学位論文要旨



No 120954
著者(漢字) 村岡,梓
著者(英字)
著者(カナ) ムラオカ,アズサ
標題(和) 分子クラスターアニオンの水和構造と安定性
標題(洋) Structures and Stabilities of Hydrated Molecular Cluster Anions
報告番号 120954
報告番号 甲20954
学位授与日 2006.03.23
学位種別 課程博士
学位種類 博士(学術)
学位記番号 博総合第657号
研究科 総合文化研究科
専攻 広域科学専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 教授 永田,敬
 東京大学 教授 高塚,和夫
 東京大学 教授 遠藤,泰樹
 東京大学 助教授 真船,文隆
 東京大学 助教授 松下,信之
内容要旨 要旨を表示する

【序論】

自然界の化学的な過程の多くは凝縮相で進行する.溶液中ではラジカルイオンや反応中間体などの不安定化学種が溶媒和によって安定化され,様々な反応に関与するためである.このような"溶媒"の重要性を鑑みると,「分子レベルで溶媒和を理解する」ことは化学の重要な課題のひとつといえる.

有限個の分子が分子間相互作用で会合した集合体(分子クラスター)は,溶液の一部を真空中に切り出したモデル系と考えられることから,分子論的に溶媒和を解明するための研究対象として最適である.特に,イオンや余剰電子を含む分子クラスターイオンでは,イオン-双極子あるいはイオン-誘起双極子などの静電相互作用によってイオンの周囲に溶媒和構造が構築され,イオンが関与する特殊な機能の場が形成したり,孤立状態では短寿命のイオン種が安定化するなど,多くの特徴的な現象がみられる.このような観点から,分子クラスターイオン内での電荷の局在の様子と,電荷を保持しているイオン芯に対する中性分子の溶媒和構造を解明することは,溶媒和を分子レベルで理解することに密接に繋がっている.

本研究の背景となった二酸化炭素クラスターアニオン(CO2)n-の研究では,非経験的な(ab initio)分子軌道計算と光電子分光実験により,(1)(CO2)n-はCO2-あるいはC2O4-イオン芯を形成して電子をトラップする:すなわち,CO2-o(CO2)n-1あるいはC2O4-o(CO2)n-2と表される電子構造異性体(electronic isomers)が存在する,(2)電子構造異性体の存在比は構成分子数(サイズ)に顕著に依存する,(3)特定のサイズでは構造が揺らいでおり,CO2-o(CO2)n-1 - C2O4-o(CO2)n-2の平衡が成立する,などの特異な電子束縛メカニズムが明らかになっている.さらに,(CO2)n-に1個ないし2個の水分子やメタノール分子が溶媒和した二成分混合系クラスターアニオン[(CO2)n(ROH)m]- (R = H, CH3)では,電子構造異性体の存在比が(CO2)n-とは大きく異なっている.これらの現象は,イオン芯の周囲に形成されるミクロな溶媒和によって引き起こされると推測されるが,溶媒和の幾何構造およびそのサイズ・組成依存性に関する情報は殆どない.そこで本研究では,[(CO2)n(ROH)m]- (R = H, CH3)混合系クラスターの幾何構造を実験および量子化学計算の両面から検討し,クラスターアニオンの水和構造と安定性を分子レベルで解明することを目的とした.

【第2章】[(CO2)n(H2O)m]- (n = 1 - 3, m = 1, 2)の水和構造

第2章では,小さなサイズの二酸化炭素-水クラスターアニオン[(CO2)n(H2O)m]- (n = 1-3, m = 1, 2)を対象として,質量選別赤外光解離分光法を用いてOH伸縮振動領域(3000 - 3800 cm-1)の赤外光解離スペクトルを測定した.さらに,高精度のab initio計算により[(CO2)n(H2O)m]-の構造最適化と振動解析を行い,実験結果との比較によって水和構造を明らかにした.

図1に赤外光解離スペクトルを示す.m = 1では3570 cm-1付近に鋭いバンドが観測されたのに対し,m = 2では3000 - 3600 cm-1に幅広いバンドが観測された.構造最適化では,[(CO2)n(H2O)m]-(n = 1-3, m = 1-2)について総計122種の異性体構造が予測され,全ての構造において水分子はCO2-若しくはC2O4-イオン芯に水素結合し,基本骨格(Motif)を形成することが判った.基本骨格はそれぞれに特徴的な振動モードを持つため,実測した赤外光解離スペクトルとの比較から,実在している構造異性体を同定することができる.図2に存在が確認された5種類の基本骨格とそのOH伸縮振動モードを示す.m = 1の場合には,基本骨格はCO2-やC2O4-イオン芯に対し水分子が二つのOH基を用いて溶媒和した環状構造が形成される.それに対して,(n, m) = (1, 2), (2, 2)では2個の水分子がCO2-イオン芯に独立に水素結合した基本骨格を形成し,(3, 2)ではCO2-と2個の水分子が環状構造を形成していることが明らかになった.以上のことから,小さなサイズの[(CO2)n(H2O)m]-における水和構造は,サイズと組成に顕著に依存し(size- and composition-specific),分子ひとつのレベルで変化していることが明らかとなった.

【第3章】[(CO2)nH2O]- における水和構造のサイズ変化

第3章では,1個の水分子を含む[(CO2)n(H2O)]-の水和構造がサイズnに伴ってどのように変化するかを調べた.特に,光電子分光実験から n≧4でCO2-をイオン芯とするCO2-o(H2O)(CO2)n-1構造が特異的に安定化されることがわかっているため,本章では安定化メカニズムと水和構造との関係を明らかにすることを目的とした. M. A. Johnson 博士(Yale大学)との共同研究により[(CO2)n(H2O)]- (n = 2 - 14)の赤外光解離スペクトルを2800 - 3800 cm-1領域で測定し,n = 4についてab initio 計算により構造最適化と振動解析を行った.

図3に[(CO2)n(H2O)]- (n = 2 - 6) の赤外光解離スペクトルを示す.7≦n≦14ではn = 6と類似のスペクトルが観測された.サイズの増加に伴う顕著なスペクトル変化は,n≧4で3370 cm-1付近に出現する幅広いバンドである.振動解析の結果から,このバンドは水分子が片側のOHのみでイオン芯に水素結合した,下図のような基本骨格1, 2, 3の何れかを含む構造異性体に帰属できることがわかった.一方,n≧5のスペクトルでは3370 cm-1付近のバンドは観測されるが,n = 2 - 4で観測される3580 cm-1付近の鋭いピークがほとんど消失する.

前章の議論も踏まえてこれらの結果をまとめると,[(CO2)n(H2O)]-の水和構造に関して,(1)n = 2, 3では,主としてC2O4-イオン芯に水分子の二つのOH基が水素結合した環状構造を形成する,(2) n≧5では,CO2-イオン芯に水分子の片側のOH基のみが水素結合した鎖状構造が基本骨格となる,(3)n = 4では,環状・鎖状の基本骨格が共存していると結論できる.これらの結果は,[(CO2)n(H2O)]-の安定性について,(i)サイズが小さい場合はクラスター内に分子アニオンC2O4-を形成し,余剰電子を非局在させて安定化する,(ii)サイズが大きい場合には余剰電子をCO2-に局在させて電荷密度を高め,より大きな溶媒和エネルギーを獲得する,という安定化メカニズムのサイズ依存性を示唆している.

【第4章】[(CO2)n(CH3OH)]-の溶媒和構造

第4章では,前章と同様の研究手法を用いて[(CO2)n(CH3OH)]- (n = 2 - 8)および[(CO2)n(CH3OH)2]- (n = 1 - 3)の溶媒和構造を推定し,H2Oを共溶媒分子とした第2, 3章の結果との比較・検討を行った.H2O分子は2つの等価なOH基を用いて2本の水素結合(double ionic hydrogen bonding : DIHB)を形成することができる特異な溶媒分子である.これに対して,本章ではsingle ionic hydrogen bonding (SIHB)のみが可能なCH3OH分子を導入することによって,イオン種の安定化における水素結合の役割を明らかにすることを目的とした.

図4に[(CO2)n(CH3OH)]-の赤外光解離スペクトルを示す.3000 - 3400 cm-1領域に観測されたバンドは3つの成分からなる.ab initio MO計算結果から,この3成分はイオン芯に水素結合したCH3OHのOH伸縮振動であり,CH3OHの酸素原子にCO2がそれぞれ0,1,2個溶媒和した異性体の振動モードに帰属できる.最も高波数側の成分はサイズと共に相対強度が減少し,n = 7で完全に消滅する.これは,CO2-の第一溶媒和圏がn = 6で閉じることを示している.また,SIHB構造の形成によって,より大きな安定化エネルギーを得るために,[(CO2)n(CH3OH)m]-内では電荷が局在したCO2-イオン芯の形成が促進される.この結果は,光電子分光実験の結果を補強するのみならず,OH基をもつ少数の共溶媒分子が,特定の構造をもつイオン芯を選択的に安定化させる共溶媒(エントレーナー)効果を分子レベルで明らかにしたものである.

以上を纏めると,本論文では,サイズや組成を1分子単位で制御できるというクラスターイオン系の性質を利用して,アニオンの周囲に形成される溶媒和構造を実験と計算を併用して系統的に調べ,安定化のメカニズムを分子レベルで解明した.本論文の成果は,溶液中のイオン種の安定化における溶媒分子の役割に関して,通常の溶液中の研究では得ることのできない分子論的な知見を与えるものである.

図1. [(CO2)n(H2O)m]-の赤外光解離スペクトル

図2. [(CO2)n(H2O)m]-に現れる基本骨格と振動モード

図3. [(CO2)n(H2O)]-(n=2-6)の赤外光解離スペクトル

図4. [(CO2)n(CH3OH)]-(n=2-8)の赤外光解離スペクトル

審査要旨 要旨を表示する

本論文は4章から成り,第1章では本論文の主題となる「水和した二酸化炭素分子クラスターアニオン[(CO2)n(H2O)m]-の構造と安定性に関する研究」が,当該研究分野において学問的にどのように位置付けられるかが総括的に述べられている。続く第2章から第4章には,上記のテーマに沿って行われた研究の成果が記述されている。概説すると,第2章では[(CO2)n(H2O)m]- (n = 1 - 3, m = 1, 2)の構造と安定化メカニズム,第3章では[(CO2)n(H2O)]- (n = 2 - 14)における溶媒和構造のサイズ依存性,第4章では[(CO2)n(CH3OH)]- (n = 2 - 8)および[(CO2)n(CH3OH)2]- (n = 1 - 3)の溶媒和構造に関する研究成果が述べられている。

第2章では,構成分子数(サイズ)の比較的小さな二酸化炭素‐水混合クラスターアニオン[(CO2)n(H2O)m]- (n = 1 - 3, m = 1, 2)に着目し,実験面では赤外光解離スペクトルの測定,理論面ではMoller-Plesset摂動法による電子相関を考慮した大規模な非経験的(ab initio)計算を行うことによって,クラスターアニオン内で余剰電子をトラップしているイオン芯CO2-,C2O4-の周囲に形成される溶媒和構造を明らかにした。[(CO2)n(H2O)m]-には多くの構造異性体が存在すると予想されるが,本章ではm = 1についてはMP2/6-311++G**,m=2についてはMP2/6-31+G*レベルのab initio計算を行い,(n, m) = (2, 1)に9種,(3, 1)に21種,(1, 2)に8種,(2, 2)に25種,(3, 2)に28種の多数の安定構造を系統的に推定した。更に,赤外光解離スペクトルの3000 - 3800 cm-1領域に観測されるOH伸縮振動バンドの実測波数をab initio計算の推定振動スペクトルと比較することにより,クラスタービーム中に実在する[(CO2)n(H2O)m]-の構造異性体を同定した。これらの結果から,[(CO2)n(H2O)m]-内のH2O分子はCO2-,C2O4-イオン芯に直接に水素結合し,サイズ固有の基本骨格(イオン芯と水分子で構成された構造単位)を形成することが示された。この成果は,二酸化炭素・水などの基本的な分子を対象にして,アニオン種の安定化における水和の役割を分子レベルで明らかにするものであり,二酸化炭素超臨界流体中での余剰電子の束縛メカニズム等にも新たな知見を与えるものである。

第3章では,さらに大きなサイズをもつ[(CO2)n(H2O)]- (n = 2 - 14)について赤外光解離分光とab initio計算を行い,溶媒和構造のサイズ依存性を明らかにした。この章は前章の単なる拡張ではなく,n ≧4において赤外光解離スペクトルの3200 - 3400 cm-1領域に大きな振動子強度をもつバンドが新たに出現することを見出し,大規模なab initio計算との比較によって,そのバンドがsingle ionic hydrogen-bonding (SIHB)構造をもつ[(CO2)n(H2O)]- に由来することが示されている。これらの結果を踏まえ,本論文の著者は[(CO2)n(H2O)]-の安定化メカニズムがサイズと共に変化すると結論した。すなわち,サイズが小さい場合には,[(CO2)n(H2O)]-は電荷を非局在化させることによって安定化エネルギーを獲得する。一方,サイズが大きい場合には,溶媒和エネルギーの獲得が構造を決定する第一の要因となり,より多くの溶媒分子がより電荷が局在したイオン芯と相互作用できる溶媒構造が実現される。この成果は,アニオン種の安定化メカニズムのサイズ依存性を実験・計算の両面から捉えた希少な研究例である。

第4章では,[(CO2)n(CH3OH)]- (n = 2 - 8)および[(CO2)n(CH3OH)2]- (n = 1 - 3)について第2, 3章と同様の研究手法を用いて溶媒和構造を推定し,H2Oを共溶媒分子とした結果との比較・検討が行われている。ここでは,H2O分子がdouble ionic hydrogen bonding (DIHB)構造を形成し得る特殊な溶媒分子であるのに対し,SIHB構造のみが可能なCH3OH分子を導入することによって,溶媒和によるイオン種の安定化における水素結合の役割を明らかにすることを目指している。赤外光解離スペクトルの測定とab inito計算による振動解析の結果,[(CO2)n(CH3OH)m]-内では,CH3OHとのSIHB構造を形成することによって大きな安定化エネルギーを獲得するために,より電荷が局在したCO2-イオン芯の形成が促進されるとの結論が得られた。この結果は,既に報告されている光電子分光スペクトルの解釈を補強するのみならず,OH基をもつ共溶媒分子が特定のイオン芯をもつ構造異性体を選択的に安定化させる要因を明らかにし,凝縮相における共溶媒(エントレーナー)効果に対して,ひとつの分子論的解釈を与えるものである。

上述の章に加えて,本論文の巻末には大規模なab initio計算によって求められた[(CO2)n(H2O)m]-および[(CO2)n(CH3OH)]-の安定構造,安定化エネルギー,垂直電子脱離エネルギー,結合解離エネルギーが付録として纏められている。それら安定構造の総数は160に及び,本論文各章の考察を裏付けるデータ集となっている。

以上のように,本論文の内容は,分子クラスターアニオンの溶媒和構造と安定性に関して,実験と計算を併用して系統的に行なわれた研究の成果を纏めたものであり,サイズや組成を1分子単位で制御できるというクラスターイオン系の性質を巧みに利用して,アニオンの周囲に形成される溶媒和構造とその安定化のメカニズムを分子レベルで解明したものである。これらの成果は,凝縮相でのイオン種の安定化における溶媒分子の役割に関して,通常の溶液中の研究では得ることのできない分子論的な知見を与えるものである。なお,本研究は複数名の共同研究者との協力のもとに,あるいはYale大学との共同研究によって論文提出者が主体となって遂行したものであり,その寄与は十分であると判断する。

よって,本論文は博士(学術)の学位請求論文として合格と認められる。

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