学位論文要旨



No 120906
著者(漢字) 枝廣,純一
著者(英字)
著者(カナ) エダヒロ,ジュンイチ
標題(和) 新規な細胞選抜法の開発と培養工学的手法を用いた植物培養細胞の二次代謝物生産性の向上
標題(洋)
報告番号 120906
報告番号 甲20906
学位授与日 2006.03.15
学位種別 課程博士
学位種類 博士(工学)
学位記番号 博工第6183号
研究科 工学系研究科
専攻 化学生命工学専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 教授 長棟,輝行
 東京大学 教授 上田,卓也
 東京大学 助教授 上野,宏
 東京大学 講師 新海,政重
 東京大学 教授 関,実
内容要旨 要旨を表示する

研究の背景・目的

植物の生産する二次代謝産物は,古来より医薬,染料として利用されているが,近年資源枯渇等の問題から植物培養細胞を原料とした物質生産の検討が行われている。植物培養細胞には気象条件や病害虫の影響を受けず安定生産が可能という利点がある反面,培養にかかるコストに見合うだけの生産性向上が見込めない場合が多いため,現在までに工業的な生産が行われた例は少ない。本研究の目的は,植物培養細胞による有用二次代謝産物生産の効率を高めるための技術を開発し,物質生産プロセス全体の生産性を高める指針を与えることにある。そのため本論文では(1)細胞選抜による高生産細胞株の確立 (2)二次代謝系の調節に基づくアグリゲートサイズのコントロール法の開発 (3)代謝前駆体の培地への逐次添加による目的物質生産性の改善,という3つの手法に着目して検討を行った。

水性二相分配法を用いた二次代謝物高生産細胞の取得

一般に,植物培養細胞は培養中にアグリゲートと呼ばれる細胞集塊を形成するが,このことが細胞の増殖に重要な役割を果たすことが示されている。そのため,アグリゲートを酵素処理によって単細胞化する必要のある細胞選抜法,即ち微生物細胞の選抜に頻用される単細胞に由来するクローンコロニーの取得や,動物培養細胞に対して使われるFACS(Fluorescent Activated Cell Sorter)/MACS(MAgnetic Cell Sorter)の植物培養細胞への適用には大きな困難を伴う。さらに植物培養細胞は体細胞変異のために常にヘテロな細胞集団になる傾向がある。そのため多大な労力と時間をかけて高精度の細胞選抜を行うメリットが少ない。そこで本論文では発想を変え,アグリゲート構造を崩さずに,生産性の比較的高い細胞群を簡易な手法で一度に大量に取得する方法を開発すれば,植物培養細胞の選抜に適した手法となりうるのではないかと考えた。

本論文では植物培養細胞の細胞選抜に水性二相分配法を適用した。水性二相系は連続相が水であるため,細胞や生体高分子などに対する影響が少なく,これらの分離に応用されてきた。水性二相分配法では,水性二相系の二相間のわずかな親疎水性の違い,及びイオンの添加により形成された両相間の電気的ポテンシャルを利用し,これらと導入物質との相互作用によって分離が行われると考えられている。本論文では水性二相系にはpoly(ethylene glycol) (PEG)とdextran (Dex)系を,細胞にはアントシアニン生合成能を有するイチゴ培養細胞を用いて,上記の系で細胞の分離が可能であるか,次いで分離結果とアントシアニン生産能の間に相関があるかについて検討を行った。

光照射下で7日間培養した親株細胞を水性二相系に導入したところ,適切なLi2SO4濃度下で,細胞表面の性質によって2つの細胞集団に分割された。この結果は,単一の細胞株として分離された植物培養細胞が細胞表面の性質(親疎水性や電荷)についてヘテロな系であることを示した,世界で初めての結果である。また,上記の細胞の一部はアントシアニンを蓄積して赤色をしているが,分離して得られた2種類の細胞集団のアントシアニン含有量は10%以上異なること(p<0.05),また下相のDex-rich相にアントシアニン含有量の高い細胞が優先的に分配されることが示された。この結果はイチゴ培養細胞内の二次代謝(アントシアニン生産)が細胞表面の性質と密接な相関を有し,水性二相系における細胞の分配挙動を変化させることを示している。

次に光照射下で10日間培養した細胞を,水性二相分配法により分離した。7日の時点から細胞の増殖は止まるが,アントシアニンの合成が継続されるため,一部の細胞のアントシアニン蓄積量はさらに増大していると期待される。細胞画像のデータに基づく色素定量法によって,分離された細胞のアントシアニン含有プロファイルを求めたところ,培養7日目の細胞の場合と同じく,アントシアニン含有量の高い細胞は下相のDex-rich相への強い親和性を示した(図1)。さらにリン酸カリウムバッファ添加濃度を適切に調節することで,アントシアニン含有量の高い細胞を下相中に濃縮できることがわかった。図1のデータより下相に分離された細胞のアントシアニン蓄積量を算出したところ,リン酸カリウムバッファ濃度=1.8 mmol/kgのときに,分離前の細胞の約2倍と,大きく増大した。水性二相分離の結果はいずれも,アントシアニン蓄積量に関してヘテロな細胞集団から,アグリゲートを形成したままでアントシアニン高生産細胞を選択的に濃縮できることを示している。本研究において,水性二相分配法をもちいることによって,植物培養細胞の二次代謝高生産細胞アグリゲートの選抜が可能であることが初めて示された。

二次代謝系とアグリゲートサイズの相関に関する検討

植物培養細胞のアグリゲート形成と細胞の増殖及び代謝の間に相関があり,物質生産を行うためにはある程度の大きさのアグリゲートの形成が必須であるが,一方懸濁培養系では大きなアグリゲートがダメージを受けやすいという問題があり,アグリゲートサイズを適切にコントロールする手法の開発が望まれている。特に二次代謝とアグリゲートの間の相関について検討が行われ,アグリゲートサイズに基づく二次代謝物高生産細胞株の選抜を行ったとする報告もなされている。しかし二次代謝がアグリゲート形成に直接及ぼす影響については,ほとんど明らかになっていない。本論文では,まず二次代謝がアグリゲートの形成に及ぼす影響を検討し,これによって二次代謝系の調節に基づくアグリゲートサイズのコントロールが可能であるかどうか検討を行った。

まずイチゴ培養細胞のアグリゲートを,メッシュを用いてサイズごとに分画し,アントシアニンの含有量を測定した。目開き95μmのメッシュを通過する細胞画分を除去することにより,アントシアニン含有量は約20%向上することが明らかになり,アグリゲートの大きさと細胞のアントシアニン含有量に正の相関があることが示された。

次にアントシアニンをはじめとするフェニルプロパノイド代謝系由来の代謝産物の生産を阻害することにより,この代謝系とアグリゲート形成の相関を調べた。フェニルプロパノイド代謝系は,出発物質であるアミノ酸L-フェニルアラニンの代謝酵素Phenylalanine Ammonia Lyase(PAL)を阻害するL-フェニルアラニンのアナログ,α-aminooxy-β-propyonic acid (AOPP) を培地に添加する事によって阻害される。AOPPはPALにのみ特異的に結合し,同じL-フェニルアラニンを基質とする酵素への結合力は弱く,増殖その他の代謝に及ぼす影響は小さいため,フェニルプロパノイド代謝系の特異的阻害剤として用いられている。AOPPを添加した培地でイチゴ培養細胞を培養し,代表的なフェニルプロパノイド代謝系由来の代謝産物であるアントシアニンの生産阻害(図2)を確認した。このとき増殖には影響はみられなかった。さらにAOPPを加えることによりアグリゲートサイズの減少(図3)を確認した。以上の結果は,アグリゲートの形成にフェニルプロパノイド代謝系が直接関与していることを明確に示し,同代謝系由来の二次代謝物の生産性がアグリゲートサイズと相関を有することを強く示唆するものである。また,AOPPを培地に添加することによってフェニルプロパノイド代謝系を抑制し,アグリゲートサイズをコントロールできる可能性が示唆された。

前駆体の培地添加条件の検討による二次代謝物生産性の向上

培養条件の最適化は,物質生産性の向上のための基本的な手法の一つである。また,目的代謝物の前駆体を培地に添加する試みも数多く行われてきた。しかし,植物の二次代謝系は枝分かれの多い多段階の酵素反応であり,一般的に加えた前駆体が目的代謝物へ変換する効率は低い。ここでは,アントシアニンを生産するイチゴ培養細胞を用い,前駆体としてアミノ酸L-フェニルアラニンを培地に添加してアントシアニン含有率の向上を試みた。L-フェニルアラニンはフェニルプロパノイド代謝系だけでなく,各種アルカロイドを含む二次代謝物の合成原料として代謝される。従ってL-フェニルアラニンについての検討はアントシアニンに限らず他の多くの二次代謝産物についても有用であると考えられる。

L-フェニルアラニンは二次代謝以外に,細胞増殖に伴う核酸,タンパクの合成においても消費される。増殖を阻害することにより二次代謝系が促進されるケースは多いが,フェニルプロパノイド代謝系の場合,増殖阻害に伴うタンパク・核酸合成阻害が,細胞内遊離L-フェニルアラニンの蓄積を引き起こし,余剰のL-フェニルアラニンがフェニルプロパノイド代謝系に流れることによるとされる。細胞内L-フェニルアラニン濃度上昇により,フェニルプロパノイド代謝系酵素の活性が誘導されるとの報告もあり,L-フェニルアラニンの培地への添加はフェニルプロパノイド代謝系の活性促進に効果的であると期待される。しかしL-フェニルアラニンを培養初期に少量添加してアントシアニン含有率が高まったとの報告はあるが,その効果は高いとはいえない。添加したL-フェニルアラニンが増殖によって消費され,効果が薄れたものと考えられる。

本論文ではL-フェニルアラニンを培地に半連続的に添加することによって,二次代謝促進効果を高めることを試みた。ほぼ2日おきに1 mMのL-フェニルアラニンを培地に添加し,添加を行わないコントロールと比較してアントシアニン含有率を最大6倍に,フラスコあたりの生産量を約60%向上させることに成功した。

まとめ

本研究において,イチゴ培養細胞によるアントシアニン生産系を用いて,(1) 水性二相分配法が植物培養細胞のアグリゲートに適用可能であることを新たに示し,二次代謝産物の高生産細胞株を取得できる可能性を示した。 (2) フェニルプロパノイド代謝産物の高生産細胞株を,アグリゲートサイズに基づいた選抜によって取得する可能性を示すとともに,PAL特異的阻害剤AOPP によって,アグリゲートサイズのコントロールが可能になることを示した。 (3)フェニルプロパノイド代謝系の前駆体であるL-フェニルアラニンの添加条件を検討し,二次代謝産物の生産性を大幅に向上させることに成功した。これらの知見は植物培養細胞による二次代謝物生産の実用化に資するものと期待される。

審査要旨 要旨を表示する

本論文は,植物培養細胞を用いた有用物質生産プロセスの生産性向上を目指して行った培養工学的研究について纏められたものであり,高生産細胞株の選抜技術,二次代謝活性に基づく細胞集塊形成のコントロール,及び前駆体の逐次添加による目的物質の生産性向上について記述されている。本論文の目的は植物細胞を物質生産のソースとして用いる際に生ずる諸問題を解決することであり,植物培養細胞固有の問題点に着目している点にその特徴がある。本論文は全5章から構成されている。

第1章では本論文の意義を明確にするために,研究の背景として,植物培養細胞を有用物質生産に用いる際に障害となる植物細胞固有の問題を明確にし,それらを如何にして解決するかについて論じてられている。以下の章では,本章の議論に基づいて行われた具体的な研究の成果について述べられている。

第2章では,有用物質の高生産細胞を選抜するために行った,水性二相分配法による細胞分離の研究について述べられている。植物培養細胞は培養中に細胞集塊(アグリゲート)を形成し,これが細胞の増殖や代謝に必要であることが報告されている。従ってアグリゲートを酵素処理によって単細胞化する必要がある細胞選抜操作,即ち微生物細胞の選抜に頻用される単細胞由来のクローンコロニーの取得等には,現在のところ大きな困難が伴う。本論文では,アグリゲートの単細胞化をおこなわず,目的細胞を多く含むアグリゲートの回収を簡易な手法で行うことにより,目的の細胞を多く含む細胞集団を迅速に取得するための新規な手法が提案されている。

水性二相系は連続相が水であるため,細胞や生体高分子などの非侵襲的分離操作に応用されてきたが,粒径の大きな植物細胞アグリゲートは界面に沈降し,分離後の細胞同士が混合するという問題点があった。そこで,本論文では,細胞の分配平衡の成立を待たず,相分離した水性二相系に細胞が均一に分散した状態で細胞を回収することを提案し,このことによって植物培養細胞のアグリゲートの分離も可能になることを明らかにしている。また,この手法を利用して,単一の細胞株として確立されたイチゴ培養細胞株を2つの細胞アグリゲート集団に分け,同株がアグリゲート表面の親疎水性または電荷に関してヘテロな細胞集団であることを示している。

さらに,分離された2つの細胞集団のアントシアニン含有量が異なることを見いだし,アグリゲート表面の性質の違いに基づき,有用二次代謝産物の高蓄積細胞株を,簡便な操作で短時間に分離できることが可能であることが示されている。植物培養細胞の選抜を目的として水性二相分配法を用いたのは本論文が初めてであり,またそれによって細胞表面の性質がヘテロであり,細胞内の二次代謝活性と相関をもつことを初めて明らかにしている。

第3章では,二次代謝活性に基づくアグリゲート形成の制御について述べられている。培養中に細胞が受けるシアストレスを低減するためにはアグリゲートは小さいことが望ましいが,増殖や代謝物生産を促進するためにはある程度の大きさのアグリゲートの形成が必要である。そのため細胞にダメージを与えずにアグリゲートサイズを適切にコントロールする技術が必要とされていた。本論文では植物の代表的な二次代謝系であるフェニルプロパノイド代謝系,及びその下流のフラボノイド代謝系がアグリゲート形成に及ぼす働きに着目している。同代謝系の特異的阻害剤AOPPを培地中に添加することにより,細胞増殖やタンパク合成に影響を与えることなく,培養中期のアグリゲートサイズが顕著に減少することを明らかにしている。本論文は上記の代謝系がアグリゲート形成に一定の役割を果たしていることを直接的に証明した初めての報告である。また,アグリゲートサイズと相関のある具体的な代謝産物の特定には至らなかったが,本法がアグリゲートサイズをコントロールするための一般的な手法として応用可能であることが示唆された。

第4章では,培地条件の調節による有用物質の生産性向上について述べている。一般に細胞の培養は回分操作で行われるが,その場合,培養の進行と共に培養条件が非定常に変化する。本論文では特定の培地条件を一定に維持することで,目的物質の生産性を大きく高めることができると考え,アントシアニンを生産するイチゴ培養細胞に対し,その生合成前駆体であるアミノ酸L-フェニルアラニンを培地中に複数回にわたって逐次添加し,アントシアニンの生産性を大幅に向上させることが可能であることが明らかにしている。

第5章においては,本研究を総括し,今後の展望を述べている。

以上述べてきたように,本論文は,植物培養細胞を用いた物質生産プロセスの問題点を明確にし,それらの解決手段となりうる基礎的技術を提示したものである。これらの成果は,植物培養細胞の増殖および物質生産の特性制御に関する重要な結論を含んでいるため,生物学・植物細胞工学・生物化学工学の発展に寄与すると同時に,植物培養細胞を用いた工業スケールの二次代謝物質生産プロセスの開発を行なうにあたっても実用的な手法としても大きな意義を持つものと考えられる。

よって,本論文は博士(工学)の学位請求論文として合格と認められる。

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