、けっきょくΔF-(ΔG+iF)が零になるように利子率iがきまれば解消し、保証成長率と現実成長率が一致した状態が実現しそうにみえる。しかしこの場合、ΔG>0であるから、この状態は負債の成長率ΔF/Fが利子率を上まわる結果につながる。これはまた、ΔF>iF,すなわち利子を付けて返済する額が、借入額を上まわること(ポンジ金融の状態)を意味する。したがって、負債による資本調達を考えても、このような異常な状態を許さないかぎり、総需要の不足はやはり解消できないという結論が導かれる。そこで第3に、産業資本間の関係という枠を外して、商品の販売なしに資金調達をすることのできる市場(金融市場)を導入し、個別産業資本は株式資本となり、市中銀行と中央銀行とが追加される。市中銀行は、家計から預金を受け容れ、産業資本に貸し出す。中央銀行は、市中銀行から準備金を受けいれ市中銀行に貸し出す。資本家家計は、預金利子と株式保有の収益とを見比べ、株価は配当を、預金利子率から成長率をひいた値ρ-9によって、資本還元するかたちできまる。このような想定のもとで、資本家家計、個別産業資本、市中銀行、中央銀行の収支をそれぞれ定式化するかたちでこの章は締めくくられている。

第6章「資本の分配」では、以上の定式化をふまえて、資本家家計の貯蓄率をscとするとρ=g/scが成り立ち,市中銀行の利潤率πbは、そこから銀行が蓄積にまわす率をsfとおくとπb=g/sfが成りたつ。中央銀行のもとでは市中銀行への貸し出しと、市中銀行への返済分と準備金とはバランスするから、〓が成立する。これら金融市場における均衡が成立した場合には、〓という結果がえられる。さらにここに、リスクプレミアムが零であるという仮定を設け、i=ρという想定をおく。そして最後に、株式を買い占めればその資本が取得できるという意味で、株式市場を通じた株価総額(資本の価値)と、それと同じ現実資本の資産内容を現実の商品市場で調達する場合の総額(資本の水準)との比較から、資本の水準1単位あたりの資本の価値(評価比率)を資本は最大にするものと仮定すると、〓という投資関数がえられる。これらをあわせてみることで、金融市場を含めた「順調な拡大再生産軌道」の存在が確認される。そこでは第1に利潤率と利子率はともに成長率より大であること、第2に利潤率と利子率とは合致しなくてもよいこと、第3に利子率と利潤率の間には前者が後者の取り得る範囲を規定するという緩い関係が存在すること、第4に利潤率と成長率の間には、利子率というもう一つの因子が介与する以上、セー法則を想定した場合や、neo-Marxianの場合のように、一義的な関係は認められないこと、が指摘されている。最後に補論として、これまでの考察は、セー法則の仮定を外した場合に、なお全般的過剰生産が生じない条件を追求し、最終的に金融市場を含めた「順調な拡大再生産軌道」の条件にたどりついたものであり、それは現実に全般的過剰生産が生じないと主張するものではないこと、その発生の可能性はこのモデルを組み立てるうえで導入したいくつかの強い仮定を見なおすことで洞察できることが示唆されている。

第3部の要点

第3部「資本の形式と内容」は同じタイトルの第7章一つで構成されている。ここでは、資本概念をめぐる学説史的な反省を通じて、資本の形式と内容をめぐるこれまでの考察の理論的意義を捉え返す試みが提示されている。経済学の歴史を遡ってみると、そこには資本に関する二つの考え方が対立してきた。すなわち、資本を資本金という観点から捉え、増殖概念を利子をもたらすという側面に重きをおいて理解する立場と、資本財という観点から捉え、増殖概念を剰余生産物を生みだすという側面に重きをおいて理解する立場である。この二つの陣営はそれぞれ、資本を、過去に生産され、いま生産に用いられる諸財の集合と捉える過去指向型の派生態と、将来の収益を現在に割り戻した価値と捉える未来指向型の派生態とを生みだすとして、それぞれの事例が示されている。しかし、両者の増殖概念はともに資本の内容に関わるものである点が、第2部で考察装置として定式化されてきた諸変数を照合しながら説明される。そしてこれに対して、資本とは内容に先だつ形式の概念であり、この点で「資本とは本質的に資本を生産するものである」というかたちで最終的に定立されるとまとめられている。最後に「残された課題」として、労働市場を組み入れた蓄積過程として拡張することが今後の課題であることが述べられ、数学的付録として回転期間と成長率・利潤率、数量ベクトルと成長率、価格ベクトルと利潤率などが説明されている。

評価

意義

本論文は『資本論』における資本概念を出発点に、「資本とはなにか」という課題を「形式」と「内容」という観点から総合的に理解しようとしたものである。資本形式理論、資本循環論、資本蓄積論、再生産表式論、利潤論、信用論、株式資本論など、それぞれ論じられてきた論点を、資本概念を再構築するという問題意識から一貫して追求したことの意義は高く評価できる。近年の理論研究が、上記のような個別の理論領域の内部を精緻化する傾向が強いなかで、ポリティカル・エコノミー本来の方向性に立ちかえる独自性を具えているといえよう。とくに、形式を論じた第1部と、その内容を論じた第2部の関係は、その構成に対する賛否はおくとして、理論構成としてみたとき一貫性をもつ点は認められるべきであろう。それぞれ領域を一つの全体像に整合的に構築するには、個別理論の内部における精緻化とはまた異なる原理論研究者に固有の資質が求められるが、本論文はこの課題によく応えるものとなっている。

本論文では論理を厳密に進める目的で、概念を形式的に整序し明確な定義を与えると同時に、数学的な定式化が進められている。自然言語に依拠した複雑だが曖昧なところがどうしてものこる、説得型の論述ではなく、可能なかぎり形式化を進め厳密さを追求する方法は、必要な成果をもたらしていると評価することができる。第1部、第2部では、議論の内容は簡潔な命題にまとめられており、各命題の明証性とそれら相互の関係をチェックすることで容易に全体の主張を明確にし評価することができるようになっている点は利点であるといえる。

第1部「資本の形式」では、資本の姿態変換がフローとストックの観点から明確に定式化され、商品資本、生産資本、貨幣資本が同時にストックとして存在する関係と、これがある期間の間にトランスファーしてゆくなかで、フローとしての利潤量が形成される関係を、明示的に定式化した点はこれまでの研究に対して一つの貢献をなしている。資本の回転期間に関しては、従来から異なる捉え方がなされ、総回転期間に対してはその意味を強く認めない傾向にあるが、本論文では斉一的な成長率を想定し、伝達関数を導入することで利用可能な定式を与えた点は評価できる。

第2部「資本の内容」では、斉一的成長のもとで増殖する資本の姿態変換運動が、需要と供給を釣り合わせるような現実の成長率と合致するのかどうかという一貫した問題を克明に追跡している点は、本論文のもっとも重要な貢献であるといってよい。資本の拡大再生産のもとで需要不足に陥るという過少消費説的・剰余価値の実現困難説的な議論は少なくないが、本論文は第1部の定式を基礎に、従来の議論にはない精密さ・厳密さで独自に問題を提示している。そしてこの問題を生産論の蓄積論レベル、あるいは産業資本間の利潤論レベルに止め、そこで全般的過剰生産論として総括することなく、さらにそれを銀行資本による信用創造、株式発行による資本調達の側面を取りこむことで、過剰生産による崩壊、あるいは景気循環を通じた解決といった、従来の議論をこえて、逆にそうならない「順調な拡大再生産軌道」の成立条件を追い求めた方法には、賛否は別として独自の意義を認めることができる。

問題点

厳密な定式化のためにはやむを得ない面があるのかもしれないが、本論文では結論に直結するかなり強い仮定がいくつか設けられている。第3章のはじめで導入された、投入と費消とが斉一的成長率gで指数的に成長してゆくという仮定は基礎的な枠組みとなっており、そのもとで貨幣資本の増加分が正になるという想定が重要な意味をもっている。仮定はもとより仮定であり、正誤を問うべき性質のものではない。仮定自身のもつ現実的妥当性と、またこの仮定に依存して導出される結論の現実的な意味とのバランスにおいて評価すべきものであり、本論文のなかでもそれなりの配慮はなされているが、全体として仮定の意味づけがさらに求められるところがある。

一般に演鐸的な理論的研究の宿痾ではあるが、現実の資本主義との関係が緩い意味でももう一歩ふみこんで議論されるべきであろう。本稿が第2部の後半で、従来の蓄積論・利潤論のレベルをこえて、中央銀行や株式市場を導入することで、資本主義の特定の発展段階に特徴的な要因に事実上強く依拠した議論になっているが、その点について自覚的な説明を欠くきらいがある。とくに、部分的な理論の精緻化を脱して、資本主義の全体像に迫る大きなスケールで議論が展開されているだけに、こうした資本主義の歴史的な変化、多様性という問題は避けて通りがたい。最終章で形式と内容という本論文の骨格が、経済学説史的な観点から位置づけるかたちでまとめられているが、現実の資本主義の把握にそれがどういう意味をもつのかという観点からのまとめも必要であろう。

本論文の骨格の一つは、伝統的な全般的過剰生産の必然性という命題が必ずしも資本主義に一般的に当てはまることではないことを示すべく、最終的には「全般的過剰生産」が発生しない一般的条件を求めているにすぎない。しかし、それは発生する可能性がある。第6章の補論や、最後の「残された課題」において、保証成長率と実現利潤率が合致する資本主義の状態がすべてではないことについて、一定の方法論的反省が提示さているが、なお不充分なところがある。

考察対象とされたいくつかの領域は、本来の問題を説明するには<不充分>であり、強くいえば<存在意義がない>という消極的な結論を導くだけで終わっている。たとえば、資本の形式における商人資本的形式や金貸資本的形式はいったん提示されながら、けっきょく単一流通圏の内部では増殖根拠を与えられないというかたちで棄却されており、商業信用や負債の導入も二種類の成長率の合致をもたらす効果はなかったというかたちで考察を打ちきっている。しかし、最後に金融市場を導入した点は、ある意味で流通圏が内部で閉じているとはいえない関係を再想定したと解することができる。また、商業信用もそこから銀行資本が発生するという契機を内包している点で、篩にかけてそれで終わりにするというのではすまないであろう。「資本とはなにか」、資本の全体像を探るという課題からみると、先の成長率の一致条件の追求という問題設定だけでは視野が狭くなるように思われる。

以上のような問題点は残されているが、その意義はこれをはるかに凌いでおり、本論文は博士(経済学)の学位を授与するのに充分な研究成果を含むという点で審査委員全員の評価は一致した。

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