No | 120960 | |
著者(漢字) | 須磨,航介 | |
著者(英字) | ||
著者(カナ) | スマ,コウスケ | |
標題(和) | 大気関連不安定分子種の分光学的研究 | |
標題(洋) | Spectroscopic studies of transient molecules relevant to the atmospheric chemistry | |
報告番号 | 120960 | |
報告番号 | 甲20960 | |
学位授与日 | 2006.03.23 | |
学位種別 | 課程博士 | |
学位種類 | 博士(学術) | |
学位記番号 | 博総合第663号 | |
研究科 | 総合文化研究科 | |
専攻 | 広域科学専攻 | |
論文審査委員 | ||
内容要旨 | 【序】 大気環境汚染、オゾン層破壊、地球温暖化の問題がもはや不可避な問題として研究者のみならず広く関心を引き、これらの問題は様々な分野の研究者により活発に研究が行われるようになった。一連の研究により、大気中には極微量にしか存在しない所謂ラジカル種が重要な役割を果たしているという事が認識されている。しかし、ラジカル種を実験室気相中で捕らえてその物性を詳しく調べるということは、比較的安定な系以外では容易ではない。このため、現在でも多くの大気化学や関連する反応に関する研究、モデリングは理論計算や経験的な仮定に頼らざるをえない。このことによる影響は無視できるものではなく、実験室での正確な基礎データが必要とされている。本研究では、不安定分子種を効率的に生成し、高感度、高分解能で観測可能なパルス放電ノズルと超音速ジェットを組合せたフーリエ変換型マイクロ波分光器(以下FTMW)を用い、大気反応で重要な役割を果たしていると考えられる系の回転遷移の観測を行った。このような実験研究からは、観測分子種の詳細な性質(分子構造、電子状態)が明らかになっただけでなく、将来大気中でのモニタリングに必要な情報(モニタリング周波数等)を十分な精度で得ることができ、これらの大気での直接観測の可能性を開くことが出来た。また最近では、ラジカルと分子が分子間力で弱く結合したラジカル分子錯体が大気反応を促進、又は逆に減速する可能性があることが盛んに議論されている。しかし、ラジカル分子錯体を検出することは、極めて困難であり実験研究例は少ない。本研究では、ラジカル分子錯体のプロトタイプである希ガス‐ラジカル錯体の分光を行い、そこで得られた知見を基に、ラジカル分子錯体H2O-HO2の分光検出に成功した。以下それぞれの系ごとに研究内容を概説する。 【過酸化ラジカル(ClOO、BrOO)、のマイクロ波分光】 ハロゲン酸化物はオゾン層破壊の鍵となる系であり、多くの研究がなされている。ところが、ClOOはその不安定性のため、気相高分解能分光による観測の報告はなされていなかった。このため、ClOOは極付近でのオゾン層破壊や、大気中の塩素原子のリザーバとして働く等、重要な役割を果たす可能性が指摘されていたが、決定的な結論は得られていない。唯一気相では紫外域で回転線の分解されていないブロードな吸収が報告され、その実験結果を基にCl−OO結合が非常に弱く、その結合エネルギーは水素結合並(4.7 kcal/mol)であることが分かっているのみであった。このため、これまでのClOOに関する研究の多くは理論計算によるものである。しかし、この系は、電子相関の取り扱いが厄介な系として、古くから理論計算研究者を悩ませてきた系でもあり、計算結果の計算法によるばらつきが大きく、信頼できる結果は得られていなかった。本研究ではCl2(0.4%)とO2(0.4%)をArで希釈した混合ガスに放電を行うことで、効率的にClOOラジカルを生成し、FTMW及び二重共鳴分光法により、回転遷移の観測に成功した。二重共鳴によりミリ波領域の遷移を観測できたことは、大気観測に必要なデータを高精度で提供することを可能にした点、正確な分子構造を決定することができた(図1)点で意義深い。ClOOの分子構造は、Cl−O結合が通常の値(1.7Å程度)に比べかなり長い。一方、O−O結合は単体の酸素分子の結合長1.208Åとほぼ同じである。このことは、ClOOラジカルが、酸素分子の結合の性格をほとんど変えることなく、そこに塩素原子が弱く会合した形の分子であることを示している。決定した超微細構造定数から得られる結合に関する性質もこの結果を支持していた。BrOOについても同様の実験を行い、ハロゲン原子が大きくなるに従い上記の構造的特徴が顕著になることを明らかにした。 【三酸化ラジカルHOOOのマイクロ波分光】 HO3ラジカルは大気中のOHラジカルのシンクとしてその重要性が古くから指摘されてきた。また、HO3ラジカルは大気反応中で基本的な反応である H+O3→OH+O2 O+HO2→OH+O2 の反応中間体として存在するとされ、多くの研究がなされてきた。しかし、その検出は極めて難しく、実験室での直接の検出報告は質量分析法、赤外マトリクス分光によるもののみで、その分子構造、電子状態等基本的な情報は、殆ど明らかになっていない。本研究ではFTMW及び二重共鳴分光法によりHO3ラジカルの純回転遷移を観測し、分子構造に関する詳細な知見を得ることができた。HO3 (DO3)ラジカルは、酸素10%を希ガスで希釈した混合気体を水(重水)で満たした液だめへ通し、これを背圧4.5気圧でパルス放電ノズル(1.5kV)から噴射して生成した。生成はO2濃度に対して極めて敏感で、通常行われるように少量のH2OとO2の混合ガスを大量のArで希釈した試料ガスではスペクトルは観測されなかった。非対称コマのハミルトニアンを用いて観測した遷移の解析を行い、分子定数を決定した。慣性欠損はΔI(HO3) = 0.0123 uA2と小さな値をとることから、HO3は平面構造をとることが分かる。平面構造を仮定し、回転定数から決定したHO3の分子構造はトランス型構造(図2)となる。これはシス型構造を最安定とする近年の理論計算による報告とは大きく異なる。また、HO−OOの結合距離はかなり長く、OHラジカルと酸素の弱い会合体的な結合をしていることが分かる。これらの構造的特徴は過酸化ハロゲンラジカルのものと良く類似している。 【HOOOHのマイクロ波分光】 水、過酸化水素は化学者のみならず、広く馴染み深い分子種である。ところが酸素原子が三つ以上連なった水素化合物HOnH(n>2)は、孤立電子対間の強い反発のため不安定で、気相で存在できるかという問題に対して、長い間議論が絶えなかった。この不安定性が「酸素の化学」と「炭素の化学」とを明確に区別する大きな原因の一つであると考えられてきた。一方で、ごく最近になって様々な分野でH2O3が種々の反応プロセスに基本的な役割を果たしている、或いはその可能性がある、という報告が相次いでなされた。さらに近年、多くの計算化学者が、理論計算上はこういった分子種が安定に存在しうることを指摘している。しかし実際にそのような分子種を気相で捉えたという明確な報告は、現在までなされていない。本研究では、気相で初めてH2O3を検出することに成功し、正確な分子構造を決定することができた。H2O3(D2O3)はHO3ラジカルと同様の手法で生成した。H2O3は回転定数が大きく、最安定のトランス型構造(図3)ではb軸方向の双極子能率しか持たないため、我々のFTMW分光器で観測可能な遷移は一本に限られる。この遷移とつながる三本のミリ波領域の遷移を二重共鳴分光により観測した。さらに観測分子種の帰属を確実にするため、本研究で新たに開発した三重共鳴分光を適用し、合計で五本の回転遷移を観測した。D2O3についても五本の回転遷移の観測を行った。FTMW分光で観測された三本のD2O3のスペクトルは、試料ガスに対し平行にマイクロ波を照射することで、図4のように超微細分裂を観測できた。遷移110-101は重水素の合成核スピンが1で再現され、観測された分子がC2対称性を持つトランス型のD2O3であることを支持している。他の二本の遷移303-212、211-202は予想される遷移のほかに余分な信号が重なって観測された。WKB近似に基づく一次元モデルでは、トンネル分裂は極めて小さく、これを説明することは出来ない。核スピン統計、回転定数等から観測されたH2O3は、図3に示したトランス型構造であると結論した。一方、シス型のH2O3に帰属できる遷移は観測されなかった。H2O3はH2O2と比較するとO-O結合長が若干短いが、その他の構造的特徴はよく対応している。ラジカル種HO3とは対照的に通常の安定な化学結合を形成していることが分かった。 【HO2分子錯体のマイクロ波分光】 H2O-HO2錯体は大気中のHO2のシンクとなる、或いはHO2の自己再結合反応を促進するといった可能性が報告され、HOx化学に重大な影響を与えていると考えられている。しかし、気相中での直接検出は未だに報告されておらず、その実態は殆ど明らかになっていない。本研究ではFTMW分光法により初めて気相でのH2O-HO2錯体の回転遷移の観測に成功した。錯体はH2O、O2の混合ガスに対する放電により生成した。錯体内では水単体が比較的自由に回転しているため、水のオルソ、パラに由来する二つの内部回転準位の回転遷移が分裂して観測された。このため、内部回転による分裂と微細、超微細分裂で複雑なスペクトルが観測された。これら全てを帰属し、二つの内部回転準位に対し独立に非対称コマのハミルトニアンを用いて解析を行った。決定した回転定数はab initioの分子構造(図6)を支持している。慣性欠損はab initio計算による値が-1.0357uA2で、 実験値が-0.0922 uA2であることから平均構造は平面に近いと考えられる。微細、超微細相互作用定数はHO2単体の値から良く説明でき、錯体形成による不対電子への影響は小さいことが分かった。 図2 HO3ラジカルの分子構造 図3 H2O3の分子構造 図4 D2O3(110‐101)の回転スペクトル 図6 H2O-HO2錯体の分子構造 | |
審査要旨 | オゾン層破壊、地球温暖化、大気環境汚染などは現代の科学に課せられた重要な問題と考えられ、関連する研究が積み重ねられている。これらの問題に大気中に微量に存在するラジカル種が大きな役割を果たしていることは様々な研究で明らかになっているが、大気反応中で重要性が指摘されているにもかかわらず、未だにその構造、電子状態などの分かっていないラジカル種も多い。本論文では、このように大気化学で重要ではあるが、未知のラジカル種をフーリエ変換マイクロ波分光法と、それにミリ波、マイクロ波光源を組み合わせて新たに開発した2,3重共鳴分光法を用いて検出し、それらの構造、電子状態、あるいは分子内の運動ダイナミクスを明らかにしたものである。 論文は全体で9章からなり、第1章は一般的な導入に当てられている。ここでは大気反応における、特に酸素を含むラジカル種、あるいはラジカル錯体の重要性が指摘され、それらの純回転スペクトルを観測することの意義が述べられている。第2章は実験装置の説明に当てられている。ラジカル種の純回転スペクトルの観測に用いたフーリエ変換マイクロ波分光法と、本論文の研究と並行して開発された、2,3重共鳴分光法の詳細が説明されている。また、酸素を含むラジカル種の効率的な生成の鍵となった、パルス放電ノズルと、試料系の説明がなされている。 第3章から第8章までが個別のラジカル種、ラジカル錯体の実験、解析と得られた結果に基づく議論に当てられている。第9章は、このようなラジカル種の純回転スペクトルの解析に必要なハミルトニアンとその行列要素がまとめられている。 第3章は、過酸化ハロゲンラジカルClOOとBrOOの純回転スペクトルの検出とその結果の議論に当てられている。ClやBrなどのハロゲン原子はフレオンの光解離によって生じ、オゾン層破壊の中心的な役割を果たす重要な元素である。これまでオゾン層破壊のメカニズムは、主としてClO、BrOラジカルの関与を中心に議論されてきていたが、それだけでは不十分であり、上記過酸化ラジカル種も重要な役割を果たしていることが指摘されていた。しかしながら、これまで実験データが乏しく、実際に大気化学中でこれら過酸化ラジカルがどのような役割を果たしているのか不明であった。本研究結果は、これらのラジカル種の特異な分子構造を明らかにしただけではなく、大気中でのこれらのラジカル種の検出の可能性を開いた点で重要ある。 第4章は、3酸化ラジカル種であるHOOOの純回転スペクトルに関する結果に当てられている。このラジカルはOHと酸素分子の結合したラジカル種で、大気反応中でのOHラジカルの存在形態、反応性に重要な影響を与えている可能性が指摘されている。また、これは酸素原子が鎖状に3個連なった分子種であるが、このような分子種の存在はこれまでほとんど知られておらず、酸素原子の作りうる分子の新しい可能性を開くものである。本研究では、このラジカルの純回転スペクトルを初めて観測し、このラジカルが多くの理論計算の予測に反してトランス型の最安定構造を取ること、OHとO2の結合は極めて弱く、水素結合並みの結合エネルギーしか持たないこと、OH+O2の反応には反応障壁が無く、大気中のOHラジカルは酸素分子と結合し、一定量がHOOOとして存在している可能性が高いことを明らかにした。 第5章は、 HOOOHの純回転スペクトルの観測に関する結果に当てられている。第4章の実験で水と酸素の混合気体の放電でHOOOラジカルが生成していることが確認されたことを受け、同じ系の中に閉殻分子であるHOOOHのスペクトルを同定することに成功した。これは、過酸化水素の酸素がもう一つ伸びた分子で、古く19世紀よりその存在の可能性が指摘されていたものである。本研究で初めて気相の明確なスペクトルを観測することができた。得られた結果から、この分子がC2の対称性を持つトランス型の最安定構造を持つことが明らかになった。 第6,7章は、これも大気反応で重要な役割を果たしているHO2ラジカルを含むラジカル錯体の検出に関する結果が記述されている。第6章は、HO2ラジカルを含む錯体の予備的な研究として行ったAr-HO2ラジカルの結果に当てられている。第7章は、その結果に基づき観測したHO2-H2Oラジカル錯体の結果が記述されている。HO2ラジカルと水分子との錯体は、大気化学で重要な役割を果たすと指摘されていたもので、その分光学的検出が待たれていたものである。本研究では、初めてその存在を明らかにし、錯体の構造を決定することができた。また、観測されたスペクトルの核スピン分裂のパターンからこの錯体が興味深い内部運動をしていることを明らかにした。 第8章は、6,7章のラジカル錯体の予備的な研究として行った希ガスとSHラジカルとの錯体の純回転スペクトルの観測と、それに基づく精密な分子間ポテンシャルの決定である。本研究では希ガスとしてKrとNeを取りあげ、すでに研究の行われていたArの系と比較した。とくにNe-SHの系は分子間相互作用が弱く極めて特異なエネルギー準位構造をしていることが明らかになった。 このように、本研究は興味深い一連のラジカル種、ラジカル錯体を取り上げ、その詳細を明らかにしたもので、その学術的な価値は極めて高いと評価できる。なお、これらの研究結果は、すでに7報の論文(うち6報は公表済み、1報が掲載可)として公表されている。第3章から8章まで内容は、遠藤泰樹、住吉吉英氏(第6章の内容はさらに舟戸渉氏)との共同研究であるが、いずれも提出者が主体となり実験、解析、考察を行ったものであり、論文提出者の寄与が十分であると判断した。 よって本審査委員会は、博士(学術)の学位を授与するにふさわしいものと認定する。 | |
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