学位論文要旨



No 120908
著者(漢字) 谷口,裕信
著者(英字)
著者(カナ) タニグチ,ヒロノブ
標題(和) 郡の改編過程にみる近代日本の地方編制
標題(洋)
報告番号 120908
報告番号 甲20908
学位授与日 2006.03.23
学位種別 課程博士
学位種類 博士(文学)
学位記番号 博人第527号
研究科 人文社会系研究科
専攻 日本文化研究専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 助教授 鈴木,淳
 東京大学 助教授 野島,陽子
 東京大学 教授 藤田,覚
 東京大学 名誉教授 宮地,正人
 東京大学 助教授 吉澤,誠一郎
内容要旨 要旨を表示する

本論文は明治・大正期において地方行政単位の一つであり、また自治団体の一つでもあった郡を分析の素材として、近代日本の「地方編制」のメカニズムについて論じるものである。ここでいう「地方編制」とは、中央政府による地方統治に不可欠な諸施策、すなわち行政ないし自治区画を設定すること、行政機関や自治団体の組織・権限・運営等に関する制度を設計・制定すること、およびこれらの区画や制度を必要に応じて改廃することなどを指す。地方編制の中心的役割を担う内務省のみならず、政府内の他省、地方長官、政党(議会)にもスポットを当て、地方編制を総合的に検討していく。

第一章は三新法期の郡政運営が直面した三つの問題点〜第一に郡長俸給の支弁方法と郡長任用のあり方をめぐる問題、第二に郡長職務=郡役所事務増加問題、第三に法文上郡に代議機関を欠いたことに関する問題〜の解決が、明治19年地方官官制・明治23年郡制に帰結していく過程を論じた。

町村レヴェルでいう「明治17年体制」的なものが郡レヴェルにも存在するのではないかとの見通しのもとに、「郡法」「郡制」を検討した。その内容を三つの問題点に即してまとめれば、第一の問題については、郡長俸給を国庫支弁化することで府県会の批判を封じることに成功したが、任用法については特に大きな変化はなかった。第二の問題については、郡長の職権強化と奏任官化、郡書記俸給の国庫支弁化を目指すものであった。第三の問題については、地方財政の窮乏と地方経営についての内務省の独自路線という観点から提示された、郡会の設置構想であった。

ただし「郡法」「郡制」のうち、官制の部分はほぼ明治19年地方官官制に反映されていったが、一方で郡会の設置は全国一律に規定されたものではなかったし、郡会のほかに連合町村会の存在を認めるなど、明治23年郡制に直結するものではなかった。その意味において「郡法」「郡制」は、まさに「明治17年体制」的なものであり、郡政運営を官制と代議機関設置という点から模索し、三新法を乗り越えた初めての立法だった。

第二章は郡自治不要論がくすぶる中で制定された郡制を、名実共に自治団体とするためにその改正を主張した政党が、明治30年代以降郡制廃止論へ傾いていった背景を論じた。

政党の郡制改正論と政府・内務省の見解との一番の相違点は、郡長公選に関してであったが、自由党は郡長公選条項を郡制改正法案から除外し、その代わりに郡長特別任用制の範囲の拡大を目指し、郡長公選論から離脱したままの郡制改正を正当化することに成功した。これにより政党と政府・内務省との妥協が成立し、複選制・大地主制を廃止する明治32年の郡制改正につながっていく。

ところが郡制改正の実現は、郡制をめぐる議論を郡長論に集中させる結果となった。郡長=独立公平→官選を内務省が一貫して主張し、憲政党中央レヴェルでも郡長に任用されることを期待していた「院外不平連」の比重が低下したため、郡長公選はおろか郡長特別任用制の範囲拡大さえも結局実現しなかった。一方で憲政党→政友会は行政整理を綱領に掲げ、憲政本党などと共に郡役所機構に対する批判を強めていく。それに伴い郡制不要・町村自治擁護・拡大の姿勢を鮮明に打ち出していくことになったのである。

一方改正郡制の施行で、複選制と大地主制の廃止により府県会議員選挙から切り離された郡会議員選挙には、局地的な競争と関心しか集まらず、投票率も低下を続けた。郡の財政規模は道府県や市に比べても小さく、利益分配の観点からすれば有権者や地方政治家にとっても、郡制は魅力が少なかったのだろう。財産収入に乏しく徴税権を持たない郡は、郡費を町村に「分賦」せざるを得ず、町村には負担に感じられていた。しかも郡域変更の請願(=町村の管轄替え要求)に対しては、郡の資力維持が優先された。そのことが郡制への冷淡・無関心につながり、地方が郡制廃止論を受容する素地となったのである。

第三章は政友会内閣による郡制廃止が頓挫する中で、郡制廃止論への対抗策として内務省が打ち出した郡長改良策と、ほぼ同時進行した地方改良運動における郡の位置付けを検討することで、原政友会内閣が郡制廃止法案を成立させるまでの、郡制「安定期」を描こうとしたものである。

郡長改良策の第一は有資格者の郡長への任用である。内務省の方針として有資格者郡長の積極的任用が決定され、学識に裏打ちされた事務処理能力などへの期待から急速にその数を増した。老練者が相場と決まっていた郡長像に対して有資格者郡長は新進気鋭・新機軸で挑み、それゆえに青年層との親和性があった半面、町村当局者等との軋轢を生む一面もあった。したがって、特別任用郡長との並存を必要としたのである。

そこで第二に特別任用郡長の改良は、任用銓衡資格を限定して人材を厳選し、郡長の増俸を行い、かつ最高官等も引き上げて、郡長の地位を向上させ、その地位にふさわしい人材を勤続させようとするものだった。しかし徒に銓衡資格を狭めたり広げたりするに終始し、老朽郡長問題への根本的な解決策にはならなかった。

改良策の第三は、明治42年から大正13年まで開催された地方改良講習会である。講習会自体は郡長の改良を目的にしたものではなかったが、町村の第一次監督者である郡長の出席者が必然的に多くなり、結果として郡長を意識した講習会となった。言うなれば郡長の再教育の場となっていた。地方改良は郡長改良の側面を持っていたのである。

このように地方改良、そして郡制「安定期」は、内務省が郡への関心を非常に強めた時期であった。郡長改良の試行錯誤と郡への関心の強化が、結果として郡制を延命させ「安定期」をもたらしたのではないか、とした。

第四章は郡制廃止法律案の議会への提出が、法制局の反対上申を覆す形で強行されたという立法資料に着目し、内務省が郡制廃止を断行した理由を考察した。その手がかりとして道路法により全国的に普及した郡道を取り上げた。

郡道の規定を含む道路法が初めて立案されたのは、明治地方自治制の制定とほぼ同時期であり、郡道が新たに自治団体となった郡の主要な事業の一つとして位置づけられようとしていたのは間違いない。道路法制定は国道の国庫支弁問題で遅れるが、道路法施行後、郡道はその前身である郡費支弁里道と比較して大幅にその距離を伸ばし、全国共通の郡事業となった。このことは郡事業の不振を理由に郡制廃止を主張する、内務省の大義名分を失わせるに足るものであった。だからこそ、政友会の反対勢力や法制局を押し切って議会へ法案を提出し、貴族院も大車輪で通過させたのである。

ではこの郡道と郡制廃止をめぐる一連の攻防を、どのように読み解けばよいだろうか。道路法案の審議中郡道に関する論点の一つは、道路法は郡道の設置を郡に強制するのか否かというものであったが、これは必ずしも全国すべての郡で郡道を必要としていたわけではないことを示していた。あるいは内務省が提出した郡制廃止法律案に対して、法制局が妥協案として作成した「参考案」は、郡制廃止を原則としながらも郡制を存続できる仕組みとなっていた。すなわち、これらは郡制を必要とする郡とそうでない郡とが混在していることの表れであり、全国画一的に郡制という自治の枠組みによって地方を統治していくことが、もはや困難な状況になっていたのである。

第五章は郡制廃止のメリットとして内務省があげていた郡役所廃合が、それからわずか三年の後に郡役所廃止が決定される過程を論じた。

郡制廃止は自治団体としての郡の廃止であり、自治団体の存立事情ゆえの小規模郡を、行政効率の観点から廃合することを可能にした。第一次大戦後の不況のために行政整理は不可避であり、その意味からも郡役所廃合は地方行政上の課題となったのである。

行政整理案作成のために設置された行政整理準備委員は、当初郡役所廃止を打ち出していたが、清浦内閣期には元内務次官で郡役所廃合論者の小橋一太が行政整理準備委員であったためか、郡役所廃合論となっていた。この時期に政府・内務省・地方長官・郡長・政党・町村長の中で郡役所廃止を明確に求めていたのは、全国町村長会だけだったのである。

ところが清浦内閣の後継内閣を形成した憲政・政友・革新の護憲三派は、寄り合い所帯ゆえに、郡役所廃合となった場合、廃合の規模や郡役所の位置等をめぐって利害調整が困難となることが予想されたため、現状維持でなければむしろ全廃すべきとの意見で一致した。当時最大の政治課題であった普選実施で三派の対応が割れていただけに、一致できる点は確実に成果をあげて国民にアピールする必要があり、郡役所廃合方針であった政府・内務省に強硬な態度を崩さなかったのである。

また内務省も三派から政務次官を迎えていたために一枚岩ではなく、その状況で三派と交渉できないと考えた若槻内務大臣は、郡役所の廃合方針を捨てて全廃方針に転換するという政治的判断を下した。まさに利害関係の調整が困難な護憲三派であったからこそ、内務省が守り抜こうとした中間行政機関を廃止することができたのである。

審査要旨 要旨を表示する

本論文は、明治十一年から大正十五年まで行政上の単位として用いられた郡に注目して、近代日本の地方編制のメカニズムを論じようとするものである。

序章で先行研究を概観した後、第一章では明治十年代の郡制のありようと郡長任用の実態を精査して、郡長は特別任用者が中心で、その官等の格上げは通説の言う民権運動対策ではなく職務の増加や戸長の官吏化に対応したものであったと論じ、次いで明治十八年に内務省内で立案された郡法を取り上げて、施行はされなかったそれが町村制における明治十七年体制に相当したとする。第二章では明治中後期の郡制廃止論の成立過程をたどり、政党が十年代以来の郡長公選論から離脱して政府と妥協できたのは特別任用制の拡大により政党関係者が任用される展望があったからだが、憲政党内での星亨の主導権確立で院外団対策の必要がなくなったため、実際には特別任用の拡大がないまま郡制改正が成立したと論じる。そして選挙の投票率から、改正によって県会議員選挙と切り離された郡会議員選挙への関心が低下したことを示す。第三章では日露戦後から任用された奏任官有資格者(法学士)郡長の任用実態などを調査し、地方改良運動の進行を背景に内務省の郡への関心が高まり、郡長改良の試行錯誤が行われるなどして結果的に郡制が安定期を迎えたと論じる。第四章では、大正十年に郡制が廃止される過程を大正八年に道路法が成立して郡道という新たな郡の事業が設定されたことに注目して分析し、実際の郡道の認定が府県によってかなり異なりながらも全体としては急増しことを明らかにして、全国画一的な郡制という自治の枠組みの限界が現れたことと、郡の事業が乏しいという郡制廃止理由が主張できるうちに廃止するという論理が働いたことを指摘し、さらに直前の選挙での政友会の圧勝が郡会議員への顧慮なく郡制廃止を推進できる背景となったと論じる。第五章では郡制廃止時には廃合しつつ存続する予定であった郡役所が三年後に二年間の猶予で廃止と決定される過程を追い、それが護憲三派内閣の与党三派が利害調整が困難な郡役所廃合を嫌い、かつ行政整理の明確な成果を求めたためであったと論じる。終章では地方編制と中央の政治情勢との関連を指摘する。

以上のように本論文は五つの各章で新たな実証的成果に基づいた独自性のある立論を行いながら郡が存在した全期間を描いている。特に郡長の任用実態と、地方制度改定とその時点の政治情勢との対応関係の指摘は先行研究になく、郡制運用の全般的な実態に迫ると共に政治史と地方制度史の深い関連付けを果たした点で研究史上大きな意味を持っている。郡長・郡役所設置の意味とその機能、地方編制の長期的な変化の要因についての見解の表明に不十分な点は見られるが、以上のような成果に鑑みて、本審査委員会は本論文が博士(文学)の学位に十分相当するものと判断した。

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