学位論文要旨



No 120937
著者(漢字) 鈴木,敦命
著者(英字)
著者(カナ) スズキ,アツノブ
標題(和) 表情認識の計量心理学的検討
標題(洋) A Psychometric Approach to Facial Expression Recognition
報告番号 120937
報告番号 甲20937
学位授与日 2006.03.23
学位種別 課程博士
学位種類 博士(学術)
学位記番号 博総合第640号
研究科 総合文化研究科
専攻 広域科学専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 教授 繁桝,算男
 東京大学 教授 長谷川,寿一
 東京大学 助教授 村上,郁也
 東京大学 講師 星野,崇宏
 東京大学 教授 石浦,章一
内容要旨 要旨を表示する

背景

表情認識は社会的コミュニケーションの基礎をなす重要な心的能力であり,近年,その認知神経科学研究が関心を集めている(レビューとしてはAdolphs, 2002)。とくに精力的に研究が進められている話題の一つは,発達や神経病理に伴う表情認識の変化である。そうした研究で要となるのは「いかに表情認識を測定するか」という点であるが,従来の測定法には重大な問題点が指摘されてきた。そこで本博士学位論文では,従来の問題点を解決した表情認識の測定法を新たに作成し(研究1),その測定法を応用して発達や神経病理が表情認識に与える影響を検討する(研究2),という二点を目的とした。

研究1

表情は無数のパターンを有するが,基本情動(喜び,驚き,恐怖,怒り,嫌悪,悲しみ)の表情については,文化によらない普遍性があると報告されている。従来は,この基本情動の典型的な表情を用いて表情認識の測定が行われてきた。しかし,そうした従来の測定法には,a)天井効果を生じやすい,およびb)基本情動ごとに評定困難度が異なる,という問題点が指摘されている。これらの問題点を解決すべく,研究1では下記の点を改善した新しい表情認識測定法の作成を目指した。

〔改善1〕

モーフィングによって異なる基本情動の典型表情を混合し,得られた混合表情を刺激として用いた。混合表情ではどの基本情動についても評定困難度が高くなり,a),b)両方の問題点が緩和される。

〔改善2〕

項目反応理論という計量心理学理論にもとづく得点化を行った。項目反応理論では刺激間の評定困難度の差を考慮した得点化がなされ,b)の問題が緩和される。

上記の新しい測定法で推定された表情認識の成績を,簡単のため,以下では「表情感度」と呼ぶことにする。研究1は一連の3つの実験から構成されていた。

実験1A

【目的】

表情感度がa),b)両方の問題点を解決することを確かめ,その有効性を示す。

【方法】

実験には大学生421名が参加した。実験参加者は日本人女性KSの典型表情およびそれらをもとに合成された混合表情から成る36枚の画像を観察し,それぞれの画像について6つの基本情動の強度を6段階で評定した。得られた評定反応に多値データの項目反応理論モデルである段階反応モデル(GRM)を適用し,実験参加者の表情感度を基本情動ごとに推定した。

【結果・考察】

驚きを除く5つの基本情動について,GRMは良く適合していた。驚きについても,少数の逸脱刺激を除くことでGRMへの適合度は改善された。推定された表情感度は広範かつ左右対称な分布を呈した(図I)。以上の結果は,表情感度がa),b)両方の問題点を解決する有効な測定法であることを意味する。

実験1B

【目的】

表情感度と従来の測定法にもとづく得点との相関を調べ,表情感度の収束的妥当性を検証する。

【方法】

表情感度を測定する実験1Baには142名の大学生が,従来の測定法を用いた実験1Bbには118名の大学生がそれぞれ参加した。2つの実験は一週間の間隔をおいて実施され,107名が両方の実験に参加した。実験1Baの手続きは実験1Aと同様である。実験1Bbでは,実験参加者は日本人女性KSの減弱表情(無表情とモーフィングすることで典型表情の強度だけを弱めた表情)から構成された36枚の画像を観察し,それぞれの画像について6つの基本情動の強度を6段階で評定した。また,実験1Bbでは従来どおり評定反応の平均を得点とした。

【結果・考察】

表情感度(実験1Ba)と従来の測定法にもとづく得点(実験1Bb)との間には,0.5〜0.6程度の正の相関がみられ,表情感度の収束的妥当性が確認された。

実験1C

【目的】

刺激に外国人男性JJの画像を含め,表情感度の外的妥当性を確保する。

【方法】

外国人男性JJの画像を刺激とした実験1Caには374名の大学生が,日本人女性KSの画像を刺激とした実験1Cbには107名の大学生がそれぞれ参加した。実験1Cbは実験1Aと同様の手続きで行われ,実験1Caも刺激の違いを除き同様の手続きで行われた。また,2つの実験は約一ヶ月間の間隔をおいて実施され,97名が両方の実験に参加した。実験1Cで得られたデータと実験1Aで得られたデータを統合し,GRMを適用した。

【結果・考察】

驚きを除く5つの基本情動について,GRMは良く適合していた。驚きについては,少数の逸脱刺激を除いても適合度は改善されなかった。以上により,驚きを除く5つの基本情動について,日本人女性KSと外国人男性JJの画像を刺激として表情感度を測定する方法が確立された。

研究2

近年,表情認識の認知神経科学において「マルチシステム説」という学説が提唱され,議論を呼んでいる(Calder et al., 2001;Murphy et al., 2003)。この学説は一部の基本情動に特異な神経機構の存在を主張するものであり,とくに恐怖と扁桃体,嫌悪と大脳基底核-島,怒りと眼窩前頭皮質の関連が注目されている。先行研究は,発達や神経病理に伴う表情認識の変化が一部の基本情動に特異的であることを報告し,マルチシステム説の支持根拠とされている。しかし,そうした先行研究では,従来の表情認識の測定法が抱える2つの問題点,とくにb)基本情動ごとに異なる評定困難度によって結果が歪められているという批判がなされてきた。そこで研究2は,発達や神経病理が表情認識に与える影響を表情感度を用いて評価し,マルチシステム説を検証することを目的とした。研究2は2つの実験から構成されていた。

実験2

【目的】

正常な加齢が表情認識に与える影響を検討する。

【方法】

実験には,神経・精神疾患の既往歴がない健康な高齢者34名(高齢者群),および大学生・大学院生34名(若齢者群)が参加した。両群は,性比,就学年数,知能についてマッチングされていた。実験1Cと同様,日本人女性KS,外国人男性JJの画像を刺激として表情感度を測定した。また,表情認識と交絡する可能性の高い変数として,顔認識,情動経験を測定する統制課題も合わせて実施した。

【結果・考察】

表情感度を比較した結果,怒りおよび悲しみについて高齢者群における有意な低下がみられた(図IIA)。一方,統制課題の得点を比較した結果,顔認識,不快な情動経験について高齢者群における有意な低下がみられた。これら統制課題の得点の影響を統計的に除去した場合,怒りの表情感度の差だけが有意であった。以上の結果は,評定困難度や交絡変数を統制した上でも,加齢に伴う怒りの表情認識の低下が頑健に観測されることを意味する。背景機序としては,加齢に伴う1)眼窩前頭皮質の機能低下,および2)怒りを誘発する社会環境要因の減少,が推察される。

実験3

【目的】

パーキンソン病が表情認識に与える影響を検討する。

【方法】

実験には,初期のパーキンソン病患者14名(PD患者群),および健康な高齢者39名(対照群)が参加した。両群は,年齢,性比,就学年数,知能,抑うつについてマッチングされていた。統制課題として情動経験の測定を行わなかった点を除き,手続きは実験2と同様であった。

【結果・考察】

表情感度を比較した結果,嫌悪についてだけPD患者群における有意な低下がみられた(図IIB)。また,統制課題として実施した顔認識については,両群間で有意な差はみられなかった。以上の結果は,評定困難度や交絡変数を統制した上でも,パーキンソン病に伴う嫌悪の表情認識障害が頑健に観測されることを意味する。すなわち,少なくとも初期のパーキンソン病においては,嫌悪に特異的な表情認識障害が生じうる。

結論

本博士学位論文では,モーフィングと項目反応理論を活用することで,従来の問題点を解決した適切な表情認識の測定法を作成することに成功した(研究1)。また,その適切な測定法を応用して,発達や神経病理に伴う一部の基本情動に特異的な表情認識の変化をはじめて実証し,マルチシステム説に対する有力な根拠を与えた(研究2)。

図I 表情感度の得点分布の例(左:喜び,右:恐怖)。得点は平均0,標準偏差に調整されている。博士学位論文Figure 1.2.5より。

図II A) 高齢者群,若齢者群別の表情感度の平均得点(博士学位論文Figure 2.2.1より)。B) PD患者群,対照群別の表情感度の平均得点(同Figure 2.3.1より)。エラー・バーは標準誤差を表す。

HA=喜び,FE=恐怖,AN=怒り,DI=嫌悪,SA=悲しみ

Adolphs R. (2002). Neural systems for recognizing emotion. Current Opinion in Neurobiology, 12, 169-177.Calder AJ, Lawrence AD, Young AW. (2001). Neuropsychology of fear and loathing. Nature Reviews Neuroscience, 2, 352-363.Murphy FC, Nimmo-Smith I, Lawrence AD. (2003). Functional neuroanatomy of emotions: a meta-analysis. Cognitive, Affective, and Behavioral Neuroscience, 3, 207-233.
審査要旨 要旨を表示する

本論文は、情動という捉え難い対象の定量化を目指した意欲的な試みである。より具体的には、表情から他者の情動を認識する能力、つまり表情認識能力を計量心理学的観点から検討した研究である。表情認識はヒトの社会性を支える重要な心的能力であり、その認知・神経基盤の解明は基礎学術的観点からも臨床応用的観点からも高い関心を集めているし、実際、近年、表情認識の認知神経科学研究が精力的に進められている。しかし、依然として「いかに表情認識を測定するか」という根本的な問題については議論が紛糾している状況にある。対象の適切な測定はあらゆる実証研究の要であるが、情動研究においては、その対象の曖昧性ゆえに、厳密な定量化の試みが避けられてきた感がある。こうした問題意識のもとに、論文執筆者は、研究1において表情認識の精緻な測定法を新たに確立する一連の基礎実験を遂行し、研究2においてその測定法を高齢者やパーキンソン病患者に適用した応用実験を遂行している。

研究1では、まず従来の表情認識の測定法をめぐる紛糾した議論の簡明なレビューが示されている。いうまでもなく表情は無数の様相をもつが、実証研究の対象とされているのは基本情動(喜び、驚き、恐怖、怒り、嫌悪、悲しみ)の表情である。基本情動の典型的な表情には文化によらない普遍性が報告されており、従来の測定法はこの基本情動の典型表情を刺激として用いている。論文執筆者は、そうした従来の測定法に指摘されている問題点を、a)天井効果を生じやすい、および、b)基本情動ごとに評定困難度が異なる、という2点にまとめている。そして、それらの問題点を解決すべく、(1)混合表情を刺激に利用し、また、(2)項目反応理論を得点算出に応用して、新しい表情認識測定法を提案している。混合表情とは、モーフィングというコンピューター画像合成技術を用いて異なる基本情動の典型表情を混合した人工的な曖昧表情である。混合表情ではどの基本情動についても評定困難度が高くなるため、a)、b)両方の問題点が緩和できると考えられる。項目反応理論とは、刺激間の評定困難度の差を考慮に入れて能力推定を行う現代計量心理学理論であり、b)の問題が緩和できると考えられる。

論文執筆者は、上記の新しい測定法で推定された表情認識の成績を「表情感度」と呼称し、その有効性・妥当性を実証すべく一連の3つの実験(実験1A、1B、1C)を遂行した。まず実験1Aでは、表情感度においてa)、b)の問題点が解決されていることを示すため、表情感度の推定手続きを標準化し、その標本分布を明らかにする実験を行っている。その結果、表情感度は広範かつ左右対称な分布をもつこと、すなわち表情感度においてa)、b)の問題点が解決されていることを確認している。次に、表情感度のような新しい測定値を提案する際には、それが従来の測定法と同様の概念を測定しているのか、先行研究との連続性は保証されるのかといった収束的妥当性がしばしば問題とされる。実験1Bはこの問題に答えるものであり、表情感度と従来の測定法にもとづく得点との相関が調べられている。その結果、表情感度と従来の測定法にもとづく得点との間には、0.5〜0.6という中程度の正の相関がみられ、表情感度の収束的妥当性が検証されている。そして実験1Cでは表情感度の推定に用いる刺激の拡充を遂行している。つまり、実験1A、1Bでは刺激として一人の日本人女性の表情のみを用いていたが、実験1Cでは新たに外国人男性の表情を刺激として用いることができるように表情感度の再標準化を行っている。以上の3つの実験を通じて、論文執筆者は表情感度が理論的にも実際的にも優れた表情認識の測定法であることを説得的に示した。

研究2では、研究1で標準化した表情感度を発達心理学、神経心理学の研究に応用し、表情認識の認知神経科学における基本的問題を検証している。具体的には、論文執筆者が題材としたのは、一部の基本情動の表情認識に特異的に関与する神経機構の存在を主張する「マルチシステム説」という学説である。この学説の主要な根拠は、発達や神経病理に伴う表情認識の変化が一部の基本情動に特異的であるという先行研究である。しかし、そうした先行研究では、従来の表情認識の測定法が抱える2つの問題点、とくにb)基本情動ごとに異なる評定困難度によって結果が歪められているという批判が根強い。そこで、論文執筆者はマルチシステム説の的確な検証を目指し、発達や神経病理が表情認識に与える影響を表情感度にもとづいて評価するという先駆的な試みを研究2において提示している。

研究2は実験2、3という2つの実験から構成されており、それぞれ加齢およびパーキンソン病が表情認識に与える影響を検討している。実験2は、高齢者では若齢者と比較して怒りの表情感度が特異的に低下しているという結果を報告している。また、実験3は、パーキンソン病患者では健常者と比較して嫌悪の表情感度が特異的に低下しているという結果を報告している。以上の2つの実験を通じて、論文執筆者は発達や神経病理が表情認識に与える影響の情動特異性を適切な方法論にもとづいて初めて実証し、マルチシステム説に対する有力な根拠を与えている。

本論文は、表情認識の精緻な測定法の作成という基礎研究と発達や神経病理に伴う表情認識の変化という応用研究とを巧みに融合させた、優れた研究報告である。項目反応理論のような計量心理学理論はともすると「理論」にとどまって現実の測定に生かされず、一方で応用研究は測定上の問題をしばしば無視する。論文執筆者はそうした基礎と応用との解離を意識し、実験心理学と計量心理学の双方に明るい素養を生かして、表情認識のマルチシステム説という実質科学的な問題を計量心理学的に検討するという斬新な試みを本論文で提示している。そして、情動特異的な表情認識の変化に関する貴重な知見を与えている点で非常に高く評価できる。したがって、本審査委員会は博士(学術)の学位を授与するにふさわしいものと認定する。

なお、本論文の研究1の実験1A・1BはCognition誌に、研究2の実験3はBrain誌にそれぞれ厳格な審査を経て掲載が決定されている。

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