学位論文要旨



No 120963
著者(漢字) 仲本,亜希雄
著者(英字)
著者(カナ) ナカモト,アキオ
標題(和) Fe(II)スピンクロスオーバーシステムにおける多重機能性の研究
標題(洋) Study on multifunctional properties in Fe(II) spin-crossover system
報告番号 120963
報告番号 甲20963
学位授与日 2006.03.23
学位種別 課程博士
学位種類 博士(学術)
学位記番号 博総合第666号
研究科 総合文化研究科
専攻 広域科学専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 教授 小島,憲道
 東京大学 教授 菅原,正
 東京大学 助教授 小川,桂一郎
 東京大学 助教授 錦織,紳一
 東京大学 助教授 松下,信之
内容要旨 要旨を表示する

遷移金属錯体では、配位子場により分裂したd軌道間の光学遷移が、近赤外領域から紫外領域にかけて現れる。この分裂の大きさは配位子の種類により変化し、電子配置に大きな影響を与える。一般にd電子の数が4-7の遷移金属イオンでは、基底状態として二つの可能性がある。即ち、配位子場が弱ければフント則が成立ち高スピン状態をとるが、配位子場が強くなるとフント則が破れ低スピン状態をとる。これまで、Fe錯体やCo錯体などでスピンクロスオーバー錯体が数多く報告されているが、このうち[Fe(ptz)6](BF4)2(ptz=1-propyltetrazole)などでは、d-d遷移に相当する光を低温で照射することにより、基底状態が低スピン状態から高スピン状態に転移し、これが凍結されるという興味深い現象が発見され、多大な関心を集めてきた。これは、低スピン状態においてスピン許容d - d遷移に対応する光照射を行った場合、励起状態に遷移した電子が緩和する過程で高スピン状態の基底状態にトラップされるためでありLIESST(Light Induced Excited Spin State Trapping)と呼ばれている。また、分子デバイスという観点から注目されたスピンクロスオーバー錯体として室温付近で大きな双安定領域を有する[Fe(Htrz)3-3x(4-NH2trz)3x](ClO4)・nH2O(trz=triazole)がある。この系では、3つのtrzが架橋配位子としてFeイオンを結合させ、[Fe(Rtrz)3]の一次元鎖骨格を形成している。この系では、ヒステリシス内の温度領域では、低スピン状態と高スピン状態の双方が安定に存在できるため、その双安定性の存在は分子デバイスの観点から注目されている。

本研究では、室温付近の広い温度領域で双安定性を有するスピンクロスオーバー錯体や室温付近で光誘起スピン転移を示すスピンクロスオーバー錯体を開発することを目的として多種多様なスルホン酸イオンを対イオンとした[Fe(NH2-trz)3]錯体を合成し、系統的にスピンクロスオーバー転移の挙動を調べた。即ち、アルカンスルホン酸イオン、芳香族スルホン酸イオン、スルホ基を有する光異性化分子などを[Fe(4-NH2trz)3x]錯体に導入することに成功し、そのスピン転移挙動を調べた。アルカンスルホン酸塩については、アルキル鎖長が長くなるにつれて転移温度が上昇し、n=6以上では転移温度が飽和する傾向がみられること(分子ファスナー効果)、転移温度のヒステリシス幅とアルカンスルホン酸イオン(CnH2n+1SO3-)の炭素数との間に相関関係(even-odd effect)があることを見いだした(図1)。また、これらの現象と構造との相関を調べるためFeのEXAFSスペクトル(K吸収端)を調べた。全ての物質において、7Å付近に観測されるピークは第二近接のFe原子からの散乱によるものであるが、このような長距離の位置にピークが現れるのは重原子が直線状に配列した場合に限られることから、この系が[Fe(4-NH2trz)3]一次元鎖構造を持っていることが明かになった。第一配位のN原子に対応する強いピークの位置はどの錯体においても実験誤差範囲内でほぽ一致しており、アルキル鎖長依存性は見られなかった。このことから、対イオンの分子ファスナー効果による分子間力の増大は、Feイオンの配位子場分裂の増大に寄与するのではなく、むしろ結晶の弾性エネルギーを増大させ、その結果Tcが増大するものと結論できる。

室温付近で幅広いヒステリシスを伴ったスピンクロスオーバー錯体であるFe(II)トリアゾール錯体はこれまで粉末試料しか得られていなく、その詳細な光学特性を調べることができなかった。そこで申請者は、スルホ基を有するイオン交換膜(Nafion)を対アニオンとして用いることにより、室温付近で低スピン・高スピン転移を起こす透明スピンクロスオーバー錯体膜[Fe(Rtrz)3]-Nafionの開発に成功し、この膜が低温でLIESSTを起こすことを確認した。 FeのEXAFSスペクトル(K吸収端)を調べた結果、7Å付近に第二近接のFe原子からの多重散乱に帰属されるピークを観測し、この系が[Fe(Rtrz)3](R=H, NH2)一次元鎖構造を持っていることが明らかになった。その磁気物性を調べた結果、スピン転移温度はバルク結晶に比べ低くなり、ヒステリシスが大幅に小さくなるという結果を得た。これらの理由についてNafion膜の内部構造や57Feメスバウアー分光法によって考察を行った。Nafion膜の内部の限定された直径40Åの空間を考慮すると、[Fe(Rtrz)3]鎖間の相互作用はないと考えられる。したがって協同効果は一次元鎖内でしか期待できない。またNafion膜の内部は溶液中と同じような環境であることが示唆されており、この配位空間の環境がメスバウアースペクトルにおけるデバイ温度の急激な減少に反映されていることを明らかにした。溶液のような“ソフト”な環境ではスピン転移はなだからになることが知られている。以上からNafion内部の直径40Åに限定された空間であることとNafion内部の水溶液中に似た環境がスピン転移温度を下げていると考えられる。

次にスピンクロスオーバー錯体において、室温光誘起スピン転移を実現するために、光異性化分子を配位子としてスピン転移を誘起するLD-LISC(Ligand Driven-Light Induced Spin Crossover)とは別の光異性化分子をアニオンとして用い、アニオンの光異性化を媒介としたAD-LISC(Anion Driven-Light Induced Spin Crossover)を発現させることを目的として、固相でも光異性化反応を効率よく示すジアリールエテン類1 (図2)を対アニオンとして用い、配位子としてbzimpy, 1-bpp, 3-bpp(図3)を用いてFe(II)スピンクロスオーバー錯体を合成し、その磁気物性を調べた。[Fe(1-bpp)2](DAE-(SO3)2)で紫外光照射前後での違いが見られた。

紫外光照射によって低スピン状態が安定化される。スピン転移がなだらかなのはアニオンが他の球状のアニオンに比べて大きいからであると考えられる。紫外光照射する前の試料はメスバウアースペクトルからFe(II)高スピン状態であることを確認した。紫外光照射によってスピン転移を誘起することに成功したが、誘起されたスピン転移は非常になだらかであることがわかった。

図1アルキル鎖長と転移温度T1/2(up), T1/2(down)およびヒステリシス幅(b)△T 1/2の関係

図2 ジアリールエテンの分子構造とその光化学反応(R=SO3)DAE-(SO3-)2

図3 1-bpp, 3-bpp, bzimpyの分子構造

審査要旨 要旨を表示する

近年、機能性を持つ分子(磁性分子、導電性分子、光応答性分子など)を組み合わせ、様々な外部刺激に対して応答性を持つ高次機能性物質の研究が盛んに行われている。高次機能性物質は、複数の機能性が一つの物質に共存することでそれらの相乗効果による新たな現象の発現が期待されると同時に、将来のデバイスとしての応用が期待される。この中で、フント則が保存された高スピン状態とフント則が破れた低スピン状態が基底状態として拮抗するスピンクロスオーバー錯体は、光や温度などの外場に応答して磁性および光学的性質が変化することから機能性分子システムとして関心を持たれている。

本論文は、このような視座に立ち、室温付近で高スピン−低スピン転移を起こす様々なスピンクロスオーバー錯体を開発し、スピン転移温度および相転移に伴う双安定性の対イオンによる制御とそのメカニズムの研究、室温透明スピンクロスオーバー錯体膜の開発と光誘起スピンクロスオーバー転移の研究、対イオンの光異性化を媒介としたスピンクロスオーバー現象の研究を系統的に行なったものである。本論文は5章で構成されている。

第1章では、本研究の関連分野における重要性と位置づけについて述べている。

第2章では、室温付近の広い温度領域で双安定性を有するスピンクロスオーバー錯体や室温付近で光誘起スピン転移を示すスピンクロスオーバー錯体を開発することを目的として種々のアルカンスルホン酸イオンを対イオンとしたトリアゾール架橋鉄錯体[Fe(NH2-trz)3](n-CmH2m+1SO3)2・nH2O (trz = triazole)を合成し、系統的にスピンクロスオーバー転移の挙動を調べている。この系では、アルカンスルホン酸イオンのアルキル鎖長がm = 1からm = 5まで長くなるにつれてスピン転移温度(Tc)が260 Kから340 Kまで上昇し、m =6以上では転移温度が飽和する傾向がみられること、スピン転移温度のヒステリシス幅(ΔT)はアルカンスルホン酸イオンのアルキル鎖長がm = 1からm = 9まで長くなるにつれて20 Kから6 Kまで減少し6 Kで飽和すること、ヒステリシス幅とアルカンスルホン酸イオンの炭素数との間に相関関係(even-odd effect)があることを見出している。また、これらの現象と構造との相関を調べるためFeのEXAFSスペクトル(K吸収端)を調べ、この系が[Fe(4-NH2trz)3]一次元鎖構造を持っていることを実証している。FeのEXAFSスペクトルの解析により、アルカンスルホン酸イオンのアルキル鎖長がm = 1からm = 9まで長くなるにつれてFe-Fe間距離が短くなっていることを見出しているが、これはアルカンスルホン酸イオンのアルキル鎖長の増大に伴ってアルカンスルホン酸イオン間の分子間力が増大していることを示している(分子ファスナー効果)。この対イオンの分子ファスナー効果による分子間力の増大は、Feイオンの配位子場分裂の増大に寄与するのではなく、むしろ結晶の弾性エネルギーを増大させ、その結果としてスピン転移温度が増大するものと結論している。また、XANESの領域に現れるFeの1s→3d遷移に基づくパリティ禁制遷移の微細構造を配位子場理論に基づいて配位子場およびd電子間クーロン相互作用を定量的に解析し、この系におけるスピン転移温度とDq/Bの相関関係を系統的に解析している。

第3章では、トリアゾール架橋鉄錯体の対アニオンとしてスルホ基を有するイオン交換膜(Nafion)を用いることにより、室温付近で低スピン・高スピン転移を起こす透明スピンクロスオーバー錯体膜[Fe(Htrz)3]-Nafionの開発に成功し、その構造および物性を詳細に調べている。室温付近で幅広いヒステリシスを伴ったスピンクロスオーバー錯体であるトリアゾール架橋鉄錯体はこれまで粉末試料しか得られていなく、その詳細な光学特性を調べることができなかったが、約260 Kで低スピン・高スピン転移を起こす透明スピンクロスオーバー錯体膜[Fe(Rtrz)3]-Nafionの詳細な光学測定により、このスピンクロスオーバー錯体膜が光誘起スピン転移を起こすこと、光で誘起された高スピン状態の寿命に光強度の閾値があり、4.2 Kにおいて光強度の閾値前後で光誘起高スピン状態の寿命が10 msから10 sまで増大することを見出している。また、FeのEXAFSスペクトル(K吸収端)を調べた結果、7Å付近に第2近接のFe原子からの多重散乱に帰属されるピークを観測し、この系がNafion膜の中で[Fe(Rtrz)3](R = H, NH2)一次元鎖構造を有していることを明らかにしている。

第4章では、ジアリルエテンなど光異性化を起こす分子を対イオンとして最大限に活用し、光応答性分子の光異性化による構造変化を媒介とした種々のスピンクロスオーバー鉄錯体における低スピン・高スピン転移の光制御を行なっている。対イオンとしてのジアリルエテンが開環体と閉環体の場合で光吸収スペクトル、57Feメスバウアースペクトルおよび磁化率の温度変化に明確な変化が現れるが、これは紫外線照射前(ジアリルエテンが開環体)にはFe(II) が高スピン状態であるのに対し、紫外光照射によって対イオンのジアリルエテンが閉環し、Fe(II) の低スピン状態が安定化されるものと結論している。

第5章は、第2章から第4章における特筆すべき重要な成果をまとめている。

以上のように、本論文は、室温付近で高スピン−低スピン転移を起こす様々なスピンクロスオーバー錯体を開発し、スピン転移温度および相転移に伴う双安定性の対イオンによる制御とそのメカニズムの研究、室温透明スピンクロスオーバー錯体膜の開発と光誘起スピンクロスオーバー転移の研究、対イオンの光異性化を媒介とした光誘起スピンクロスオーバー現象の研究を系統的に行なったものであり、分子磁性をはじめとする関連分野への貢献は多大なものがある。なお、本論文中の研究は全ての章にわたって論文提出者が主体となって行ったものであり、論文提出者の寄与が十分であると判断できる。

よって、本論文は博士(学術)の学位申請論文として合格と認められる。

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