学位論文要旨



No 120943
著者(漢字) 若本,祐一
著者(英字)
著者(カナ) ワカモト,ユウイチ
標題(和) 一細胞直接観察法を用いた後天的獲得情報の世代間伝承の研究
標題(洋) Epigenetic inheritance between generations at individual-cell level revealed by single -cell-based direct observation
報告番号 120943
報告番号 甲20943
学位授与日 2006.03.23
学位種別 課程博士
学位種類 博士(学術)
学位記番号 博総合第646号
研究科 総合文化研究科
専攻 広域科学専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 助教授 安田,賢二
 東京大学 助教授 奥野,誠
 東京大学 助教授 上村,慎治
 東京大学 助教授 和田,元
 東京大学 教授 金子,邦彦
内容要旨 要旨を表示する

細胞の表現型はゲノム上の遺伝情報だけでは決定されず、細胞が過去の履歴に依存して蓄えた後天的獲得情報(エピジェネティック情報)によっても影響を受けると考えられる。この後天的獲得情報がどのように記憶され、子孫細胞へと世代を跨いで伝承していくかを明らかにするためには、個々の細胞の表現型の世代間での関係を細胞間相互作用まで含む厳密な環境制御下で明らかにする必要がある。これを可能にする細胞観察法を「1細胞直接観察法」と呼び、本研究ではまず、この1細胞直接観察法を実現する新規細胞観察系「オンチップ1細胞培養システム」を開発し、更にこの装置を用いて、大腸菌をモデルとした一遺伝型の細胞に生じる表現型揺らぎと世代間での後天的情報伝承の有無の検証、及び拡散性シグナル因子を通じた細胞間コミュニケーションによる獲得情報保持の検証を行った。

オンチップ1細胞培養システムの開発

細胞の表現型を1細胞レベルで世代を跨いで観察・比較する為に、新たに「オンチップ1細胞培養システム」を開発した。このシステムは4つの主要部位からなる。1つ目は顕微鏡用カバーガラス上に微細加工技術を用いて作製したマイクロチャンバーで、これは細胞を1細胞単位でその内部に閉じ込め観察する為に用いる(図1)。2つ目は細胞の非接触ハンドリングを行う光ピンセットで、これを用いることでマイクロチャンバー内での直接接触による細胞間相互作用を制御することができる。3つ目は培養液循環部で、これはマイクロチャンバー内の培養液を任意の種類のもので循環させることで細胞周囲の環境を厳密に制御するものである。4つ目は画像取得ユニットで、細胞の顕微画像をCCDカメラを通してDVカセットに録画する。

このシステムを用いて実際に細胞観察を行ったところ、大腸菌1細胞の直系子孫細胞4細胞を同時に10世代以上一定環境下で直接観察できることが分かった。この方法により厳密な環境制御下で1細胞の表現型を世代間で比較することが初めて可能となった。

一定環境下における細胞表現型の揺らぎと世代間相関の計測

上記1において開発したオンチップ1細胞培養システムを用い、同一遺伝型を有する大腸菌の一定環境下での表現型揺らぎの大きさと、各細胞の状態の子孫細胞への伝承の有無について検討した。その結果、大腸菌の分裂間隔時間、各世代開始時の細胞長(初期長さ)は一定環境下であってもそれぞれ33%、26%(C.V.)のばらつきを含むことが分かった。個々の細胞の10世代分の状態推移をこれら2つの指標を用いて調べたところ、各細胞の状態は世代間で大きくばらつくものの、10世代分の平均は細胞間で等しいことが分かった(図2)。

細胞状態の世代間相関を調べると分裂間隔時間では隣り合う世代間で相関はなく(r=-0.09)、初期長さには正の相関(r=0.45)が見られた。これにより、長さ情報は隣り合う世代で伝承する傾向があることが分かった。更にこれら2つの指標の相関を調べると両者の間には負の相関(r=-0.49)があり、初期長さを元に分裂間隔時間を緩やかに調節し大きな揺らぎに対して平均値を維持するフィードバック機構が働いていることが示唆された。

伸長表現型の後天的遺伝

上記2の観察において一定環境下で約5%の頻度で現れた伸長表現型を持つ大腸菌に注目し、その状態の世代間推移を観察した。その結果、通常の表現型を持つ細胞が一度伸長表現型を獲得すると、不等分裂を繰り返しながら獲得した表現型を子孫細胞の一つの系列に後天的に伝承することが分かった(図3)。

細胞長と分裂位置の関係を調べると、分裂時の長さが10um以下では等分裂、それ以上では不等分裂が起こることが分かった。これは、分裂位置決定に対して細胞長の閾値が存在することを示し、その閾値を越えると細胞は新たな表現型を獲得し、それを伝承し始めることを示している。

この現象を可能にする細胞内分子機構を考える為に、分裂位置決定に関わるMinCDEタンパク質の細胞内振動ダイナミクスを様々な長さの細胞に対してシミュレートしたところ、7.5um前後で振動モードが単振動から倍振動へと変わることが分かり、実験で観察された伸長細胞の不等分裂はこれらタンパク質の振動ダイナミクスに依存していることが示唆された。

以上の結果は、細胞長という細胞形状の情報が表現型を決定し、一方でそれ自身も安定に伝承することを示しており、1細胞レベルでの後天的獲得情報の世代間伝承の存在を1細胞直接観察により初めて証明した。

拡散性シグナルによる細胞間コミュニケーションの影響

細胞の表現型決定に寄与する後天的情報は細胞内だけでなく、ある特定の相互作用状態を細胞間で作り出すことにより保持される可能性も考えられる。そこで、大腸菌の静止期環境に保持された拡散性シグナル因子による相互作用形式を対数増殖期の細胞に与え、細胞間コミュニケーションによる情報保持の有無を検討した。

その結果、静止期環境中のシグナル因子は栄養非依存的に細胞の成長を10分以内に停止させることが分かった(図4)。シグナル因子の濃度を下げて細胞に与えた場合、濃度に応じた抑制された成長速度を維持することから、細胞は現在置かれた環境中のシグナル因子の濃度に従って成長速度を調節していると考えられる。このことは、シグナル因子の濃度という情報が成長速度決定に大きく寄与することを示しており、拡散性シグナル因子による細胞間コミュニケーションが後天的情報を保持することを示している。

マルコフ連鎖解析による後天的遺伝拘束度の定量的評価

細胞の表現型が後天的遺伝にどの程度拘束されているかを定量的に評価するため、マルコフ連鎖解析により、情報論的冗長度を用いて評価する方法を示した。この方法により上記3の実験で得られた分裂間隔時間と初期長さの拘束度を評価すると、それぞれ0.03、0.10となり、初期長さのほうが3倍程度拘束度が大きいことが分かった。

以上本研究では、大腸菌において後天的獲得情報が世代間で伝承する過程を1細胞レベルで初めて明らかにした。また、同一遺伝型を有する細胞が一定環境下で示す表現型揺らぎの大きさを初めて定量的に計測し、更に細胞間コミュニケーションによる情報保持の存在を示した。これらの結果は1細胞直接観察法により初めて得られるものであり、この構成的な実験手法は1細胞レベルでの獲得情報の伝承機構を明らかにする為には必須となると考えられる。

図1 マイクロチャンバーとその内部の細胞

図2 分裂間隔時間の世代間推移

図3 伸長表現型の出現と伝承

図4 対数増殖期にある細胞の静止期環境への応答

審査要旨 要旨を表示する

本論文は、微細加工技術を応用して開発した新たな細胞観察システム、オンチップ1細胞培養システムを用いることで、後天的獲得情報が1細胞レベルで保持・伝承される現象とその機構についての解明を行った研究に関して報告したものである。細胞の表現型はゲノム上の遺伝情報だけでは決定されず、細胞が過去の履歴に依存して蓄えた後天的な獲得情報によっても影響を受け、それにより細胞の適応や分化などの柔軟な状態変化が可能になると考えられる。この後天的獲得情報に依存した状態決定機構を理解するためには、生物における情報の流れを遺伝情報から一次元的に捉える分子生物学の手法のみでは不十分であり、個々の細胞の外的条件を厳密に制御しながらその状態変化を世代を跨いで継続的に観察し、どのように細胞が情報を獲得し、伝承するかを明らかにする「構成的アプローチ」をとる必要がある。本論文では、この構成的アプローチを行うための実験系構築、及び細胞観察のプロトコル開発を行い、更にその手法を用いてモデル生物である大腸菌において、後天的獲得情報の伝承機構についての解明を目指している。

第1章では、本研究の背景と上記目的を過去の研究例を引用しながら述べている。また、本論文の構成について総説している。

第2章では、本研究全般に用いた、オンチップ1細胞培養システムの概要、及びそれを用いた1細胞長期差分計測法の開発とその手法の評価について詳細に述べている。後天的情報の獲得・保持の存在を明らかにするためには、細胞を1細胞単位でその周囲の環境条件や相互作用条件を厳密に制御しながら世代を跨いで観察する必要がある。その観察法を行うために開発した装置がオンチップ1細胞培養システムである。このシステムは4つの主要部位を顕微鏡に組み込むことで構成されている。1つ目は顕微鏡カバーガラス上に微細加工技術を用いて作製したマイクロチャンバーで、この中に細胞を1細胞単位で閉じ込め観察することができる。2つ目は細胞の非接触ハンドリングに用いる光ピンセットで、マイクロチャンバーと組み合わせることで、同一マイクロチャンバー内の細胞間での直接接触による相互作用を制御することができる。3つ目は培養液循環部で、細胞周囲の培養液を常に任意の種類のもので循環させることで細胞の外部環境条件を制御することができる。4つ目は画像取得ユニットで、細胞の顕微鏡画像をCCDカメラを通してデジタルビデオに記録し、その画像をPCを用い解析することができる。このシステムにおいて、1つのマイクロチャンバー内に観察領域と細胞除去領域、及びその2つの部位を結ぶ流路を集積することで、1細胞由来の直系子孫細胞4細胞を同時に10世代以上にわたり孤立化状態(相互作用のない条件下)で連続観察可能であることを、大腸菌を用いて実証している。この観察法により、厳密な環境制御下で特定の細胞の表現型を世代間で直接比較可能な実験系を構築できたことを述べている。

第3章では、上記オンチップ1細胞培養システムを用いて、大腸菌を一定環境下に置きながら10世代以上に渡り連続観察を行うことで、同一遺伝型を有する細胞間での表現型のばらつきの大きさと、個々の細胞の世代間での状態の関係について調べた実験について述べている。その結果、同一遺伝型を有する細胞を一定環境下においたとしても、分裂間隔時間、及び分裂時の長さは、それぞれ33%、26%(変動係数)のばらつきを含むことを示している。このことから、例え同一遺伝型を持つ細胞を一定環境に置いたとしても、その状態は一定にはならず、ばらつきを含むことが示された。各細胞の10世代分の状態推移を調べた結果からは、各世代の状態は系列ごとに大きく異なる一方、10世代分の平均は系列間で差がないことが示され、各細胞の平均状態からのずれが平均周囲の揺らぎと捉えられることが述べられている。また、隣り合う世代間の相関を調べた結果からは分裂間隔時間では相関係数-0.09とほぼ相関がない一方、分裂時の長さは+0.45と正の相関があることを示している。このことは、細胞の長さ情報は世代を跨いで次の世代へ影響を与えることを示している。更に、各世代の初めの細胞長とその世代の分裂間隔時間の相関を調べたところ、-0.49という負の相関が見られ、大腸菌の成長・分裂システムでは、細胞の長さ情報を用いて分裂間隔時間を緩やかに調節し、システムの揺らぎに対して時間的に平均値を維持するフィードバック機構が働いていることが示唆された。この緩やかなフィードバックがあることで実際に細胞状態の世代間推移が安定に進むかどうかに関して、数値シミュレーションで確かに安定に進むことを示している。

第4章では、一定環境下で約5%の確率で生じる異常伸長細胞の伸長型表現型の子孫細胞への後天的な伝承、及びその表現型の情報が細胞の形というマクロな指標に保持されることを示している。一定環境下で確率的に生じる異常伸長細胞は不等分裂を起こし、長さの異なる2つの娘細胞を生じる。長い方の娘細胞はその後の世代でも不等分裂を繰り返しながら一つの系列で伸長状態を維持し続ける一方、異常伸長細胞から生じた短い方の娘細胞は通常の成長・分裂パターンに戻り、標準的な表現型に戻ることが細胞観察の結果から示されている。短い娘細胞が通常表現型を維持することから、この異常伸長細胞の生じる原因は遺伝子変異に拠らないと考えられる。また、分裂時の長さと分裂位置の関係を調べた結果、細胞長10μmを境にそれ以下では等分裂、それ以上では不等分裂が生じることが示された。更に異常伸長細胞は、通常の細胞の2倍の速さで両端から通常長の細胞を基本的に交互に生じることから、その内部で2つの分裂機構が同時に機能していることを示唆している。この現象の背景にある細胞内の分子機構について探るため、遺伝学的に分裂位置決定に関わることが示されているMinCDEタンパク質に着目し、その細胞内での挙動を数値シミュレーションを用いて調べたところ、細胞長が7μmと8μmの間を境にそれ以下では等分裂、それ以上では不等分裂を誘導することが示唆された。このシミュレーションの結果から、分裂時の長さの境界が約9.8umになることが計算され、実験で得られた結果を非常によく説明できることを述べている。以上の結果から、細胞はその状態の揺らぎの中で、閾値長さを超えると、内部のMinCDEが不等分裂を誘導し、結果として1つの系列で伸長型表現型を安定に伝承することになると考えられる。更にこの結果は、伸長型表現型をもたらす情報が遺伝子の発現制御ネットワークの変化に依存せず、Minタンパク質の細胞内ダイナミクスの境界条件を与える細胞の形に蓄えられていることを示している。

第5章では、拡散性シグナルを通じた細胞間コミュニケーションによる成長率への影響について述べている。細胞は通常、他の細胞と相互作用をし合いながらその状態を変化させ、集団の協調的振舞いや多細胞性を生じると考えられる。集団を形成することで細胞表現型の情報を保持する現象の存在、及びそれを可能にする相互作用の形式を明らかにするため、オンチップ1細胞培養システムにより他の細胞と直接接触のない孤立化状態に置かれた細胞に、細胞密度の高いバッチ培養系の静止期の環境条件を課し、その応答を観察することで、静止期の環境中における拡散性シグナルのみを通じた相互作用の成長に与える影響を調べている。対数増殖的に成長・分裂を行う細胞に静止期培養液を与えた場合、細胞は10分以内に即成長を停止させることが分かった。この成長停止は栄養の存在に依存しないことから、静止期環境に含まれる何らかの拡散性シグナル因子に応答して起こると考えられる。また、様々な濃度に希釈した静止期培養液を同様に対数増殖的に成長している細胞に与えると、各環境中で静止期溶液濃度に応じて抑制された成長率を一定に保つことが示された。この結果はシグナル因子の存在に応答して段階的に成長抑制が誘導されるのではなく、各細胞は周囲のシグナル因子の濃度に応答して、その成長率を決めていると考えられる。また静止期濃度と成長率の関係から、成長抑制は静止期溶液濃度60%程度から急激にその度合いが強まる非線型の関係があることが示されている。この1細胞観察によって得られた、1細胞レベルでのシグナル因子による相互作用への応答の性質を元に、細胞集団の挙動を再現できるか否かモデルにより検討したところ、各細胞がシグナル因子をその時点での成長率に比例した速度で産出すると仮定した場合、集団の結果を再現できることを示している。以上の結果から大腸菌は集団内にお互いにシグナル因子を出し合うことで、お互いの成長速度を抑制し協調的に静止期に入ることを示唆しており、集団内のシグナル因子の濃度という情報が細胞の成長率を決定していることが示された。

第6章では、細胞の状態変化をマルコフ過程として捉え、その情報論的冗長度により後天的情報の影響度を定量的に示すことができることを、第3章で得られた実験結果を元に示している。

第7章では全体を総括し、総合考察として後天的獲得情報が遺伝子配列の化学修飾という形だけでなく、細胞の形状や集団のサイズといったマクロな指標に蓄えられうることを議論している。また、この研究で用いた1細胞直接観察法を用いることで初めて、特定の表現型が1細胞レベルで実際に伝承しうることを可視化できたことを述べている。

いずれの技術も半導体微細加工で利用されてきた技術を独自の研究によってバイオ用に最適化し、1細胞単位でスクリーニングすることで世代間での細胞の表現型のゆらぎについて初めて観察に成功したものである。また、観察した大腸菌1細胞の世代間にまたがる振る舞いの伝承機構の観察は、新たな生物学の研究手法を提案するものであり、このこと自体が、その研究水準の高さを示すものと考えられる。

したがって本審査委員会は博士(学術)の学位を授与するにふさわしいものと認定する。

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