学位論文要旨



No 120939
著者(漢字) 釣木澤,朋和
著者(英字)
著者(カナ) ツルギサワ,トモカズ
標題(和) 女性ホルモンは海馬神経細胞のスパイン密度・形態を変化させる
標題(洋) Female hormone changes the density and morphology of spines of hippocampal neurons
報告番号 120939
報告番号 甲20939
学位授与日 2006.03.23
学位種別 課程博士
学位種類 博士(学術)
学位記番号 博総合第642号
研究科 総合文化研究科
専攻 広域科学専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 教授 川戸,佳
 東京大学 教授 陶山,明
 東京大学 教授 里見,大作
 東京大学 助教授 上村,慎治
 東京大学 教授 村田,昌之
内容要旨 要旨を表示する

ここ20年間に女性の更年期障害に対する補助療法として、エストロゲン補充療法が登場し、女性ホルモン(エストラジオール)の記憶・認知機能への寄与に注目が集められている。最近になって男性の脳内でも女性ホルモンが合成される事が川戸研究室により発見され、女性ホルモンによる男性の脳への寄与も注目されつつある。

海馬神経細胞樹状突起には棘状の微小な(直径1mm弱)突起が存在している。これらの突起をスパイン(spine)と呼ぶ。スパインは形態学的特長から、mushroom(大きい頭部を持つ)、thin(小さい頭部を持ち、細長い)、filopodium(首が無く、ひょろ長い)、stubby(首が無く、短い)の4種類に大別される。CA3透明層では、スパインとは異なる、複数の頭部(thorn)を持ち、密集しているthorny excrescence(complex spine)という特殊なスパインが存在している。神経前細胞からの軸索終末と後細胞のスパインがシナプス結合を形成しており、神経細胞はこのシナプス結合を介して情報を伝達しており、記憶がシナプスに貯蔵される。

エストラジオールとスパインとの関係は1990年初頭に最初に発見された。雌ラットでは、卵巣除去手術により血中の女性ホルモン濃度を低下させると、2週間後の海馬CA1領域の樹状突起スパイン数が半分程度に減少していた。さらに、卵巣除去手術後、定期的に女性ホルモンを血中投与し続けているとスパイン数が正常ラットの状態まで回復することから、女性ホルモンがスパインの維持に関与していることが考えられる。また、雌ラットの性周期に応じてCA1領域の全スパイン密度が変動し、発情期後期(estrus)の全スパイン密度は、血中エストラジオール濃度の高い発情前期(proestus)に比べて約30%低かった。CA3上行層及び網状分子層ではやはり変化がなかった。これらのことから、卵巣で合成されたエストラジオールが、CA1神経細胞スパインの密度を調節している可能性が示唆された。しかし、血中エストラジオール濃度変化により、海馬以外の部位にも影響を与えることが考えられ、エストラジオールが海馬に直接作用しているのかどうかはこの研究手法(卵巣除去+エストラジオール血中投与)では分からない。実際に、エストラジオールが中脳縫線核から海馬へ投射しているセロトニン神経細胞に作用して、セロトニン放出を抑制させることにより、CA1へのグルタミン酸作動性神経細胞のスパインを増加させるという報告がある。また、コリン作動性神経細胞に作用することで海馬CA1領域の神経細胞スパインを制御しているという報告もある。

雌ラットではエストラジオールによるスパインへの影響について多くの報告があるが、雄についてはなかった。これまでエストラジオールは末梢で合成されて脳へ移動するものと考えられていた為である。しかし雄ラットでも、エストラジオールが海馬内で合成されることが川戸研究室により明らかになった。現在ではコレステロールからエストラジオールまでの代謝経路について明らかにされつつある。さらに、川戸研究室で、海馬をNMDA刺激すると30分後には海馬でエストラジオールが合成されることが発見され、合成酵素が主に神経細胞に局在していることから、エストラジオールが海馬神経細胞で合成されることが示唆されている。従って、雄ラットの脳内で合成されたエストラジオールが直接海馬神経細胞に作用している可能性が考えられる。雄ラットの海馬でエストラジオールの直接の効果を測定する必要がある。

エストラジオールの長期的な作用は、数日かけて作用するものであり、スパインについては、長期的な作用しか報告がない。従って、エストラジオールの急性的な作用について調べる必要がある。

本研究では、12週齢の雄ラットがら急性スライスを作成し、エストラジオールによる海馬CA1、CA3領域における神経細胞スパイン・thornへの急性的な作用があることを示した。さらに、エストロゲン受容体にはERaとERbの2種類があることが知られているが、CA1、CA3領域でともにERaに作用することでスパイン及びthornに影響を及ぼしていることを明らかにした。これまでCA1についての作用については多くの報告があるが、CA3についてはまったく報告がなかった。従って、本研究で得られた結果は、初めてCA3領域でthornに対してエストラジオールの効果を示したことになる。また、CA1、CA3で、エストラジオールによる2時間という早い効果についてはスパイン・thornに関してはこれまで報告が無かった。この点についても初めての発見である。海馬への直接の作用という点については、これまで培養スライス又は培養細胞でエストラジオールの直接的な効果を測定した報告がある。しかし、培養細胞は胎児・又は新生児の脳からしか培養することが出来ないため、成獣の脳を測定することが出来なかった。本研究で用いた急性スライスは、成獣からでも作成することが出来るため、成獣の脳への影響を調べることが可能である。本研究で急性スライスを用いて、成獣の海馬神経細胞スパインのエストラジオールによる急性的な変化を測定したことは画期的な意義を持つ。次に、エストラジオールがスパインに影響を及ぼすメカニズムについても調べ、MAPキナーゼが関与していることを初めて発見した。エストラジオールによって駆動するスパイン内での信号伝達系を発見したことは大変意義がある。

本研究では、12週齢の雄ラットの海馬スライスを用いた。ラットを断頭後海馬を取り出し、ビブラトームを用いて400μmの厚さのスライスを作成した。リカバリの為、2〜4時間25℃で人工脳脊髄液(ACSF)でインキュベーションした後、測定用チャンバーにサンプルを移し、薬理刺激を行なった。2時間25℃でインキュベーションした後、4%パラホルムアルデヒドで組織固定を行った。次に、固定したサンプルの単一神経細胞をカレントインジェクション法を用いて蛍光染色した。蛍光色素として、Lucifer Yellowを用いた。その後、共焦点レーザー顕微鏡により0.5 mm 毎に30-40枚の断層画像を撮影した。デコンボリューション処理により光学的ボケを減らした画像を三次元再構成して、CA1では各形態のスパイン密度を、CA3ではthorn密度を測定した。x-y平面の分解能は0.18mm、z軸方向の分解能は0.34 mmである。解析プログラムとしてNeurolucidaを用いた。

解析の結果、CA1放射状層では1nMエストラジオールを2時間投与すると全スパイン密度が約1.5倍に増加し、各形態ではthin、filopodiumの密度が選択的に増加した。増加した内訳は、thinが80%、filopodiumが20%であった。さらに、ERaの選択的アゴニストであるPPTによって同様の効果が見られるが、ERbの選択的アゴニストであるDPNでは見られないことから、エストラジオールはERaに作用することを示した。川戸研究室では、ERaがグルタミン酸性神経細胞の細胞質、核だけでなく、スパイン内部に主に局在することを免疫組織染色、免疫電顕を用いて示しており、エストラジオールが神経細胞スパインに直接作用していると考えられる。次に、グルタミン酸受容体の寄与について調べたところ、NMDA型受容体を介した自発的な細胞内へのカルシウムイオンの流入が必要であることを示した。さらに、CA1でERa以降のシグナル伝達経路について調べた。その結果、エストラジオールはMAPキナーゼを駆動することで、thin、filopodiumの各スパイン密度を増加させることを示した。

CA3では、1nMエストラジオールを2時間投与するとthorn密度が30%程減少することが示された。さらに、ERaの選択的アゴニストであるPPTによって同様の効果が見られるが、ERbの選択的アゴニストであるDPNでは見られないことから、エストラジオールはERaに作用することを示した。CA3でも、川戸研究室により、グルタミン酸性神経細胞のthornにERaが局在することが示されており、エストラジオールが神経細胞thornに直接作用していると考えられる。次に、グルタミン酸受容体の寄与について調べたところ、エストラジオールの効果にはAMPA型グルタミン酸受容体を介した自発的な膜電位変化が必要であることが示された。また、低閾値型膜電位依存性カルシウムチャネルを介した細胞内カルシウムイオンの自発的な変動も、エストラジオールの効果には必要であることを示した。さらに、CA3でERa以降のシグナル伝達経路について調べた。その結果、エストラジオールはMAPキナーゼを駆動することで、thorn密度の減少を引き起こしていることを示した。

以上より、本研究において、雄ラットの海馬で、CA1神経細胞では、エストラジオールが2時間でthin、filopodiumの全スパイン密度を増加させ、CA3神経細胞では、エストラジオールが2時間でthorn密度を減少させることを発見し、さらにスパイン密度変化に必要な信号伝達経路を解析した。これまで成獣海馬のスパインに関する直接的なエストラジオールの効果については報告は無かったので、本研究で示した結果は世界で初めての発見であり、大変意義のあるものである。

審査要旨 要旨を表示する

本研究の目的は、成獣で女性ホルモンが記憶学習能に与える影響の神経機構を研究することである。海馬神経細胞樹状突起には棘状の微小な(直径1mm弱)突起が存在している。これらの突起をスパインと呼ぶ。スパインは形態学的特長から、mushroom(大きい頭部を持つ)、thin(小さい頭部を持ち、細長い)、filopodium(首が無く、ひょろ長い)、stubby(首が無く、短い)の4種類に大別される。CA3透明層では、スパインとは異なる、複数の頭部(thorn)を持ち、密集しているthorny excrescence(complex spine)という特殊なスパインが存在している。神経前細胞からの軸索終末と後細胞のスパインがシナプス結合を形成しており、神経細胞はこのシナプス結合を介して情報を伝達している。論文提出者は、神経細胞スパインが、海馬内で合成される女性ホルモン(エストラジオール)によってどのような影響を受けるかを、単一神経細胞染色したスパインの蛍光イメージングによって解析した。

成獣の海馬における女性ホルモンの神経細胞スパインへの影響を研究する為、論文提出者は、12週齢の雄ウィスターラットから作製した急性スライスを用いた。薬理刺激後、速やかに試料を組織固定し、カレントインジェクション法を用いて蛍光染色した。蛍光色素として、Lucifer Yellowを用いた。その後、共焦点レーザー顕微鏡により0.5 mm 毎に30-40枚の断層画像を撮影した。デコンボリューション処理により光学的ボケを減らした画像を三次元再構成して、CA1では各形態のスパイン密度を、CA3透明層ではthorn密度を測定した。

本論文では、エストラジオールによる海馬CA1、CA3領域における神経細胞スパイン・thornへの急性的な作用があることを発見した。CA1放射状層では1nMエストラジオールを2時間投与すると全スパイン密度が約1.5倍に増加し、各形態ではthin、filopodiumの密度が選択的に増加した。増加した内訳は、thinが80%、filopodiumが20%であった。さらに、エストロゲン受容体(ER)aの選択的アゴニストであるPPTによって同様の効果が見られるが、ERbの選択的アゴニストであるDPNでは見られないことから、エストラジオールはERaに作用することを示した。また、放射状層と同様の効果が上行層、網状分子層で観測された。これと対照的に、CA3では、1nMエストラジオールを2時間投与するとthorn密度が30%程減少した。さらに、ERaの選択的アゴニストであるPPTによって同様の効果が見られるが、ERbの選択的アゴニストであるDPNでは見られないことから、エストラジオールはERaに作用することを示した。また、透明層以外の部位では、エストラジオールの効果が観測されなかったことから、エストラジオールの効果は神経細胞の部位に依存して異なることを明らかにした。エストラジオールによる2時間以内の効果を発見したのは本論文が初めてである。また、成獣でのエストラジオールによるスパイン密度変化をスライスで観測したのも本論文が初めてである。

次に、エストラジオールの効果にグルタミン酸受容体が必要であるかどうかを調べた。海馬興奮神経細胞では、情報伝達物質がグルタミン酸であることが知られており、グルタミン酸受容体はシナプス結合の可塑性に重要な働きをもつ事が知られている。グルタミン酸受容体にはNMDA型とAMPA型、カイニン酸型受容体がある。CA1では、NMDA型受容体を介した自発的な細胞内へのカルシウムイオンの流入が必要であることを阻害実験により示した。これと異なり、CA3では、AMPA型受容体を介した自発的な膜電位変動が必要であることを阻害実験により示した。さらに、低閾値型膜電位依存性カルシウムチャネルを介した細胞内カルシウムイオンの自発的な変動も、エストラジオールの効果には必要であることを示した。

さらに、エストラジオールの効果のメカニズムを解明する為、MAPキナーゼの阻害剤を用いて測定した。CA1、CA3で共に、MAPキナーゼ投与によりエストラジオールの効果が完全に阻害されることから、エストラジオールの効果にはMAPキナーゼが必要であることを示した。

以上をまとめると、論文提出者は、本研究において、急性スライスでのカレントインジェクション法を用いた単一神経細胞スパインのイメージングにより、成獣の海馬でのスパイン形態の変化を測定することを可能とし、女性ホルモンが雄ラット海馬神経細胞スパインに急性的な変化を与えることを明らかにした。さらに、CA1、CA3領域の神経細胞でそれぞれ全く違った効果を示し、作用メカニズムも異なることも発見した。これらの結果は脳神経科学において、非常に有意義な貢献をしたものと認められる。

よって、審査員一同、論文提出者釣木澤朋和は東京大学博士(学術)の学位を受けるに十分な資格があるものと認めた。なお、本論文の内容は、2005年にBiochemical and Biophysical Research Communications誌に公表済みである。これは共著論文であるが、論文提出者は研究の主要部分に寄与したものであることを確認した。

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