学位論文要旨



No 120967
著者(漢字) 村川,智
著者(英字)
著者(カナ) ムラカワ,サトシ
標題(和) 核磁気共鳴法による単原子層ヘリウム3の量子相転移の研究
標題(洋) NMR Studies of Quantum Phase Transitions in Monolayer Helium Three
報告番号 120967
報告番号 甲20967
学位授与日 2006.03.23
学位種別 課程博士
学位種類 博士(理学)
学位記番号 博理第4767号
研究科 理学系研究科
専攻 物理学専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 教授 今田,正俊
 東京大学 教授 宮下,精二
 東京大学 教授 石本,英彦
 東京大学 教授 鹿野田,一司
 東京大学 教授 瀧川,仁
内容要旨 要旨を表示する

擬2次元系である高温銅酸化物超伝導体の発見以来2次元フェルミ粒子系は大きな関心をもたれている。その中でも本研究で用いているグラファイト上に吸着した単原子および数原子相のヘリウム3(3He)は強く相互作用する2次元フェルミ粒子系の量子物性を研究する上で理想的な系である。この系は不純物を入れずに幅広く面密度、つまりは相互作用の大きさを変更させることができ、3Heの吸着第2層には低面密度から順にフェルミ流体、整合相、不整合固相が存在し、超低温で興味深い量子多体現象が現れることが知られている。

2次元3Heは3Heの大きなハードコア斥力の影響で2体交換だけでなく、3体、4体等の高次の交換が重要であり、これがこの系に複雑な磁気的な性質を与えている。特に4/7整合相と呼ばれ、吸着第1層に対し4/7の密度比を持つ3角格子であるとされている吸着第2層3Heの整合相[1]は、幾何学的な強いフラストレーションに加え、多体交換相互作用の競合により、きわめてフラストレーションの強い核スピン1/2の2次元スピン系である。過去の熱容量測定[2]や磁化測定[3]から4/7整合相は磁気的な基底状態として、ギャップレスの量子スピン液体状態であることを示している。さらに、面密度を増大させると強磁性的な磁化の振る舞いをみせはじめることが知られており、粒子間距離が変化することで、多体交換相互作用の競合具合が変化することで説明されている。

4/7整合相以下の面密度では、近年の熱容量測定から、面密度の増加ととも有効質量が発散的に増大するフェルミ流体的な振る舞い[4,5]から、特異な性質を持つ量子相を経て、4/7整合相へと連続的に相の性質を変えることが示唆された[5]。この領域は従来フェルミ流体相と4/7整合相との2相共存状態[6]であると考えられてきたが、それではこの熱容量測定の結果は説明できない。そこで、この新たな相は、4/7整合相をMott局在相とし、それにホールドープした系であり、この流体相から4/7整合への相転移がMott-Hubbard型の量子相転移であるという主張がなされた。この考えは、Mott局在相にホールドープした銅酸化物高温超伝導体の物理と密接な関係があり非常に興味深い。本研究の系ではdisorderを一切導入することなく粒子密度を大きくしかも精密に変えることができる、つまり理想的なフィリング制御ができるのが電子系の研究とは異なり、大きな利点として挙げられる。

本研究では4Heを1層プレコートしたグラファイト上に吸着した2次元3Heを核磁気共鳴の手法を用いて、70μKの超低温から500mKの約4桁にわたる広い温度範囲で、フェルミ流体的な振る舞いを見せる低面密度から強磁性的な振る舞いが現れる高面密度まで幅広い面密度範囲で磁気的性質を測定した。吸着第1層に4Heを選択したのは、基盤の不均一な部分にアモルファス上に吸着した3He原子や超低温までキュリー則に従う吸着第1層高面密度固体3Heを非磁性の4Heに置換しその影響を除去するだけでなく、より高面密度な4Heの吸着第1層による従来とは異なる整合相の面密度を得るためである。核磁気共鳴法による局所磁場に敏感な共鳴磁場やスピンースピン緩和時間と関連する共鳴線幅などの測定にから、ミクロな性質がより明らかになることが期待される。過去に吸着第1層が3Heの系でより面密度刻みの荒い数mKまでの測定があるが[7]、100μK以下の超低温まで、細かい面密度で測定を行ったのは本研究が初めてである。

磁化の温度依存性を図1に、等温曲線を図2に示す。これらより、本研究で測定した面密度領域において大きく四つの領域に分けられることが示された。また、全ての領域において共鳴磁場は磁化の成長とともに線型に移動した。これは核スピンが作る双極子場による反磁場の影響であり、これからスピンの局所的な配置について知見が得られる。その反磁場係数Dの逆数の面密度依存性を図3に示す。共鳴線幅は10mK以上の高温では測定の誤差内で面密度依存および温度依存はなかった。温度T≦3mKでは温度変化を示し、最低温度付近での共鳴線幅には密度依存性があった(図4)。温度変化を示し始める温度が、交換相互作用の大きさ(J〜1mK)程度であることはその温度付近から短距離相関が成長するため、exchange narrowingの効果が抑制されてしまうためと考えることができる。共鳴線幅の密度依存性はその密度における3He粒子の移動度を反映しており、構造を理解するのに重要な指標である。

5.30nm-2以下の低面密度領域(領域I)では100mK以下の超低温で磁化が温度依存しないパウリ常磁性を示し、フェルミ流体論でよく記述できる振る舞いをする。このフェルミ流体の相互作用を示すランダウパラメタは〓となり、スピンの向きは揃う方向に相互作用が働いていることが示される。

さらに面密度を増加させ、4/7整合相(6.8nm-2)直下近傍の面密度領域(領域II)では、整合相面密度に近づくにつれ磁化が急速に大きくなっている。また、低温での共鳴線幅は面密度とともに増大している。これらの現象は流体相-整合相の2相共存では説明できず、この領域が面密度ともに一様に変化する相であることを示し、熱容量測定の結果を支持する。共鳴線幅の変化は、面密度が増大することで粒子の移動度が減少し、exchange narrowing効果が抑制されることからであると考えられる。一方、反磁場係数Dは面密度によって変化しているのが観測された。核スピンが平均的に分布している一様相では面密度に対してDは変化することはない。このことから核スピンの分布は平均的ではなく、短距離での相関を考慮に入れる必要がわかる。測定結果は局所磁場がより大きくなる、つまり短距離では強磁性的な相関が強いことを示している。面密度が低いほうがより顕著に強磁性的な相関を示すことは領域Iのフェルミ流体が強磁性的な相互作用を示しているのと符合する。このことから、密度の上昇とともにフェルミ流体から反強磁性的な整合相に連続的に変化していることが改めて示された。しかしながら、現在のところ三角格子のホールドープでは強磁性的な相互作用は理解できない。よって、新たな模型を考えなければならない。

整合相より面密度の大きい領域(領域III)では、磁化の密度変化も緩やかになる。反磁場係数Dの面密度依存性もなくなる。また低温における共鳴線幅は整合相の面密度の前後で不連続に小さくなる。共鳴線幅が小さくなるのは、整合相に足された粒子によって、再び粒子の移動度が増大したと考えることができる。この領域の整合相に対する磁化の増分は、低温までキュリー則的に増大している。よって追加された粒子は非常に大きな有効質量を持つ流体もしくは小さな相互作用しかない局在相と考えられる。この領域において反磁場係数は平均場的に考えられるものよりも小さい。このことは、核スピンの分布が領域IIのときとは異なり、短距離的には反強磁性的な分布がより実現していることが示される。磁化の増分は500μK以下の低温で減少する振る舞いが現れる。この現象は磁化の増分が絶対零度で消失するように見られる。これは追加された粒子のみがスピン一重項的な秩序状態を作成していると考えることができる。

さらに面密度をあげていく(p/p4/7>1.1)と強磁性的な振る舞いが現れる領域(領域IV)に入る。磁化曲線からは零磁場に外挿した磁化も大きな有限の値を持ち、自発的な磁化であることが予測される。反磁場係数Dの密度依存性から、この領域はさらに二つ(領域IV-a、領域IV-b)に分けられ、それぞれは一様相であることを示している。この領域IV-bにおいてDは平均場的に考えられるものより大きい。よって、領域IV-bに入り再び短距離的な相互作用は強磁性的になることが考えられる。領域IV-aは、領域IIIでは相関の弱かった追加粒子が面密度を増すことで相互作用を持ち始め、その結果、強磁性を示していると考えられる。領域IV-bに入ると磁化の増分も大きくなり、追加した粒子の飽和磁化以上になる。よって、この領域では吸着第2層の整合相の性質が大きく変化していることを示している。つまり、追加された粒子が4/7整合相を破壊し、第2層が下地に不整合な固相へと変化していることが考えられる。この2次元3He系は多体交換の競合により、面密度によって交換相互作用の大きさが大きく変化することが知られており、整合相から不整合固相に移り変わることで第2層の磁気的性質が大きく変化していると説明できる。

これらのように4Heをプレコートしたグラファイト上に吸着した2次元3Heは低面密度のフェルミ流体から反強磁性的な整合相を経て、強磁性的な振る舞いが見られる高面密度までさまざまに変化することが確認された。短距離相互作用も強磁性的なものから、反強磁性的なものになり、再び強磁性的なものになる様子がみられた。特に、領域IIにおいて短距離相互作用が強磁性的であるということは、従来考えられていた模型では説明が困難であり、新たな理論が必要である。また、領域IIIの磁化異常も初めての知見であり、この機構も実験的、理論的に更なる研究が望まれる。

図1:磁化の温度依存性。図中の点線は4/7整合相密度のものがキュリー則に従うときの磁化を示したものである。

図2:磁化と温度をかけたものの等温曲線。図中の実線は自由スピンのときの磁化の値である。

図3:反磁場係数Dの逆数の面密度依存性。図中の線はそれぞれ一様三角格子、ホールドープ三角格子、2相共存を仮定したときの値。

図4:共鳴線幅の面密度依存性。

V.Elser,Phys.Rev.Lett.62,2405(1989).K.Ishida,M.Morishita,K.Yawata,and H.Fukuyama,Phys.Rev.Lett.79,3451(1997).R.Masutomi,Y.Karaki,and H.Ishimoto,Phys.Rev.Lett.92,025301(2004).A.Casey,H.Patel,J.Nyeki,B.P.Cowan,and J.Saunders,Phys.Rev.Lett.90,115301(2003).Y.Matsumoto,D.Tsuji,S.Murakawa,H.Akisato,H.Kambara,and H.Fukuyma,J.Low Temp.Phys.138,271(2005);松本洋介、東京大学大学院理学系研究科物理学専攻2003年度博士論文.D.S.Greywall,Phys.Rev.B41,1842(1990).C.Bauerle,Y.M.Bunkov,S.N.Fisher,and H.Godfrin,Czech.J.ofPhys.46,399(1996).
審査要旨 要旨を表示する

2次元フェルミ粒子系は、銅酸化物超伝導体の発見も契機として、近年実験的、理論的に精力的な研究の行なわれている対象である。特にグラファイト上に物理吸着した単原子および数原子層のヘリウム3の系は強く相互作用するフェルミ粒子系の大変ユニークな研究対象として、また理想的な2次元系として大きな注目を集めている。さらにこの系は強相関電子系と比較して、密度や温度を広範に変えられる点も特徴であり、実際に相関の強いフェルミ液体、強磁性、量子スピン液体、などに関する新奇な物性物理学上のテーマの格好の研究対象を提供してきた。修士(理学)村川智提出の学位請求論文では、このHe3の単原子層に生じる興味深い物性を、主として核磁気共鳴の手段を用いて研究したものである。この研究では第1層にHe4をプレコートした上で、その上に吸着させたHe3の単原子層を研究したものである。広範にヘリウム面密度を変えることにより、後に詳述するように、領域I、領域II、領域III、領域IVと分類したそれぞれの密度領域で、特徴的な磁性、磁気緩和を研究した。特にこの系の特徴は第2層の面密度が第一層の形作る三角格子のポテンシャルの極小をすべてHe3が埋めたときの濃度の4/7(以下4/7フィリングと呼ぶ)になったときに、周期ポテンシャルに対して整合密度になったことに伴う固化(電子系のモット絶縁相に対応するもの)を生じることであり、この固相の存在のために単原子層の物性は多彩になっている。

本論文は和文で結論にいたるまで5章からなる。第1章は問題を概観した序章であり、第2章にヘリウム3の単原子層の構造、これまでの実験事実、特に磁性に関してこれまで知られている実験的、理論的知見が述べられている。また理論的な背景としていくつかのモデルによる研究がレビューされ、本研究の動機と目的が提示されている。第3章は核断熱消磁冷凍機を含む実験装置のセットアップと、測定手法、特に温度測定の手法と核磁気共鳴の測定法について紙数が割かれている。第4章が全体の中心となる章であり、実験結果の提示と解析にあてられている。第5章は結論である。以下では第4章で述べられている実験結果の解析と得られた成果について述べる。

第4章は概要に続いて面密度ごとに上記の4つの領域ごとに、磁化、共鳴線幅、共鳴磁場の測定結果と考察が述べられているので、それぞれの領域での成果を概観する。最も面密度の低い領域IはプレコートされたHe4の上に吸着されたHe3原子の密度が低いために通常の2次元フェルミ液体としての性質と考えればほぼ説明できる。実際に帯磁率は10mK以下から温度によらないパウリ常磁性を示している。

領域IIは4/7モット相に近づいてくるために多体相関の効果が重要になる領域である。この領域では面密度の増加とともに磁化が非線形に増大し、それに呼応して共鳴線幅も増大することがわかった。また局所磁場係数も面密度の増加とともに急激に増大する。この実験結果が正しいとすると、2相共存や一様な相関のないフェルミ液体といった単純な可能性で説明することが困難である。重要な問題提起が行なわれ、今後この領域を理解していくうえでの重要な情報を提供していると判断できる。もともとこの領域では面密度4/7の固相に近づくにしたがって、多体相関が次第に顕著になっていく領域にあたる。村川氏はこの領域でパウリ常磁性が見られなくなる温度を有効フェルミ縮退温度とみなしたときに、この縮退温度が面密度4/7に近づくにしたがって、異常な低下を示しゼロに近づくことを見出した。これは比熱測定から従前に指摘されていた質量の発散的増大の異常なスケール則が磁性でも検証できること、またこのスケール性が比熱測定の行なわれた温度領域よりももっと低い温度領域と面密度4/7により近づいた領域でも成り立っていることを示すもので、高く評価できる。

領域IIIの過剰粒子層では第2層の固相完成後、第3層にHe3粒子が吸着し始めている領域にあたる。この領域で、村川氏は磁化(帯磁率)が低温で減少するという興味深い現象を見出した。この減少を引き起こすメカニズムが何であるかは今後の研究に待たねばならないが、一重項形成の傾向を示唆する発見そのものに価値があるものと認められる。またこの領域で第3層ヘリウム粒子が重い粒子となっているという解析も興味深いものである。一方領域IIIの中でもより密度の高い側では、強磁性の発現が見られるがこの強磁性が第3層のヘリウムに局限されており、第2層のスピン液体的なふるまいと共存しているということが実験結果から示唆された。この機構の解明は興味深い課題である。領域IVでは第2層も巻き込んだ形での強磁性が生じているという結果が磁化測定から得られた。

本研究以前には核磁気共鳴を用いていくつかの研究があるが、このように70μKから500mKの広い温度範囲にわたって、かつ第2層から第3層にわたる広い面密度での系統的な測定と解析を行なった研究は初めてである。

以上のようにこの論文では、He3の単原子層に生じる興味深い物性を、主として核磁気共鳴の手段を用いて研究したものである。グラファイト上の第1層にHe4をプレコートした上で、その上に吸着させたHe3の単原子層に対して、広範にヘリウム面密度と温度を変えることにより、系統的に、領域I、領域II、領域III、領域IVと分類したそれぞれの密度領域で、特徴的な磁性、磁気緩和を明らかにした初めての研究である。実験精度の改善、機構解明など今後に残る課題はあるものの、この分野の進展に顕著な貢献をなしたものと認められる。また理論家に対してメカニズム考察への基礎データを提供した点も評価される。このように本論文は博士(理学)の学位論文としてふさわしい内容をもつものとして審査員全員が合格と判定した。

なお本論文の主たる業績は、指導教員である福山寛助教授、および辻大輔氏、松本洋介氏、神原浩氏、秋里英寿氏、向賢一氏との共同研究であるが、学位申請者が、実際の核磁気共鳴実験装置の立ち上げ、実験の遂行や解析、解釈などにおいて、中心となって得られた成果であり、学位申請者の寄与が重要であると判断された。

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