学位論文要旨



No 120923
著者(漢字) 折井,善果
著者(英字)
著者(カナ) オリイ,ヨシミ
標題(和) ルイス・デ・グラナダと日本 : キリシタン文学における日西文化の比較研究
標題(洋)
報告番号 120923
報告番号 甲20923
学位授与日 2006.03.23
学位種別 課程博士
学位種類 博士(学術)
学位記番号 博総合第626号
研究科 総合文化研究科
専攻 超域文化科学専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 教授 宮本,久雄
 東京大学 教授 義江,彰夫
 東京大学 助教授 竹村,文彦
 東京大学 教授 岡部,雄三
 上智大学 助教授 川村,信三
内容要旨 要旨を表示する

本論文の目的は、16世紀スペインの修徳思想家・説教師ルイス・デ・グラナダ(1504‐1588)の著作がほぼ同時代に日本で邦訳出版された事実に焦点を当て、彼の思想的特徴を瞥見したうえで、翻訳という手探りの接触を通じて生じた、カトリック−スペイン文化と日本文化との共鳴と断絶を、主に宗教の倫理的側面に注目した対訳分析によって考察することにある。

「キリシタン文学」は、珍本としての書誌学的研究、あるいは室町時代語解明の資料としての国語学的研究として多く扱われてきた資料群である。それは短期間に消滅してしまったという理由、そしてキリスト教という特殊な目的が絡んでいるという理由から、従来の日本文学の領域には位置づけがたいものであった。

しかしここ10年余りの学問的領域の学際化の動きと共に、従来の国語学、書誌学的研究はもとより、宗教学、日本文学、歴史学、神学等の各分野がともに協力し、<キリシタン学>ともいうべき分野が形成されつつある。

この<キリシタン学>研究とって、キリシタン文学が「翻訳文学」であり、全く異質な言語間の架け橋として成立したという事実は一つの重要な視座を提供する。というのも、原典と日本語版をつき合わせてその<あいだ>を覗くことにより、我々は創造者と人間とが絶対的に隔絶する「超越的論理」と、神仏を含む万物が「生成」や「生殖」によって存在する「連続的論理」の邂逅・衝突の事例を見ることができるからである。論文は3部7章構成である。

第I部では、ルイス・デ・グラナダの著作および生涯に焦点を当てる。これは我が国で殆ど知られていないルイスの思想を瞥見すると共に、キリシタン文学の思想的背景を理解し、キリシタン文学を16世紀カトリック−スペインと日本の交流史という大きなコンテクストの中に捉えることでもある。

第一章は、ルイスの生涯と著作の分類を通じて、キリシタン文学の思想的背景を明らかにする。ルイスの生涯は、カトリック両王の政教一致体制、カルロス1世期のルネサンス・ヒューマニズム、新大陸布教、トリエント公会議、内なる異教徒(ユダヤ教、イスラム教)の改宗政策、ポルトガル併合といった16世紀スペイン史の決定的なモメントに深く関わる。ここでは16世紀スペインの霊性を象徴するいくつかの動向を瞥見しながら、ルイスの著作の全体像を明らかにする。ルイスの膨大な著作は「祈祷・黙想書」「修養書」「教理書」「説教集、説教提要」「伝記や翻訳書等」に大別でき、それらは近代への入り口に位置するトリエント公会議以降のカトリック−スペインの思想的動向を如実に現している。

第二章では、ルイスの著作がヨーロッパ内にとどまらず、実際に宣教師の思想的・霊的背景となって宣教活動に利用され、世界中の布教地で流布していったことを示す文献学的・歴史的資料をとりまとめる。さらにルイスの邦訳著作、およびその翻訳者等について、確認を行う。

第II部では、ルイスの著作が、実際に日本人信徒の信仰統治に寄与したことを示す資料を提示したうえで、ルイスの著作がなぜそれほど日本で受け入れられたのか、という問いを、ルイス原典の特質から考える。

第三章では、ルイスの著作が日本において支持された理由の一つを考察する。それは、ルイスの著作が、トマス・アクィナスの目的論的世界観を基盤とした自然神学(啓示によらず理性によって神の存在を論証する学)に基づく一方で、神の存在を、目的や有用性ばかりでなく、読者の審美的な感覚に訴えて納得に導く修辞学的技法−感性のロジック−を有しているという折衷的性格にある。

イエズス会巡察師A.ヴァリニャーノは「理性による納得」が日本人のキリスト教受容の重要な鍵であることを見抜き、みずから『日本のカテキズモ』を記したが、彼は「説教師」ではなかった。人間を説得(メッセージに心を動かされ、自由な意志をもって受け入れること)へと導くための重要な要素としての「感性による納得」は、ヴァリニャーノ自身が選択したルイスの著作によってなされた。ルイスには説教師であるという自覚が常にあり、彼の著作は説教師として内なる異教徒(ユダヤ教、イスラム教)の要理教育に従事した長年の経験がもとになっている。そのような実践に付された言語であったという点は机上の学者エラスムスとは対照的である。

第四章では、先の問いに再び答えるべく、ルイス原典で展開されるキリスト教的修徳思想(ascetismo)の特徴を考察し、それが当時の日本におけるキリスト教受容の媒介思想として有効に機能した可能性を論じる。

トリエント公会議教令には、教会および信仰生活の綱紀粛正という、時代の要請を受けた倫理的行為の義務論的性格が色濃く表れており、キリスト教修徳思想の代表的著作といわれるルイスの『罪人の導き』にも、神の恵みに対して人間が「しなければならない(estar obligado)」義務、という表現が散見される。しかしルネサンス・ヒューマニズムの影響を受けた当時の文学的作品において、この「〜しなければならない」という表現は、むしろ倫理的行為の自然的・必然的性格、すなわち内的自然に照らして「当然である」「あたりまえである」という意味で使用されている。つまりルイスの著作におけるこの「しなければならない」という表現には、神的秩序が要請する義務でありながら、内的自然に照らして当然・必然であるという、倫理的行為の出自に関する二つの立場の折衷を見ることができる。それは日本語版においては、単に「〜べし」ではなく、義務でもありながら必然でもある事柄に対して使用される「〜せずして叶はざる」という微妙な、しかし人間の内的心理に即した言語表現にたどり着くことになる。

第III部では、絶対者なる神と人間との関係性に関わる語句に注目し、翻訳の過程で生じた意味の誤解・変容・共鳴の分析を通じて、日本人のキリスト教理解(より詳しくは絶対者としての神=他者理解)の特質を考察する。

第五章は、「自力」「他力」すなわち人間の神への働きかけという限りでの倫理的行為の位置づけに注目しつつ、この時代の浄土真宗(一向宗)とカトリック=キリスト教との教義的交差と影響関係を、対訳分析を通じて考察する。

浄土真宗における絶対他力の信仰は、元来、信心決定を一義とし、応報観念、そして死後の世界の問題を専ら二次的なものとみなす。さらに念仏業に祈願請求の意を込めることを「欲生正因」として斥ける。しかし蓮如期に至っては、むしろその点が教義の中に入り込んでしまっている。したがって、キリスト教がもともと有し、ルイスによって強調されている、普遍的あるいは心理的人間論としての応報主義・来世での賞罰というテーマは、このような浄土真宗における教義的動向と並行するかたちで、また実際にその言語表現を援用することにより、日本語に容易に転換されえたといえる。

第六章で注目する「報謝」とは、元来「恩」の対概念として、人間の対他関係を規定する言葉であり、弥陀の救いに対する人間側の無限の感謝という、教義的に重要な意味を担う。しかしキリシタン教理書においてこの言葉は、カトリック教義における神の報いという概念との接触によって、神が人間の「報謝」にさらに報いるという逆のベクトルをも意味するようになる。

さらにこの「報謝」は、キリストと人間の宗教的救済(贖罪)との関係を説明する役割を果たす。神、そしてそれに等価的には報謝しきれない人間の代わりに報謝するキリスト、という〈二重の恩〉に結局人間が「報謝」するという形式で「神‐キリスト‐人」の関係が説かれ、キリスト教の教義は「恩」と「報謝」に基づく多元的な授受関係に包摂されている。さらにこの場合、人間が神に帰すべき「報謝」とはもはや単に受けた恩への返済の責務ではなく、そこには神的恩寵としての「報謝」が共時的に働いている。というのもこの「報謝」という言葉は、もはや元来の記号論的整合性を失い、人間の神に対する「報謝」だけでなく、神の人間に対する報いという無限の連続した関係が予見されおり、神の恩寵と人間の意志を総合する空間を拓いているからである。

第七章では、acaso(「偶然」「偶然性」)の訳語として使用された「jinen(じねん)」という言葉に注目する。

ルイスは、いかなる被造物も偶然には生じず、神の創造的因果性(神の摂理)に秩序づけられていることを論じるが、この「偶然」(acaso)という言葉は、「斯程勝れて出来したるご作の物は自然(jinen)に出て来たりと言はんは愚ちなり」のように、「自然(じねん)」と訳されている。つまり、キリスト教における「神の摂理」は字義上「自然(じねん)」の否定として翻訳されたことになる。

「自然」を「しぜん」、すなわち偶然性という意味で解釈した場合には、キリスト教の神の摂理を肯定する障害とはならないし、翻訳者はこの時代の多くの例にあるように呉音と漢音を混乱しただけかもしれない。しかしこの「自然」の読みをめぐる当時の半知半解状態は、逆にこの脈略に「じねん」、すなわち他者を呼び求めないおのずからなる働きという意味を呼び起こす。実際に背教者ハビアンは、「柳ハ緑、花ハ紅、是ハ自然ノ道理ナリ」とのべ、「自然」を神の創造を否定する論理として使用している。神の摂理という脈略で現れ出た「じねん」ということばは、そのことばの存在自体の二面性ゆえに、日本人のキリスト教(より詳しくは唯一絶対なる他者である神)の受容に大きな影を投げかけた。

以上のことを、「超越的世界観」と「連続的世界観」という舞台の上であらためて精査すると、さらに以下のことが言える。神と万物が根本的に隔絶するキリスト教の超越的世界観にあっても、可変的・可塑的な自然本性の完成としてとらえられる人間の徳の形成が、そのまま神的創造の業への参与に繋がっているというトマス的形而上学的世界観に根ざしている限りにおいて連続的な側面を有する。神的内的秩序として自然を解釈するこの時代のルネサンス・ヒューマニズムの展開からも同様のことが言える。

また神仏を含む万物が「生成」や「生殖」によって存在するとされる連続的世界観においても、人間の功徳が全く値しない神の絶対的恩寵という概念を受容する宗教的枠組みが存在し、その類似性は実際に「自力」「他力」という言葉を通して翻訳に反映されている。絶対者と人間をめぐる概念の類似と差異とが顕在化していく中、日本人は、圧倒的な他者としての神との出会いによって、みずからの「じねん」なる連続的世界観が相対化される稀有な可能性に、歴史上はじめて遭遇した。

このことは、単に神と人間というキリスト教の構図の問題にとどまらず、(自己の連続・延長ではない存在としての)他者に向き合う日本人の思惟構造の問題とも類比的に結びつく。他者と出会うとは、その他者との関係を作り上げていくための言葉の重要性に気付かされることでもある。逆に言えば、他者に出会わない限り、言葉の力は真に必要とはされない。キリシタン時代は、ヨーロッパの修辞学の知的伝統に由来する圧倒的な言葉の力に、<言挙げなき国>日本が触れた稀有な機会でもあった。

審査要旨 要旨を表示する

折井さんの研究は論文題目「ルイス・デ・グラナダと日本―キリシタン文学における日西文化の比較研究―」に示されているように、16世紀近世スペイン文化とその影響下にある日本のキリシタン文化の比較研究が主眼となっている。その目的のため、当時の修徳思想家・フマニストであるルイス・デ・グラナダとその著作のキリシタン訳との対訳分析を方法論とする。この比較研究とテキスト分析が独創的であるのは口述のように、グラナダを軸として一方ではラテン中世(トマス思想)に軸足を伸ばし、同時にキリシタン時代の日本語日本文化にも深く研究が行届いている点である。

本論文の構成は三部七章に分かれその内容は大略以下の通りである。序では如上の研究目的・方法論及び先行研究が述べられた後、第一部「ルイス・デ・グラナダ−生涯および著作とその受容−」は三章構成で文献学的・歴史的な資料が広汎に渉猟されている点が大いに評価できる。その結果、当時のスペインのフマニズム・グラナダの言語用法や人物像が見事に示されている。

第二部「日本で支持された理由−ルイス原典の文体・構造・思想上の特質から考える」は二章構成で、ルイスの著作がトマスの自然神学に基づきながらもさらに一歩進んで実践的具体的倫理の性格を帯び、かつ読者日本人の審美的感性に訴える修辞学的性格を帯びていることが日本人に受容される主な契機になったことが示されている。

以上のようないわば予備的研究を下地にして第三部で本格的に「キリシタン文学における異言語・異文化接触−神と人の関係性をめぐる共鳴・変容そして断絶」のテーマが考究されうる。まずルイスの応報主義的実践倫理が、浄土真宗の蓮如期における応報観念や祈願請求的念仏業の教義的背景から日本語に容易に転換されるに至りえたことが論述される(五章)。次に「報謝」が仏教では人間の仏に対する報謝の一方向的意味が、キリシタン文学にあって人から神への方向のみならず、神から神人キリスト論を媒介にして神から人への方向をとりえたことが示される(六章)。さらに「自然」が「じねん」という「自ら」の意味をとる時、神の意志決定を主眼とするキリスト教的創造論と反発し合うが、他方で「しぜん」という「偶然」の意味をとる時、反発し合わないことにおいて、自然という両義的表現をめぐって神の摂理と世界の自然的な生成という両思想の邂逅が生起したことが示される。そこには日本倫理思想や文化がはじめて異質な他者・神の文化に出会った際に、言葉による関係の創成という問題の重要性が際立たせられていると同時に、本論文が現代日本に問いかけるインパクトが論述から迫り出していると言える。

以上のような内容で示された折井さんの比較研究について、その画期的な特徴や創見を次に挙げてみたい。

その第一は、何よりも「三重苦」と表明されたように(126頁)、三重の比較研究にある。(i)まず、西欧中世の思想家トマス・アクィナスと近世人グラナダの比較、広義には西欧中世文化と近世文化との比較である。すなわち、一方では12世紀ルネッサンスを経て13世紀に文明的世界観的に一つの総体(entitas)として完成した、ゴシック建築にも比すべきラテン中世、その表象的総体としてのトマスの『神学大全』であり、他方では新大陸の発見、ヒューマニズムの勃興、トリエント公会議、内なる異文化(ユダヤ、イスラム)、ポルトガル併合などに直面する近世的スペインがある。折井さんはその両者の研究を踏まえて、その狭間の緊張関係にあるグラナダの倫理的思想の実践的性格を、トマス人間観の観想的性格との対比の上で見事に浮彫りにしている。(ii)次に、そうした近世スペインの表象と言えるグラナダと16−17世紀初頭にわたって開花した、所謂キリシタン文化との比較である。折井さんがここで用いる対訳分析の方法論とそこから導出される異文化間の交流と断絶に関する分析成果は、日本中世文学・文化史のみならず、今日的な異文化間交流という視点から見て特に研究上創見的光彩が窺われるところである。それは自由意志と恩恵、報謝、自然(じねん、しぜん)、「〜せずして叶はざる」(estar obligado)などの言語表現と日西語比較において顕著である。(iii)最後の比較は、そうした西欧と日本の文化的出会いが今日的日本あるいは通時的に語りうる歴史的日本と欧米、あるいは他地域との文明・文化的出会いにどのような意義を有つかという問いに関わる。但し、折井さんはこの比較を直接行わないが、論文全体の問題提示と比較の遂行がもつ迫力は、逆に読者に大きなヒントを与えてやまないのみならず、読者自らに問いとして迫る或るインパクトを有っている。以上だけでも注目すべき業績であるが、特徴の第二は、文化論的思想的次元にある。それは、ラテン中世・スペイン近世・さらにキリシタン文学が示す「創造者と人間とを絶対的に隔絶する〈超越的論理〉」と、神仏を含む万物の「生成・生殖」に支えられる日本的アジア的な「連続的論理」との邂逅の比較分析である。折井さんは本邦で16世紀に生起した邂逅をめぐって恩寵・自由意思、他力・自力をテーマとして独創的にその意義を示している。

第三の特徴は、言語的文学的次元にある。(i)まず、中世思想と近世スペイン思想を形而上学から倫理学に至るまで理解するためラテン語とスペイン語が駆使されていることである。例えば、「報謝」概念における研究ではこの語学的分析が非常に生きている。さらに今日「日葡辞書」の文学的語学的研究にあってもラテン語の無知故、真面目な研究がなされていない点を考えると、折井さんはラテン語をも含め日葡辞典を検討し研究に深みを与えている。(ii)次にグラナダのフマニストとしての側面をも視野に入れ、彼の「修辞学」を深く研究している点は、本邦でも稀有である。以上のような文学的アプローチの独創的結実は、ラテン中世・スペイン近世・キリシタン文化との対訳分析によく窺えるといえよう。

第四の特徴は、副題が示すように、西欧との比較において、日本文化の非形而上学的内在性やどこよりも増して顕著な審美的性格さらに他力的論理や或る種の論理的性格などが浮彫りにされたと言える。

このような独創的研究の諸特徴を有つ本論文審査において諸審査員から次のような質問と研究上の意見が寄せられた。

まず第一に16−17世紀にわたるヨーロッパの全体像と殊にキリスト教の危機についての認識を一層深めると論文がますます生彩に富んでくることの指摘がなされた。次に何故この時代に修徳文学の隆盛をみたのかとの質問があり、文化史上この点を考察すべきことが勧められた。第三に本論がキリシタン史の思想的アプローチとして、また西欧との比較研究で画期的であるにしても、歴史的資料の全体的構造分析をやってから論を進めることが勧められた。さらにキリシタン時代の日本文化・精神史全般の研究も勧められた。

大略以上のような意見・示唆があったものの論文自体が日本・西欧近世に関する画期的な文化的思想史的研究になっているとの点で審査員全員の意見の一致をみた。

したがって、本審査委員会は折井さんに博士(学術)の学位を授与するにふさわしいものと認定する。

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