学位論文要旨



No 120893
著者(漢字) 受田,宏之
著者(英字)
著者(カナ) ウケダ,ヒロユキ
標題(和) 先住民と貧困 : メキシコのオトミー・コミュニティ : サンティアゴ・メスキティトランの事例
標題(洋)
報告番号 120893
報告番号 甲20893
学位授与日 2006.03.09
学位種別 課程博士
学位種類 博士(経済学)
学位記番号 博経第199号
研究科 大学院経済学研究科
専攻 現代経済専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 教授 中西,徹
 東京大学 教授 加納,啓良
 東京大学 教授 佐口,和郎
 東京大学 教授 高橋,昭雄
 東京大学 教授 丸山,真人
内容要旨 要旨を表示する

本論の目的は、先住民はなぜ貧しいのか、いかなる条件下で彼らの人間開発が促されるのかを解明することにある。昨今、先住民の開発問題への関心が高まっているが、研究の多くは規範論ないし表層的な分析にとどまっており、先住民の現実に根差した分析は欠けていた。本論はこうした既往の研究の欠を埋め、従来分析が十分でなかった先住民と外部社会の相互作用という視点からこの問題の解明を目指す。

ここで本論が対象とする、メキシコの先住民について触れておこう。事例として選んだのは、1万の住民の9割がオトミー語を話すというオトミー(族)・コミュニティのサンティアゴ・メスキティトラン(SM)である。オトミーは、貧困層の核をなす先住民の代表的語族の1つである。SMでは、20世紀初頭までは付近の大農場での農業労働を除いて外部社会との接触は限られていた。だが、それ以降、農地改革に始まり、人口増加に伴う農地の細分化、公共政策の実施、移住の活発化など変容を経験している。このように有意義な事例研究の対象と考えられる。

本研究の特徴の1つはその方法論にある。すなわち、質的資料の収集と解釈も含め1つの先住民コミュニティが辿った変容の記述と説明に重点をおき、学際的、地域研究的な手法を採用することによって、研究者に都合のよい側面だけを切り取ろうとする従来の開発研究における限界を補おうとした。メキシコ先住民に関する議論では、深く論じられることのなかった、1)先住民コミュニティ、2)市場と非先住民、3)政府と非政府の援助主体、という3つの分析単位それぞれの性質と各単位間の相互作用を実体的に把握するよう努めた。先住民コミュニティが、市場経済の浸透や公共政策の実施に伴いどのように変化していったのか、その過程でいかなる問題が新たに生じたのかを先住民の立場から理解するため、現地社会に可能な限り接近するようにした。

このような枠組みを有する本論が扱う先住民族の開発問題についての主題は3つからなる。すなわち、(1)先住民と学校教育、(2)経済活動におけるインフォーマリティと先住民性および(3)先住民と援助の問題である。これらは、筆者が先住民の開発を語る際に最も重要と考える問題である。以下、その議論を要約しておこう。

先住民と学校教育

SMでは教育の普及が顕著に遅れたのだが、1970年代以降、特に過去10年の間に就学率の上昇がみられる。教育の普及過程の検討を通じて、以下の知見を得ることができた。

第1に、先住民という様々な不利を抱えた人々に教育が行き渡るためには、政府の果たす役割は重要である。近年の教育の普及には、教育施設の建設と拡充がはかられたこと、および教育の直接費用と機会費用を削減する措置が実施されたことが寄与している。本論ではその他に、政府が一定の学歴を要求する雇用機会を創出したことの意義を強調した。雇用創出という観点から重要なのが、「教育エリート」とでもいうべきオトミー世帯を産み出した先住民学校制度である。

第2に、先住民側の教育機会への対応についてみると、非先住民と比べての普及の遅れはオトミーの所得貧困に加え言語上の不利や非先住民による偏見・差別といった非経済的要因にもよっていたこと、およびオトミー内での教育の受容は格差を伴いつつ進んでいったことが分かった。1960年代までは、移住経験を生かした者や公共政策へのアクセスのよい者など、少数のオトミーだけが学校に通った。それ以降、二言語話者の増大や移住の一般化などの社会経済的統合と教育政策の深化に伴い、教育の必要性がオトミーの間でも認められていく。最近では、貧しい家庭に育ちながらも高校を修了する若者が現れるようになり、男女間の格差も消えつつある。だが、これらの変化の陰で、山際などの周縁部に住む世帯、季節移住を繰り返す貧困世帯や親がアルコール依存症の世帯など、低い教育水準が再生産される世帯が今日でも多数存在する。コミュニティの変容を念頭におくとき、教育政策は、先住民内の格差にも敏感であらねばならない。

学校教育の普及も含む外部社会への統合の深まりは、先住民の生活水準を上昇させる一方で、独自の言語や習慣の消失を招きやすい。そこで、(維持型)二言語教育が脚光を浴びている。本論では、教育の普及過程の分析に続いて、二言語教育が実施されるためには関係者がいかなる資源と誘因を持つ必要があるのかを考察した。

二言語教育の有無を決める条件には、(1)統合の深まりと先住民に対する偏見・差別という優勢言語(スペイン語)の単一利用化を促す圧力(負に作用)、(2)政府・非政府の外部主体による制度上、技術上の支援(正に作用)、(3)知識層によるリーダーシップなどのコミュニティ側の条件(正に作用)、の3つがある。SMの場合、オトミー語が比較的よく保たれているのだが、若者の間ではオトミー語離れが進んでいる。現在では幼稚園と小学校はすべて先住民学校であり、教員はオトミーである。これ以外にも言語学者による協力など技術上、制度上の条件は整っている。だが、SMで二言語教育が実施されたことはない。その理由は、移住や非農雇用の重要性の高まり、差別の記憶のため、母語を話し伝えることの価値は低いと感じる住民が増えていることの他に、二言語教育を支えるリーダーシップがみられないことにある。これは他の多くのコミュニティにもあてはまる状況である。

以上、学校教育の分析から、雇用機会の提供も含め教育の普及に政府の果たす役割が大きいことが確認できた。しかし、その際、教育機会への対応において非先住民との格差だけでなく先住民内部の格差にも注目する必要がある。二言語教育については、その実現を左右するのは技術的・制度的条件だけでなく、先住民言語の相対的地位と住民自身の言語観やリーダーシップも重要となる。

経済活動のインフォーマリティと先住民性

メキシコ市には、移住者の増大のため、30万人以上の先住民が住んでいる。その中で、SM出身のオトミーの生存戦略は、先住民性(人間関係と行動規範における出身地との連続性)、および経済活動の強いインフォーマリテイ(宅地の不法占拠、物乞いや行商も含むインフォーマルな稼得所得活動)の結合により、特徴付けられる。先住民性とインフォーマリティの間には補完性がある。オトミーのこうした戦略は、彼らの低い人的資本を考慮するならば、高い経済的便益をもたらす。また、不法占拠地に同郷者と一緒に住むこと、労働時間と密度に弾力性のあるインフォーマルな生業に就くことには、先住民言語やアイデンティティが保たれやすくなる、農村と都市の双方に足場をおいた生き方も可能になるなど、心理的な便益もある。だがその反面、「都市のオトミー」であることは都市における孤立という費用を抱えており、それは移住者の社会経済的上昇には否定的に作用し得る。学業を犠牲にしての児童労働、アルコール依存、早婚と高い出生率、さらには高い物乞い従事者の比率は、流動性制約だけでは説明できない。

こうしたオトミー移住者の生存戦略は、都市インフォーマル部門論にも一石を投じる。インフォーマル部門論においては新古典派経済学的な議論が支配的である。先住民性と結びついたオトミー移住者のインフォーマリティは、(所有権の侵犯という性質にも根差す)不安定性と不確実性を抱えること、先住民であるが故に不安定性と不確実性を削減するような援助が存在すること、さらには低い人的資本の再生産を促し得ること、という点において、インフォーマリティに競争性や選択の最適性を見出す新古典派的インフォーマル部門論への反証となっている。経済活動のインフォーマリティを広い視野で捉えることにより、先住民の開発問題への理解が深まる事例は多いであろう。

援助活動のジレンマ

メキシコでは都市の先住民のための政策は存在しないとされてきたのだが、不法占拠地に住むオトミー移住者は、政府機関やNGOから様々な援助を受けるようになった。援助する側の目標は、オトミーの都市社会への統合とそこでの地位向上にある。だが、投入された援助資源と労力を考慮するならば、こうした期待の実現度は低い。

オトミー移住者への援助が援助主体の期待した成果を収めにくい理由として、(1)援助資源の不足、(2)援助主体のオトミーに関する不十分な情報や不適切な仮定、(3)受益者の期待と行動を歪め得る援助の慈善的性格、という援助研究でよく言及される3つの要因を検討した後、(4)援助活動が受益者の先住民性とインフォーマリティの利得を高めることにより「都市のオトミーであること」のジレンマに組み込まれていることを指摘した。オトミーが援助を引き付ける条件の中には、インフォーマリティと先住民性が含まれる。そのせいもあって慈善的な援助がオトミーになされてきたのだが、それは結果として、受益者のインフォーマリティと先住民性の利得を高め、「都市のオトミー」であることを強化し得る。さらに、「都市のオトミー」であり続けるが故に受益者は援助主体の関心を集め続ける。

オトミー移住者への援助活動には、その先住民性とインフォーマリティとに補助金を与える面がある。前者への補助金は文化的多様性を望ましいとする観点から正当化できる。後者への補助金は、経済活動の安定化に寄与するならば受益者の福祉を高め得る。だが、「都市のオトミー」であることは孤立という費用を伴う。さらに、「都市のオトミー」であることの選択に援助が織り込まれているという意味では、援助は依存をもたらし得る。

このように、開発から疎外されてきた先住民のためになされる援助活動は、援助する側が予期せぬ影響を及ぼし得る。援助主体は、先住民の生存戦略を理解した上で、個人および集団としての受益者の能力を高めるような内容と方法論を持つ援助を実施することが求められる。

審査要旨 要旨を表示する

1993年の国際先住民年と翌年以降の国連先住民の10年を挙げるまでもなく,近年,貧困研究の興隆のなかで,先住民の問題が脚光を浴びている。それは,いままで主流であった開発過程において貧困の下にある先住民を統合するという視点ではなく,先住民が有する文化を尊重する開発が主張されるようになったことに重要性がある。国連開発計画の『2004年人間開発報告』の議論にみられるように,先住民自身も,政府やNGOの支援を受容するだけでなく,主体的に変革のために参加することが期待されてきているのである。

しかし,このような先住民の開発問題への関心の高揚のなかでも,研究の多くは,先住民側からその実態を把握したものであるとは言い難く,規範論ないし表層的な分析にとどまってきた。とくに本論文が対象とするラテンアメリカでは,少数民族の文化的,社会的特性を否定的に評価し少数民族の市場統合を主張する「シカゴ学派」と,従属論の流れを組みイデオロギーから先住民族の固有性を主張しているように思われる「新構造学派」の対立構造の中で,文化的多様性と経済発展を両立させるような代替的なモデルが模索されてきたという状況にある。

本論文は,こうした国際的関心の高まりとラテンアメリカにおける貧困研究の動向を念頭に置き,ラテンアメリカで最大級の先住民人口を抱えるメキシコ先住民の事例を取り上げ,先住民はなぜ貧しいのか,いかなる条件下で彼らの人間開発が促されるのかを解明し,文化的多様性と経済発展の両立を可能にする新しいモデルを希求することを目的としている。この際に著者が重視するのは,「シカゴ学派」,「新構造学派」がともに社会人類学や歴史学にその研究を委ねることによって軽視してきた,先住民側からの彼らの社会行動の理解であり,従来の研究において分析が十分でなかった先住民と外部社会の相互作用という視点からの分析である。

この課題を達成するために,著者は,現地の一次資料を丹念に解析することに努め,とくにメキシコの公用語(スペイン語)に加え,先住民語(オトミー語)を修得し,1年以上の本格調査を含む,10回以上,のべ2年7ヶ月にわたる先住民オトミーを対象とした実態調査を繰り返し,オトミー側の視点から,既往の研究の欠を埋め問題を把握しようとしてきた。その結果,著者は,資料的価値の極めて高い精巧なモノグラフを完成させ,それを活用して,これまで経済発展という視点からは,その実態がほとんどあきらかにされていなかった先住民とそれを取り巻く各主体の行動に関しての新しい事実発見の提示と,それにもとづく新しい分析視角の提示に成功しているといえよう。これは,本論文の一部が既に,複数の査読付き学術雑誌(Anales de Estudios Lationoamericanos,『ラテンアメリカ論集』)として発表され,さらに共著単行本の一章としても公表予定(近刊)であるなど,関連分野において既に高い評価を受けていることにも現れている。

以下,各章の内容と意義について述べておこう。まず第1章と第2章は,本論文の序説的役割を果たしている。第1章では,開発における先住民問題の経緯,先行研究の展望および実態調査の方法と実施された状況についての叙述がなされ,質的資料の収集と解釈も含め1つの先住民コミュニティが辿った変容の記述と説明に重点をおき,学際的,地域研究的な手法を採用することによって,従来の開発研究における限界を補おうとする分析視角が提示される。すなわち,先住民コミュニティが,市場経済の浸透や公共政策の実施に伴いどのように変化していったのか,その過程でいかなる問題が新たに生じたのか,を先住民の立場から理解するため,メキシコ先住民に関する議論では,深く論じられることのなかった,1) 先住民コミュニティ,2) 市場と非先住民,3) 政府と非政府の援助主体,という3つの分析単位それぞれの性質と1)と2),1)と3)の間の相互作用を実体的に把握しようとする方法である。さらに,著者は,先住民族と開発に関わる喫緊の課題として,(1)先住民と学校教育,(2)経済活動におけるインフォーマリティと先住民性,および(3)先住民と援助の3つの問題を抽出し,本論文の主題を設定する。著者が喫緊の課題として提示した3つの主題間の関係は必ずしも明確ではないものの,視角は,先住民問題について地域研究と開発経済学を止揚する新しい分野を提示しようとする斬新かつ意欲的な設定であると評価することができるであろう。第2章は,本論文の舞台となったメキシコ先住民のオトミー・コミュニティの概観にあてられている。オトミーは,メキシコの貧困層の核をなす先住民の代表的語族の1つであり,調査地には,1万の住民の9割がオトミー語を話すサンティアゴ・メスキティトラン(以下,SMと略称)が選定されている。SMでは,20世紀初頭までは付近の大農場での農業労働を除いて外部社会との接触は限られていたが,それ以降,農地改革に始まり,人口増加に伴う農地の細分化,公共政策の実施,移住の活発化など,様々な変容を経験してきた。したがって調査地は,周到な準備の下で選定されており,開発と先住民の問題を扱う際に有意義な事例研究の対象と考えることができる。

第3章と第4章は,第一の課題である先住民と学校教育について検討されている。第3章では,先住民の中でも教育水準の低い調査地SMに学校教育が普及していく過程を供給側(政府)の役割と需要側(先住民)の変容という観点から検討し,以下のような事実発見に到達している。まず,政府の果たす役割の重要性である。近年の教育の普及には,教育施設の建設と拡充がはかられたこと,および教育の直接費用と機会費用を削減する措置が実施されたことも寄与しているが,政府が一定の学歴を要求する雇用機会を創出したことの意義が,本論文では強調されている。とくに「教育エリート」とでもいうべきオトミー世帯を産み出した先住民学校制度は,他のオトミー世帯の教育観への影響という観点からも重要性が高い。第二に,先住民側の教育機会への対応についてみると,非先住民と比べての普及の遅れは,オトミーの所得貧困に加え言語上の不利や非先住民による偏見・差別といった非経済的要因にもよっていた。また,オトミー内での教育の受容は格差を伴いつつ進んでいったことがあきらかにされた。1960年代までは,移住経験を生かすことができた者や公共政策へのアクセスのよい者などの少数のオトミーだけが学校に通っていた。しかし,それ以降,二言語話者の増大や移住の一般化などの社会経済的統合と教育政策の深化に伴い,教育の必要性がオトミーの間でも認められていく。最近では,貧しい家庭に育ちながらも高校を修了する若者が現れるようになり,男女間の格差も消えつつある。だが,これらの変化の陰で,山際などの周縁部に住む世帯,季節移住を繰り返す貧困世帯や親がアルコール依存症の世帯など,低い教育水準が再生産される世帯が今日でも多数存在する。かくて,コミュニティの変容を念頭におくとき,教育政策は,先住民と非先住民の格差のみならず,先住民内の格差にも敏感であらねばならないという主張が導かれるのである。

学校教育の普及も含む外部社会への統合の深まりは,先住民の生活水準を上昇させる一方で,独自の言語や習慣の消失を招きやすい。そこで,経済発展と文化的多様性の両立への寄与が期待される,(維持型)二言語教育が脚光を浴びている。第4章では,教育の普及過程の分析に続いて,二言語教育が実施されるためには関係者がいかなる資源と誘因を持つ必要があるのかが考察されている。二言語教育の有無を決める条件には,(1)統合の深まりと先住民に対する偏見・差別という優勢言語(スペイン語)の単一利用化を促す圧力(負に作用),(2)政府・非政府の外部主体による制度上,技術上の支援(正に作用),(3)知識層によるリーダーシップなどのコミュニティ側の条件(正に作用),の3つがある。SMの場合,オトミー語が比較的よく保たれているコミュニティといえるが,若者の間ではオトミー語離れが進んでいる。現在では幼稚園と小学校はすべて先住民学校であり,教員はオトミーである。これ以外にも言語学者による協力など技術上,制度上の条件は整っている。だが,SMで二言語教育が実施されたことはない。その理由は,移住や非農雇用の重要性の高まり,差別の記憶のため,母語を話し伝えることの価値は低いと感じる住民が増えていることの他に,二言語教育を支えるリーダーシップがみられないことにある。これは他の多くのコミュニティにもあてはまる状況である。このように,二言語教育の実現を左右するのは技術的・制度的条件だけでなく,先住民言語の相対的地位と住民自身の言語観やリーダーシップも重要となる。

これらの事実発見にもとづく指摘は,一見すると平凡な議論にみられがちだが,従来の開発研究における盲点となっていた視角であるといえよう。たしかに,リーダーの条件や具体的な教育政策についての議論に物足りなさが感じられるものの,とくに先住民族・少数民族間の格差問題についての参与観察に基づく事実発見と分析は,先住民教育を考える際に貴重な視座を提供していると評価することができるであろう。

第5章では,経済活動のインフォーマリティと先住民性が扱われている。すなわち,著者は,オトミー・コミュニティにおける参与観察と質問票調査から,オトミーの生存戦略は,先住民性(人間関係と行動規範における出身地との連続性),および経済活動の強いインフォーマリティ(宅地の不法占拠,物乞いや行商も含むインフォーマルな稼得所得活動)の結合により特徴付けられ,その間には補完性が存在することを指摘する。すなわち,著者は,「都市のオトミー」であることは,都市における孤立という費用を抱えており,それは移住者の社会経済的上昇には否定的にも作用し得るものの,彼らの低い人的資本に比較して高い経済的便益を生むだけではなく,不法占拠地に同郷者と一緒に住むこと,労働時間と密度に弾力性のあるインフォーマルな生業に就くことには,先住民言語やアイデンティティが保たれやすくなる,農村と都市の双方に足場をおいた生き方も可能になるなど,心理的な便益をももたらしていると主張する。

著者は,こうしたオトミーの生存戦略の理解にもとづいてラテンアメリカにおける都市インフォーマル部門論を再考する。ラテンアメリカにおけるインフォーマル部門論においては新古典派経済学的な議論が優勢になっているが,先住民性と結びついたオトミーのインフォーマリティは,(所有権の侵犯という性質にも根差す)不安定性と不確実性を抱えること,先住民であるが故に不安定性と不確実性を削減するような援助が存在すること,さらには低い人的資本の再生産を促し得ること,という点において,インフォーマリティに競争性や成長可能性,選択の最適性を見出す新古典派的インフォーマル部門論への反証を提示していると主張するのである。このように,著者のオトミー論は,実態調査の裏付けにもとづき,従来のインフォーマル部門論に大きな修正をもたらしたと高く評価することができるであろう。

第6章は,先住民と開発援助の諸問題を扱っている。最近にはいり不法占拠地に住むオトミーも,政府機関やNGOから様々な援助を受けるようになったが,著者の観察によれば,この場合,援助する側の目標は,オトミーの都市社会への統合とそこでの地位向上にあるものの,投入された援助資源と労力の量に比して,こうした期待の実現度は低い。著者は,その理由として,援助資源の不足というしばしば指摘されてきた要因は説得力に乏しいと論じた後,依頼人=代理人モデルの議論を援用しつつ,慈善的性格の色濃い援助活動が受益者の先住民性とインフォーマリティの利得を高めることにより,「都市のオトミーであること」のジレンマに組み込まれている,という新しい視点を提起した。すなわち,オトミーが援助を誘引する条件にインフォーマリティと先住民性が挙げられる。この事実は,受益者のインフォーマリティと先住民性の利得を高め,「都市のオトミー」であることの誘因を強化する。しかし,他方において,「都市のオトミー」であることは孤立という費用に加え,オトミーの援助への依存や援助の自己目的化をもたらし得るという指摘である。これは,外部主体の援助が先住民のアイデンティティに対してもたらす影響を考えるとき,深刻な問題を提起する。援助主体は,先住民の生存戦略を理解した上で,個人および集団としての受益者の能力を高めるような内容と方法論を持つ援助を実施することが求められる所以である。

最後に,第7章では,本論文で得られた結果がまとめられ,その意義と残された問題について言及されている。

以上が提出論文の要旨であるが,本論文は次のような点で高く評価することができる。まず,第一に,本研究は,先住民性,インフォーマリティ,貧困という3つの鍵概念を主軸にして,先住民と開発の研究分野に新しい視角を提示し,大きな貢献をもたらしている。すなわち,従来の先住民と貧困という枠組みに,インフォーマリティという概念を加え,従来の先住民の開発問題と都市インフォーマル部門の関係について,より立体的な考察を行うための重要な視点を数多く提供していると高く評価することができるであろう。それは,先住民の教育や援助に関わる問題にも広く適用可能であることを,著者は本論文をとおしてあきらかにしている。

第二に,著者は,従来のラテンアメリカ開発研究において見逃されていた先住民社会の実体的構造について,地域研究の立場から,説得的な解明を成功させているといえよう。すなわち,現地語(スペイン語・オトミー語)を駆使した2年以上の長期の実態調査における詳細な参与観察によって得られた数々の貴重かつ重要な事実発見にもとづき,禁欲的な定性分析を展開し,きわめて資料的価値の高いモノグラフを完成させている。とくに,オトミー族については,言葉や飲酒についての風俗習慣など,実態調査におけるハードルが高く,その重要性にもかかわらず,文化人類学や歴史学においてさえも,研究の蓄積に乏しい。本研究は,このモノグラフだけでも極めて貴重かつ重要な学際的貢献であると高く評価することができるであろう。

第三に,以上の新しい分析視角と緻密な実態調査が有機的に結合し,荒削りな面も否めないとしても,従来の「シカゴ学派」と「新構造学派」の相克を止揚する新しい分野を開拓する研究になり得る,と評価することができる。すなわち,先住民側の語りを重視し,市場経済の発展に受動的に吸収されるのではなく,積極的なアクターとしての先住民をヴィヴィッドに描き,ともするとイデオロギーが先行していた「新構造学派」の議論を批判的に再評価することによって,ラテンアメリカ経済研究に新たな分析視角を提示していると高く評価できるであろう。

以上のように,本論文は,今後の移行経済を扱う諸分野に幅広く大きな貢献を果たした研究として高く評価できるであろう。

もちろん,本論文には改良の余地がないわけではない。第一に,先住民,インフォーマリティ,貧困という鍵概念間の関係がトートロジカルに思われ,わかりにくくなっている点である。たしかに,著者の狙いはまさにその点にあり,先住民問題の複雑さを描いているといえるが,基礎概念である以上,各概念間の関係,そして,教育や援助にどのようにそれらの概念が絡み合っているのかを,より懇切丁寧に議論する必要があったといえよう。それは,各章間の関係をわかりにくくしている原因の一つでもある。

第二に,依頼人=代理人モデルを先住民と政府だけの関係で議論して良いのかという点である。著者は先住民を代表する主体としてリーダーを取り上げ,リーダーと政府の間の関係の分析に終始している。しかし,他の先住民と高い教育水準を有するリーダーとの間にも同様な依頼人=代理人モデルを想定できるはずであるが,著者はその関係を捨象してしまっている。緻密な実態調査の結果を駆使すれば,この点について,より豊かな議論が展開できたはずである。

第三に,いくつかの細かい点において,説明に不足や不適切さが散見される。たとえば,第5章の援助における「生存戦略」あるいは第6章における「ジレンマ」の説明が不親切であったり,第2章における農業経済学における「経費」,「兼業」や「副業」の概念など,細かい語句の定義が必ずしも適切とはいえなかったりする箇所が散見される。

しかしながら,これらの点は本人も十分に認識しているところであり,また,上に述べた本論文の学術的価値をいささかも損なうものではない。本論文は,開発経済学と地域研究の相克を止揚する極めて高い水準の研究であり,関連学術諸分野において多大な貢献をした特筆に値する研究成果として評価することができる。以上の理由により,審査員は全員一致で,本論文の著者は課程博士(経済学)の学位を授与されるにふさわしい水準にあると認定した。

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