学位論文要旨



No 120909
著者(漢字) 鄭,榮植
著者(英字)
著者(カナ) チョン,ヨンシク
標題(和) 大慧宗杲と韓国公案禅の展開
標題(洋)
報告番号 120909
報告番号 甲20909
学位授与日 2006.03.23
学位種別 課程博士
学位種類 博士(文学)
学位記番号 博人第528号
研究科 人文社会系研究科
専攻 アジア文化研究専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 教授 末木,文美士
 東京大学 助教授 小島,毅
 東京大学 教授 丘山,新
 駒澤大学 教授 石井,修道
 駒澤大学 教授 小川,隆
内容要旨 要旨を表示する

論文の構成

大慧宗杲(1089〜1163)は中国宋代の臨済宗僧で、彼の思想的特徴は「公案禅を確立」した所にある。公案を参究して悟りを得る修行方法である公案禅は大慧以後中国だけではなく、韓国・日本など東南アジア全域に広がった。特に韓国においては、韓国曹渓宗の開祖である普照智訥(1158〜1210)が『大慧法語』を読んで悟りを得て以来、公案禅は曹渓宗の基本修行法となって現代まで至っている。特に、無字公案が最も重視され、現代の韓国曹渓宗では無字公案だけを参究する傾向さえある。

本論文は大慧の公案禅が韓国に初めて伝わった高麗中期(11世紀中盤〜13世紀中盤)の公案禅、特に「普照智訥(1158〜1210)と彼の弟子、真覚慧蝶(1178〜1234)の公案禅」を考察することが基本目標である。しかし、智訥と慧蝶の公案禅は大慧公案禅の影響を抜きにしては語れない。故に、智訥と慧蝶の公案禅を考察する基礎研究として大慧の公案思想を検討することにする。随って、本論文は<1部大慧の公案禅思想>と<2部韓国の公案禅展開>に分けて考察する。

本論文の大体の構成は次のようである。

1部1章では、大慧の生涯、時代背景などを簡単に整理した後(1節)、大正蔵卷47所収の『大慧普覚禅師語録』の成立過程を3期に分けて考察する(2節)。

2章では、大慧禅思想の基盤となったと思われる大乗経典の中、特に影響が大きかった『華厳経』『首楞厳経』を採り上げて、大慧以前の僧達と比較、検討し、又、張商英の『注清浄海眼経』と大慧との関係を考察する(1節)。又、大慧公案禅の契機となった「生死問題」とそれに関連して大慧の淨土思想を検討する(2節)。

3章では、まず、大慧における公案が持つ目標・機能・方法などを考察する(1節)。特に、大慧以後公案の王として重視される「無字公案」について、その発生の背景と意味の変遷などについて総合的に検討する(2節)。

2部1章では、新羅末〜高麗中期の韓国禅宗の様相と韓・中間の仏教交流について考察する。まず、智訥と慧蝶が生きた高麗中期の公案禅の導入様相について考察する(1節)。次は、公案禅導入以前の伝統禅門であった九山禅門の思想を『禅門宝蔵録』を通じて検討する(2節)。

2章では、智訥の禅思想を『法集別行録節要並入私記』と『看話決議論』を通じて検討し(1節)、慧蝶の禅思想を『真覚国師語録』と『狗子無仏性話察病論』を通じて考察する(2節)。又、最後には、智訥と慧蝶に与えた中国禅の影響を、圭峰宗密・永明延寿・大慧宗杲の3人を採り上げて叙述する(3節)。

論文の内容

大慧も宋代の他の禅僧と同じように『華厳経』『首楞厳経』を愛読し、特に『華厳経』から大きな影響を受けている。大慧は特に「入法界品」を重視したが、その理由は善財童子の一生成仏にあった。善財童子が一生成仏できたのは信があったからである。随って、大慧も信の経証を「入法界品」に求める。(1部2章1節)

一方、大慧は生死からの解脱を非常に強調するが、それは大慧の若い頃からの体験に基づくものである。死への恐怖から悟りの必要性を感じ、それが公案禅強調の契機となったとも思われる。又、生死問題に対する関心は必然的に淨土思想と関連されるが、大慧自身はあくまでも唯心淨土の立場を堅持したと思われる。只、宋代に仏教式葬式と追薦供養が盛んに行われるようになると、大慧も西方淨土往生と天堂、地獄などを説く時もあった。しかし、それはあくまでも衆生を修行へ導くために、更には冶世のための方便であり、大慧自身は唯心淨土の立場を堅持したと思われる。(2章2節)

以上の大乗経典の理解と生死観、浄土観などの思想基盤の上に成立されるのが公案禅である。大慧が公案禅を強調する理由は、公案禅が悟りに至る最も効果的な方法だと考えたからである。釈迦が明星が現れた時、悟りを得たように、悟りは不可欠なものでる。大慧に於いて、公案禅は次のような長所を持つものであった。

(1)散乱する意識を一点(公案)に集中させることである。意識が集中できないと、それ以上の進展は不可能である。(2)公案は疑団を誘発させる。疑問があってようやく修行の必要性を感じ、修行によってついには覚ることもできる。(3)公案禅は何時、何処でも参究が可能で、苦行を必要としない。大慧は特に「省力処即得力処」と言い、公案禅が過度な努力を必要とせず、誰でもできる方法であることを強調する。(3章1節)

大慧が最も重視した公案は無字公案であったが、本来の無字公案は随、唐代に行われた仏性論争がその背景にある。唐代には禅宗でも仏性に関する議論が現れたが、その中には狗の仏性を尋ねる問答も存在した。禅宗の仏性に関する問答を調べてみると、(1)殆どが馬祖道一系の僧達によって行われており、(2)宋代になると仏性問答が姿を消している。これは、宋代以後には仏性に対する関心が無くなることを意味する。

ところで、『涅槃経』の「一切衆生悉有仏性」の論理によると、衆生である狗には仏性があるはずであるが、なぜ趙州は「無い」と言っただろうか。そこには、仏性の有無に拘らず、更にはわざと動物に生まれ変わろうとする百丈懐海・南泉普願・僕山霊祐系統の異類中行の思想が背景にある。

又、趙州には「有字の問答」も存在する。有字の問答が出る文獻を調べてみると、次の事実が分かる。(1)有字の問答は宋代以後曹洞宗の文獻だけに現れる。(2)有字の問答は正統として認められなかった。故に、推測すると、宋代に臨済宗を中心として無字の問答が盛行することに対して、「一切衆生悉有仏性」の伝統的な考え方を持っていた曹洞宗から有字の問答を作り上げたのではなかろうか。本来の無字公案は宋代になって、その機能と意味は段々変化していった。その変化の様子はおおむね四つに分けられるが、それは(1)有字問答、無字問答両方を趙州の真説として認める立場(宏智正覚、万松行秀など)(2)無字公案の後半を切り落す傾向に反対する立場(真歇清了、真浄克文など)(3)有無を以て無字公案を解釈する立場(4)有無を離れて無字公案を解釈する立場(瞎堂慧遠、大慧宗杲など)である。大慧は(4)の立場を取り、その解釈の仕方は以後、禅林の中心となった。(3章2節)

大慧示寂後、公案禅は韓国、日本を始め東南アジア全域に広がった。大慧の公案禅が導入される前の高麗禅宗の伝統教団は九山禅門であった。九山禅門は入唐伝心した僧達によって開山されたが、開祖の殆どが馬祖系の禅を嗣法している。九山禅門の禅思想は『禅門宝蔵録』に良く現れているが、その特徴を整理すると、

徹底的な教外別伝を主張する。

『禅門宝蔵録』は教学の頂点として華厳を置き、華厳に対する禅の優越を主張する。又、『楞伽経』を初めとするどのような経典も禅の所依経典として認めない。特に、釈迦に禅を伝えたという真帰祖師説を創作したことが『禅門宝蔵録』の特徴である。

達磨を宣揚する如来禅を主張する。これは慧能を宣揚する修禅社の禅とは区別されるものである。

一方、高麗時代の韓国禅を良く現している所は20則の『玄覺禪師教外豎禪章』である。玄覚禅師は法系上、『禅門宝蔵録』の撰者、真静大禅師の師に当たり、その思想に於いても華厳に対する禅の優越を主張している点から、『禅門宝蔵録』と一致している。又、その禅とは、泯絶無寄を主張する石頭希遷系統の禅であった。(2部1章2節)

高麗禅の伝統教団である九山禅門が徹底的な教外別伝を主張したことに対して、修禅社は公案禅を積極的に受け入れた。韓国の公案禅に於いて最も大きな影響を与えたのはやはり大慧である。『三十巻大慧語録』は入蔵の直後高麗に伝わって読まれており、特に『大慧書』は韓国禅宗に大きな影響を与え、今も曹渓宗の基本教材として使われている。『大慧書』に於いて重要なのは、入蔵する前の1166年の刊記を持つ覆宋版が韓国に存在することである。それは『大慧書』の現存最古の刊本である。(1章1節)

智訥は九山禅門の教外別伝思想を批判し、李通玄、宗密の影響を受け頓悟漸修思想を展開する。『入私記』は宗密の『裴休拾遺文』に対する注釈書なので、基本的には荷沢宗を宣揚し洪州宗を非難する。しかし、宗密とは異なり智訥は洪州宗に傾く態度を取っている。反面、荷沢神会に対しては、「知解宗師」と言って否定する。これは、伝統的に馬祖禅の影響が強かった高麗禅宗の雰囲気を反映することである。

しかし、智訥は一方で、頓悟漸修は「借教入禅」する人のための教えであり、「言葉を離れて直入する」上根器の人のためには公案禅を勧める。公案禅は華厳円教と頓教よりも優れており、禅のどんな思想よりも優れている。智訥は禅の教判として、体中玄・句中玄・玄中玄の三玄門を立てる。まず、体中玄は「教により宗を覚らせる教え」で、法眼宗が属する。句中玄は庭前栢樹子・麻三斤等の公案が属するが、まだ「公案を以て病を取り除く」と言う意識が残っている。玄中玄には良久・黙然・棒喝などの機関が属する。反面、大慧の公案禅はこの三玄門より優れている。三玄門にはまだ「知解の病」が残っているが、大慧の公案禅は知解の病(十種病)を除去させる。このように、大慧公案禅の長所は十種病の除去を通じて全意識を公案に集中させる所にある。(2章1節)

智訥と異なり慧蝶には延寿と大慧の影響が大きい。特に、慧蝶は『宗鏡録』から大きな影響を受けているが、慧蝶はふだんから『宗鏡録』を参考書として読んでいたと思われる。しかし、師の智訥と同じように全ての経典と禅思想の上に公案禅を位置づける。(2章2節)

以上で智訥と慧蝶の禅思想を述べたが、智訥には宗密と大慧の影響が、慧蝶には延寿と大慧の影響が大きかったことが分かる。宗密と延寿は両人とも禅教一致を主張する。ところが、大慧の公案禅が高麗に導入されることによって禅教一致の影響は減り、上根器の人のためには公案禅を、中・下根器の人のためには頓悟漸修を勧めることに至る。公案禅においては、特に、無字公案が大きな影響を与え、大慧が公案参究の方法として提示した十種病を取り除くことを強調している。しかし、大慧が唐代の無事禅を批判しながら公案禅を確立したことに対して、伝統的に無事禅の影響が強かった智訥、慧蝶は公案禅を主張しながらも、無事禅の影響が残っているのが違う所である。(2章3節)

以上で本論文の要点を述べたが、問題は多く残っている。

まず、大慧に関しては特に足りない所が多いと思われる。本論文では『三十巻大慧語録』と『四巻本普説』を基本テキストとしたが、それだけでも相当の分量である。随って、隅々までその意味を読みとることはできなかった。特に、1部2章1節の<教学的基盤>では、大慧の経典理解の一端を覗くことは出来たが、その全体像を把握できたかは疑問が残る。更に、大慧思想の他の側面である「黙照禅批判」は扱うことが出来なかった。

反面、韓国公案禅の研究においては、短い研究期間であったにもかかわらずそれなりの成果があったと自負する。まず、2部1章1節は既存の研究成果を整理したものである。2節の『禅門宝蔵録』については西口氏の研究成果にヒントを得ているが、玄覚禅師については西口氏も研究されていない部分である。その部分はHenrik H. Sorensen(2003)を参考にした。

2部の筆者の成果は2章にある。本論文では既存の韓国の研究成果とは異なり、大慧思想との関連から智訥と慧蝶の公案禅思想を考察した。それは多年の間大慧を研究してきた筆者だからこそできた部分もあると思われる。特に、3節3の<永明延寿の影響>においては、『宗鏡録』が智訥と慧蝶に及ぼした影響について初めて究明した。『宗鏡録』が智訥と慧蝶に影響を与えていることは韓国の学会も予測はしていたはずだが、その具体相は究明されていなかった。それは100巻に及ぶ『宗鏡録』の膨大さにその原因があっただろう。しかし、最近大正蔵が全部デジタル化されることによって検索が可能になった。筆者の研究成果はそれに助けられた点が大きい。

審査要旨 要旨を表示する

禅は東アジアの仏教の実践思想としてもっとも中心となるものであるが、その異文化間における継承・展開という観点からの研究は必ずしも十分ではない。本論文は、公案禅(祖師の言動を問題として与える禅の指導方法)について取り上げ、その中国から韓国(朝鮮)への展開を明らかにしている。公案禅は中国の宋代に確立したものであるが、韓国や日本にも大きな影響を与えている。本論文では、第1部で公案禅を確立したとされる大慧宗杲(1089―1163)を中心として、中国におけるその展開を解明した上で、第2部で韓国禅におけるその影響・発展を論じている。

第1部では、まず大慧の生涯と『大慧語録』の成立を論じたうえで、大慧の思想の基盤として、『華厳経』と『首楞厳経』というふたつの経典の影響を取り上げ、さらに大慧が生死や浄土という通仏教的な問題をどう扱っていたかという点を明らかにしている。その上で、公案禅の問題に進み、大慧が悟りに至るもっとも効果的な方法として公案禅を採用したいきさつを明らかにし、さらに、もっとも代表的な公案である無字公案について、その成立と展開、及び変化について詳細な検討を行なっている。第2部ではまず、いまだ公案禅が導入されない初期(新羅〜高麗中期)の韓国禅の形成を、九山禅門を中心に概観した後、韓国禅の確立者である普照智訥(1158―1210)とその弟子真覚慧〓(1178―1234)を中心に、公案禅の受容と確立の様子を明らかにし、いずれの場合も大慧の影響が大きいことを論証している。特に、従来韓国禅の特徴として頓悟漸修ということが言われるのに対して、そのような面はありながらも、大慧の影響によって、それよりも公案禅を上に置いていることを明確に指摘する一方、大慧が唐代以来の無事禅を批判するのに対して、智訥や慧〓には無事禅的なところが同時に見られるという、両者の相違点も明らかにしている。

以上のように、本論文は、従来必ずしも明らかでなかった中国禅の韓国への展開という問題を、公案禅に焦点を当てることによって明確に示し、とりわけ大慧の影響と、他面、大慧と必ずしも一致しないところを的確に指摘したところに、大きな成果が見られる。大慧自身の思想に関しても、従来必ずしも十分に解明が進んでいるとはいえない中で、本論文は、その語録や著作を読み込んで、その思想の基盤を明らかにしている。東アジアの文化交流という大きな視点から見ても示唆に富むところが少なくなく、今後、日本の場合も考慮に入れれば、より一層の研究の広がりが期待される。やや論述に粗い点が見られ、特に第1部で大慧の教学的問題について扱っているところが必ずしも後のほうの論述に結びつかないなどの構成上の欠点が見られるが、その成果に鑑み、博士(文学)の学位を与えるのにふさわしいものと判断する。

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