学位論文要旨



No 120947
著者(漢字) 武者,忠彦
著者(英字)
著者(カナ) ムシャ,タダヒコ
標題(和) 地方都市における社会基盤整備と都市空間形成メカニズム
標題(洋)
報告番号 120947
報告番号 甲20947
学位授与日 2006.03.23
学位種別 課程博士
学位種類 博士(学術)
学位記番号 博総合第650号
研究科 総合文化研究科
専攻 広域科学専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 教授 荒井,良雄
 東京大学 教授 谷内,達
 東京大学 助教授 松原,宏
 東京大学 助教授 永田,淳嗣
 九州大学 教授 高木,彰彦
内容要旨 要旨を表示する

戦後,地方都市では農村社会から都市社会への移行の中で,社会基盤整備も急速に進んだ.従来,そのメカニズムは,利益誘導政治,企業社会,官僚制,開発計画体系など,いわば地方都市の外部システムによって説明されてきたが,そこでは,現実の社会基盤整備が,ローカルなアクターによる政治的調整のプロセスを含んだ複雑な政治現象であるという事実が看過されてきた.しかし,近年では全国各地で公共事業に対する住民運動が湧き上がっているように,社会基盤整備をめぐるローカル・ポリティクスは,今日的な研究課題として,その重要性を高めている.そこで本研究では,長野県松本市およびその周辺地域を対象に,地方都市における社会基盤整備のメカニズムを,ローカルレベルの政策過程の分析を通じて明らかにする.

第1章では,そのための準備作業として,地方都市の社会基盤整備に関する理論的な考察を織り交ぜながら,本研究の検討課題とアプローチについて論じている.

地方都市における社会基盤整備のメカニズムは,既存研究においてはマクロな分配政策の文脈から語られることが多く,したがって,地方都市自体に内在する論理やメカニズムに対しては,ほとんど関心が払われてこなかった.これに対し本研究では,マクロな社会経済構造に規定されながらも,自立的に行動するローカルなアクターの存在に着目し,個々のアクターの行動原理や,アクター間の相互作用から,社会基盤整備のメカニズムを解明することを試みる(第1の検討課題).一方で,財政破綻や環境問題,政官財の癒着など,社会基盤整備がもたらす諸問題が社会的に広く認識されるようになったことで,市場原理の導入や規制緩和など,新自由主義的な政策を導入する動きが顕著となっている.これによって,地方都市の現場では,いかなる結果や問題が生じているのか,具体的に検討する必要がある(第2の検討課題).

これらの課題を検討するため,本研究では,社会基盤整備のメカニズムを,個々のアクターによる自己利益の実現のための活動を基礎とする交渉と取引の過程(=政策過程)という視点から捉える.ただし,政治学の政策過程研究に多くみられる法則やモデル定立志向の研究とは異なり,地域的文脈や歴史的文脈を考慮したメカニズム解明重視の立場をとる.また,こうした個々のアクターの論理は,統計や資料の分析のみでは把握が困難であることから,対象地域において独自に実施したインタビュー調査を中心的な分析手段とした.続く2〜5章は,以上のような問題意識と方法論にもとづく社会基盤整備の事例分析である.

まず2章では,1980年代以降,地方都市の郊外農業地域で問題となっていた無秩序な土地利用の抑制を目的として,松本市が計画した宅地開発をめぐる政策過程を分析した.

1980年代初め,無秩序な開発による財政需要の増大と,開発を抑制することによる隣接市町村への人口流出という相反する問題に直面していた松本市では,市街化区域を拡大することで周縁部の農地を開発し,人口を定着させることが行政課題として正当化された.一方,開発に対する農家の立場も線引き当初から変化してきたことから,行政は農家の利益団体である農協との協働によって地域開発研究会を設立し,区画整理事業を推進するという政策を選択した.市街化区域拡大による開発自体は合理性を欠いたものであったが,行政にとって,区画整理事業が孕む合意形成などの一般的問題を解消するための農協の主体的役割は不可欠であり,農協にとっても市街化区域拡大による事業は組合員の農外所得創出,資金運用や不動産取引に関する利益があったため,開発は推進された.こうした行政と農協それぞれの利益の接点となった政策が,市街化区域拡大による区画整理事業の推進であり,両者の相互依存的関係が地域開発研究会によって制度的に維持されていたことで,松本市における宅地開発は1980年代半ば以降,大きな進展をみたといえる.

3章では,中心市街地活性化という地方都市共通の政策課題に対して,松本市が取り組んできた中央西土地区画整理事業を事例として,商店経営者の戦略という視点から中心市街地再開発のメカニズムを考察した.

松本市では当初,行政と商店街組織の連携により再開発計画が推進されたが,補助金の削減という財政的要因に加え,個々の商店経営者らの現状維持的な戦略によって再開発は1980年代を通じて停滞した.しかし,大店法緩和を契機に,市長の開発主義的思想にもとづく中心市街地への積極投資や行政の大型店対策が都市成長という名目で正当化され,再開発推進体制は再強化された.一方で,商店経営者の戦略は推進体制と必ずしも連動せず,固定資産税の増加などによる商店街からの撤退,テナント賃貸業への転換による商店街への残留,テナントの供給増に対応した新たな経営者の進出など,戦略は多様化した.こうした多様化は,区画整理事業の展開や事業後の商店経営環境の維持にプラスに作用する一方,開発目的を商店街振興から都市成長へとシフトさせ,行政主導の再開発を加速させるという結果をもたらした.このような政策過程は,従来,ハコモノ主義という批判的な枠組みから論じられてきたが,そこにある論理やメカニズムは必ずしも明らかにされてこなかった.本章の事例によれば,再開発のそうした負の側面は,開発目的が商店経営者の意図とは異なる目的へとすり替わっていく過程として理解することができる.

4章では,戦後の地方都市において重要な政策課題であった社会基盤整備の実施過程に注目し,松本市および周辺4村において,社会基盤整備を支えている「公共土木事業システム」の実態を明らかにした.

各市村の公共土木事業システムは,それぞれの環境や歴史,業者構成などによって多様であるが,システムが形成・維持される論理は,事業に関与するアクターの行動原理と,その相互作用によって説明される.主なアクターとして,円滑な予算執行や効率的な行政運営を行動原理とする行政,選挙での支持基盤確保や地域経済活性化を行動原理とする政治家,経営体の維持を行動原理とする土木業者の3者が指摘できる.このうち,地元業者を優遇し,談合を容認することの見返りとして,業者による柔軟な行政対応や工事品質の維持を期待する行政と業者との相互依存的関係は強い.また,市町村の政治家は,必ずしも業者と強い結びつきがあるわけではないことも特徴的である.一方,業者間には上位業者と下位業者の間で異なる事業配分ルールが形成されている.

5章では,公共土木事業を取り巻く社会的変化を背景に,従来のシステムが転換していく過程を,長野県の入札制度改革をめぐる政策過程を事例に分析した.また,これによって地方都市の現場では,いかなる結果や問題が生じているのか,具体的に検討した.

長野県では当初,談合排除を至上命題としたシステムが導入されたが,次第に建設業の実態や実行可能性を考慮したシステムへと,徐々に修正が加えられていった.こうした中で,長野県の公共土木事業システムは今後,自然環境が似通った地域内で形成される少数の元請業者といくつかの専門化した中小下請業者とのフレキシブルな関係へと淘汰,再編成される可能性があることを示唆した.一方で,スムーズな再編成がなされるためには,従来のシステムに内部化されていたコストの顕在化,価格を基準とした競争の機能不全,緊急時対応のリスク増加など,当初は想定されていなかったいくつかの問題に対処する必要があることを論じた.

最後の6章では,本研究で得られた知見を整理し,総括した.

地方都市では,郊外農業地域のスプロールと宅地開発,衰退する中心市街地の再開発,道路や下水道などの迅速な整備など,社会基盤整備をめぐる固有の政策課題を抱えていた.それらの政策を決定,実施していくためには,都市部と農村部の利害調整をはじめとしてローカルなアクター間の協力関係や合意の形成が不可欠であったが,行政と関係アクターである農協,商店経営者,建設業者などとの相互依存関係に基礎づけられたシステムが機能することによって,政策課題はクリアされてきたといえる.

しかし,社会基盤整備の需要が一巡したことなどを背景に,従来型の社会基盤整備のあり方は,生活や環境の重視など,地域社会に蓄積されつつある価値選択の方向性との乖離が大きくなり,行政と関係アクターとの相互依存関係は現在,大きく変動している.こうした中で,市場原理や効率性の追求を標榜した新自由主義的な政策を導入すべきという議論が活発化しているが,それにも留保が必要である.すなわち,従来のシステムが,市場原理重視の論者からの数多くの批判にもかかわらず,破綻なく機能してきたことにも,一定の評価を与えるべきであり,従来のシステムにおける非合理的な慣行などがもたらすコストは,柔軟な行政運営などによって得られる便益と比較考量される必要があるだろう.

審査要旨 要旨を表示する

本研究は,地方都市における社会基盤整備と都市空間形成のメカニズムを,ローカルレベルの政策過程の分析を通じて明らかにしたものである.戦後,農村社会から都市社会への移行の中で,地方都市の社会基盤整備は急速に進んだ.従来,その決定メカニズムは,利益誘導政治,企業社会,官僚制などの観点から説明されてきたが,それらは,現実の社会基盤整備が,地域社会におけるローカルなアクターによる政治的調整のプロセスを含んだ複雑な政治現象であるという事実を看過してきた.これに対し,本研究は,マクロな社会経済構造に規定されながらも,自律的に行動するローカルなアクターの存在に着目し,統計や資料の分析のみでは把握が困難であるアクターの論理を,独自のインタビュー調査にもとづいて分析している.さらに,そうしたアクターの論理やアクター間の相互作用を,ひとつの政策過程として再構成することで,地方都市における社会基盤整備とそれにともなう都市空間形成の決定メカニズムの解明を試みたものである.

本論文は6章からなる.第1章では,本研究の基本的な問題意識と検討課題を明らかにした上で,政策過程を対象とした分析枠組みを,政治学などの関連分野におけるアプローチと対比しながら提示する.第2章以降は,本研究の事例対象地域である長野県松本市および,その周辺地域において展開された社会基盤整備をめぐる政策過程の実証分析である.まず第2章では,地方都市の郊外農業地域で問題となっていた無秩序な土地利用の抑制を目的に,松本市が計画した宅地開発をめぐる政策過程を分析し,開発志向を強めていた農家の利益団体である農協と行政との相互依存関係が制度化されたことで,宅地開発が進展したことを明らかにした.第3章では,中心市街地活性化という政策課題に対して,松本市が取り組んできた中央西土地区画整理事業を事例に,商店経営者の戦略という視点から再開発の決定メカニズムを考察した.その結果,商店経営者の戦略の多様化が,開発目的を商店街振興から都市成長へとシフトさせ,行政主導の再開発を促進したことが明らかとなった.第4章と第5章は,これらの社会基盤整備の基礎となる公共土木事業システムの分析である.ここで言う公共土木事業システムとは,行政,政治家,土木業者といった個々のアクターの行動原理と,その相互作用の結果として形成される事業の配分と実施のシステムを指す.第4章では,これらのアクターの行動原理および指名競争入札データの分析から,行政と土木業者の強固な相互依存関係がシステムを円滑に機能させていることを明らかにした.続く第5章は,公共土木事業を取り巻く社会的変化を背景に,そうした従来のシステムが転換していく過程を,長野県の入札制度改革をめぐる政策過程を事例に分析した.その結果,市場原理の導入を目的とした新しいシステムの導入によって,従来の相互依存関係が解消されるにともなって,いくつかの意図せざる問題が生じており,システムの再編成が必要となっていることを明らかにした.最後の第6章では,以上の分析結果から得られた知見を総括した.

以上のように,本研究はこれまで十分な分析がなされてこなかった地方都市に内在する論理や相互作用に着目し,ローカルなアクター間にみられる相互依存関係の消長が,地方都市における社会基盤整備の決定メカニズムを通じて,都市空間形成を規定するという新しい理解を,綿密なフィールド調査に基づいて提示した点で,都市社会地理学に対する大きな学術的貢献が認められる.よって,本論文の提出者である武者忠彦は,博士(学術)の学位を授与される資格があるものと認める.

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