学位論文要旨



No 120913
著者(漢字) 金,侖貞
著者(英字)
著者(カナ) キム,ユンジョン
標題(和) 在日韓国・朝鮮人のアイデンティティ形成と多文化共生教育に関する研究 : 川崎市ふれあい館の設立と社会教育活動の展開を中心に
標題(洋)
報告番号 120913
報告番号 甲20913
学位授与日 2006.03.23
学位種別 課程博士
学位種類 博士(教育学)
学位記番号 博教第113号
研究科 教育学研究科
専攻 総合教育科学専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 教授 佐藤,一子
 東京大学 教授 川本,隆史
 東京大学 教授 根本,彰
 東京大学 助教授 恒吉,僚子
 東京大学 助教授 勝野,正章
内容要旨 要旨を表示する

本稿は、川崎市の青丘社を中心とした「ふれあい館」設立と「川崎市在日外国人教育基本方針」制定をめぐる過程を通して、「多文化共生教育」とは何かを、在日韓国・朝鮮人のアイデンティティ形成との関連からその本質を明らかにすることを目的としている。このような観点は、国際化の流れの中で、多文化教育施策や「共生」理念の定着が求められている日本のみならず、外国人花嫁や労働者などが増加し、今後多文化教育施策の確立が求められている韓国に対しても有用な視点を提起しようとするものである。

1990年前後から顕著になってきた外国人労働者や日系人の急増を受け、多文化教育研究は、社会教育の理論と実践の両領域において発展し展開している。そして、そのビジョンとしての「共生」は、社会教育が目指すべき理念として根を下ろしつつある。

多元主義、多文化主義に立脚した多文化教育は、多民族集団間の共存・共生を目指すものであるとともに、肯定的な自己概念=アイデンティティの形成を前提とするものである。主に学校教育を中心に発展してきた多文化教育が社会教育の主要研究課題として位置づけられる背景には、人権概念を捉え直そうとする新たな動きが裏打ちしていた。

社会教育における権利をめぐる論議は、1970年代の「国民の教育権」を論じた小川利夫と堀尾輝久を中心に展開され、国民を学習権の主体として捉え、社会教育の権利性を明らかにしていた。しかし、「国民」という概念から学習権を捉えることで、外国人は事実上排除されてしまったのである。

しかし、1985年のユネスコ「学習権宣言」をはじめ、人権から社会教育を捉えようとする動き、つまり、それまで排除され、疎外されていた人々に光を当てようとする論者が現われてくる。「第三世代の人権」からの「共生・共育の関係(社会)」の創造を論じる黒沢惟昭や、外国人の学習権を住民の権利として規定し、人権を基軸とした「東北アジア学習権共同体」構想を提起する笹川孝一などの論者が、それである。

外国人をも学習権の享有者として捉える視座は、日本人のみならず外国人をも対象とする多文化教育の必要性を提起し、1995年の日本社会教育学会年報『多文化・民族共生社会と生涯学習』にもみられるように、多文化教育として社会教育を認識する動きが活発化してきている。その中で、民族的少数者の歴史・文化・アイデンティティを尊重しながら共に社会を創っていくための、地域をベースに展開する「地域多文化教育」を論ずる成玖美の研究は、社会教育における多文化教育の深化を表わす研究であると言えよう。

しかしながら、こういった1990年代以降の社会教育における多文化教育研究は、主にニューカマーを中心に置き、それ以前から外国人として存在していた「在日」韓国・朝鮮人の特殊性・歴史性への視点が見落とされていたのである。

ここで、本稿では、早くから日本の同化教育体制に目を向け在日韓国・朝鮮人教育を論じてきた小沢有作や、学校教育における在日韓国・朝鮮人教育への多文化教育概念の適合性を提起する中島智子などの先駆的研究を受け継ぎながら、現在の多文化教育研究の中で空白の部分として残されていた、在日韓国・朝鮮人との関係の明確化を試みることとする。

その際、先行研究の蓄積や視点を継承しながら、それまでの研究を補完し総合的に捉える観点として、民族的背景を肯定的に受け入れるアイデンティティの形成に基づき、共生を目指すものとしての「多文化共生教育」を定義し論証していくこととする。

本稿では、「多文化共生教育」を究明するにあたって、「青丘社」という社会福祉法人を中心に行われた、1980年代の「ふれあい館」設立及び「川崎市在日外国人教育基本方針」制定、そしてその後の川崎市やふれあい館の社会教育活動及び施策を分析する。このような動きは、それまで抑圧され、差別を受けてきた在日韓国・朝鮮人が、1970年から始まる日立就職差別闘争をきっかけに自らの権利を自覚するという新たな在日世代の形成や、他者として共感し彼らの問題を日本人の問題として受け入れる全共闘世代の登場によるものである。そして、こういった流れの中から、「多文化共生教育」や「共生」理念が生成され、その土台が構築されるのである。

以上のような問題認識や課題設定を踏まえ、第I章及び第II章では、在日韓国・朝鮮人がどのように外国人として形成され、韓国・朝鮮人集住地域が作られたのかを歴史的観点から概観する。

外国人としての「在日」韓国・朝鮮人の形成は、1938年までの農村経済の疲弊による労働者としての流入と、1939年からの強制連行による強制的な渡航によるもので、植民地支配からくる差別や政策から、日本社会の底辺層労働者としての生活を余儀なくされていた。そして、経済的・社会的疎外や差別意識は、戦後も断絶することなく継続され、このような疎外構造は、「在日」韓国・朝鮮人に権利のない無権利状態を強いてきたのである。

戦前の差別体制の中から生まれた韓国・朝鮮人集住地域桜本地区も例外ではなく、「桜本スラム」と言われるほど劣悪な住居環境や青少年の非行問題などを抱える地域であったのである。しかし、日本社会の中で、韓国・朝鮮人共同体としての結束力を持ち助け合うという「正」の側面をも持ち合わせており、池上町からそれまでの差別や疎外に立ち向かう動きが生れてくるのである。

第III章では、「青丘社」の設立過程を中心に、この母体となる「桜本保育園」において民族教育がどのように取り組まれるようになるのか、その民族教育への取り組みを触発するきっかけとしての日立就職差別闘争について分析を行った。1970年から4年間にわたる日立闘争は、在日韓国・朝鮮人のエスニシティの形成や、日本人との共闘体制をもたらすとともに、民族教育実践を地域で行う地域実践へと繋がり、その後の動きの土台、基盤をつくる原点となるものである。

一方で、1973年に設立される「青丘社」を中心軸に、桜本保育園とともに民族教育に取り組む「桜本学園」が設立され、青丘社実践の理念を模索する組織として運営委員会と活動者会議が設置されることとなる。しかし、1970年代に行われた青丘社による実践は、地域社会に厳存する差別構造の前でその限界に直面するようになり、これが川崎市との交渉へと駆り立てる動因ともなった。そして、これが、1982年に2つの交渉として現れることとなるのである。

第IV章及び第V章においては、それぞれ「川崎市在日外国人教育基本方針」制定や「ふれあい館」設立に至るまでの行政や地域住民との合意形成の過程を分析、いかなるプロセスを通して川崎市の施策の中に「多文化共生教育」が位置づけられるに至ったのかを明らかにした。

教育基本方針は、1982年に青丘社を中心とする「川崎在日韓国・朝鮮人教育をすすめる会」と教育委員会との約3年間にわたる論議に基づき、それまで教育行政から排除されてきた韓国・朝鮮人教育を施策化・制度化していく上での理念として1986年に制定された。一方で、青丘社による地域実践活動の拠点として1988年に開館する「ふれあい館」は、これまでブラック・ホールとして社会教育施設がなかった桜本地区に「共生」理念を具現化していく空間として、青丘社への委託に対する地域住民の反対を乗り越え、設立されたものである。

第VI章では、このような「すすめる会」や青丘社からの働きかけによって、1990年代以降に本格化される川崎市の施策やふれあい館の活動を概観した。ふれあい館では、ニューカマーの増加という地域社会の変化に対応しながら、高齢者や障害者との「共生」を図る新たな活動に挑戦、「共生」理念の拡散的発展を図っている。そして、川崎市では、韓国・朝鮮人の差別問題を生み出した日本社会の抑圧構造を意識化させる人権尊重学級をはじめ、識字・日本語学習支援活動に取り組み、「共に生きる地域社会」を川崎市の理念として様々な施策を展開している。1996年に発足した「外国人市民代表者会議」は、外国人の声を施策に反映させる道筋であり、外国人を能動的行為者、市民として位置づけるものであった。

以上のような川崎市における実践から、「多文化共生教育」がどのように形成され、ひいては日本人と外国人とが共に生きるという「共生」理念がどのように生成されたのか、そのメカニズムを提起したのが第VII章である。アイデンティティの形成及び「共生」理念を二本軸とし、人権をその土台とする「多文化共生教育」は、青丘社の地域実践活動から生み出された実践的性質のものであり、一方、「共生」理念は、1970年代から日本人との共闘から深化され、1980年代半ばの指紋押捺拒否運動を機に拡大発展されたものである。こういう側面からして、「共生」理念をも実践的性質のものとして位置づけることができる。

韓国・朝鮮人として人間らしく生きていきたいという願いから生まれた川崎市の実践は、「多文化共生教育」へと移行する新たなパラダイムの基本前提を提起してくれるとともに、教育理念として「共生」理念を示すものでもある。つまり、それまで「単一民族国家日本」という神話から脱し、日本文化に対置する韓国・朝鮮文化の定立を試みることで、多元的文化・価値に開かれた「多文化共生教育」へと変えていく、新たな教育の枠組みを提示するものと言える。さらに、それまでの「差別‐被差別関係」という垂直的関係から水平的関係への関係性の再構築を意味する「共生」理念を体現化していくプロセスを提起することで、反差別を中核とし、異なるものを他者として受け入れ認め合うことが「共生」であることを示唆している。但し、その際の「共生」とは、外国人も日本人と同じ権利の所有者であること、個々人の多様性を保障すること、権利の所有者、主体者としての自覚化という3つの基本前提を有するものでなくてはならず、「多文化共生教育」及び「共生」は、相互主体的関係の構築という主体性への認識がその根底に置かれている。

民族的アイデンティティを保有し、それを尊重しながら「共に生きていく社会」を創造していくことが、社会教育の重要な役割として求められる今日においてこそ、地域から形成された「多文化共生教育」への視角が必要である。真の意味における「共に生きる地域社会の創造」は、まさに、このような視座に立つことによってのみ実現され得るのであり、このような川崎市の実践を他の実践にどのように援用していくのかは、これからの課題として考えていきたいと思う。

審査要旨 要旨を表示する

本論文は、在日韓国・朝鮮人が日本社会における差別・抑圧の社会構造のもとで被差別の当事者として民族的なアイデンティティを形成し、住民・行政と対話を重ねつつ共生の教育理念を追求してきた過程を中心に、社会教育における「多文化共生教育」の理念形成とその土台となる実践的な展開を川崎市の事例にそくして考察した実証的な研究である。

京浜工業地帯のなかにある川崎市桜本地区は戦前から朝鮮人集落が形成され、現在三千人の在日韓国・朝鮮人が居住している。本論文は、被差別者である在日・韓国朝鮮人の潜在的な不満や葛藤から発展してきた社会的な運動過程を対象とし、ミクロなアプローチによるフィールド調査と豊富な第一次資料によって韓国・朝鮮人の存在形態とその意識的葛藤関係を解明するとともに、その要求が市当局、教育委員会に受け止められ、先駆的な「外国人教育指針」が確立され、さらに日本で唯一、在日韓国・朝鮮人が館長である公立社会教育施設「ふれあい館」が設立される過程を日本の現実にねざした「多文化共生教育」の成立として意義づけ、日本および韓国の社会教育にとっての可能性を考察している。

本論文は9章によって構成されている。序章では「国民」教育の限界を超える「多文化共生教育」の展開におけるエスニックマイノリティとしての在日韓国・朝鮮人の課題を提示する。I・II章では川崎市桜本地区の地域史をたどり、生活の貧困と青少年問題に凝集された地域課題を浮き彫りにする。III章では、1970年代の民族差別撤廃運動・民族教育実践の先駆けとなる日立製作所の就職差別反対運動から、民族としてのアイデンティティ形成が意識化される過程が明らかにされる。IV・V章では「川崎市在日外国人教育方針」作成、「ふれあい館」設立にむけた市教育委員会との協働の構築過程が分析され、VI・VII章ではふれあい館の多文化共生教育の実践的展開と地域における「協働」の発展が考察される。終章では、在日韓国・朝鮮人のアイデンティティをめぐる葛藤の構造と歴史的超克をふまえながら、教育理念としての「共生」理念の生成へのパラダイムを提示している。

社会教育分野の多文化教育研究は外国人ニューカマーの識字教育に焦点をあて、あるいは自治体教育行政の外国人社会教育事業を中心に分析したものが多いが、本研究は在日韓国・朝鮮人によって設立された社会福祉法人「青丘社」の活動にそくして質的調査を積み重ね、在日韓国・朝鮮人の2世から4世にわたるアイデンティ形成の変容をとらえ、多文化教育実践の展開過程にふみこんだ研究をおこなっている点で、従来の研究の水準を超えるものとなっている。全国的視野、あるいは国際的な多文化教育の生成における位置づけなど今後の課題を残しているが、豊富な資料にもとづく実証的考察から「多文化共生教育」の理念の誕生と具体的な形成過程を解明しており、博士(教育学)を授与するにふさわしい論文と評価された。

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