学位論文要旨



No 120928
著者(漢字) 藤村,美樹
著者(英字)
著者(カナ) フジムラ,ミキ
標題(和) 新しい局所阻害法を用いた鞭毛運動屈曲波の形成機構に関する研究
標題(洋) Studies on generation and propagation of bending wave in flagella by means of a new local inhibition technique.
報告番号 120928
報告番号 甲20928
学位授与日 2006.03.23
学位種別 課程博士
学位種類 博士(学術)
学位記番号 博総合第631号
研究科 総合文化研究科
専攻 広域科学専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 助教授 奥野,誠
 東京大学 教授 浅嶋,誠
 東京大学 教授 神谷,律
 東京大学 教授 須藤,和夫
 東京大学 助教授 上村,慎治
内容要旨 要旨を表示する

(背景と目的)

鞭毛運動は分子モーターであるダイニンの働きにより鞭毛軸糸を構成する微小管同士に滑りが生じ、その滑りが屈曲に変換されるものと考えられている。しかし、何故屈曲が鞭毛全体に伝播する"波"として何らかの制御を受けて形成され、それが一定のリズムで"繰返されるのか"については結論が出ていない。すなわち、細胞膜を除去された鞭毛はそのどの部位でもATPの存在下で屈曲を形成することは広く知られているが、果たして鞭毛のどの部位でも定常的な屈曲波を形成できるのかは現在のところ明らかではない。

また、鞭毛基部が鞭毛運動に果たす役割についても明らかではない。これまで鞭毛運動における鞭毛基部の役割については2つの仮説が提唱されてきた。一つ目の仮説は鞭毛基部にはペースメーカーのようなものが存在し、鞭毛の周期的な屈曲リズムを与えているとの説である。これは鞭毛基部を切断した精子は頭部を含む側では新たな屈曲を形成できるが、含まない側では新たな屈曲が形成されないことなどが理由として挙げられる。一方、2つ目の仮説であるが鞭毛基部は最初の屈曲が生じる際の抵抗発生源としてのみ必要とさるとの説である。つまり、純粋に基部抵抗を与える"固定された端"としてのみの機能を持つとの考え方である。この説は各種コンピューターシミレーションによって説明されている。しかし、現在のところこれら両説は実験的に確立されてはいない。

本研究ではこれらの問題を解明するために鞭毛運動を局所的に阻害する手法を開発することを試みた。このような試みはこれまでもなされてきたが、阻害剤自身の拡散の問題などがあり、正確な実験をすることは困難であった。本研究では、鞭毛運動を局所的に阻害する方法として励起した場合に限り鞭毛運動を阻害する効果を持つ蛍光色素と、局所的な励起光照射システムを組み合わせる方法の可能性について検討した。蛍光色素PRODAN(6-propionyl-2-dimethylamino-naphtalene)は本研究の目的に適う阻害効果をもつ蛍光色素であり、局所的な紫外線照射機構と共に使用することにより当初の目的を達成することができた。

(結果と考察)

鞭毛運動を局所的に阻害する新しい方法

鞭毛運動を局所的に阻害する方法であるPRODAN-UV法(以下、鞭毛をPRODAN処理して紫外線を照射することをPRODAN‐UV処理、PRODAN-UV処理で鞭毛運動を阻害する方法をPRODAN-UV法とする。)を開発し、鞭毛運動を局所的に阻害することに成功した。本研究では"励起された場合に限り鞭毛運動を阻害する蛍光色素"であるPRODANと落射型蛍光顕微鏡の光学系を利用した局所的紫外線照射装置を用いることにより、鞭毛上の任意の部位の運動を阻害することに成功した。

PRODAN-UV処理を鞭毛全体に施すと鞭毛運動の振動数および屈曲角が経時的に減少し、やがて鞭毛運動が停止した。また、阻害効果は紫外線強度およびPRODAN濃度に依存的であり、ATPの有無に依存せずに阻害が生じることがわかった。さらに、PRODAN-UV処理後に紫外線照射を停止しても、鞭毛運動が回復することはなかった。以上の結果からPRODN-UV処理によって軸糸構成タンパク質が不可逆的に変性、もしくは何らかの架橋が軸糸構成タンパク質の間に形成された可能性が示唆された。

次に、PRODAN-UV処理を施すことにより軸糸構成タンパク質にどのような変化が生じるかについて検討した。電気泳動法によって、PRODAN-UV処理特異的に変性するタンパク質の検出を試みたがはっきりした変化は見られなかった。一方、細胞生物学的な手法を用いた実験では以下のような結果が得られた。(1)局所的にPRODAN-UV処理した細胞膜除去精子に対してトリプシンを作用させると未処理部分からは微小管の滑り出しが観察される一方、処理部分からは微小管の滑り出しは観察されなかった。(2)rigorな状態の鞭毛にPRODAN-UV処理を施し、そこにイオントフォレシス法でATPを与えてもrigor bendが崩れない。以上の結果より、PRODAN-UV処理を行った部位は微小管同士の滑りが生じないこと、そして、タンパク質同士が架橋を作っている"固定"された状態になっていることが推測される。

鞭毛運動の局所阻害実験

細胞膜除去鞭毛、およびインタクトな鞭毛の後半部分を阻害した場合、阻害していない鞭毛前半部分においては常に運動が維持された。一方、鞭毛基部を含む鞭毛前半部分を阻害した場合、それとは大きく異なった。まず、インタクト精子の鞭毛の場合、鞭毛基部の運動を阻害するとほとんどの場合阻害していない鞭毛尾部においても運動が停止する事がわかった。一方、細胞膜除去鞭毛の場合ATP濃度によって実験結果が異なった。まず、低ATP濃度(50μM未満)の場合、阻害していない鞭毛後半部分では運動が維持された。これに対して高ATP濃度(50μM以上)の場合、鞭毛基部の運動を阻害すると、鞭毛尾部は阻害していないにも拘らず運動停止した。しかし、細胞膜除去鞭毛における基部阻害時の尾部運動停止はcAMPを再活性化溶液中に添加することで大幅に回復することがわかった。さらに、トリプシン処理した際に運動停止して見える鞭毛尾部から微小管の滑り出しが観察されることより、運動停止しているように見える鞭毛尾部では微小管同士の滑りを起こさせる能力は保持しているものの、それを制御する機構が機能していないと考えられる。

以上の結果より、鞭毛はそのどの部位でも本質的に定常的な屈曲波を形成、維持する能力を持つことが示された。

鞭毛基部は純粋な固定端として機能する

これまでの結果から、鞭毛基部の役割についてペースメーカーか、固定端か明確に結論づけることはできない。何故なら、鞭毛基部に存在するペースメーカーから、"止まっているように見える"部分を通じて何らかのシグナルが鞭毛尾部に向けて送られている可能性は否定できないからである。そこで鞭毛基部にPRODAN-UV法を用いて人工的な固定領域を導入し、その固定領域を切断して鞭毛の端に人工的な固定端を導入する実験を行った。一般的に運動している鞭毛を切断すると、鞭毛基部を含む側では運動を維持し、含まない側では運動が停止することが知られている。そこで、鞭毛基部を機械的に除去し、その代わりにPRODAN-UV法を用いて人工固定端を導入した際に、鞭毛は屈曲波を維持できるかを確かめた。もし、鞭毛基部に存在するペースメーカーから何らかのシグナルが運動停止している領域を伝って尾部に伝達されているのならば、鞭毛基部を切断すると鞭毛運動は停止するはずである。一方、鞭毛基部が物理的に固定された"端"としての機能のみを持つのならば鞭毛基部を切断しても、導入した"人工固定端"が中心体のような働きをして鞭毛運動は維持されるはずである。切断実験の結果、人工固定端の下流の鞭毛は定常的な屈曲波を維持した。このことは鞭毛基部の果たす役割が基部抵抗の発生源としての固定端であることを示している。

鞭毛運動の振動数は鞭毛の可動長によっても制御される

鞭毛運動の局所阻害実験を行った際、興味深い結果が得られた。鞭毛運動を徐々に阻害した場合、鞭毛の運動している長さが減少するとそれに伴い鞭毛全体に渡り屈曲角が減少する。一方、鞭毛運動の振動数は上昇した。この際、鞭毛全体における微小管同士の平均すべり速度は屈曲角が減少し、振動数が上昇することからほぼ一定に保たれた。これは、一定のATP濃度条件において決定されることは微小管の平均滑り速度であり、屈曲角などの鞭毛の波形や、振動数などは外部溶液の粘性抵抗などによって副次的に決定されることを示している。

(まとめ)

本研究の成果

これまで技術的に難しいとされてきた鞭毛運動の局所阻害に成功した。

鞭毛はどの部位においても定常的な屈曲波を形成、維持する能力を持つことを示した。

物理的に固定された"端"が鞭毛運動形成に必要であることを示した。

鞭毛運動の振動数は鞭毛の可動長に依存する。

審査要旨 要旨を表示する

真核生物の鞭毛・繊毛の多くは微小管を骨格とした、いわゆる"9+2"の軸糸構造を共通して持っている。この構造は中央に一対のシングレット微小管を、そして周辺に9組のダレット微小管を配し、ダブレット微小管に周期的に結合している運動タンパク質のダイニンが働くことにより、微小管が能動的な滑り運動を起こす。この滑り運動が何らかの調節を受けることで周期的屈曲運動が形成されると考えられている。ダイニンが滑り運動を起こす分子機構の解明については最近長足の進歩があったが、滑りを屈曲に変換し、自励振動を引き起こし、周期的な屈曲波を形成する機構についてはほとんど分っていない。その解明に当たって、屈曲が自発的に形成されるためにはどのような条件が必要であるかという問題は尤も基本的な問題であるといえる。藤村氏の研究はこの問題にメスを入れたものである。

藤村氏はこの研究のために、まず新しい実験手法を開拓した。屈曲波の形成と伝播が鞭毛で生じるための条件を明らかにするためには、鞭毛を局部的に阻害することによって屈曲波がどのような変異を受けるかを知ることは大変重要なインフォメーションを得ることになる。しかし鞭毛の局部的阻害は従来非常に困難であった。すなわち、阻害剤などを局部に与える場合には、拡散による作用領域の広域化の問題を避けては通れない。しかも鞭毛は非常に早い振動運動を行っているため、阻害剤の作用領域の絞込みも同様に困難となる。そこで、藤村氏は新しい方法として、自身では阻害効果を持たない蛍光試薬を結合させ、局部的に紫外線(UV)を当て、その部分でエネルギー遷移によるタンパク質の変異を起こさせることによって阻害を引き起こすことを試みた。そしてPRODANという試薬が大変適していることを発見した。局所的にUVを照射する方法としては、落射型蛍光顕微鏡のUV光路の絞り部分にピンホールを置くことで行った。それにより、UV光の照射面積を直径2.5μmまで絞り込むことができる。またこの方法は光強度を一定のまま照射面積を変えられるという利点ももつ。藤村氏はこの方法をPRODAN-UV方と名付けた。

このPRODAN-UV法により、ニジマスやウニの生きている精子は数秒以内に運動を停止する。また細胞膜を除去し、再活性化したものでも同様に運動が阻害されて停止することが分った。また、細胞膜を除去した鞭毛をトリプシン処理し、そこにATPを加えると、ネクシンなどによる拘束を失った微小管がばらばらに滑り出してくるが、PRODAN-UV処理をしたものではこの現象が起こらなくなることから、この処理によってネクシンなどではないものによって微小管の間に強い架橋が生じていることが示唆された。藤村氏はこの架橋をダイニンによるものと推測している。また大変興味深いことに、この処理ではATPase活性はほとんど阻害されない。これはダイニンと微小管の相互作用に関して、非常に重要な示唆を与えるものと考えられる。

細胞膜を除去し、再活性化された鞭毛を用いたPRODABN-UV実験により、以下のような発見がなされた。低ATP濃度で再活性化した精子鞭毛において、基部を含む鞭毛前半部をPRODAN-UV処理した場合でも、処理を施されていない鞭毛後半部では自発的な屈曲運動を行った。また、鞭毛後半部を阻害した場合も、処理を施されていない鞭毛前半部では自発的な屈曲運動を行った。鞭毛の両端を阻害するとそれに挟まれた間で運動が持続され、さらに鞭毛中央部の微小部分を阻害するとその両側で屈曲運動が継続した。一方、ATP濃度の高い条件では、基部を含む鞭毛前半部をPRODAN-UV処理した場合、処理を施されていない鞭毛後半部の運動が見られなくなったが、cAMPを加えることで回復した。以上のような実験結果から、鞭毛はどの部分でも自励的屈曲運動を生じさせる能力を持つことが明らかになった。また、鞭毛の長さを同じ一本の鞭毛を用いて阻害部分を徐々に広げるという実験の結果から、鞭毛長が短くなると振動数が上昇するが、屈曲角は減少するため、微小管の滑り速度は一定に保たれることも見いだした。

次に、鞭毛基部が屈曲波形成に重要な意味を持つかを確かめるため、PRODAN-UV処理を鞭毛前部で行い、その部分のほぼ中央をガラス微小針で切断するという実験を行っている。すると、処理しない場合は切断された鞭毛後半部は新たな屈曲を形成することはできないが、処理した鞭毛では自発的な屈曲運動を継続した。この結果は、鞭毛の基部側を固定すると鞭毛基底部の有無に関わらず自発的な屈曲運動が生じることを示している。すなわち、鞭毛の自励的な振動運動が生じるためには、鞭毛基部(もしくは精子頭部)は不要であり、微小管が根本側で固定され、ずれなくなっていることが必要であることが明らかになった。この結果は、従来から議論されていた二つの説、すなわち中心小体を含む鞭毛軸糸基底部に屈曲波開始シグナルを規則的に発生させる仕組みが存在するという、いわば"ペースメーカー説"とコンピューターシミュレーション実験で提唱されている、固定端があれば自励振動が起こるという"固定端説"において、後者が有力であることを初めて実験的に明らかにしたもので、その意義は非常に高い。

以上のように、本論文はこの分野の研究に極めて大きな一石を投じた重要なものである。本論文を審査委員会で厳正に審査した結果、審査委員全員一致して、申請者が博士(学術)を授与されるにふさわしいと認定した。

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