学位論文要旨



No 120950
著者(漢字) 海老原,淳
著者(英字)
著者(カナ) エビハラ,アツシ
標題(和) コケシノブ科シダ類の種分化・系統・分類
標題(洋) Speciation, phylogeny and systematics of the filmy ferns (Hymenophy llaceae)
報告番号 120950
報告番号 甲20950
学位授与日 2006.03.23
学位種別 課程博士
学位種類 博士(学術)
学位記番号 博総合第653号
研究科 総合文化研究科
専攻 広域科学専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 助教授 伊藤,元己
 東京大学 教授 嶋田,正和
 東京大学 助教授 増田,建
 東京大学 教授 磯,行雄
 国立科学博物館 部長 加藤,雅啓
内容要旨 要旨を表示する

序論

現生約1万種のシダ類(ferns)は、今日では種数の点でこそ種子植物と比較して少数派である一方で、種子植物には見られない多くの特性を備えた植物群である。本研究では、シダ類の中で最も特徴的な形態を示す群の一つであるコケシノブ科を材料に用い、大進化レベル(科内の進化傾向)から小進化レベル(種形成様式)にわたる研究を通して、シダ類の多様化機構の解明を目指した。

第I章: ホラゴケ属の系統解析

コケシノブ科は、約650種を含むとされる原始的な薄嚢シダ類の一群で、一層へと退化した葉の細胞層によって特徴づけられる。世界の熱帯から温帯域にかけての陰湿な環境に分布する本科は、特殊化する方向(小型化・単純化)への形態進化を遂げた群であると言える。科内に認められる2大系統のうち、コケシノブ(Hymenophyllum)属については遺伝的にも形態的にも比較的均一な群であることが既に判明している一方で、形態的・生態的に多様なホラゴケ(Trichomanes)属に関してはその属内での進化過程は十分明らかにされていなかった。本研究では、世界各地からホラゴケ属の主要分類群を網羅的に収集し、葉緑体rbcL遺伝子を用いた分子系統解析を行った結果、特殊化方向への著しい平行進化を伴った科内の進化傾向が明らかになり、従来の見解とは大幅に異なった科内の単系統群が認識された。

第II章: コケシノブ科の分類再編

分類学は、系統学とは異なる視点に立って行われる学問でありながら、両者は実用上密接な関係にある。分類の混乱が系統学・進化学に関わる円滑な議論を妨げることすら珍しくない。第I章で得られた結果は既存のいずれの分類体系も自然なものではないことを強く示唆するものであったため、本章ではコケシノブ科全体を第I章の解析で得られた単系統群に対応した9属へと再編した。

第III章: 日本及び周辺地域産ハイホラゴケ群の網状進化

生物をユニットとして扱う傾向のある大系統の研究に対して、種形成現象の研究にあたっては実際の生物としての性質の解明が欠かせず、どのような群でも可能というわけではない。本章では、様々な点において種形成の解明に好適な条件を満たしていると考えられたハイホラゴケ群(Vandenboschia radicans complex)を用いて、日本における生物学的実体の解明を目的とした研究を行なった。本群は、汎世界的分布を示す種複合体の1つであるが、第I章の解析によって形態変異と対応しない葉緑体rbcL遺伝子配列の変異が検出され、過去の予備的な染色体観察によって複数の減数分裂異常の報告があるなど多くの課題を含み、さらには日本国内ほぼ全地域にわたって豊富な形態変異を示す株が分布するといった特長を持つ。

本研究では、各サンプルに対して(1)フローサイトメトリーを用いた倍数性解析、(2)核GapCp領域のSSCP解析/配列多型分離による両親の系統の解析(一部サンプルに関しては、核Lfyイントロン領域の配列も解析)、(3)葉緑体rbcL遺伝子を用いた母方の系統の解析の3種の解析を組み合わせて行なうことによって、きわめて効率的に種複合体の実体を解明することを可能にした。

日本各地及び周辺国から採集した計365サンプルの解析結果を総合すると、日本産のハイホラゴケ群は、α、β、γと名づけた3系統のゲノムに対応する少なくとも3種の生物学的種(2倍体)を基に、交雑と倍数化を経たいわゆる網状進化によって形成された雑種複合体であることが強く示唆され、連続的な形態変異について矛盾の無い説明が可能になった。

第IV章: 日本産ハイホラゴケ群の分類再編

第III章で明らかにされた生物学的実体は既存分類とは大幅にかけ離れたものであった。そこで本章では、各ゲノム構成に対して適切な学名を与えることで実体を記述する試みを行い、8種4雑種、合計12分類群を認めることにした。これらの各分類群に充てられる命名規約上の正名を決定するためには、関連する学名の模式標本のゲノム構成を明らかにする必要があるが、古い年代の標本のDNA情報を利用することは現実的には困難である。そこで、第III章で用いたサンプルの証拠標本で計測した「形態形質―ゲノム構成」の関係から判別関数を算出し、判別分析によって関連学名の模式標本の所属分類群を推定した。

第III章で解析したサンプルは、各分類群の分布特性を把握するのに必ずしも十分な数ではなかったが、各地の植物標本庫所蔵の計2641点のさく葉標本の産地情報を緯度経度データに変換した後、分類群毎にGISソフトウェアを用いて地図上にプロットすることにより、各分類群の分布域・分布頻度が推定された。

第V章: 日本産ハイホラゴケ群の配偶体集団の遺伝的多様性: 独立配偶体による雑種形成の検証

第III章で網状進化の過程が明らかにされた日本産ハイホラゴケ群ではあるが、有性生殖型の生育しない地点から雑種が見出される例が多く、第IV章の分布解析によっても、不稔性と推定される雑種が有性生殖型を遥かに上回る生育頻度・分布域を示す傾向が、一層明確に示された。この雑種優占現象の常識的な解釈として(1)偶発的な無配生殖、(2)遺存分布の2つの可能性が当初考えられた。しかしながら、GapCp遺伝子型のローカルな分布パターンは雑種個体が著しい多数回起源でその大半がF1であることを示唆しており、無配生殖は少なくとも主要な生殖様式としては機能していない可能性が高まった。また人工的な環境下に雑種がしばしば生育する事実は、遺存分布の可能性を否定するものと考えられた。以上の状況から雑種優占現象の成立背景として何らかの未知の現象が関与する可能性が濃厚であったが、対立遺伝子の分布パターン・生育環境・北米・欧州産の本群植物において胞子体(2n世代)を形成せることなく微小な配偶体(n世代)のみで長期間生存する「独立配偶体」が報告されている事実、等を総合的に検討した結果、第3の仮説「独立配偶体からの配偶子供給による雑種形成」の提唱に至った。

本章ではこの仮説を検証するため、配偶体集団において、胞子体と同様の遺伝子マーカーを用いた遺伝的多様性の解析を行った。ハイホラゴケ群のマット状配偶体は数箇所の胞子体産地で生育が確認されたが、それらのうち伊豆半島下田市の石切り場跡に生じた集団(同所的な雑種胞子体集団は雑種2倍体/3倍体, 雑種起源4倍体から構成される)では、微細レベルで複数の系統の配偶体が絡み合うように生育していることを示す結果が得られた。さらに、核マーカーによって半数体(x)の可能性があると推定されたプロットから、配偶体を採集してその倍数性を測定したところ、確かに本調査地点にαゲノム(ハイホラゴケ)の半数体配偶体が存在していることを示すデータが得られた。しかしながら、この半数体配偶体と一体となった生活環を持つと考えられる2倍性有性生殖型胞子体は、調査地点からは分布が見出せないばかりか、第IV章の分布解析結果によれば最も近い産地は約200km離れた紀伊半島であった。本配偶体が、栄養繁殖によって長期間遺存的に維持されてきたものか、あるいは胞子の長距離散布によって近年到達したものかを区別するのは困難であるが、胞子体から遠く離れて生育する半数性配偶体はいわゆる「独立配偶体」であると言える。本地点での独立配偶体の存在は、雑種胞子体集団が維持される機構の一部を説明するものであり、新仮説を支持する有力な状況証拠である。独立配偶体は、単独で胞子体を形成しないにもかかわらず、雑種親として胞子体形成に貢献可能であるのは、いわゆる雑種強勢によるものと考えられる。

第VI章: 地球規模でのハイホラゴケ属の種分化

ハイホラゴケ群を含むハイホラゴケ(Vandenboschia)属では、日本で見出されたものと同様な複雑な種の実体が、日本産以外の植物にも存在することが予想されたため、世界各地から材料を収集し予備的な解析を行った。核GapCp領域の解析の結果、本属の多くの材料において大きく異なる複数の配列が1個体内に存在することが判明し、地球規模でも、多くの交雑/倍数化と長距離分散を伴った単純でない歴史を持っている可能性が示唆された。

総合考察

シダ類を含むシダ植物に見られる生活環は、胞子体(2n)と配偶体(n)のそれぞれが、互いに依存することなく生育可能である点で、陸上植物ではユニークな存在である。この性質を保有する植物では、同種の胞子体と比して広範囲の環境への適応能力を持つとされる配偶体の存在によって、「胞子体の分布」と「配偶体の分布」という分布の二重構造が形成され得る。本研究では、分布域が全くオーバーラップしない2種間において、配偶体を介した雑種形成が行なわれるという現象の存在が示唆された。このような特性は、”胞子体レベルでは異なった分布特性を示す2種”の間での異質倍数体形成(交雑/倍数化)を可能にすると推定される。本研究で明らかにされた複雑な網状進化、胞子体から独立して成育する配偶体の存在は、実際には氷山の一角であろうと推定され、シダ類では普遍的に存在する現象であろう。シダ類に見られる生活環の特性は、被子植物に比べて倍数体が著しく高い割合を占めるとされる、シダ類の種形成様式と深く関与していることが考えられる。

審査要旨 要旨を表示する

シダ類は、今日では種数の点でこそ種子植物と比較して少数派である一方で、種子植物には見られない多くの特性を備えた植物群である。本研究では、シダ類の中で特徴的な形態を示す群であるコケシノブ科を材料に用い、大進化レベルから小進化レベルにわたる研究を通して、シダ類の多様化機構の解明を試みたものである。

本研究は6章よりなる。第I章では、コケシノブ科の系統進化を分子系統学的手法で行った。科内の2大系統のうち、コケシノブ属については遺伝的にも形態的にも比較的均一な群であることが判明している一方で、ホラゴケ属に関してはその属内での進化過程は十分明らかにされていなかった。本研究では、科内の形態進化において著しい平行進化が明らかになり、従来の見解とは大幅に異なった科内の単系統群が認識された。第II章では、第I章の成果に基づき、系統解析で得られた単系統群に対応した9属へと再編した分類システムを提案した。第III章では、日本及び周辺地域産ハイホラゴケ群の網状進化の解析を試みた。本研究では、 (1)フローサイトメトリーを用いた倍数性解析、(2)核GapCp領域による両親の系統の解析、(3)葉緑体rbcL遺伝子を用いた母方系統の解析の3種の解析を組み合わせて行なうことによって、きわめて効率的に種複合体の実体を解明することを可能にした。解析の結果、日本産のハイホラゴケ群は、α、β、γと名づけた3系統のゲノムに対応する少なくとも3種の生物学的種を基に、交雑と倍数化を経た、いわゆる網状進化によって形成された雑種複合体であることが強く示唆された。これにより連続的な形態変異について矛盾の無い説明が可能になった。第IV章では、第III章の成果に基づき、日本産ハイホラゴケ群の分類再編を行った。本研究で明らかにされた生物学的実体は、既存分類とは大幅にかけ離れたものであった。そこで各ゲノム構成に対して適切な学名を与えることで実体を記述する試みを行い、8種4雑種、合計12分類群を認める新システムを提案した。第V章では、日本産ハイホラゴケ群の胞子体集団の遺伝的多様性の説明のため、独立配偶体による雑種形成について仮説の検証を行った。網状進化の過程が明らかにされた日本産ハイホラゴケ群で、有性生殖型の生育しない地点から雑種が見出される例が多いが、第IV章の解析結果から、雑種優占現象の成立背景として何らかの未知の現象が関与する可能性が示唆された。その現象の説明のため「独立配偶体からの配偶子供給による雑種形成」を提唱した。この仮説を検証するため、配偶体集団で、胞子体と同様の遺伝子マーカーを用いた遺伝的多様性の解析を行ない、独立配偶体の存在を確認した。独立配偶体は、雑種胞子体集団が維持される機構の一部を説明するものであり、新仮説を支持する有力な状況証拠である。第VI章では、地球規模でのハイホラゴケ属の種分化の解析を試みた。ハイホラゴケ群を含むハイホラゴケ属では、日本で見出されたものと同様な複雑な種の実体が、日本産以外の植物にも存在することが予想された。世界各地の材料を解析した結果、本属の多くの材料において大きく異なる複数の配列が1個体内に存在することが判明し、地球規模でも、多くの交雑/倍数化と長距離分散を伴った単純でない歴史を持っている可能性が示唆された。総合考察では上記の結果から得られた知見を統合して、シダ類における多様性獲得機構について総合的な考察を行っている。シダ類は、胞子体と配偶体のそれぞれが、独立に生育可能である点でユニークな存在である。本研究では、分布域が全くオーバーラップしない2種間において、配偶体を介した雑種形成が行なわれるという現象の存在が示唆され、シダ類の種形成様式と深く関与していることが示唆された。

以上のように本研究は、これまで十分に理解されていなかったシダ類の種分化をはじめとする多様性獲得機構について解明したものであり、シダ類における重要なモデル研究と位置づけられ、植物分類学・進化学に対する大きな学術的貢献が認められる。したがって、本審査委員会は博士(学術)の学位を授与するにふさわしいものと認定する。

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