学位論文要旨



No 120899
著者(漢字) 松山,恵
著者(英字)
著者(カナ) マツヤマ,メグミ
標題(和) 近代移行期の江戸・東京に関する都市史的研究
標題(洋)
報告番号 120899
報告番号 甲20899
学位授与日 2006.03.15
学位種別 課程博士
学位種類 博士(工学)
学位記番号 博工第6176号
研究科 工学系研究科
専攻 建築学専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 教授 伊藤,毅
 東京大学 教授 鈴木,博之
 東京大学 助教授 藤井,恵介
 東京大学 教授 藤森,照信
 東京大学 教授 吉田,伸之
内容要旨 要旨を表示する

近代移行期の江戸・東京をおもな分析対象とする本論文は、世界史的な発展法則にのっとっていないゆえに従前軽視されてきたものも含めた諸事象どうしが、都市空間に生起させていた関係性の分析から、第一に明治初年における「遷都」の影響を空間論として明らかにし、第二に開国や内政の変事を経ながらも、一般に都市が物理的にも人文・社会的にも途切れることなく持続してゆくこと、それ自体の構造─都市の基層─について当該期の特徴を論じることを目的としている。

本論は大きく二つの部から成りたっており、これに補足的な位置の付論がつく。

第一部は、明治初年における「遷都」=近世武家政権・江戸幕府の開かれた江戸が明治新政府の首都・東京へと転換すること自体が都市に与えたインパクトを空間論として明らかにするものである。

第一節(第一・二章)は幕府瓦解から明治五(一八七二)年あたりを中心に、明治新政府の政治機関やそれにまつわる人々の東京への移住過程などの解明をつうじてあらたに首都化の画期を見きわめ、さらにそれらの配置関係などをもとに東京の空間構成原理について論じる。第一章ではこういった位置取りの前提、具体的拠点となった武家地の収用・転用に関して、従前一概に把握されがちだったそれらの転換が「郭内」・「郭外」という都市域の制定によって一律に分けられていた事実を史料に照らして確認する。つづく第二章では、第一章で浮かびあがった都市域の二元化の詳しい背景や意義を皇居や新政府機関の整備過程、またそれらの主体(人)の問題については公家の屋敷受領の実態にせまりながら明らかにする。

このように維新変革をつうじて都市の七割をしめた武家地の読み替えがおこなわれ、「郭内」には新政府の基礎的な機能や要素がある程度凝縮されながら埋め込まれた一方、「郭外」には財政上の後援が期待され、並行して民活の場へと積極的に割り当てられていった。それは、いうなれば前者を「主」、後者を「従」とするような空間構成をうみだし、その影響は都市一般のあり方にも何かしらの影響をあたえてゆく。

第二節(第三・四章)はこの問題を明治初頭の都市改造との関係のなかに検討するものである。すでに日本の都市計画のさきがけ、また欧化主義の象徴的存在として周知の存在でありながら、当初計画については必ずしも十分には解明されていない銀座煉瓦街についてあらためて史料の渉猟・再読をおこない、それが前節(第一部第一節)の検討をつうじてみえてきた都市の文脈に少なからず規定される側面があったことを論証する(第三章および第四章冒頭)。さらに第四章では、この前章でおこなった事業に対する評価(「屈折と頓挫」)をもとに、公権力の空間に対する施策の方針転換(都市の「地」から「図」への転換)を見、さらにはその具体化ととらえられる皇大神宮遙拝殿の成立過程についてあらたに指摘する。

一方、都市改造事業などの物理的な限定性を認識したうえで、第二部ではむしろその直接の対象とはならなかった地域における推移とその構造的特徴について論じることを目的とした。

第一節(第五〜七章)では「郭内」・「郭外」域の制定にともない、公権力の一定の関わりのもと、民間による開発・利用に委ねられた武家地(跡地)を舞台とした諸事業の展開をあつかう。まず第五章は、明治三(一八七○)年頃の東京において行われていた以後の「貧富分離」計画の嫡流ともいえる場末町々の移転(「新開町計画」)の実態分析から、この当時の空間管理をめぐる公権力の意図(都市域の凝縮、「郭内」への「富」の集積)をよみこみ、さらにはこの計画を逆手にとって従前の「広場」もしくはその近隣への移住をもくろむ場末住民らの普遍的な願望を浮き彫りとする。関連して第六章では、相対的に小さな区画からなる幕臣屋敷地域の再編も、従前の「広場」のあり方に大きく規定されつつ、たとえば「広場」どうしをつなぐ線状の「町家」開発が個々の区画をこえてつらなっていった様子や、それらが明治なかば以降の幹線軸としての働き(鉄道馬車・市電)の素地を用意した点などにもふれる。

さらに第七章は、明治初年における新政府の政策にもとづく民衆教化に関して、廃仏毀釈をめぐる寺社の様式論をのぞけばこれまで空間の実態がほとんど考慮されてこなかった現状をかんがみ、教化には一般の人びとに身近な、新しい空間が必要であったとの予測のもと、明治初年東京で簇生していた私有地の宗教について存立基盤を明らかにする。ここからは祭政一致破綻の背景や近代神社の成立というものが、こういった明治初年の動向や(公権力の側からみての)失敗を考慮しなくては真には理解できないものであることも明らかになろう。

以上の第五〜七章が、明治初年における民間の多様な営為をみるところから、身分制という絶対的な規範にかわって以後の都市空間の再編を決定づけていった一般の人びとの居住の論理を追究したのに対し、第二部第二節(第八・九章)では明治年間におけるその具体的展開を明らかにする。第八章は、新政府から旧大名にあらためて下賜され、まもなく明治初年のうちに江戸以来の豪商・三井の所有にわたった大名屋敷跡地の開発を、その後明治二○年代あたりまでくわしく解明したものである。あらためて述べるまでもなく、東京の土地は財閥や富裕な商人らによる蓄積した資本の振り向け先として明治一○年代ごろから集積がすすむものの、東京の場合、そういった大規模土地所有者がみずからの所有地に建築を建てることは稀であって、地主の交代が自動的に既存の諸相・諸関係の見なおしをせまるものではない。むしろ本章の検討からは第二部第一節でみた「広場」を再編へのダイナミズムとするような展開が住民らの思惑にそって営まれていたことが明らかとなろう。

しかし、地価の高騰・土地の運用(地貸)を経営対象とみなす情勢にしたがって、地主と店子とのあいだで個々の建築の機能や質をめぐり、するどい対立関係がうまれてゆくことも必至であった。つづく第九章ではこの点をめぐって、これまで法制史的な関心をのぞけばほとんど手が付けられていない明治後期の東京で活発に展開されていた借地人運動の構図にせまる。運動がどこで、また誰によって担われていたかを具体的にみてゆくことをつうじて、土地の商品化や都市計画事業にともなう衝撃がくわえられるなか、旧江戸中心部の町人地における空間=社会のあり方、社会的結合の変異について論じる。

付論は、第一部・第二部と趣をかえ、幕末から明治における幕臣屋敷(跡地)のあり方を素材としながら生活空間としての都市の側面について、ある種超時代的な江戸・東京の居住の論理を垣間みるものである。第一章では、近世後期を中心に、純然たる武家地の幕臣屋敷において進行していた複合的な居住の実態を明らかにし、その背景を禁令の検討から遡及的に論じる。また第二章では、こういった居住関係をつうじて生みだされた建築(「二戸一」形式の中長屋や、表長屋の規模拡張など)が明治に入ってから武家地跡地の表通り沿いのいわば商店街形成の礎となり、さらには建築の売買・移築によって武家地跡地から文字どおり流出し、それまで屋敷の内側に閉じこめられていたさまざまな要素が表出・一般化する経緯を論じた。この二章は、とくに第二部の分析における視座を明確にするという意味で、本論文にとっての土台となっている。

審査要旨 要旨を表示する

本論は明治初年の東京を題材として、近世江戸から近代東京への移行期における都市史の全体像を明らかにしたものである。従来、東京における近代都市史研究は数多く蓄積されてきたが、明治初年の動向は資料的制約からほとんど解明されてこなかった。本論では既知の資料に加え、新たな資料を精力的に発掘し、これらをもとに先行研究とは異なる視角から当該期の東京の実像を描き出した意欲作である。

序論では、先行研究の批判的レビューを行いつつ、著者の研究視角が明示される。すなわち従来の研究では東京の近代を「西欧の移植」や産業革命に代表される狭義の近代化の文脈のなかで捉えられがちであったが、本論では近世から継承された都市の基層部分の存在形態を重視し、その上に重畳する近代的要素の位置づけを試みている。すなわち都市計画や都市政策の意味づけを江戸・東京という歴史都市の全体像から再考することが企図されている。

本論は9章と付論2章からなり、郭内における首都形成を取り扱った1-4章を第1部、郭外の首都化の埒外にあった部分の動向を明らかにした5-9章、旧幕臣屋敷地区の明治期の実態を分析した付論1、2章で構成されている。

第1部首都化では、明治初年において「郭内」「郭外」が設定された事実を明らかにした。この事実は本論ではじめて指摘された新知見である。江戸城および有力藩邸が建ち並んでいた郭内は、維新後直ちに新政府によって収公され、特別な関心をもって遷都および首都化がはかられた。すなわち江戸城には京都から皇居が移され、実質を伴うかたちで皇城が成立し、諸官庁施設および旧公家の移転もほぼこの郭内に限定するかたちで進行した。皇城内の建築施設の実態や明治初年の諸官庁の分布、公家の移転先を解明した先行研究が皆無ななか、本論では首都化の実像をはじめて具体的に明らかにしたということができる(第1、2章)。

首都化の局面から捉えた場合、明治5年の銀座煉瓦街計画はまた違った側面をみせることになる。すなわち第3章では、銀座煉瓦街計画を新資料などにもとづいて再考し、単なる西欧の移植だけでなく、郭内の論理、すなわち天皇を頂点とする近代都市創出の一翼を担うべくこの計画は推移し、建築を手段とした公権力の都市に対する介入の事例として定位される。銀座という場所は皇城に近接した郭内における重要な位置にあったことは、上記のような文脈から理解できるのである。さらに第4章では銀座と皇城の間の地区に皇大神宮遥拝殿が建設されたという事実を発掘し、これまた東京の首都化における新政府の宗教政策の一環として捉えることが可能である。

第2部は郭外における都市生活者を主体とする近代移行期の動向を扱った各章からなる。明治初年、旧武家地のいくつかでは「新開町」と呼ばれる開発が民間主導で進められ、盛り場化したものも少なくなかった。ここでは新開町の全体的動向(第5章)、下谷和泉橋通り一帯の驀進屋敷における開発(第6章)、神田連雀町の開発(第8章)などの個別事例研究を通して、近世から近代移行期の混乱期における民間開発の実像をはじめて明らかにした。新開町は郭外に数多く生まれ、それぞれが新たな都市各部の核となりながら、全体として東京を近代へと連続的に推し進める別のファクターとなってゆく。また郭外ではこの時期、地方の産土神を勧請した遙拝所が私有地内で数多く誕生し、東京の求心的構造を別のかたちで強化していくことになる(第7章)。

第9章は旧町人地の状況を明治後期の日本橋における借地人運動を素材として明らかにしたものである。地主と店子の鋭い対立は近世では必ずしも問題にならなかったが、明治後半になると土地の商品化、資本化にともなって、ようやく顕在化していく。本章では従来、法制史の分野でしか扱われなかった借地人運動の実相を当該期の社会的背景を踏まえながら、都市史のテーマとして問題化することに成功した。

以上、本論は明治初年の動乱期における東京の近代化の実像を郭内、郭外の2元構造から捉え直し、単なる西欧移植の近代化にとどまらない、都市の基層部分の内発的展開をも含みこんだ実証的研究であって、従来の近代都市史の水準を格段に推し上げることに貢献した力篇であると評価できる。しかもここで取り上げられた議論は、都市史や建築史の狭い分野にとどまらず、日本の近代そのものを問い直すことにつながる本質的問題であるといってよい。よって、本論文は博士(工学)の学位請求論文として合格と認められる。

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