学位論文要旨



No 120924
著者(漢字) 森,仁志
著者(英字)
著者(カナ) モリ,サトシ
標題(和) 多民族社会ハワイにおけるジャパニーズのエスニシティに関する民族誌的研究
標題(洋)
報告番号 120924
報告番号 甲20924
学位授与日 2006.03.23
学位種別 課程博士
学位種類 博士(学術)
学位記番号 博総合第627号
研究科 総合文化研究科
専攻 地域文化研究専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 助教授 矢口,祐人
 文教大学 教授 豊田,由貴夫
 東京大学 教授 木村,秀雄
 東京大学 助教授 森山,工
 東京大学 助教授 石橋,純
内容要旨 要旨を表示する

2000年度のアメリカ合衆国国勢調査(U.S. Census)によると、ハワイ州の「混血」の人口は、州全人口の21.4%を占めており、合衆国全体の「混血」の人口が2.4%にすぎないことに比較して大きな特徴となっている。また、ハワイ州の保健局が独自に行う調査によると、ハワイの「混血」人口は約37%にまで達しており、この数字は州全人口の実に3分の1以上が「混血」の人々によって占められている状況を示すものである。はたして、従来からの研究で度々指摘されてきたように、「混血」の人々は民族集団間のヒエラルキーを不安定にさせたり、集団間の境界を曖昧にさせたりするなど、ハワイの民族関係に何か特別な状況をもたらしているのだろうか。

本論では、この疑問に答えるために、特に1970年代生まれのジャパニーズ(Japanese)を対象として、「混血」の進んだ現在のハワイの多民族的状況についての民族誌を作成することにした。ハワイ州の統計によると、1970年代生まれのフルジャパニーズ(full Japanese)(いわゆる「純血」として認識されるジャパニーズ)とパートジャパニーズ(part Japanese)(いわゆる「混血」として認識されるジャパニーズ)の人口は、それぞれ16,494人(51.4%)と15,574人(48.6%)でフルジャパニーズの人口がパートジャパニーズをわずかに上回っているが、この比率は1976年を境に逆転する。このようなジャパニーズの人口構成の急激な変動の中で誕生した若者たちは、実際に現実の日常生活ではエスニシティをめぐってどのような経験を積み重ねているのだろうか。本論では以上のテーマについて、次の章立てとともに考察していく。

まず序論の1節では、ハワイの多民族的状況についての民族誌を書くための前提として、そもそも「民族誌を書く」とはいかなる行為なのか、その限界と可能性について論じた。そして続く2節では、ハワイをはじめアメリカ本土も含む「混血」に関しての研究史を概観することにより、本論の問題意識と理論的な立場を明らかにした。

以上の諸前提を踏まえた上で、続く1章ではまず、ハワイの多民族社会を、構造的な側面に注目しながら概観した。具体的には、ハワイの移民期から現在までの歴史を、民族関係の変遷に着目しつつ追う作業が中心となった。またここでは、民族間通婚と「混血」人口の歴史的な増加という側面から、本論の対象となった1970年代生まれのフルジャパニーズとパートジャパニーズの人口構成を統計資料に基づいて提示した。

次に2章では、ジャパニーズの若者たちが経験する現在のエスニック・コミュニティや文化のあり方について考察した。ここでは若者たちがジャパニーズ文化という概念自体を多様化させて使用している状況について注目し、そもそも「ジャパニーズ文化」とは、客観的な「モノ」やその集合体ではなく、根本的には文脈に応じて変化する主観的認識に拠るものであることを指摘した。

そこで次に問題となるのは、しばしば民族の実在性を語る際に根拠とされる民族文化が、実体のあやふやな主観的認識に拠るものにすぎないのだとすれば、なぜ彼/女たちは例えばジャパニーズのコミュニティや文化を自明の存在として語り、また、その行為主体である「ジャパニーズ」と呼ばれる集団なり「民族」が存在することを当然の前提として捉え語るのだろうかという疑問である。

この問題を踏まえて、続く3章では、パートジャパニーズへのライフヒストリー・インタビューを具体的な資料として、なぜ彼/女たちが「エスニック」なる何かが存在することを自明視し、ひいては特定の「エスニック」・アイデンティティを語り得るようになるのかについて考察した。インタビューの分析からは、彼/女たちの幼少から現在までの経験は、一面では、エスニックな「名」(によって物象化された「民族」)を用いた「名乗り」と「名指し」の実践を学ぶ過程であったということが明らかにされる。ある個人は、エスニックな「名」を用いて自らを「名乗る」、あるいは他者から「名指し」されるという経験を通じて、特定の民族的アイデンティティを語り意識するようになっていく。つまり、「混血」のパートジャパニーズたちは、ハワイの多民族社会の中で成長する過程で、例えば誰がジャパニーズであり、誰がそうでないのかといった、エスニックな「名」をめぐる名乗りと名指しの実践者としての経験を積んでいくのである。

では、はたして「混血」の人々は、エスニックな「名」をめぐる名乗りと名指しの実践において、例えば他のフルジャパニーズの人たちとは根本的に異なる、特別な実践を行うのだろうか。具体的には、「混血」に関する先行研究の多くが指摘するように、エスニックな「名」をめぐる名乗りと名指しの実践に混乱や変化をもたらし、結果的に、エスニックな(名乗りと名指しによって形成される)自他区別そのものを「曖昧」化したり「破壊」したりする存在なのだろうか。

そこで続く4章では、この疑問に答えるために、まず1節において、そもそも特定のエスニックな「名」をめぐる名乗りと名指しが、どのような根拠に基づいて行われるのかをみる作業を行った。これは言い換えれば、ある個人が自己と他者の間に民族的な境界を引く際に、何を参照点にするのかを明らかにする作業だといえる。この取り組みでは、具体的な民族誌による考察から、特定のエスニックな「名」をめぐる名乗りと名指しは、根本的には擬似生物学的な「血」という参照点に基づいて実践されることを明らかにした。以上の前提を踏まえた上で、いよいよ2節では、はたして「混血」の人々は、民族的な境界を根本的に支える「血」という擬似生物学的な参照点に何らかの疑問を投げかけ、ひいては、民族集団間の境界の「曖昧化」や「破壊」をもたらすのかという疑問に取り組んだ。この考察ではまず、パートジャパニーズの彼/女たちの状況的なエスニシティの名乗りは、あくまでも擬似生物学的な枠組みの内部での状況依存性でしかないことを指摘した。その上で、むしろ「混血」の個人は、親から(生物学的)に受け継いだ各々のエスニシティを、一個人の「身体に刻み込む」という行為を通じて、自らの身体によって民族的境界を再生産しているだと結論づけた。

ただし、以上の「混血」の個人が自らの身体に民族的境界を取り組む行為は、見方を変えれば、(例えばフルジャパニーズにとっては「まったき他者」でしかない白人やハワイアンなどの複数の)「他者」を「自己」として認識し取り込む行為であり、こうした実践は、その場で対峙する「他者」の中に同時に「自己」を見出すような交錯した名乗りと名指しをもたらす。しかしここで特に注意すべきは、こうした交錯した名乗りと名指しは、実は「混血」の個人に限ってみられるものではないという点である。これは例えば、ある個人が自らをフルジャパニーズと名乗った場合でさえ、その個人が単にジャパニーズというエスニックなカテゴリーに完全に同一化するのではなく、実際には社会階層、ジェンダー、セクシュアリティといった他の社会的カテゴリーに同時に目配りをしている状況を考えれば理解できる。つまり、その個人は対峙するエスニックな「他者」に対して、一方ではジェンダーや社会階層などの属性において何らかの共通した「自己」を発見し得るということである。

そこで続く5章では、エスニシティ以外の社会的カテゴリーも考察の対象に含むことで、現実の日常生活における交錯した名乗りと名指しの実践について論じた。具体的には、エスニシティとは一見無関係にみえる場面についての民族誌を通じて、セクシュアリティ、ローカリティ、社会階層、エスニシティといった複数の社会的カテゴリーが実際には同時的に意識され、しかも文脈ごとに特有の交わり方をする中で多様な意味変化を起こす状況について指摘した。こうした視点は同時に、現実生活において他の複数の社会的カテゴリーと混然一体となったエスニシティのあり方を理解する上で非常に有効であった。

そして最後の結論では、以上の民族誌的な試みを踏まえて、本論で提示した民族誌に対するわたしの立場を確認する作業を行った。具体的には、「他者」を語る権利についての問題や、本論の民族誌の記述スタイルについて言及した。またここでは本論の民族誌的な試みと関連づけながら、理論的考察についてのまとめも行った。以上の取り組みにより本論が目指したのは、趣味、ホステスバー、ゲイバー、クリスマスパーティ、ナイトクラブ、サーフィンなどのふぞろいな特定の文脈での個々人の日常的な実践を描写し積み重ねる中で、「ジャパニーズ」という対象について語り、ひいては、彼/女たちが経験するハワイの多民族的状況を描き出すことであった。

審査要旨 要旨を表示する

本論文はハワイに住むいわゆる「混血」(ミックス)の日系アメリカ人四世の若者のエスニシティ意識を主にフィールドワークを通して考察したものである。上記の論文要旨にあるように、2000年度のアメリカ合衆国国勢調査(U.S. Census)によると、ハワイ州の「混血」の人口は、州全人口の21.4%を占めており、合衆国全体の「混血」の人口が2.4%にすぎないことに比較して大きな特徴となっている。また、ハワイ州の保健局が独自に行う調査によると、ハワイの「混血」人口は州全人口の3分の1以上にのぼるとも推定されている。とりわけ、「パートジャパニーズ」と呼ばれる、日本人移民を祖先に持つ混血の人口は若い世代に増えており、ここ三十年ほどに出生した「日系人」と呼ばれる人々の大半は「混血」である。本論文の最大の焦点は、これら「混血」の若者のエスニシティ意識を考察することで、エスニシティの境界の形成・維持・転覆について分析することである。

「混血研究」、いわゆるマルティレイシャルスタディスは1990年以降のアメリカでとりわけ盛んになった。そこには従来の固定的な人種・エスニシティ研究に揺さぶりをかけ、人種やエスニシティの社会的構築性を確認しようとする意図があるのみならず、複数の血を引く「ミックス」の人々こそがグローバル化する社会のなかで登場した(あるいはすべき)新しい人種・エスニシティ関係を体言する存在なのだという主張もみられた。しかし同時にミックス研究は、その意図とは逆説的に、人種やエスニシティの存在を所与のものとし、固定的な境界線意識を基にしているという批判もなされてきた。本論文はこのような理論的な論争を、先住民に加え、植民者である白人、あるいはアジア、ラテンアメリカ、ヨーロッパなどから移民が多く住み、いわゆる「異人種・異民族間結婚」の多いハワイに焦点をあて、エスノグラフィを通して具体的に検討するものである。そして、ハワイの「混血」の若者たちは、マルティレイシャルスタディスが提言するような、人種やエスニシティ意識の解消や融合という方向に向かうのではなく、むしろ比較的固定的な人種やエスニシティ観を維持し、それらを状況に応じて使い分けることを描出する。つまり、「混血」と呼ばれる人々が従来の人種やエスニシティ観を必ずしも転覆させる主体ではないことを示すと同時に、固定的な人種やエスニシティ観がかれらに選択的に使われていることを具体的に示すことで、そのような概念の社会的構築性を逆説的に浮かび上がらせることにも成功しているのである。このように、本論文は最新の先行研究に対する鋭い批判的視座を提供する一方で、旧来の人種やエスニシティの本質論へ逆行するわけではなく、むしろ本質と構築という二者択一の観点とは異なる視座から人種やエスニシティ観の形成と維持、変容について考えている。またこれに関連して、本論のもう一つの強みは、人種やエスニシティについて中心的に論じながらも、若者たちの日常的な実践や語りに注目することにより、人種、エスニシティ、階層、セクシュアリティ、ローカリティといった社会的アイデンティティの交差や相互作用を描き出したことにある。社会的アイデンティティの交差については、マルティレイシャルスタディスの分野でも理論的には指摘されてきたが、本論は、具体的な民族誌の中でそれらの論点を検証し考察することに成功している。

本論文は、マルティレイシャルスタディス、およびハワイにおける「混血」研究を概観した序論に続き、一章以降はフィールドワークで得られた具体的事例の分析で構成されている。これらの事例の記述は本論文が高く評価される理由のひとつである。著者はごく少数の対象者と徹底的に時間を過ごすことで、従来の先行研究ではまったく論じられていない若者たちの行動や思考を追った。とりわけビーチやバーなどで共に「遊び続ける」という行為を通して、インタビュー調査などでは得ることのできない、普段の日常生活の中でのかれらの実践や語りに迫ったのである。エスノグラフィの内容は詳細で具体的であり、非常に興味深い観察に満ちている。むろん、著者はエスノグラフィを巡る様々な近年の理論的な問題も十分に意識しており、本論文には彼が「書く」文化がいかに評価されるべきかについての論考も含まれている。

査読者から大きく分けて三つの課題が挙げられた。まず、本論文の学術的な位置が曖昧な点。つまりこれは人類学なのか、北米地域研究なのか、クィアスタディスなのか、ポリネシア研究なのか、あるいはエスニシティ研究なのか。学際的な論文であるために、それぞれのディシプリン、あるいはフィールドから考えると、先行研究の整理や考察がいささか不足している面があると指摘された。また対象者のアイデンティティを論じる際に用いられる分析枠組みが、多少図式的で単純になりがちである点も指摘された。さらに結論部分で著者は主にエスノグラフィの理論的問題の考察に終始しているが、これはとりたてて新鮮味がある議論ではなく、むしろ自らのフィールドワークの結果を全面的に押し出して論文を終えるべきだったという批判もなされた。

このような課題を残しているものの、査読にあたった教員は本論文のエスノグラフィとその理論的な知見を高く評価し、全会一致で博士の学位を授与するのに十分と判断した。

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