学位論文要旨



No 120972
著者(漢字) 石井,寛高
著者(英字)
著者(カナ) イシイ,ヒロタカ
標題(和) 海馬における脳ニューロステロイド合成酵素及びその受容体の分子生物学的解析
標題(洋) Molecular biological analysis of enzymes and receptors for brain neurosteroids in the hippocampus
報告番号 120972
報告番号 甲20972
学位授与日 2006.03.23
学位種別 課程博士
学位種類 博士(理学)
学位記番号 博理第4772号
研究科 理学系研究科
専攻 物理学専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 教授 桑島,邦博
 東京大学 教授 佐野,雅己
 東京大学 教授 小林,孝嘉
 東京大学 助教授 北尾,彰朗
 東京大学 教授 陶山,明
内容要旨 要旨を表示する

脳神経系は従来から男性ホルモンや女性ホルモンといった性ステロイドホルモンの標的器官として知られていた。これまでの常識では、これらの性ステロイドが卵巣や精巣といった末梢の性ステロイド合成器官で合成され、血流を介して脳神経系に到達し、作用を引き起こすといった描像であった。一方、20年程前から脳神経系でもpregnenolone (PREG)、progesterone (PROG)、dehydroepiandrosterone (DHEA)といったステロイドが脳神経系の特定の領域に高濃度で存在することから脳でもコレステロールからステロイドホルモンが合成されると予想されていた。この脳神経系で合成されると予想されたステロイドは、現在ではニューロステロイドと呼ばれている。

最近になってPREG、PROGといったステロイドの合成酵素であるP450sccや3β-HSDなどが脳神経系で発現しており、しかも合成活性が実際に測定されたことから、ステロイドホルモン合成経路の上流にあたる産物は脳内で内在性のコレステロールから合成されることが確実となってきた。だが、性ステロイドなどの合成経路下流の産物が脳神経系内でコレステロールから産生されるといった考えは、現在まで否定的にとらえられていた。というのも性ステロイドがコレステロールから合成される場合にはPREGがP450(17α)による酵素反応を介してDHEAが合成される必要があるが、これまでの20年間のニューロステロイド研究ではP450(17α)の発現やその酵素活性を証明することが出来なかったため、P450(17α)は脳神経系にないと考えられていたからである。

しかし、P450(17α)の代謝産物であるDHEAが脳神経系内で高濃度に存在するため、P450(17α)が脳に存在しないと考えるのは明らかに矛盾していた。そこで、P450(17α)が実際には脳神経系に存在しているのではないかという信念の基、検出系の高感度化や実験系の改良をはかり、ついに記憶・学習の中枢である脳海馬でP450(17α)が発現しており、その酵素活性があることを発見した(Hojo et al,2004;及び本博士論文の結果)。この成果により、脳神経系内に性ステロイド合成経路が存在することが示唆された。ただ、このP450(17α)の脳神経系における発見は脳神経系内の性ステロイド合成経路解明の第一歩に過ぎない。実際、性ステロイド合成経路は、合成経路上流のPREGやPROG合成系とは異なり、多くの酵素が関わっており、非常に複雑である。それゆえ、その解明を行うためにはこれら合成酵素群を統一的・網羅的に解析することが必要であった。そこで、本研究ではこれら性ステロイド合成経路に関わる合成酵素群の分子基盤を解明するため、分子生物学的手法を用いて統一的・網羅的な発現解析及び生化学的手法を用いて酵素活性の解析を行なった。さらに、性ステロイドの作用先である受容体の解析も経路解明に必要であることから、性ステロイド受容体の統一的・網羅的な発現解析も同時に行なった。

性ステロイド合成経路に関わる酵素としてはP450(17α)、17β-HSD、5α-reductase、P450arom、3α-HSDが、受容体としては男性ホルモン受容体(AR)、女性ホルモン受容体(ER)が知られている。そして、これらにはいくつかのサブタイプが存在している。本研究ではこれら一連の酵素群・受容体群全てを発現解析の対象とした。発現解析の対象は脳の主に海馬を使用し、発現解析法には高感度な発現解析法であるRT-PCR/Southern blotting法を用いた。そして、生化学的な解析においては海馬におけるDHEAからのステロイド代謝経路を探るため、DHEAからのステロイド代謝産物をHPLC法で分離・同定し、実際の合成経路を順に解析していった。

RT-PCR/Southern blotting法を用いた発現解析から性ステロイド合成経路に関わる酵素群は17β-HSD 5、6及び5β-reductase以外全ての酵素が海馬で発現していた。これらの中で特に酵素活性が強く、男性ホルモン・女性ホルモンの合成に積極的に関与している酵素(P450(17α)、17β-HSD 1, 3、P450arom、5α-reductase 2)は末梢のステロイド産生臓器と比較して1/100-1/1000程度発現していた。末梢のステロイド産生臓器は体中にステロイドホルモンを送り出すが、海馬で合成されるステロイドは局所的に作用すると予想されているため、このオーダーの発現は十分な量である。実際にHPLC法による解析から男性ホルモンであるテストステロンやジヒドロテストステロン、女性ホルモンであるエストラジオールの合成活性が海馬であることが示された。さらに、男性ホルモン・女性ホルモン受容体も海馬に発現していることから、脳内ではコレステロールから性ステロイドが局所的に合成され、その場で自己分泌または近接分泌様に作用することが示唆された。

発現解析の結果からおおよその性ステロイド合成経路の発現量はP450scc=3β-HSD I<P450(17α)=P450arom<17β-HSD 3<17β-HSD 1=5α-reductase 2となると判断できた。実際のHPLC法によるステロイド代謝活性測定からDHEAは、「DHEA→アンドロステンジオール(5-androstene-3β,17β-diol)→テストステロン→エストラジオール」ないしは「DHEA→アンドロステンジオール→テストステロン→ジヒドロテストステロン→アンドロスタンジオール(5α-androstane-3α,17β-diol)」と代謝されていた。すなわち、DHEAはまず、17β-HSDにより代謝された後、 3β-HSDの作用でテストステロンとなり、エストラジオールやジヒドロテストステロンが合成されていた。このHPLC法による海馬のステロイド代謝活性の結果は酵素発現の結果とよく一致しており、本研究の発現解析と代謝活性解析の妥当性を示すとともに海馬における性ステロイド合成経路を世界で初めて実証した画期的な成果である。

また、in situ hybridization法の結果から強力な男性ホルモンを合成する酵素である5α-reductaseが神経細胞に局在することが明らかとなった。

さらに、海馬の脳ニューロステロイド合成酵素及び受容体の発現量の変動を発達段階を追って解析したところ、幼若期の生後1-2週目に高いことが判明した。幼若期においては性ステロイド合成酵素・受容体のみならず、ステロイド合成の律速段階となっているP450sccの発現量が非常に高いことから、幼若期に脳ニューロステロイドが盛んに合成されることが示唆された。特に生後1-2週目は神経回路網の構築が盛んな時期であるとともに脳機能の様々な臨界期に相当している。それゆえ、神経回路網の構築や何かしらの脳機能の臨界期にステロイドホルモンが関わっていることが予想された。

本研究は、20年以上脳内で見つかっていなかったP450(17α)とそれ以降の性ステロイド合成経路の存在を実証したことで、末梢のステロイドホルモン産生器官とは独立に脳がコレステロールから独自に性ステロイドホルモンを合成していることを明らかにした。これは、従来の常識であった「脳神経系においては末梢器官で合成された性ステロイドホルモンが血流に乗って到達し、作用する」という描像に大幅な改変を促すものである。さらに、先行研究と本研究により脳ニューロステロイド合成系と作用先である受容体が神経細胞に局在しており、局所的に合成された脳ニューロステロイドが自己・近隣の神経作用に働きかけ、作用を及ぼしていることが示唆された。

近年の川戸研究室の成果により、これら性ステロイドが神経活動依存的に合成されることを見出している。さらに、性ステロイドが、海馬神経細胞の情報伝達の場として知られるスパインの密度や形態変化を急性的に変化させ、神経情報伝達を調節していることが明らかとなっている。そのうえ、電子顕微鏡を用いた局在の解析から、ステロイドホルモン合成酵素及び受容体が海馬神経細胞のシナプス近傍に局在していることも判明している。この酵素・受容体の局在及び急性的なステロイド合成と作用は、脳ニューロステロイドが神経伝達を調節する因子として働いていることを示唆している。

それゆえ、脳ニューロステロイドである性ホルモンは、新規の神経伝達調節因子であり、神経の活動を積極的に制御していることが考えられる。また、脳で合成されるステロイドホルモンは、内分泌物質として働く末梢で合成されるステロイドホルモンとは、分泌様式や作用が異なっている、それゆえ、本研究は従来の神経内分泌学の範疇に入るものではなくむしろ、神経局所分泌学という新規分野を開拓するものである。

審査要旨 要旨を表示する

この論文では、記憶・学習の中枢器官である海馬を用い、性ステロイド合成系を中心として脳ニューロステロイド合成酵素及びその受容体の発現を分子生物学的生化学的手法を用いて網羅的に解析した内容が述べられている。

脳はステロイドホルモンの標的器官であり、ステロイドホルモンが脳に作用して神経伸長・神経保護・神経活動の調節を行なうことは古くから知られていた。従来の常識では、これらのステロイドホルモンは副腎・卵巣・精巣といった末梢ステロイド合成器官で合成され、血流にのって脳に到達して作用するとされていた。しかし、近年、ステロイドホルモンが脳内の特定の領域でコレステロールから独自に合成されることが判明し、コレステロールから1段階ないし2段階の反応を経て合成されるPREG(pregnenolone)やPROG(progesterone)などのステロイドが神経細胞で産生されることが明らかとなってきた。女性ホルモンや男性ホルモンの性ステロイドホルモンも脳に作用することが知られていたが、脳内コレステロールからの性ステロイド合成に関しては、性ステロイド中間体DHEA(dehydroepiandrosterone)の合成酵素であるP450(17α)の発現やその活性が脳で検出できないため、脳内性ステロイド合成系の存在は否定されて来た。ところが、その一方で、P450(17α)の代謝産物であるDHEAが脳で高濃度に存在するので、脳内にP450(17α)が存在しないと考える従来の報告は明らかに矛盾していた。

論文提出者は、RT-PCRプライマー設計法に物理化学的なパラメーターを導入して最適化することにより高感度で特異性の高いプライマーを作製し、これをRT-PCR/Southern blotting法に適用した。これにより発現検出系の高感度化をはかり、性ステロイド合成系を中心にP450(17α)及びそれ以降の脳ニューロステロイド合成酵素・受容体の網羅的発現解析を行なった。さらに、HPLC法を用いて海馬におけるステロイド代謝能を測定し、性ステロイド合成経路を同定した。また、一連の酵素群の海馬内における発現局在を免疫組織化学染色法とin situ hybridization法を用いて同定した。

本研究では、プライマー設計法の改良により、これまで20年以上ないとされていたP450(17α)の脳内発現を見出し、DHEA合成経路を決定することに成功した。これにより、脳内の性ステロイド合成系の解明に道筋をつけるとともに、DHEA以降の脳内の性ステロイド合成系に関する網羅的解析を行なった。本研究の結果、以下が明らかとなった。(1)成獣ラット脳にはコレステロールから性ステロイド合成に必要な一連の酵素群が発現している。(2)記憶・学習の中枢である海馬ではDHEAからアンドロステンジオールを経て男性ホルモンであるテストステロンが合成され、そのテストステロンは、さらに強い男性ホルモンであるDHTや女性ホルモンであるエストラジオールに変換される。(3)性ステロイドの作用先である受容体が脳で発現している。(4)性ステロイド合成酵素群が海馬神経細胞に局在する。(5)海馬では脳ニューロステロイド合成酵素・受容体が生後すぐから2週齢にかけての幼若期に高発現する。

本研究は、(1)高感度で特異性の高いプライマー設計法の開発、(2)成獣ラット脳における脳ニューロステロイド合成経路およびその受容体の網羅的解析の成功、(3)海馬での性ステロイド合成系の同定、(4)性ステロイド合成酵素群の神経局在の発見、(5)海馬発達段階における脳ニューロステロイド合成経路およびその受容体の網羅的解析の成功などの点で新規性がある。本博士論文の結果から、記憶・学習の中枢である海馬では、神経細胞が独自にコレステロールから女性ホルモン・男性ホルモンを合成して自己・近隣に分泌することにより神経伝達調節因子様の作用を発揮することが示された。また、これらは成獣脳海馬のみならず神経回路網の構築が盛んな幼若期の海馬にも重要であることが示唆された。従来ステロイドホルモンの神経作用は、神経内分泌学分野の枠内で議論されていたが、本研究により、性ステロイドホルモンを神経細胞が独自に合成し、自己・近隣の神経細胞に分泌していることが明らかとなり「神経近接分泌学」ともいうべき新規分野が開拓された。

なお、本研究は、川戸佳氏、木本哲也氏、古川愛造氏、北候泰嗣氏らとの共同研究であるが、論文提出者が主体となって分析及び検証を行なったものであり、論文提出者の寄与が十分であると判断する。

したがって、審査員一同は同提出者が博士(理学)の学位を授与するのに十分であると判断した。

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