学位論文要旨



No 120948
著者(漢字) 宗像,慎太郎
著者(英字)
著者(カナ) ムナカタ,シンタロウ
標題(和) 環境政策におけるエキスパート・ジャッジメントの定量的分析と構造化
標題(洋)
報告番号 120948
報告番号 甲20948
学位授与日 2006.03.23
学位種別 課程博士
学位種類 博士(学術)
学位記番号 博総合第651号
研究科 総合文化研究科
専攻 広域科学専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 助教授 藤垣,裕子
 東京大学 教授 丹羽,清
 東京大学 助教授 牧野,淳一郎
 東京大学 教授 繁桝,算男
 上智大学 教授 松原,望
内容要旨 要旨を表示する

研究の背景と目的

科学技術と社会の界面において、専門家にも答えの出せない科学的不確実性の大きな問題について、社会は公共的意思決定を迫られている。気候変動等の環境問題はその典型である。専門家が既存の情報を解釈し判断するエキスパート・ジャッジメントは、通常の科学技術の代替手段としてこのような公共的意思決定に用いられている。

エキスパート・ジャッジメントは主観性・不透明性が問題視されており、公共政策に用いられる際には、基準に則った専門家の選出、参照データの開示、外部レビューが求められることが多い。これらは手続きの適正さを保証することはできても、判断内容そのものの精査を保証することはできない。従来のこの管理に対し、少数の専門家の意見を無批判に追認する手続きになるのではないか、との懸念も示されている。

気候変動に関する政府間パネル(IPCC)は、「温室効果ガス排出・吸収量目録のためのガイドライン」の策定にエキスパート・ジャッジメントを使用している。農耕地土壌への施肥に起因するN2O の排出量を計算するパラメータのEF1 とEF5-g は、いずれも不確実性が高いと判断され、最新データに基づく更新が必要とされている。特に1996年にEF5-gが1.5%とされたことについて、当初から過大評価との意見があった。2000年の改訂の際、EF5-gについては1996年とは別の科学者により、ほぼ同じの論文に基づくエキスパート・ジャッジメントが行われた。その科学者は「EF5-gの適正値は0.1%程度である」と提言したが、この意見は採用されず、1996年の値が存続した。そして2005年、IPCCは再度ガイドラインの見直しを進めているが、EF5-gについてはこの過程で更に参照データ数を増し、最終的には2000年の不採用値である0.1%に近い0.25%が採用される見込みである。過去のガイドライン策定では、参照データと結論の乖離、同じデータに基づくエキスパート・ジャッジメント間の齟齬が見られる。

本研究では、不確実性下での環境政策に関する公共的意思決定の文脈における、エキスパート・ジャッジメントの特徴と課題を明らかにする。事例研究の対象としてEF1とEF5-gを取り上げ、第一にエキスパート・ジャッジメントの主観性を定量化し、この問題の重要性を明らかにする。第二に専門家がデータから結論を導くプロセスを明らかにし、そのインプリケーションを分析する。

研究の方法(1):

主観的判断の定量化

本研究では意思決定者の主観を確率として取り扱うことのできるベイズ統計の枠組みを採用する。ベイズ統計では通常、データを取得する前の主観を事前分布とし、得られたデータから尤度関数を構成して、両者をベイズの定理に従って統合し、総合的な結論である事後分布を得る。本研究ではこのプロセスを逆に辿る。エキスパート・ジャッジメントの結論から事後分布を構成した後、そこから参照データに基づく判断(表 1の「客観的判断」)をベイズ推計の逆算によって除去し、残りを専門家が事前に有していた主観的判断として定量化する(表 1)。この際、偏差平方和等に課される制約条件から、事前分布の仮想的な標本数の範囲が定まる。本研究ではこの仮想標本数を主観的判断の大きさを示す指標とする。

研究の方法(2):

文献及びインタビュー調査

エキスパート・ジャッジメント担当者が、実際にデータをどのように操作し結論に至ったのか、またレビュワーが、これらの値についてどのように判断したのか、文献やインタビューにより調査する。

ベイズ統計でのデータ操作に基づき、主観的判断に影響を与える情報は表 2のように整理される。(1)と(3)についてはどのような種類の情報が用いられたのか、(2)についてはどのような重み付けが行われたのかを調査し、更にその操作の意図を確認する。

結果(1):

主観的判断の定量化

EF1は、元々44論文249標本に基づく回帰分析の結果である。エキスパート・ジャッジメントを実施した研究者は、これに幾つかの条件を与えてスクリーニングし、最終的には20標本のみを分析対象として、現在の値を推計している。このスクリーニングは、本研究では170標本(論文換算で30本分)以上の主観的判断と計算された。

EF5-gは、1996年の検討では6論文187標本に基づく、そして2000年の検討ではこれに1論文78標本を加えたデータに基づく推計の結果である。エキスパート・ジャッジメントの結論から得られた主観的判断の仮想標本数は、1996年で1249標本(論文換算で40本分)以上、2000年で905標本(論文換算で23本分)以上と計算された。

いずれのエキスパート・ジャッジメントにおいても、主観的判断の占める割合は参照データに匹敵することが示唆された。この結果は、参照データの情報開示と同等以上に、データから結論に至るプロセスを詳述することが重要であることを示している。

結果(2):

エキスパート・ジャッジメントのプロセス

EF1については、スクリーニングの条件が全て論文に示されており、前項の主観的判断を含めたエキスパート・ジャッジメントのプロセス全体が検証可能である。エキスパート・ジャッジメント担当者と同じ分野の研究者によれば、スクリーニング基準は「地域格差という問題はあるものの、科学的に妥当な判断」と見なされている。

EF5-gについては、2回のエキスパート・ジャッジメント担当者が全く異なるプロセスを用いていた。1996年の担当者は農耕地土壌の窒素動態の専門家であった。各論文はあらゆる意味で重み付けされず(標本数の違いも考慮されず)対等に扱われた 。計算では各論文の平均値とレンジが用いられた 。この方法は、標本数が考慮されなかったこと、外れ値に対する頑健性の弱い平均値が用いられたこと、対数正規分布を取るデータに対し矩形分布が用いられたことにより、必然的に外れ値が強調され、極端な値(過大側)が算出される構造となっている。この方法はレビュワーにも説明されていなかったため、レビュワーはこの値が過大であると認識しつつ、これを「科学」とは無関係な情勢(IPCCの途上国重視へのシフト、異なるディシプリンの尊重、環境問題における安全側の判断、重大な窒素汚染の社会への警告)に結び付け解釈した。

2000年の担当者は窒素動態のグローバルモデルの専門家であった。彼女はまずモデル全体におけるEF5-gの値の不自然さに着目し、他の排出源の排出状況と全体収支から、EF5-gのあるべき値についてオーダーの単位で推計し、その妥当性を7本の論文で検証した。そして96年の推計について、「R論文の解釈を誤った」ことが過大推計の原因だと指摘した。これについて、2000年のEF5-g検討の責任者は「1996年時点の検討と比較しても、不完全で不徹底である」と判断し、却下していた。

分析

IPCCはエキスパート・ジャッジメントのあり方について、科学者に明確な指示を出していなかった。このため科学者達は共通の議論のアリーナを明確に意識することなく、それぞれの「科学」に基づき検討を行った。

EF1の検討では、引用データの地域的偏りが認められているにもかかわらず、その補正は検討されなかった。参加者の一人は、「データ以上にモノを言わないことが科学者の仕事である」と信念を述べた。しかし地球温暖化のような環境政策においては、データそのものを超えてでも、地域格差の問題について科学に基づく指針を示して欲しい、というニーズは存在しうる。科学者への社会の要請と、実際に科学者が供給する判断について不整合はないのか、科学と社会のどちらの側からも検証されていない。

ディシプリンの異なる科学者間の、データの扱いの不一致という不確実性も生じていた。EF5-gにおいて、1996年の担当者は一貫した姿勢でデータと向き合っていたが、その方法を公開する機会がなかったために、噛みあった議論が展開されなかった。標本数の違いをどう考慮すべきかについては自然科学的検討が、過大推計の傾向を持つ方法の採用についてはむしろ政策的な価値判断が適切と言えよう。

EF5-gの1.5%という値について、レビュワーや同分野の研究者の解釈を困難にした原因は、実際には計算方法そのものだった。自身の有する科学的方法論から解釈困難な数値に直面し、科学者達はそれを科学以外の理由や操作ミスに帰着させ解釈した。このような解釈が、IPCCが科学者に期待した種類のものだったかは疑問である。そして方向性のない解釈を認めたために、EF5-gの精査に必要な研究についてIPCCはイニシアティブを発揮できず、問題解消に10年を要することになったのである。エキスパート・ジャッジメントを利用する社会の側がその特徴と課題を認識し、より明確なマンデートを与えることが重要といえる。

表 1 本研究における主観的判断

表 2 主観的判断の構造

審査要旨 要旨を表示する

科学技術と社会の界面では、不確実性が大きく専門家にも明確に答えが出せない問題がますます増加している。このような場面では、本来は社会的な意思決定が必要であるが、現実には専門家が既存の情報を解釈し判断するエキスパートジャッジメントに依存していることが多い。エキスパートジャッジメントを政策決定に用いる際に、基準に則った専門家の選出、参照データの開示、外部レビュー等で手続きの正当性を保証することはできる。しかし、本来必要なのは判断内容そのものの適切性の評価である。それにもかかわらず、エキスパートジャッジメントの判断内容そのものの適切性はこれまできちんと評価されていなかった。本研究の意義は、エキスパートジャッジメントにおける参照データと判断の間の乖離を定量化し、そこに至ったプロセスを環境政策に焦点をあてて分析した点にある。

本論文は全10章から成る。第1章では問題の背景を整理し、第2章では、環境政策における科学的知見の関係やエキスパートジャッジメントを扱った先行研究、および科学的不確実性の分類を扱った先行研究を整理している。第3章では、本研究の枠組みを明らかにしている。エキスパートジャッジメントにおけるデータと判断との乖離の大きさを定量化するために、具体的対象としてIPCC(気候変動に関する政府間パネル)の「温室効果ガス排出・吸収量目録のためのガイドライン」の中の、EF1(農耕地への施肥のN2Oへの転換率)およびEF5-g(地下水等に流出した肥料からN2O への転換率)を選択した。この対象を選択した理由は、1996年報告書で採用されたEF5-g の値に対して過大評価という意見があったためである。定量分析の方法としてベイズ統計の枠組みを採用する。ベイズ統計では通常、データを取得する前の主観を事前分布とし、得られたデータから尤度関数を構成して、両者をベイズの定理にしたがって統合し、総合的な結論である事後分布を得る。本研究ではこのプロセスを逆に辿る。エキスパートジャッジメントの判断から事後分布を構成した後、そこから参照データに基づく判断をベイズ推計の逆算によって除去し、残りを専門家が事前に有していた主観的判断として定量化する。この際、偏差平方和などに課される制約条件から、事前分布の仮想的な標本数の範囲が定まる。この仮想標本数の最小値を、主観的判断の大きさを示す指標とした。

第4章および第5章では定量分析の具体的計算過程と結果を示している。EF1およびEF5-g の値の判断の際に用いられた参照論文から参照元データを洗い出し、上記の指標を計算し、主観的判断の仮想標本数を求めた。第6章では、これらの定量分析の結果をまとめている。いずれのエキスパートジャッジメントにおいても主観的判断の占める割合は参照データ数に匹敵することが示唆された。

これらの定量分析をもとに、第7章以降では、エキスパートジャッジメントにおけるデータと判断との乖離がどのように構築されていくのかを、実際に判断にかかわった専門家に対するインタビューを用いて分析している。第7章ではインタビュー対象者の選択手順、およびインタビューの手順を説明し、第8章では、インタビュー結果を示した。EF1については、元標本のスクリーニングの条件がすべて論文に示されており、主観的判断を含めたエキスパートジャッジメントのプロセス全体が検証可能であった。インタビューからも「地域格差という問題はあるものの、科学的に妥当な判断」という評価が得られている。EF5-g については、2回のエキスパートジャッジメント担当者がまったく異なるプロセスを用いていたことが示唆された。第9章ではこれらをまとめて、過大推計の原因として、推計の方法(平均値利用、レンジの利用)、政治的配慮(IPCCの方針に対する過度の配慮)、あるデータの誤用、というそれぞれ別の理由が各対象者から挙げられたことをまとめた。このことから、ディシプリンの異なる科学者間のデータの扱いの不一致や、エキスパートジャッジメントにおいて科学者に期待される任務や所掌範囲の解釈にも差異があることが示唆された。

以上のように、本論文は、エキスパートジャッジメントにおけるデータと判断の間の乖離を、ベイズ統計の逆算を用いて定量化し、既存研究では得られなかった乖離の定量化に成功している。さらに、乖離の生じた原因について、判断にかかわった対象者に対して自らが計算した乖離の定量を用いてインタビューを行い、判断プロセスに介在したとみられるデータの重みの扱い、推計の方法、政治的配慮、データ誤用の有無についての判断者による認識の差異を明らかにし、乖離の問題に対し考察を深めた。このように、本論文は、環境政策におけるエキスパートジャッジメントにおけるデータと判断の乖離を定量的に分析する上でオリジナルな知見を提供し、その乖離の原因を構造的に考察する上で示唆に富む結果を提供している。よって、本審査委員会は全会一致で、本論文を博士(学術)の学位に相応しいものであると認定した。

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