学位論文要旨



No 120895
著者(漢字) 二谷(中西),智子
著者(英字)
著者(カナ) フタヤ(ナカニシ),トモコ
標題(和) 医薬・医療の近代化過程における伝統と変革 : 社会経済史の視点からみた近代日本の経験
標題(洋)
報告番号 120895
報告番号 甲20895
学位授与日 2006.03.09
学位種別 課程博士
学位種類 博士(経済学)
学位記番号 博経第201号
研究科 大学院経済学研究科
専攻 経済史専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 教授 武田,晴人
 東京大学 教授 加瀬,和俊
 東京大学 教授 馬場,哲
 東京大学 教授 谷本,雅之
 東京大学 助教授 中村,尚史
内容要旨 要旨を表示する

本稿では、19世紀後半〜20世紀前半の日本の医薬・医療を、社会経済史的視点から分析した。すなわち、本稿の課題と分析方法を述べて研究史整理を行った序章に続き、第1〜3章で西欧近代医療の導入に起因した医薬行政と医薬の質的変化や西欧近代医療の効力を実感した人々の意識と医療行動を検討し、第4・5章で近世来の伝統医療である富山配置売薬業を事例に、西欧近代医療の導入に伝統医療業界がとった対応を考察し、第6章で西欧近代医療と伝統医療が併存した医療環境下での人々の医療行動を、開業医と家計の両面から分析した。そして本稿の構成に対応し、西欧近代医療の導入、伝統医療業界の対応、人々の医療行動からみた西欧近代医療と伝統医療、の3点から終章で結論をまとめた。

日本の医療の歴史的変遷を大きくとらえると、 5世紀初頭に中国医学が伝わり、近世期には、今日まで「漢方」の主流を形成した古代中国医学の『傷寒論』の伝統を継いだ古方派と、金元医学の伝統を継いだ後世派の2派が存在し、他方で16世紀中葉にイスパニア(スペイン)から南蛮医学、17世紀初頭にオランダから蘭方(和蘭医学)が伝えられた。幕末日本では蘭方の効果を認められ、蘭方医は増えつつあったが、それでも漢方医は明治初年で3万有余人存在した。この状況下で、維新政府はドイツ式医学を正式医学に採用し、それに基づいてドイツ式薬学を導入したなかで医薬行政は展開し始めた。

第1章では、日本政府の医薬行政の展開を検討して以下の事実を解明した。政府は、売薬取締の基本的理念を1870(明治3)年の「有効無害」主義から72年の「無効無害」主義に転換し、売薬営業税および売薬印紙税をかける一方で、内務省衛生局が86年に「売薬検査心得」を制定し、売薬配伍薬品の許認可制度を作った。19世紀後半以降は世界的に薬学の進展が著しい時期で、新薬・新製剤の配合が売薬にも許可され、売薬方剤の改良は着実に進んだ。1909年に売薬取締の方針は「有効無害」主義に転換したが、その際、1886年の「心得」で「性効不明」の理由から配合を禁じられた和漢薬のうち、古来漢方医や本草綱目で使用された薬種は売薬への配合が許された。伝統的売薬は「心得」により近世時の処方内容を変更させられたが、1909年以降、再び和漢薬の配合がある程度認められた。

政府は医薬取扱人に関する理念型を1874年「医制」で提示したが、19世紀中は、近世来の医師や薬種商の業態を活かす過度的性格を帯びた諸制度を運用するに止め、その後1906年に医師法、26(大正15)年に薬剤師法を施行し、資格試験受験の要件を設けた上で、医学・薬学の高等教育機関での修学者を中心に医師・薬剤師資格が付与された。こうして資格制度面では1874年「医制」の理念型に近づいたが、医制に提示された医薬分業の法的成立は第二次世界大戦後の1951(昭和26)年で、医薬分業の現実的な達成度は2001(平成13)年時点でも44.5%であった。売薬の調製資格に注目すると、1914年の売薬法は、売薬の調製者を薬剤師・薬剤師を使用するもの・医師に限定し、特に法人の場合は薬剤師の使用を義務付けたが、家伝薬に関しては、従来の売薬営業者に1代限りの調製権を認め(売薬法第24条)、毒劇薬・指定医薬品を配合しない売薬は無資格者にも売薬調製を認めて(売薬法第25条)、少なくとも売薬法施行時点ではそれまでの売薬営業が認められた。

このように日本では、医薬行政も売薬行政も、従前の業界の様相を一変させる革新的政策は断行されず、時間を費やして次第に業態を変革する手法が採られた。

第2章では、こうした政策の下での医薬品の質的変化を、医師の処方薬と薬種商・薬局の販売薬を比較して検討した。幕末維新期でも医師の処方薬と消費者が薬種屋で購入した薬は異なり、病人は社会的身分と家計が許す範囲で複数の医療サービスを選択し得た可能性があった。20世紀初頭には、許可された原料薬の種類と配伍許可量の規制が行われ、開業医の処方薬と消費者が薬局で購入した薬の質的な差が明確となった。1930年前後には、開業医は各種注射液を購入して治療に使用したが、消費者が薬局から購入した薬品は、解熱剤・パップ剤。防腐消毒剤・包帯や眼帯・氷枕など、今日も薬局で購入する救急医療用品と同じで、現代の消費者が薬局で購入する医薬品の原型は1930年前後には存在した。

第1章では、売薬への新薬・新製剤の使用により、第一次世界大戦後は、医師の処方薬と売薬方剤の質的差異は、毒劇薬の使用制限と毒劇薬が許可された場合の用量制限に限定されたとした。毒劇薬を除けば、1930年前後に、服用薬や外用薬では、開業医の処方薬と売薬方剤の原料薬品の違いはなくなりつつあったが、開業医のみが注射薬を購入したように、消費者が薬局から直接に購入できない薬品も存在しており、第2章のように時代が進むにつれ、開業医の処方薬と薬種商・薬局の販売薬の質的差異はより明確になった。

このように西欧近代医療は確実に日本に導入されたが、それが人々の間で定着する契機として19世紀後半のコレラ流行が重要であった。第3章では、石川県における1879年のコレラ流行を事例に、宮林家の書簡を分析して、西欧近代医療の効果を身近で実感した人々の意識と行動の変化を検討した。一般の地域住民は、流行初期に伝統的な売薬や有名売薬の服用で対応しようと試みたが効果はなく、コレラが猖獗を極めて初めて、政府の奨める石炭酸による消毒の効果を経験的に実感し、その使用を受け入れた。廻船経営を営む宮林家は、地元で流行が始まる前に、自船の船頭から、また人脈を活かして医療情報を収集し、客観的に判断して自主的に防疫対策を行い、地域住民への石炭酸等の施薬も行った。

かくして、西欧近代医療は、人々の間に次第に定着したが、同時に伝統医療にも根強い需要は残った。そこで第4・5章で、その代表例として越中国(富山県)の配置売薬業を分析した。薬は人間の命に深く係わる財としての特徴をもつため、薬業に関わる業種は本来的に法的規制を受けやすい。近世日本でも薬種流通は幕府の強い統制下におかれ、大坂から諸藩が薬種を移入した後も、各藩では薬種流通の取締を行っていた。

配置売薬業への規制は、近世期は販売面、近代期は生産面+販売面と、近代以降に規制力を増したが、近世後期の諸藩の規制下で近代以降の新たな規制に対応し得るような帳主の階層分化が進行し、売薬業者は「堂号組織」 (後に売薬会社)を結成するなどして制度的変化にある程度柔軟に対応した(第4章)。とはいえ近代期の医薬行政の「有効無害」主義への転換は、富山の配置売薬業が「方剤統一」を進めざるを得ない状況を作り出し、最大の売薬会社であった廣貫堂の生産構造も、「協同組合」的生産から会社生産へ大きく転換した。そして富山売薬業は、政府が安価な医療として期待した「特効薬」的売薬を、薬剤師の管理の下で生産し、売薬の品質と有効性を均一化するのに適合した生産構造へと変革した。ただし消費者の薬の需要は「特効薬」的売薬に止まらず、人々の体質の多様性もあり、「家伝薬」的売薬の根強い需要が存在し続けた。それゆえ小生産者による「家伝薬」的売薬生産も売薬会社の生産と併存し続け、富山売薬業は伝統医療の性格も持ち続けた(第5章)。

このように近代日本では、近世来の漢方医や配置売薬、有名売薬、民間療法に加え、西欧近代医学を修得した開業医、病院、洋薬配合の各種売薬などの医療サービスが利用可能であったが、それらを人々がどのように利用したかを第6章で検討し、以下の結論を得た。資産家の家では20世紀初頭から第一次医療技術革新(対症療法的治療技術や看護技術の革新)の結果かなり多様な医療サービスを享受し得たが、抗生物質が未開発の段階では、急性伝染病の脅威は残った。とはいえそのような医療技術水準でもそれを享受するには多額の費用が必要で、家族が入院した年と通常の年で医療関連支出に大きな差が出た。その傾向は、都市民衆で比較的所得の多い世帯にも見られ、通常の年の医療関連支出は、各社会階層間でそれほど大きな格差はなかった。ただし重病のような事態が生じた時は、病気の症状に適応した医療サービスが高額となり、医療サービスを受け得た範囲に社会階層間の格差が生じた。家計における医療関連支出は、通常は家計を圧迫する要因ではないが、緊急の事態が生じた場合に必要不可欠な経費として家計を制約する重要な要因となった。

最後に終章で以下の点を指摘した。明治政府初期の西洋近代医学を基盤とする医薬の普及を図るという基本方針は、約半世紀以上かけて実現し、それに応じて売薬方剤の内容が変容した。ただし配置売薬業の場合、洋薬や新薬・新製剤を配合した新商品も生産された一方で、近世から人々の日常生活に馴染み親しまれた和漢薬方剤が消費者の根強い需要に応じて生産され続けた。配置売薬で明確となった洋薬方剤と和漢薬方剤の共存の姿は、 19世紀後半から20世紀前半の家計における医療支出にも現れた。急性伝染病の事例からみて西欧近代医療は必ずしも万能ではなく、人々は、20世紀に入っても加持祈祷・配置売薬・店舗売薬・近隣の開業医・遠距離の近代的病院など、伝統医療と西欧近代医療を織り交ぜて、病状や医療環境に応じて、経済的負担の可能な範囲で様々な医療サービスを利用した。近年、日本では「代替医療」が注目され、西欧近代医学・伝統医学・民間医療など、様々な治療法で病を癒す取り組みが行われている。近代日本の人々も西欧近代医療のみに依存して病を癒したわけではなく、現代の私たちも労を惜しまず医療情報を収集し、西欧近代医療とその他の医療とを比較検討して、主体的に治療方法を選択することが重要である。

審査要旨 要旨を表示する

本論文は、19世紀後半から20世紀前半期の日本における医薬・医療に関わる問題を社会経済史的な視点から分析することを意図し、明治維新期に導入された西欧近代医療のインパクトと、これに対する伝統的な医療の一つである富山の配置売薬業の対応を検討するとともに、医師の医療行為の記録や、地域の有力者たちが疫病の流行に対してとった態度などを検討することを通して、医薬・医療の近代化過程における伝統と変革の交錯を論じたものである。

あらかじめ構成を示すと、以下の8章からなっている。

序章 課題と方法

第1章 医療行政と医薬制度の近代化

第2章 処方医薬と売薬の変容−19世紀後半から20世紀前半−

第3章 1879年コレラ流行と地域社会−石川県射水郡新湊三日曽根村の事例−

第4章 19世紀における配置売薬業の展開−「加賀領売薬」を素材として−

第5章 20世紀前半における配置売薬業の展開−富山売薬を素材として−

第6章 医療費と医薬状況の展開−1860年代〜1930年代−

終章 総括

まず本書の構成に従って主要な論点とこれについての著者の貢献を明らかにし、その上で審査委員会の評価を記すこととしたい。

序章では、まず、対象としての「医療」と「薬業」の概念を明確化した上で、本論文の主題に関する著者の問題関心を、最近の歴史研究が明らかにしてきた「身体の歴史」に関わる業績との関係で明らかしている。著者は、そこで変化期に生きた人々が伝統的な医術・医療・民間療法などと、西欧近代医学に基づく医療制度の展開の間で、どのような医療行動をとったのかに注目し、これまでの医療史研究がいずれかといえば、制度史研究に偏っていたことを批判している。

第1章は、法的な規制を受けることになる医薬品に関わるさまざまな職業、産業の特殊性を理解するために、まず、医薬行政と制度的規制の変遷を確認することを主題としている。売薬取締りの基本的な理念が1870年の「有効無害」主義から72年に「無効無害」主義に変わり、さらに1909年には「有効無害」主義に再転換したこと、この間売薬の改良が進められたこと、医療行政では、1874年の医制以来、医薬分業が追求されたが実質的には医師による処方が排除されず過渡的形態にとどまったことなど、制度改革が実際の医薬・医療の現場のあり方をにらみつつ、漸進的に変革されていったことが明らかにされる。

第2章は、こうした政策の展開の下で医薬品がどのような質的な変化を遂げたのかを医師の処方薬と薬種商・薬局の販売薬を比較して検討している。その結果、処方薬と販売薬の間には質的な差異があり、その差は時代とともにむしろ明確化したが、それらは病人たちがそれぞれの社会的条件に応じて医療サービスを選択する可能性を示唆するものであった。

第3章は、石川県におけるコレラの流行を事例に、地域の有力者であり廻船経営を営んでいた宮林家が、コレラ流行にどのように対処したかを書簡等を通して明らかにし、そこから西欧近代医療の効果が人々に実感され、実践されていった過程を明らかにしている。

以上の3つの章を通して著者は、西欧近代医療が導入された過程を、(1)政策ないし産業規制、(2)医薬の品質、(3)人々の意識や医療行動の3側面から明らかにした。

次いで第4章は、こうした西欧近代医療の導入普及の一方で、伝統的医療に対する根強い需要が存在したことを配置売薬業の展開の中で分析した。この章では、医療サービスの提供者となる配置売薬業者が近世から近代へと規制の仕組みが変わる中で柔軟にその制度変化に対応して売薬業を持続的に展開したことを明らかにし、近世期の規制の解除だけを一方的に強調してきた先行研究を批判している。

こうした変化の中で、売薬に対する品質の向上と有効性の均一性をもとめる政府の規制が、売薬業の生産組織、企業組織に変革を求めることになり、会社組織の「生産構造」が形成されていくことになった。これが第5章の主題である。しかし、その一方で、消費者の売薬に対する根強い需要が伝統的な「家伝薬」の存続を可能にし、それ故に売薬業は依然として伝統的な医療の性格をも持ち続けることになったと指摘されている。

これら2つの章の分析によって、著者は伝統的な医療が、「西欧近代医療と切り離されて存続したのではなく、その影響下で自らを変革することで存続した」ことを強調している。

第6章は、このように多様な性格を持って展開する近代の医療サービスを人々はどのように利用したのかが検討される。そのため、著者は医療サービスの消費者である家計の分析を行い、分析対象となっている資産家の家計では、入院など多額の費用を要する医療サービスまで受け得たことを明らかにする。そうした高額の医療サービスは限られた社会階層にのみ利用可能であったとはいえ、そうした家計では、伝統的な薬補による和漢薬方剤から医師による診療、あるいは入院による施術など多様な医療サービスを選択的に享受していたことを指摘している。

以上の検討を要約しつつ、終章では、次のように述べている。すなわち、近代西欧医療の普及が半世紀以上の時間をかけて進展する中で、伝統的医療との共存が進むことになるが、急性伝染病の流行に対して近代西欧医療の効果が万能ではなかったこともあって、加持祈祷・配置売薬などの伝統的医療行動も織り交ぜて、人々は経済的負担の許す範囲内で、医療サービスを利用するようになっていた、と。

本論文は、以上のように近代西欧医療の導入普及とこれに対応して変容する伝統的な医療の双方に目を配りながら、近代日本における医療サービスがどのように人々の生活に受け入れられていたのかを明らかにしていったことに大きな特徴がある。

そうした問題関心に支えられながら、本論文で著者はいくつか実証面で貴重な成果を挙げている。具体的には、(1)開業医の診療記録に基づいて処方薬の変遷を明らかにしたこと、(2)売薬業者であった岡本家の懸場帳の集積過程を明らかにしたこと、(3)大正期にかけて配置売薬業のあり方が変容していく過程を明らかにしたこと、(4)資産家層について家計支出の分析を通して医療サービスの実態を明らかにしたこと、などである。これらは著者の丹念な資料の収集と整理によって成し遂げられたものであり、これまで経済史研究では余り取り上げられなかった資料群、たとえば医師の医療に関わる記録などにまで及んでおり、これによって得られた事実の発掘が本論文の叙述を生き生きとしたものにしている。

しかし、そうした評価を与えうる反面で、本論文には残された問題点が多いことも否めない。とくに問題なのは、著者自身が意図している「身体の歴史」という歴史研究の今日的な潮流との対話が、本論文においてどの程度なされているかが明確ではないことである。こうした問題に立ち入るためには、西欧近代医療や伝統的な配置売薬業による医療サービスが人々の生活にどのように浸透していったかを、より多角的な視角から検討しなければならないだろう。この点に関わる著者の叙述は、自らの思いが先行し、冷静で分析的な論理が後退している。たとえば、結語に登場する「医療的多元論」ともいうべき著者の主張は、本論文の分析結果から直接的に導き出される結論ではない。

そうした限界のために、社会経済史的な視点から分析を進めるという著者の分析視点が全体にどのように生かされているのか、それは「身体の歴史」に関わる関心とどのように切り結ぶのかも判然とせず、各章で明らかにされる詳細な事実が、一つの時代像として浮かび上がってくるというほどには洗練されていない。

また、医療・医薬に関わるトータルな検討を意図するのであれば、医師という医療サービスを提供する主体の分析が不十分であること、伝統的な売薬の分析に比して、近代的な製薬業による医薬の供給に関わる分析を欠いていること、健康保険制度などについての制度的な検討を欠いていることなど、なお、今後研究を重ねて補充すべき重要な論点が残されている。

しかしながら、このような問題点があるとはいえ、本論文の実証研究の成果は、著者が自立した研究者として研究を継続し、その成果を通じて学界に貢献しうる能力を持っていることを明らかにしている。従って審査委員会は、本論文の著者が博士(経済学)の学位を授与されるに値するとの結論を得た。

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