学位論文要旨



No 120925
著者(漢字) パラモア,キリ
著者(英字) PARAMORE,Kirilov
著者(カナ) パラモア,キリ
標題(和) 政治支配と排耶論 : 徳川前期における「耶蘇教」批判言説の政治的機能
標題(洋)
報告番号 120925
報告番号 甲20925
学位授与日 2006.03.23
学位種別 課程博士
学位種類 博士(学術)
学位記番号 博総合第628号
研究科 総合文化研究科
専攻 地域文化研究専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 教授 三谷,博
 東京大学 教授 村田,雄二郎
 東京大学 教授 黒住,真
 国際基督教大学 教授 小嶋,康敬
 東京大学 教授 渡辺,浩
内容要旨 要旨を表示する

徳川時代前期の排耶論―反キリシタン・反キリスト教言説―をめぐって、これまで多くの先行研究が、「外」の西洋思想たるキリシタンと、「内」の東洋思想たる伝統的日本思想の諸潮流との間での思想的衝突、という枠の内で議論してきた。キリシタン思想の弾圧もまた、これと同様な構図において研究されてきた。

しかし、歴史的事実という観点から見たとき、徳川前期の排耶論とキリシタン思想に関するこの描き方は妥当なものであったのか。キリシタン思想は、そのまま「外」のものであったのか。排耶論とは、そもそもキリシタン思想にのみ挑戦するものであったのか。

徳川時代前期の日本キリシタン思想の多くが日本人によって書かれ、日本人に読まれ、そして日本の都市において説教された、という歴史的事実を思い返してみるとき、果たしてそれは容易に「外」のものとして片付けられうる存在であったのだろうか、という疑問がまず浮かぶ。周知の通り、最も著名な日本キリシタン書を書いたハビアンは日本人であった。本論が検討したように、彼の思想には当時の地域環境(日本)の色濃い影響が見出される。

さらに、徳川前期の排耶論は、キリシタン思想への挑戦を真の目的としていたのか、という疑問もある。実際のところ、徳川前期の排耶論が絶頂期を迎えたのは、精力的なキリシタン弾圧期(1613〜1630年代)ではなく、むしろキリシタン思想の事実上の壊滅後(島原の乱後1650〜60年代)のことであった。

今まで「排耶論」と称されてきた言説の真の目的は、「キリシタン」の「排斥」ではなかったとすると、排耶論とはそもそも何であったのか。徳川前期の日本社会においてどのような機能を果たしていたのか。さらに、キリシタン思想と排耶論は具体的にはどのように関連していたのであろうか。本論では、徳川前期日本における言説空間に焦点を絞りつつ、これらの問いを主要な研究課題として検討した。

第一部では、現存する史料を通して、徳川前期排耶論の全体像と近世日本キリシタン思想に関連する唯一の事例であるハビアンの思想について、改めて考察した。ハビアンは、自著『妙貞問答』(1605年)や京都での演説活動を通じ、いわゆるキリシタン思想史上最も影響力を持った日本人であった。しかし1608年頃、彼はイエズス会を脱会する。キリシタン弾圧開始後の1620年頃に『破提宇子』という著名な反キリシタン書を発表、反キリシタン運動にも自ら参加した。

第一部第一章では、『妙貞問答』を取り上げ、ハビアンの「人間観」が他のキリシタン思想とは異なった特殊な要素から形成されている、ということを明らかにした。すなわち、縦社会的な支配構造を正当化する論理を内在化させていた当時の正統的日本キリシタン思想とは異なり、ハビアン思想には、普遍性や人間の自主性、その自立的行動を肯定する要素が強くあった。

第二章では、ハビアンとマテオ・リッチの思想を取り上げ、その比較考察を行った。その結果、詳細な内容(例えば形而上学上の構成等)において、両者の間に基本的な相違を確認した。他方、リッチ思想には、政治社会的な文脈において、上述のハビアン思想の特徴と類似した面があることも明らかにした。それは特に、両者の思想に対するローマ教会からの最終的立場―否認―に示されている。

第三章では、ハビアンの思想と藤原惺窩の思想を取り上げた。ここで、両者には、リッチの箇所で確認したのと同様な類似点があることを発見した。ハビアンと同様、惺窩は、儒学における人間の倫理的行動にかかわる教えを重視し、朱子学的形而上学を軽視する。惺窩の場合、その軽視は批判までは及ばず、「陽明学」に言及することで朱子学的形而上学を解釈するところに留まっている。興味深いことに、林羅山の惺窩に対する批判はまさにこの点に向けられている。

第四章では、従来の研究とは反対の視点から、『破提宇子』を検討した。すなわち、『破提宇子』をキリスト教の教理上『妙貞問答』に対する完全な反論と見なすことは正確ではない、と論じた。『破提宇子』と『妙貞問答』との間で最も重大な対立点は「人心」の位置付けにある。つまり、『破提宇子』は、「人倫の品」を明らかにその内面には求めていない。むしろ、後世の多くの排耶論と同様に、主に「君臣夫子夫婦兄弟朋友」という確定された外在的人間関係における「職分」に見出している。

第二部では、17世紀の排耶論の形成を主な研究対象とした。

第二部第一章にて確認したように、先行研究の多くが徳川前期の排耶論をキリシタン禁止と関連付けながら議論してきた。しかし管見の限りでは、そうした研究が言及してきた著名な排耶書にも明らかなように、これらは全てキリシタン思想のほぼ壊滅された後に発行されていた。排耶論は、そもそも初めの段階からキリスト教そのものに対する宗教的な批判というよりは、むしろ政治的な次元において展開されていた、と指摘されうる。この点を、徳川前期の最も有名な四書−『破提宇子』、『対治邪執論』、『吉利支丹物語』、『破吉利支丹』−を通じて確認した。

第二章では、林羅山の「前期排耶論」とされてきた外交文書―1625年〜40年代の間に政府関係者の代行として羅山が書いたもの―と、「後期排耶論」の一部とされる1650年代の石川丈山宛の書簡を検討した。この両資料の間にある相違点に注目することにより、特に1640年代後半〜50年代前半の羅山思想における、(自らの思想的立場からの)「正統」と「非正統」の区分をめぐる体系化の様子が確認された。

第三章では、その思想が劇的な政治的文脈―慶安事変―の中で、どのように機能していたのかを検討した。従来、羅山の排耶論を通じた熊沢蕃山への攻撃が若干指摘されてきた。第三章では、この攻撃の体系的様子を明らかにした。具体的には、従来ほとんど研究されてこなかった『草賊前後記』の史料を研究し、羅山が如何に排耶論を利用していたのか、またその排耶論が心学や仏教などに対する彼の攻撃の言説と具体的にどのように関連していたのか、について解明した。

ここでは、羅山がこうした批判言説を利用しながら、蕃山や幕府の大奥で勢力を有していた祖心(祖心尼)に対しての攻撃を展開させていたことを確認することができた。こうした史料分析を通じて明らかにしてきたのは、様々な思想的諸潮流を一枚岩的に「異学」とし、最終的には「耶蘇」という烙印を押す羅山のある種の思想の体系化のあり方である。「排耶論」や「廃仏論」、「心学批判」と称された羅山思想は、1650年代には「耶蘇」という看板を掲げながらある程度まで羅山自身によって体系化されていた。

「耶蘇」や「耶蘇の変」と羅山が呼ぶところの「非正統」的な思想傾向は、単純化してみると、来世での生活や個々人の心の内在する独立的な価値観を重視するといった特徴を備えていた。つまり、これらの思想は、現実社会における縦の人間関係以外の次元に忠誠心の対象が設定されている。そのため危険視されたのであろう。

第四章では、従来の研究がしばしば注目してきた『排耶蘇』を取り上げた。この書は、ハビアンと羅山との討論を記録した1606年当時のものとされてきたが、実際のところ、そうでない可能性が十分あるということをここでは確認した。詳細に検討して見れば、『排耶蘇』が両者の討論におけるハビアンの言葉を正確に記録したという可能性はほとんどない。むしろ本書は、第二章と第三章で確認したような1650年代の言説の中で作られたものである可能性が極めて強い、と考えられる。

以上、本論での議論を通じ大きな焦点となったのは、1)ハビアン思想をめぐって、その思想と正統的カトリック教理との相違、そして、2)林羅山の「異学」観に関するより体系的な全体像の提起、であった。

興味深いことに、この二点は、実は相互に緊密な関係にある。というのは、林羅山が、藤原惺窩や熊沢蕃山、祖心などの思想を批判する際の論理は、第一部で述べたように、正統的カトリック教思想の立場が、ハビアンとリッチの思想を否認したのと同じものであったからである。すなわち、藤原惺窩をはじめ、熊沢蕃山、祖心の思想は内面に基づいた自律的価値判断を重視していたが、この点こそ、羅山が彼らを批判する際に最も強調した点であった。つまり、価値判断を内面的領域に置き、結果として個々人の自律的価値判断を可能とする思想は、羅山にとって「脅威」以外のなにものでもなかったのである。この論理において、どの思想伝統(キリスト、儒学、仏教等)に属しているのか、あるいはその伝統の地理的な位置はどこであるのか(「西洋」か「東洋」)などの問題は、実は特段意味はなかったと考えられる。

この文脈において、徳川前期の排耶論は、キリスト教を直接批判するための言説でもなく、「東洋思想」あるいは「日本思想」が「西洋思想」に対して示した反応でもなかった。むしろ、この言説は、カトリック教においても適用された政治支配の言説であったといえよう。そして本論の結論はこの点に尽きるのである。

審査要旨 要旨を表示する

パラモア・キリの博士学位請求論文、『政治支配と排耶論−徳川前期における「耶蘇教」批判言説の政治的機能−』は、近世の日本におけるキリシタン排斥論がどのような内容とイデオロギー機能を持ったのかという問題を、主に転びキリシタンのハビアンと朱子学者林羅山のテクストを通じて分析し、近代までを射程において、その歴史的意義を明らかにしようとした研究である。

本論は、ハビアンを分析した第1部と林羅山を論じた第2部からなり、結論で要旨を述べた上、補遺として、近代への展望と幕末明治期に編集・刊行された排耶書の書誌的調査の結果とを付している。

第1部は、ハビアンの著したキリシタン時代の教理書『妙貞問答』と、棄教後のキリスト教批判書『破提宇子』を、戦国末期から近世初頭にかけての日本のカトリック教会と儒学思想のコンテクストにおき、中国布教に当ったマテオ・リッチの教理書と対比しながら、読み直す。その結果、ハビアンの思想にキリスト教の棄教以前と以後とでかなり一貫性があり、ハビアンの「転向」といわれるものの内実は、キリスト教信仰にかかわる問題というよりは人間観に由来するものであり、価値判断の基準を内面的自由から政治秩序への外面的恭順に移した点にあるという解釈を打出した。

ハビアンの『妙貞問答』には、日本教会の正統的教理書『ドチリナ・キリシタン』などと対比すると、神の主宰性を限定的に解釈し、人間の理性を重視するという特徴があった。彼は神による創造を根拠に儒・仏を批判したが、創造以後には、神は人間の日常生活には介入しないと考えた。彼は神に与えられた「アニマ・ラショナル」による人間の自律的行動を重んじ、神による恩寵や原罪と贖罪という教説を軽視していた。通説では、これは、ハビアンのキリスト教理解の不十分さを意味するとされるが、著者はむしろ、正統キリスト教の否定的な世界観や人間観、そして階層秩序への恭順といった教説に対する、非西欧圏で形成された意義深い変種であり、その点でマテオ・リッチの『天主実義』と通底していると解釈する。

棄教後のハビアンは、人間の「知」を重んじ、原罪や贖罪を軽視する点では一貫していたが、その判断基準のありかは、人間の内面から、外在する階層的秩序への「自律」的な同調に置きかえた。これは、同時代に林羅山が、「心」を重んずる藤原惺窩や「天道」の諸思想、さらに熊沢蕃山の教説を批判し、朱子学の正統化を企てたということと共通するという。ハビアンの排耶論について、通説はキリシタンの教説自体への賛否やキリスト教理解の深浅に注目してきたが、著者は、彼の主張が自立的な秩序主体の形成を促すことから、現存の階層秩序の正統化に変った面を重視する。彼の排耶論は、確かに、単にキリシタンに対して棄教を促すものではなく、林羅山らによる徳川政権のためのイデオロギー形成を準備するものだったと見ることができる。

さて、第2部は以後の排耶論の原型を提供した林羅山の主張の分析であるが、ここには、幾つかの重要な発見がある。その一つは、今まで1606年の著作とされてきた羅山の『排耶蘇』を、彼の『草賊前後記』と同じく、1650年前後の著述と推定した点である。これは、羅山とハビアンとの問答体で書かれた著述であるが、そこでハビアン発言とされているものは、同時代の『妙貞問答』には符合する内容がなく、むしろマテオ・リッチの『天主実義』を典拠としているからである。この推定は次の発見とも馴染みが良く、林羅山の思想がより鮮明に把握できるようになったと言える。

第二の発見は、由井正雪による慶安の変について書かれた『草賊前記』『草賊後記』を林羅山の著作と確定したことである。いくつかの写本にあたって検証し、筆名の推定や同時代の林羅山書翰と内容を照合した上でのことであるが、大変説得力がある。『前記』は、正雪の謀反を熊沢蕃山らの影響によるとなし、熊沢の説を「耶蘇の変法」と非難しているが、著者は、羅山が蕃山の教説自体の当否を論ぜず、もっぱら社会秩序を乱す「妖言」と強調するのみだという事実に注意を促している。また、『後記』については、確かに「耶蘇」を「天主に厚く、君父に薄し。・・ついに君を弑し、父を殺す」と批判しているものの、議論の焦点は、同時代の軍法の主張者が耶蘇と同類だと述べる点にあると解している。この、排耶蘇に名を借りて、様々の同時代思想を一括りに「異端」「邪説」とし、自らの朱子学の「正統」性を確立するのが羅山の狙いであり、この語り方が後世に継受されたというのが著者の主張である。

本論文は、今までのキリシタン書や排耶書の読み方を変えるものと評価することができる。それらは従来、キリシタン対反キリシタンという枠組を自明のものとした上で、日本の「ウチ」と「ソト」、「東洋」対「西洋」という二分法で解釈されてきた。このような枠組の下では、ハビアンは十分に「ソト」なるものを摂取できなかった例として、中途半端な扱いしか受けてこなかったのであるが、本論文は、彼を林羅山と同列におき、一人の独創的な日本の思想家として解釈することを可能にしたのである。また、キリスト教の教説史に関しても、それが一枚岩ではなく、マテオ・リッチやハビアンのように多様であったこと、かつそれらを無視して一つの「正しい」キリスト教理解を前提し、そこから彼らを裁断することの危険性を明らかにしたことも、重要な貢献と思われる。

ただし、本論文には瑕疵がないわけではない。従来ほとんど利用されてこなかった写本を含む膨大な史料を解読したのは偉とするに足るが、結論を急ぐあまり、その解釈にはときに飛躍が見られる。また、辻善之助や高木昭作ら、思想史以外の先行研究への目配りが十分に行届いているとは言い難い。近世初頭に政治状況が激変した事実をより重視したならば、議論はより説得的になったのではないか。とくに、秀吉時代のバテレン追放令までを視野に入れて、キリシタンをめぐる思想史と政治史を論じたならば、解釈はより深まったことであろう。二分法に立つ一枚岩的解釈を批判しながら、時に自らも二分法に陥る場合があることも、やや気になるところである。

しかしながら、これらは、本論文が初めて提示したキリシタン書や反キリシタン書の読み方の画期性や、新しい発見の意義を打消すものではない。非漢字圏の外国に生まれ育ちながら、近世初頭の写本を含めた難解な一次史料に取組み、それをほぼ的確に読みこなした努力は偉とするに足る。その結果は、留学生の労作というに留まらず、学界に新風を吹込む画期的な著作となった。本審査委員会は、以上のように判断し、博士(学術)の学位を授与するにふさわしいものと認定する。

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