学位論文要旨



No 120962
著者(漢字) 髙橋,聡
著者(英字)
著者(カナ) タカハシ,サトシ
標題(和) ボルン‐オッペンハイマー近似の適用限界に関する半古典力学的研究
標題(洋) A semiclassical study on the validity range of the Born-Oppenheimer approximation
報告番号 120962
報告番号 甲20962
学位授与日 2006.03.23
学位種別 課程博士
学位種類 博士(学術)
学位記番号 博総合第665号
研究科 総合文化研究科
専攻 広域科学専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 教授 高塚,和夫
 東京大学 教授 金子,邦彦
 東京大学 教授 山,泰規
 東京大学 教授 永田,敬
 東京大学 助教授 染田,清彦
内容要旨 要旨を表示する

分子の運動を考える際に、その構成要素である電子と原子核の運動を分離することが通常良い近似となる。核の平均質量Mが電子の質量mの103倍から104倍程度大きく、両者の運動の時間スケールが102倍程度異なるためであり、結果として分子の全エネルギーは、電子部分のエネルギーと核部分の(振動ならびに回転)エネルギーの和として精度よく表される。この近似は1927年のボルンとオッペンハイマーによる証明以来、分子科学の基礎となっている。ボルン-オッペンハイマー(Born-Oppenheimer:BO)近似は、特に基底状態分子に対してよく成り立つ近似であり、精密な量子化学計算を支える大きな土台の1つである。電子と核を構成要素とする通常の分子に対しては、BO近似の適用限界も確立されており、例えば電子と核の間のエネルギー交換が無視できず、2つ以上のポテンシャルエネルギー面が反発交差を起こす領域では、BO近似は破綻することがわかっている。一方で、近年のエキゾチック原子、分子研究における実験技術の急速な進展により、分子は電子と核から構成されるものだけでなく、多様性を増している。特に重陽子d、3重陽子t、ミューオンμから構成される、水素分子イオンH+2(ppe)類似のミューオン分子(dtμ)は、ミューオン触媒核融合の中間体として長い間注目されている系の1つであり、その同位体系列分子の束縛エネルギー計算は非常に高い精度で実行されている。また陽子と等質量をもち、反対の電荷をもつ反陽子p生成の技術が向上するにつれ、反陽子原子、分子の生成や、それらの性質に関する実験理論両面での研究は近年益々盛んになっている。例えばpとH+2の衝突過程は理論的に解析され、そこでは2つのpと1つのpが互いに近接する状況が存在する。しかしながら、我々の知る限りH2+類似の3体系「(ppp)分子」の存在は確認されていない。このような状況において、分子の質量比の変化という視座に立ち、BO近似の適用限界を調べることは興味深く重要な課題であると言えるが、系統的な研究はなされていない。

本研究では以上のような背景を踏まえ、現代分子科学の基礎であるBO近似を、分子を構成する粒子の質量比の変化という観点から捉えなおし、その適用限界を調べた。以下で説明する振幅項の無い半古典擬相関関数AFC-IIの成功を踏まえ、クーロン3体系のエネルギー全粒子半古典量子化を行い、得られた数値的事実をもとにして、ボルンとオッペンハイマーの摂動理論を再考することにより、BO近似の適用範囲が従来考えられているよりも広範囲であることを理論的に明らかにした。本論文は、(1)クーロン相互作用系のように古典力学的スケール変換不変性をもつ系に対して有効な半古典擬相関関数の理論の構築と、(2)H+2類似のクーロン3体系に対する半古典全粒子エネルギー量子化およびボルンとオッペンハイマーの理論にもとづく摂動論的解析、から構築される。以下にその内容を要約する。

第1章の序論に続き第2章では、クーロン相互作用系のエネルギー量子化を視野に入れた、半古典力学の新たな計算手法を提案する。クーロン相互作用系のように、ポテンシャル関数が座標の同次多項式で表現される系には、古典力学的スケール変換不変性が存在する。そのような性質をもつ系においては、1本の古典軌道に対して、空間スケールと時間スケールの適切な拡大縮小操作により、拡大位相空間中にその軌道自身の複製を連続的に無限個数生成することができる。そしてある尺度が決まらない限り、これらの複製された軌道は区別することができない。古典力学におけるこのスケール不変性は、量子力学においては、プランク定数が絶対的な尺度を与えるために消失する。著者らは、この性質が半古典カーネルを出発点とする既存の半古典理論に容易に取り込まれ、その結果スケール不変な性質をもつ半古典波動関数ならびに、半古典相関関数を構築できることを示した。

半古典カーネルを出発点とする半古典理論は、対象とする系がカオスである際に、波動関数ならびに相関関数に現れる振幅項が発散するという、実際に適用する際に大変厄介な問題を内包していた。それに対して、最近提出されたAmplitude-Free quasi-Correlation function type-II(AFC-II)にはこの振幅項が存在しないため、可積分系・カオス系の区別なく適用可能であり、実際の数値計算において、量子波束計算から得られるエネルギースペクトルと遜色無い結果を与えることが確かめられた。この振幅項の無い半古典擬相関関数AFC-IIに対しても同様にスケール不変性を組み込み、renormalized AFCと呼ばれる半古典擬相関関数を構築した。クーロン相互作用系、カオス系を含むいくつかのモデル系に対して適用し、renormalized AFCは、量子計算結果と同じエネルギーを与えることを確かめた(図1、図2)。半古典理論の愚直な適用では偽のピークを生み出した系においても、異なるスケールをもつ自分自身の複製との干渉を効果的に取り込むことによって、量子化が実行されるという機構を明らかにした。

また第2章では、一般的な半古典理論に現れるマスロフ指数の計算手法を提案する。マスロフ指数とは、半古典波動関数に寄与する古典軌道がcausticsと呼ばれる特異点を通過する回数を数えたもので、半古典波動関数ならびに相関関数の位相部分に現れる。従来この指数は、安定性行列と呼ばれる行列の時間発展をもとに計算していた。しかしながら系の自由度の増加に伴って安定性行列の次数も大きくなり大量の数値計算を要するようになり、カオス系では行列要素が発散し計算が破綻するという困難も伴うことが知られており、このことが半古典理論の大自由度系への適用を妨げていた。著者らは新たに幾何学的なマスロフ指数の計算手法を考案した。この手法では、古典軌道上に、古典軌道とともに時間発展する微小体積要素を準備し、この体積要素が反転する点がcausticsであると見做す。この手法により計算量は大幅に軽減され、特に、安定性行列の部分行列の計算を要しないAFC-IIに対して威力を発揮する。この手法を10自由度非結合振動子系ならびに2自由度カオス系に適用し、有用であることを示した。

第3章では、2通りの方法による、BO近似の適用限界に関する研究を記述している。前半部分では、H2+と、H2+の電子をμ、p、さらにいくつかの仮想粒子で置換した分子の制限された運動を考え、EBK量子化ならびに第2章で導入されたrenormalized AFCの適用による全粒子エネルギー量子化を実行した。2つの半古典手法から計算された結果を比較することによって、BO近似における誤差が(m/M)1.5に比例することを数値的に発見した(図3)。またこれらの計算を通して、この特別な配置において(ppp)がいくつかの束縛状態をもつことを示した。これらの状態は、共鳴状態としての重要性をもつ可能性がある。

第3章の後半部分では前半部分の数値的発見を受け、ボルンとオッペンハイマーが展開した摂動理論を再考した。彼らは、(m/M)1/4を摂動パラメータとする摂動展開において、エネルギーの0次項が電子エネルギーに対応し、2次項、4次項がそれぞれ核の振動および回転のエネルギーに対応することを示していた。我々はBO近似に対する最初の補正となるべき、(m/M)5/4に比例する5次のエネルギー項がゼロであることを証明した。つまりBO近似に対する補正は実際には(m/M)6/4に比例する6次項から始まり、これは前半部分で得られた数値的観察と一致する。多くの文献ではBO近似は(m/M)1/4≪1である場合に成り立つと記述されているが、本研究ではBO近似の誤差は(m/M)6/4に比例することを示し、これによりBO近似の適用範囲は通常理解されているよりも広範囲であることを示した。

図1:1次元水素原子のエネルギースペクトル。緑(破線)は量子力学的に得られるエネルギーを示し、赤(実線)は半古典スペクトルである。(a)通常のAFC-IIスペクトル。(b)(c)renormalized AFCスペクトル。異なる空間スケール間の干渉を取り入れることによって束縛状態が存在しないエネルギー領域のノイズが小さくなり(パネル(b))、スケーリング範囲が適切であれば量子的結果と一致するスペクトルが得られる(パネル(c))。

図2:2次元強カオス系のエネルギースペクトル。(a)通常のAFC-IIスペクトル。(b)renormalized AFCスペクトル。パネル(a)の高エネルギー領域に現れるノイズは、適切なスケール間の干渉を取り込むことによって、パネル(b)では小さくなっている。

図3:質量比とBO近似の誤差の関係。206a.u.はμの質量、1836a.u.はpの質量である。他の質量値は、負電荷粒子に仮想的に与えたものである。

審査要旨 要旨を表示する

本論文は、現代の分子像の量子力学的基礎を与えているボルン−オッペンハイマーの断熱近似(BO近似)の適用限界を半古典力学および量子力学摂動論に基づいて解析したものであり、その過程で開発した方法論と合わせて、以下に述べる重要な成果を報告している。本論文で、高橋氏は、BO近似に含まれる誤差は、分子を構成する負電荷(電子、ミューオン等)の質量の1.5乗に比例することを数値的に発見した上、理論的に、それがボルン−オッペンハイマーの摂動理論における第6次項からきており、それが負電荷質量の6/4乗であることを数学的に証明した。これは、従来漠然と理解されているよりも、BO近似の適用限界が広いことを意味するものであって、分子科学の基礎にとって非常に重要な成果である。

研究の背景と目的

一般に分子を構成する原子核の平均質量 は電子の質量 の 倍から 倍程度大きく、原子核の運動の時間スケールは電子のそれより 倍程度遅くなる。その結果、分子の動力学では、速い電子と遅い原子核の運動に分離することが可能であり、分子の全エネルギーは、電子部分のエネルギーと核部分の(振動ならびに回転)エネルギーの和として精度よく表される。この概念と近似(BO近似)は、1927年にボルンとオッペンハイマーによって提出されて以来、分子の量子力学的描像の基礎を成しているきわめて重要なものである。この分離性のゆえ、精密な量子化学計算によるポテンシャルエネルギー曲面(電子エネルギー)が意味を持つのであって、現代化学はまさにこれらの量や概念に支えられている。

BO近時が破れる可能性として、二つの場合が考えられる。一つは、分子内電子移動反応に見られるように、電子エネルギーの擬縮重が起きるケースである。これは良く知られ、深く研究されている。他の一つは、電子の代わりに、ミュー粒子や反陽子などを導入したエキゾチック分子におけるダイナミクスである。近年、各種粒子線の実験技術の発展によりエキゾチック分子の科学が注目を集めている。たとえば、重陽子 、3重陽子 、ミューオン から構成される、水素分子イオンH2+類似のミューオン分子 は、ミューオン触媒核融合の中間体として長い間注目されている系の1つであり、その同位体系列分子の束縛エネルギー計算は非常に高い精度で実行されている。 (反陽子)とH2+の衝突過程は理論的に解析され、そこでは2つの と1つの が互いに近接する状況が存在する。しかしながら、現在に至るまでH2+類似の3体系「 分子」の存在は確認されていない。このような状況において、電子の質量比の変化について、BO近似の適用限界を調べることは興味深く重要な課題であるが、系統的な研究はなされていない。高橋氏の研究は、このような視点から分子科学の基礎に対して重要な一石を投ずるものである。

論文の内容と意義

第1章の序論に続き第2章では、クーロン相互作用系のエネルギー量子化を視野に入れた、半古典力学の新たな計算手法を提案している。クーロン相互作用系のように、ポテンシャル関数が座標の同次多項式で表現される系には、古典力学的スケール変換不変性が存在する。そのような系においては、1本の古典軌道に対して、空間スケールと時間スケールの適切な拡大縮小操作により、拡大位相空間中にその軌道自身の連続無限個の複製を1−パラメータ族として、生成することができる。一方、量子力学においては、プランク定数が絶対的な尺度を与えるために、このスケール不変性は消失し、絶対的スケールを回復する。高橋らは、この性質を利用し、スケール不変な性質をもつ半古典波動関数ならびに、半古典相関関数を構築できることを示し、論文として報告した。この論文は、今後、クーロン系における半古典量子化に関する研究において避けてとおることのできない重要な論文となった。

半古典ファインマンカーネルを出発点とする半古典理論は、系がカオスである際に、波動関数ならびに相関関数に現れる振幅項が発散するという、実際に適用する際に大変厄介な問題を内包していた。それに対して、最近高塚らによって提案されたAmplitude-Free quasi-Correlation function type-II(AFC-II)はこの振幅項を持たず、可積分系・カオス系の区別なく適用可能であり、実際の数値計算において、量子波束計算から得られるエネルギースペクトルと遜色無い結果を与えることが確かめられている。高橋は、この振幅項の無い半古典擬相関関数AFC-IIに対して、上記のスケール不変性を組み込み、renormalized AFCと呼ばれる半古典擬相関関数を構築した。こうして、異なるスケールをもつ自分自身のコピーとの干渉を効果的に取り込むことによって、量子化が実行されるという機構を明らかにした。

また第2章では、一般的な半古典理論に現れるマスロフ指数の幾何学的な計算手法をも提案し、その有効性を数値的に実証している。

第3章の前半では、H2+と、H2+の電子を 、 で置換した分子の制限された運動を考え、EBK量子化ならびに第2章で導入されたrenormalized AFCの適用による全粒子エネルギー量子化を実行し、2つの半古典手法から計算された結果を比較することによって、BO近似における誤差が に比例することを数値的に発見している。またこれらの計算を通して、特別な配置において がいくつかの束縛状態をもつことを示した。これらの状態は、共鳴状態としての実験で観測される可能性がある。

第3章の後半部分では前半部分の数値的発見を受け、ボルンとオッペンハイマーが展開した摂動理論を再考している。高橋はBO近似に対する最初の補正となるべき、 に比例する第5次のエネルギー項がゼロであることを長大な数式群を使って証明し、そのことにより、BO近似に対する補正は実際には に比例する6次項から始まることを一般的に証明した。これは前半部分で得られた数値的観察と一致する。多くの文献や教科書ではBO近似は である場合に成り立つと記述されているが、本研究ではBO近似の誤差は に比例することを示し、これによりBO近似の適用範囲は通常理解されているよりも広範囲であることを示した。これは、分子科学の成立根拠の基礎に関わる極めて重要な知見を提供するものである。

本論文は,高塚和夫教授との共同研究であるが,論文の提出者が主体となって理論解析を行ったもので,論文提出者の寄与が十分であると判断する。

よって本論文は博士(学術)の学位請求論文として合格と認められる。

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