学位論文要旨



No 120916
著者(漢字) 木村,晴
著者(英字)
著者(カナ) キムラ,ハルカ
標題(和) 思考抑制の3要素モデル : 逆説的効果低減への示唆と実証検討
標題(洋)
報告番号 120916
報告番号 甲20916
学位授与日 2006.03.23
学位種別 課程博士
学位種類 博士(教育学)
学位記番号 博教第117号
研究科 教育学研究科
専攻 総合教育科学専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 教授 市川,伸一
 東京大学 教授 南風原,朝和
 東京大学 教授 衞藤,隆
 東京大学 教授 下山,晴彦
 東京大学 助教授 針生,悦子
内容要旨 要旨を表示する

社会生活において,自らの心的状態のコントロールを欠かすことはできない.不適切な思考を抑え,感情や衝動を律することは,効率的な活動や良好な人間関係を保つために重要な役割を果たす.しかし,思考や感情を押さえ込もうとする試みは,心身に深刻な問題を引き起こすことも知られている.抑制の試みは,様々な反意図的な効果を伴う,逆説的効果を生じさせることが報告されており,近年注目を集めている.

抑制の逆説的効果とは,抑制を試みると,かえってその思考の侵入が増加する現象を指す。このような反意図的な侵入は,強い不快感情を伴うだけでなく,しばしば次の抑制を動機づけ,抑制と侵入思考の増幅的な悪循環を生じさせる.しかし,従来の抑制研究には, a)逆説的効果が生じる原因が不明確である, b)複数の説明理論にもとづく予測や研究知見が一貫しない, C)逆説的効果の低減方法が提案されていない,などの問題が残されている.本研究の目的は,抑制の構成要素を特定し,抑制の逆説的効果を生じさせるメカニズムの解明と,逆説的効果の低減を目指すことであった.

本論文では,抑制過程を構成する要素に着目した『抑制の3要素モデル』を提唱し,抑制の逆説的効果を3要素の関係によって捉える.抑制を構成する3要素とは,抑制される対象(抑制対象),抑制を実行する力(抑制実行力),そして抑制を行うための基準(抑制スタイル)であり,抑制はこれらの要素が相互に影響し合うシステムであると考えられる. 「抑制対象」, 「抑制実行力」,「抑制スタイル」は,抑制においてそれぞれ異なる役割を果たしており,何らかの原因によってこれらの要素間の均衡が崩れると,抑制の逆説的効果が生じると考えられた.

本論文では,まず,抑制を構成する3つの要素において,どのような特徴が抑制の逆説的効果と関わっているかを特定するために,質的研究および質問紙調査による検討を行った(研究1・4・6).次に,このようにして特定された鍵的な特徴が,実際に抑制の逆説的効果を調整することを検証するために,実証実験による検討を行った(研究2・3・5・7).また,抑制の逆説的効果が生じる原因には,いずれかひとつの要因だけが関わっているのではなく,抑制対象と抑制実行力のバランス(i.e.,抑制対象の活性化が抑制実行力を上回ってしまう場合)や,その後に,侵入思考が生じた場合の解釈を調整する抑制スタイルの働きを同時に考慮することが重要であると考えられた.よって,研究8では,抑制が容易な対象であっても,抑制実行力が低下しているときには,逆説的効果が生じることや,抑制実行力が確保されていても,抑制が困難である対象では逆説的効果が生じてしまう可能性を検討した.また,研究9では,それらの効果が抑制スタイルによって調整される可能性を検討した.

抑制対象

抑制を始発させる思考や,抑制が困難となる思考にはどのような特徴があるのか?

研究1では,まず,日常生活において抑制されている思考内容を自由記述データから分類した.これにもとづく質問紙調査の結果から,日常において抑制を動機づける思考には,「未完結な事象」,「否定的過去事象」,「無関連事象」の3分類が見出された.この内,抑制の逆説的効果と関連があったのは,未完結な事象であった.

研究2では,研究1の結果から見出された,抑制対象の未完結性は抑制を困難にするという予測の妥当性を検証するために,完結ストーリーと未完結ストーリーを用いて,抑制の成否を比較する実験を実施した.抑制の逆説的効果は,完結ストーリーよりも未完結ストーリーにおいて顕著に認められ,この傾向は,一週間後の測定においても持続していた.

研究1と2の結果を受けて,研究3では,抑制対象の完結感を導出することで,抑制の逆説的効果が低減される可能性を検討した。研究3では,未完結感を伴いながら慢性的に抑制されている苦手科目の抑制において,完結感の導出が逆説的効果に及ぼす影響について検討した.苦手科目の抑制を試みると,抑制後には苦手意識が増幅し,克服への自己効力感が低下することが認められたが,苦手科目に対する解決策を産出した後の抑制では,このような逆説的効果は生じず,自己効力感の低下も認められなかった.

このように,抑制対象が未完結事象の場合は,抑制が困難となることが示唆された,また,未完結事象の抑制は,長期的な思考の増加や反芻につながる可能性が示唆された.

抑制実行力に関する検討

抑制はどのように行われているのか?

研究4では,抑制中の思考発話内容を分析することで,抑制の進行に伴う内的な思考過程の変化や,使用される抑制方略の推移を捉えることを試みた.抑制時には,対象思考とは別の思考に意識を集める,代替思考方略を頻繁に用いていることが示された.この代替思考方略が用いられた場合には,思考は抑えられていたが,単純に抑制が繰り返され,代替思考が用いられなかった場合には,抑制の逆説的効果が生じていた.

研究5では,この代替思考方略の使用が,抑制の逆説的効果の低減に果たす役割について検討を行った.個人的な苛立った事象(実験1)や落ち込んだ事象(実験2)を対象とした抑制を行ったところ,代替思考方略を用いた条件では,逆説的効果は生じていなかった。このように,抑制時に他の対象に注意を向けることで,逆説的効果のない抑制が可能になることが示唆された.

抑制スタイルに関する検討

抑制の基準や侵入思考の評価はどのように規定されるか?

抑制には,いつ抑制を行うか,また,どの程度抑制を行うかという基準が必要であるが,この基準は人や状況によって様々に異なっていると考えられる.研究6の調査の結果から,抑制の基準を厳しく設定し,思考を徹底的に排除しようとする積極的抑制スタイルか,侵入思考を受け流そうとする受動的抑制スタイルか,どちらの抑制に対する個人的な信念を持つかによって,抑制の成否が分かれることが見出された.積極的抑制スタイルを持つ者においては,思考の押さえ込みは逆説的効果につながるが,受動的抑制スタイルを持つ者においては,このような単純抑制を行っても,逆説的効果との関連は認められなかった.

研究7では,研究6から得られた知見をもとに,受動的抑制スタイルの導出が,侵入思考に対する耐性を高め,逆説的効果の増幅を抑える可能性を検討した.予測どおりに,受動的抑制スタイルを操作によって導出された群では,そうでない積極的抑制スタイル群よりも, 3日間にわたる抑制期間を通じて,侵入思考や制御困難感が低いことが示された.

抑制対象,抑制実行力,抑制スタイルの関係が逆説的効果に及ぼす影響の検討

抑制の3つの要素は,抑制を成立させる上で独立して機能しているのではなく,相互作用的に影響を及ぼし合いながら,抑制の成否を規定していると考えられる.よって,抑制過程や抑制の成否を考えるためには,3要素の関係に着目した検討を行うことが重要である.研究8では,抑制対象の完結感の要因と,抑制実行力の2つの要因(抑制方略と制御力量)を操作することで, 2つの要素の相互作用的な関係が抑制の逆説的効果の生起に及ぼす影響について実証的な検討を行った.未完結な抑制対象は,完結な対象より抑制が困難であったが,制御力量が枯渇していた群では,抑制対象が完結事象であっても未完結事象であっても,統制群に比べて逆説的効果が生じていた.

続く研究9では,抑制対象,抑制実行力に,抑制スタイルの要因を加えることで,3要素の関係が抑制の逆説的効果の生起に及ぼす影響について,抑制スタイルを導出する操作を行うことで(実験1),また,抑制スタイルの個人差にもとづくことで(実験2)検討を行った.

2つの研究では,概ね一貫して,積極的な抑制スタイルは抑制の逆説的効果を生じさせ,受動的な抑制スタイルは抑制の逆説的効果を沈静化させることが示された.すなわち,抑制スタイルは,抑制をどの程度厳格に行うか,という基準として働いていると考えられ,完全な対象思考の封じ込みを志向することは,逆効果であることが示唆された.

また,抑制の成功には,まず抑制実行力が確保されていることが重要であるが,抑制対象が困難な事象である場合には,いくらかの侵入思考が生じていた.しかし,たとえ侵入思考が生じたとしても,抑制スタイルが受動的に保たれていれば,二次的な抑制努力が導出されることによる増幅的な悪循環に陥ることは少ない.つまり,抑制スタイルは,侵入思考が生じて初めて,その効果を生じさせていると考えられた.このように,研究9の2つの実験の結果は,抑制の3要素が相互に影響しあう過程の存在を示唆していた.

本研究の結果は,抑制対象,抑制実行力,抑制スタイルの3要素のバランスが,抑制の逆説的効果の生起を規定していることを示していた.抑制の3要素モデルは,抑制の逆説的効果に関する従来の異なる知見を整合的に位置づける枠組みを提供する.これにより,理論間の混乱は解消され,抑制の逆説的効果が生じる原因と,それを低減させる方策が導かれた.

審査要旨 要旨を表示する

日常生活においては、感情や衝動を律し不適切な思考を抑えることがしばしば必要とされる。しかし、抑制しようとするとかえってその思考の侵入が増加することがあり、 「抑制の逆説的効果」と呼ばれている。本研究は、抑制過程を構成する要素に着目した「抑制の3要素モデル」、すなわち、抑制される対象(抑制対象)、抑制を実行する力(抑制実行力)、そして抑制を行うための基準の設定のしかた(抑制スタイル)という要素を想定し、これらの要素間の均衡により逆説的効果が生じるとする仮説を実証的に検討するものである。

研究1で自由記述データと質問紙調査の結果から、未完結な事象がとくに抑制の逆説的効果をもたらすことが示唆されたため、研究2においては、実験的に、完結ストーリーよりも未完結ストーリーのほうが、抑制の逆説的効果が生じることを示した。さらに、研究3では、未完結感を伴いながら慢性的に抑制されている苦手科目に対して、解決策を産出し完結感を高めると、逆説的効果が見られず、自己効力感の低下も認められなかった。

研究4では、抑制中の思考発話プロトコルを分析し、抑制時には対象とは別の思考に意識を集める「代替思考方略」を頻繁に用いていることが示された。そして、単純に抑制が繰り返され代替思考が用いられなかった場合には、抑制の逆説的効果が生じていた。研究5では、苛立った事象と落ち込んだ事象を対象とした抑制を実験的に行わせ、代替思考方略を用いた条件では逆説的効果は生じにくいことを確認した。これらの結果から、代替思考方略が抑制実行力の中心的役割を果たすものであることが示唆された。

研究6では、質問紙調査によって、抑制の基準を厳しく設定し思考を徹底的に排除しようとする「積極的抑制スタイル」をもつ回答者は、侵入思考を受け流そうとする「受動的抑制スタイル」をもつ回答者よりも、逆説的効果が現れやすいことが見いだされた。続いて、研究7では、受動的抑制スタイルを操作によって促された群では、 3日間にわたる抑制期間を通じて、侵入思考や制御困難感が比較的低くなることが示された。

これら抑制の3要素は、相互に影響を及ぼし合いながら、抑制の成否を規定していると考えられる。研究8では、抑制対象の完結感の要因と、抑制実行力に関わる要因を操作した結果、抑制実行力が低い群では、対象の完結性に関わらず逆説的効果が見られた。,研究9では、抑制の成功にはまず抑制実行力が一定水準に達していることが重要であるが、対象が抑制困難な事象で侵入思考が生じたときでも、実験的操作もしくは個人差要因として受動的抑制スタイルが強まれば、逆説的効果が低減することが示唆された。

このように、本研究は、抑制の逆説的効果が生じる原因を3要素モデルに基づいて実証的に明らかにしたもので、この領域における独自の理論的枠組みを提示しており、さらに逆説的効果の低減の方策を示唆している点で実践的な広がりも有している。よって、博士(教育学)の学位を授与するにふさわしい論文であると評価された。

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