学位論文要旨



No 120959
著者(漢字) 景山,義之
著者(英字)
著者(カナ) カゲヤマ,ヨシユキ
標題(和) 呼吸系モデルとしての酸化的チオールエステル生成反応系の構築
標題(洋)
報告番号 120959
報告番号 甲20959
学位授与日 2006.03.23
学位種別 課程博士
学位種類 博士(学術)
学位記番号 博総合第662号
研究科 総合文化研究科
専攻 広域科学専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 教授 菅原,正
 東京大学 助教授 村田,滋
 東京大学 教授 尾中,篤
 東京大学 助教授 小川,桂一郎
 東京大学 助教授 栗栖,源嗣
内容要旨 要旨を表示する

両親媒性分子が水中で集合化して生じたベシクルは,中空状の細胞膜類似様の構造を有し,小胞輸送システムの構築や,細胞機能の再構築などの研究領域で興味が持たれている超分子集合体である。近年,このベシクルに各種の機能性分子を内包させたり,分子組成を制御したりすることによって,機能性ベシクルの構築や,構造変化の研究が活発に展開されている。ベシクルは,両親媒性分子が構築する他の集合体と同様,その形態は準安定状態にある。また,ベシクル膜の中においては,非常に速い側方拡散や,膜に対して垂直方向の拡散が絶えず行われている。筆者は,このようなベシクルの特性の理解に基づいた,細胞類似様システム(人工生命体)の構築を目指し,N1-ドデシルニコチンアミドブロミド(C12NA+Br-)とその還元体であるC12NAHの混合ベシクル(第5章: Fig. 1)の,フローサイトメトリーを用いた計測,および,生体反応を模倣した呼吸モデル反応系のベシクル膜中への構築(第2-4章)を行った。

呼吸モデル反応としての酸化的チオールエステル生成反応(第1章)

生体中の呼吸反応経路においては,物質の酸化に伴うエネルギーの獲得が行われている。呼吸系の一つ,ピルビン酸からのアセチルCoA生成過程では,NAD+を電子受容体としたピルビン酸の酸化的分解によって,高エネルギー結合としてのチオールエステル結合をもつアセチルCoAを生成している。このアセチルCoA生成反応を触媒している酵素は,ピルビン酸デヒドロゲナーゼ複合体(PDC)である。その反応は,チアミン二リン酸(TPP)によってピルビン酸が活性化され,酸化,アセチル基転移を経て,アセチルCoAが生成するという機構で進行している(Fig. 2)。こうして生成したアセチルCoAのチオールエステル結合の,生理条件下における加水分解に伴う自由エネルギー変化は,ΔG = -7.5 kcal mol-1であり,ATPに匹敵し,アセチルCoAは高エネルギー活性型運搬体の一つとして数えられる。すなわち,アセチルCoA生成反応は,呼吸反応の一部でありながら,グルコースの酸化に伴うエネルギーをATP(高エネルギー活性型運搬体)に変換する呼吸反応の全体を反映・凝縮している反応といえる。

均一有機溶媒中における酸化的チオールエステル生成反応系の構築(第2章)

PDCの活性中心であるチアゾリウム塩が触媒するアルデヒドの生体模倣反応として,ベンゾイン縮合反応と酸化反応・酸化的エステル化反応が知られている。特に,ベンゾイン縮合反応は,シアン化物イオンを用いないベンゾイン合成反応として注目され,キラルなベンゾイン合成法の開拓,そしてその反応機構に関する議論も活発に行われてきた。また,チアゾリウム塩を用いたカルボン酸の生成反応や,エステルの生成反応についても報告されてきた。しかし,高エネルギー分子であるチオールエステル生成反応ついては,副反応が進行するために,これまで実現されていない。

そこで筆者は,生体反応を模倣した酸化的チオールエステル生成反応系の構築を,有機溶媒中で行わせることを検討した。各種条件を検討したところ,4-置換ベンズアルデヒド(1)とn-オクチルチオール(2)から,チアゾリウム塩(BTz+Br-)を触媒に,アゾベンゼン(3)を酸化剤に用いることによって,効率よく相当するチオールエステルを得ることを見出した。この反応は,Fig. 3に示した反応で進行しているものと考えられる。

酸化的チオールエステル生成反応の特徴(第2章)

この酸化的チオールエステル生成反応系をベシクル反応場に構築する準備として,反応に関する知見を深めるために,速度論的機構を検討した。

酸化的チオールエステル生成反応における,ベンズアルデヒド(1)の減少速度式を,Fig. 3を基に解くと,式(1)を得る。

ここで,[S],[Th]0,[Az]0,[Tzo]0は,それぞれ1,2,3,BTzoの初期濃度である。また,実験からAk4[Th]0 >> Bk1[S]であったことから,観測された[S]の減少速度定数kobsは,式(2)として表される。

各種の4-置換ベンズアルデヒドについて反応速度定数を求め,ハメットの置換基定数に対してプロットを行ったところ,Fig. 4のように曲線状のハメットプロットを与えた。これは,Fig. 3に示した多段階反応の反応において,ベンズアルデヒドの置換基によって律速段階が変化するためであると結論づけられた。すなわち,シアノ基などの電子求引性の強い置換基を持つベンズアルデヒドでは,ベンズアルデヒドの減少速度定数が式(2)で表される一方,電子供与性の置換基を持つベンズアルデヒドでは,kobs = k1k2[Tzo]0/(k-1+k2)として表され,酸化の反応速度(k3)は反応全体の速度にほとんど影響を及ぼさない。これらのことから,この酸化的チオールエステル生成反応の効率を決めるのは,アルデヒド(1)とチアゾリウム(BTz+)から活性型アルデヒド(M2)を生じる反応ステップであることが分かった。

酵素類似様反応場“ベシクル反応場”における酸化的チオールエステル生成反応系の構築(第3章)

次に,ベシクルへの呼吸モデル反応系を構築するべく,ジメチルジミリスチルアンモニウムブロミド(DMDAB)と,両親媒性触媒である3-ドデシル-4-メチルチアゾリウムブロミド(DTz+Br-),そして両親媒性の電子受容体であるN1-ドデシルニコチンアミドブロミド(C12NA+Br-)の混合ベシクル中において,4-メトキシカルボニルベンズアルデヒド(1-COOMe)とn-オクチルチオール(2)から,相当するチオールエステル(5)の生成反応を検討した。酸化剤にN1-ドデシルニコチンアミドブロミド(C12NA+Br-)を用いたのは,還元電位が活性型アルデヒドの酸化電位に近く,マイルドな酸化反応が可能であることが予想されたことに加え,ベシクル膜との親和性が良く,安定なベシクルを構築することができたからである。この反応は顕著なpH依存性を示し(Fig. 5),pHの増大に伴って,1の反応率は向上した。一方で,反応60分後の5の収率は,pH = 8.1で最大(78%)となり,それよりもpHが低くても高くても,収率は減少した。

ベシクル反応場による酸化的チオールエステル生成反応の高効率化(第3章)

ベシクル中における反応では,Fig. 6に示すように,非触媒反応を経由するアルデヒドの酸化反応が副次反応として存在することが分かった。

Fig. 6から,各基質に関して反応速度式を立てると,時刻tでの各基質の濃度は,反応速度定数kα, kβ, kγを用いて,式(3-5)のように与えられる。

ただし,[S],[P],[A]は,それぞれ1,5,9の濃度である。kα, kβ, kγは,それぞれ,1からの目的物5の生成,5の加水分解による9の生成,1からの非触媒反応経路による9の生成に関与する反応速度定数であるが,具体的内容については,本編を参照されたい。この式を実験結果にプロットさせることで,反応速度定数kα, kβ, kγが見積もられ,その結果,チアゾリウム触媒の活量を向上させることが,反応の高効率化に直結することが分かった。

本ベシクル反応場による酸化的チオールエステル生成反応系においては,脂質二分子膜の疎水性環境によって,アルデヒド(1)と生成物であるチオールエステル(5)の,水和反応,および加水分解反応を防ぎ,反応の効率化に寄与していることが推察されるだけでなく,カチオン性の膜分子によって,膜表面近傍の対アニオン濃度が増大し,塩基性が増したことで,チアゾリウム環の2位のプロトンの脱離が促進されたために高効率な反応系が構築することができたと考察された。

細胞類似様システムの構築へ(第4章)

ここまで,3-アルキル-4-メチルチアゾリウム塩が触媒する酸化的チオールエステル生成反応系の構築と反応機構の検討を行い,4-メトキシカルボニルベンズアルデヒド(1)とn-オクチルチオール(2)から,相当するチオールエステル(5)を効率よく得ることに成功したことについて述べてきた。これらは,PDCが触媒するアセチルCoA生成反応の最初の模倣反応系と位置づけることができる。

しかしながら,この反応系の面白さは,単なる酵素類似様反応場における生体模倣反応系に留まらない。酸化的チオールエステル生成反応は,アルデヒドのもつエンタルピーを,酸化によって開放し,生体内で使われるエステル誘導体(酸縮合化合物)を生成するという点で,いわば呼吸モデル反応である。

ところで,反応基質として,ベンズアルデヒド誘導体(1”)を,またチオールとして4-ピリジンエタンチオール塩酸塩(2”)を用いると,生成物として両親媒性チオールエステル(5”)が得られる。この反応においては,5”による自発的なジャイアントベシクルが生成することを見出した(Fig. 7)。筆者が見出したこの自発的ベシクル生成系は,非常に原始的とはいえ,有機化学的に構築した代謝反応によって細胞類似構造が発現する最初のモデル反応系であり,生命が細胞構造をもつに至ったプロセスを,化学的反応モデルから理解するための第一歩といえる。

Fig. 1. Microscopic images of C12NA+ and C12NAH mixed vesicle: (upper) Cryo-SEM image; (lower) Fluorescent and DIC microscopic image.

Fig. 2. Cellular oxidative thiolester formation catalyzed by pyruvate dehydrogenase complex.

Fig. 3. Reaction scheme of the thiazolium-catalyzed thiolester formation from benzaldehyde using azobenzene as oxidant.

Fig. 4. Log( kobs) plot for thiazolium-catalyzed azobenzene oxidation of substituted benzaldehydes against s value.

Fig. 5. Effect of pH on the yield of 5 (●) and 9 (○)and conversion of 1 (■) after 60 min reaction inner vesicular membrane.

Fig. 6. Scheme of thiazolium (DTz+)-catalyzed oxidative thiolester formation using amphiphilic nicotinamide (C12NA+) in vesicular reactor in aqueous solution.

Fig. 7. Spontaneous giant vesicle generation by oxidative formation of an amphiphilic thiolester on w/o surface.

審査要旨 要旨を表示する

生命の機能を有するシステム「人工細胞」の構築は,現在,科学の各分野における,挑戦的な研究テーマである。中でも,細胞と類似した構造を持つ分子集合体「ベシクル」を利用した,原始細胞モデルの構築は,物質科学的アプローチの一つとして注目されている。このような背景の下,本論文は,1970年代より進展してきた「生体模倣化学」の蓄積を活用し,生体内反応の基幹を成す呼吸反応系「酸化的チオールエステル生成系」を,ベシクル中に構築し,その反応挙動を解析すると共に,さらに進んで,この反応系を利用した「新たな原始細胞モデル」について記述したものである。

第1章「呼吸系モデルとしての酸化的チオールエステル生成反応」は序論であり,二つの内容から構成されている。一つは,本研究の目的である。原始細胞モデル構築を目指す上で,呼吸模倣反応系を有するベシクル反応場構築の意義を述べている。もう一つは,本研究で対象とした,生体内呼吸反応系における高エネルギー分子の生成過程の考察である。生体内におけるエネルギー獲得が,酸化による高エネルギー分子生成過程によって行われている点に焦点を当て,ピルビン酸デヒドロゲナーゼ複合体が触媒するアセチル補酵素A生成反応の本質である「酸化的チオールエステル生成反応」がもつ,呼吸反応のモデルとしての重要性を指摘している。

第2章「チアゾリウム塩が触媒する酸化的チオールエステル生成反応系の構築」では,アルデヒド誘導体とチオールから,相当するチオールエステルを有機溶媒中で酸化的に生成する「酸化的チオールエステル生成反応系」の構築について述べている。酸化的チオールエステル生成反応は,生体内代謝系において最も主要な反応の一つであるにもかかわらず,これまでその模倣反応の成功例が報告されていない。本研究は,実際の呼吸系に含まれるピルビン酸デビドロゲナーゼの部分構造として含まれるチアゾリウム塩を用い,酸化剤としてアゾ化合物を用いることでチオールエステルを高収率で得ることに成功しており,新規性のあるこの反応系を構築したことは高く評価できる。さらに,ベンズアルデヒド酸化反応速度に対する置換基効果などの有機反応機構論的視点から,複数の過程によって形成される酸化的チオールエステル生成反応の特徴を検討し,置換基による律速段階の変化を実験的に明示するなど,緻密な研究を遂行している。この章の研究の完成度が高いことは,すでにフルペーパーとして学術雑誌に発表されていることからも明白である。

第3章「ベシクル膜を反応場とする酸化的チオールエステル生成反応系の構築」では,両親媒性分子によって構築された二分子膜「ベシクル」を反応場に用いて,アルデヒド誘導体とチオールを用いた「酸化的チオールエステル生成反応系」を構築する研究について述べている。筆者は,第2章で得られた酸化的チオールエステル生成反応に関する反応機構的知見,および第5章で後述するようなベシクルの構造に関する界面化学的知見を活かすことによって,初めてこの目的に適したベシクル反応場を構築した。その際,膜への親和性を高めるために,触媒として長鎖アルキル基をもつチアゾリウム塩を用い,酸化剤として同じく長鎖アルキル基をもつニコチンアミド誘導体を用いるなど,反応系の最適化を的確に行っている。ここで生成するニコチンアミドの還元体は,実際に吸収系で生成する還元体と相同の分子である点も注目される。この点は,筆者の研究者としての洞察力をよく示すものといえよう。反応系の高効率性もさることながら,このような学際的な研究手法により,高機能なベシクル反応場を構築した点で,本研究は今後,代謝系を組み込んだ研究を行う上で十分参考になる成果を挙げたと認められる。特に,生体模倣化学が従来から目指してきたアプローチを踏襲しつつも,ベシクル反応場における反応性を機構論的に検討することによって,生体内における酵素反応の理解を推し進めている点は,特筆に値する。

第4章「総括」では,これまでの研究成果を総括すると共に,上記の研究において構築した代謝模倣反応系が,まさに細胞モデルとしても有用であることを論証している。即ち,反応基質を設計することによって,自己組織化能を持つチオールエステルを生成させることで,ベシクルの自発的な発生や形態変化を実現したことは,代謝反応によって自己を形成する細胞の営みを工みに,化学反応系に翻訳したものといえる。

本論文は,以上の本編に加え,第5章「補遺」を加えた5章から構成されている。補遺である第5章では,長鎖アルキルニコチンアミド誘導体とその還元体が形成するジャイアント・ベシクルに関する研究を述べている。筆者は,細胞のサイズ,形状を統計的に分析することができるフローサイトメトリー・細胞分取装置を用いることによって,ラメラ構造を持つベシクルと,ラメラ構造を持たない会合体との,蛍光発光挙動および分子組成の違いを明瞭に示している。この研究成果は,ベシクルの構造的特徴を明確化しただけでなく,ベシクルを計測する新たな研究手法を確立したという点で,新規性の高い研究である。また,本編における高効率なベシクル反応場の構築は,このようなベシクルの特徴に関する検討を重ねた結果として達成されたものであり,本研究に幅と奥行きを与えている。

以上,本論文は,生体模倣化学を軸に,有機反応化学,界面化学,新しい計測法の知識と技術を活用し,ベシクル内での酸化的チオールエステル生成反応系の構築を行ったものであり,代謝系を組み込んで細胞モデルとして独創性のある研究として評価できる。特に各々の反応場について,反応機構を精査し,反応系に適した酸化剤を開発することで,反応効率の最適化に成功したことは,筆者の研究者としての高い素質を示すものといえよう。なお,論文提出者が主体となって実験および結果の解析を行ったことは,既報論文が,筆者と指導教員二名のみの連名であることからも明白である。

よって,審査委員一同,本論文は博士(学術)の学位請求論文として合格と判定した。

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