学位論文要旨



No 120976
著者(漢字) 今尾,浩士
著者(英字)
著者(カナ) イマオ,ヒロシ
標題(和) オルソパラ比コントロール下における気体・液体・固体重水素でのミュオン触媒核融合
標題(洋) Muon Catalyzed Fusion in Gas/Liquid/Solid Deuterium under the Controlled Ortho-Para Ratio
報告番号 120976
報告番号 甲20976
学位授与日 2006.03.23
学位種別 課程博士
学位種類 博士(理学)
学位記番号 博理第4776号
研究科 理学系研究科
専攻 物理学専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 教授 山,泰規
 東京大学 助教授 福谷,克之
 東京大学 教授 早野,龍五
 東京大学 助教授 上坂,友洋
 東京大学 助教授 浅井,祥仁
内容要旨 要旨を表示する

TRIUMF研究所(カナダ)の負ミュオンビームを用いて、重水素系ミュオン触媒核融合(μCF)に重水素分子のオルソパラ状態が与える効果の研究を行い、固体、液体、気体の全ての相においてその効果を明確に観測する事に成功した。結果は、「共鳴分子生成過程の理解」と重水素系ミュオン触媒核融合における長年の問題、「凝集系の効果」の理解に大変有用である。重水素中に打ち込まれた負ミュオンはただちにミュオン原子dμを形成する。生成されたdμ原子は超微細構造Fをもち、その各々の状態から(F=3/2もしくは1/2)ddμ分子生成を起こす。ミュオン分子は直ちに核融合反応を誘起する。核融合後ミュオンは放出され、その寿命2.2μsが尽きるか、核融合生成物の1つヘリウム核に捕獲されるまで上記の仮定を繰り返す。これがミュオン触媒核融合サイクルである(図1)。

このサイクル率を上げ、μCFで如何に効率良くエネルギーを得るか?という事を考えるとき、核融合反応をおこす前段階のミュオン水素分子をできるだけ早く作ることが重要である。ミュオン分子生成過程の速さは共鳴ミュオン分子生成過程というフェッシュバッハ型の共鳴機構が担っており、非共鳴的なオージェ電子を飛ばす分子生成過程よりも約100倍早い(a)。この共鳴ミュオン分子生成機構こそがμCFで最も重要な過程であり我々は特にこの機構の研究を行った。共鳴分子生成に影響を与える状態には、温度、密度、相、そして、標的水素分子の回転状態があるが、我々は重水素中でのμCFにおいて、初めてその全ての状態を同時に変化させながら実験を行った。特に標的D2分子の分子回転状態については、分子の全原子核スピン状態、オルソ(全原子核スピン量子数I=0,2)、パラ(I=1)状態によって制御する事が出来て、共鳴ミュオン分子生成の条件を制御できる。これは共鳴分子生成に必要な共鳴エネルギー(〜meV)とD2分子の回転エネルギーの差が同程度(7.4 meV)であるために可能となる(オルソパラ効果)。オルソパラ効果の研究は重水素・三重水素系に応用し、そのエネルギー生産効率を上げ「エネルギーブレークイーブン」を達成するために欠かせないものであるばかりでなく、水素中でのミュオン原子、ミュオン分子の振る舞いを解明する上でも重要である。

さて、純粋な重水素中でのμCF現象は、共鳴ミュオン分子生成機構が初めて発見された系であり、μCF過程の基礎研究に最も適していると言える。気体領域で実験的に観測された共鳴分子生成率は孤立系のμCF理論(b)(水素分子間の相関がないものとした理論)で非常に良く再現できている。しかし固体領域で観測された高い共鳴分子生成率を、そのような孤立系の理論で全く記述する事が出来ないという大問題があった(c)。これを受け、フォノンの寄与や中性ミュオン原子の非熱化過程等のモデルを含む固体中のμCF理論が考えられ(d)、さらに固体特有の効果の性質を明らかにするため固体薄膜を用い核融合陽子を検出する事で、オルソパラ効果が観測された(e)。孤立系の理論予測によると、オルソ標的中では共鳴分子生成率は数パーセント増加するが、

実験結果は予想と逆に約20%減少し、さらに固体特有の効果を組み込んだ最新のμCF理論(c)とも矛盾した結果であった。我々はこの重水素系μCFにおける共鳴分子生成機械の全貌解明のために、固体・液体・気体全ての相でオルソパラ効果を観測する実験を行った。固体で過去の実験の再現性をチェックし、液体では固体特有の効果を含まない現象を観測できる上、そもそも共鳴分子生成率が孤立系のμCF理論で説明出来ているため、固体とは違ったオルソパラ効果が期待出来ると考えた。更に、気体では凝集系の効果から完全に切り離してオルソパラ効果を観測できる上、孤立系μCF理論の検証が出来ると考えた。

実験手法はオルソパラ状態を制御した固体・液体・気体重水素標的を用意し、そこに負ミュオンを打ち込んで、μCF反応によって放出される2.5MeV単色のd-d核融合中性子を検出するというものである。核融合中性子の時間情報を詳細に解析する事で共鳴ミュオン分子生成率λ3/2やdμ原子のF=3/2からF=1/2への超微細構造遷移率λ3/2 1/2等の情報を引き出し、そのオルソパラ依存性を見た。この実験を成し遂げるためには、(1)d-d核融合中性子の検出器系の開発、(2)大容量オルソ重水素生成系の開発、(3)オルソパラ比の観測のため回転ラマンレーザー系の開発、が必要不可欠であり、これらの研究・開発を行った。

蒸気圧の高い液体や気体標的を使用するため、飛程の長い核融合中性子を観測する手法を確立する必要があった。しかし、2.5MeVのd-d核融合中性子検出は難しく、γ線やミュオンが標的以外の物質に止まって放出されるミュオン原子核捕獲中性子(〜1.5MeVを平均とするマクスウェル分布)の大きなバックグラウンドがあった。まずγ線のバックグラウンドについて、液体シンチレ-タ内での発光過程の違いから中性子と分離する事に成功した。続いて、原子核捕獲中性子についてはミュオンが原子核に捕獲された場合は崩壊電子を放出しないという性質を利用して、中性子のイベント毎にミュオン崩壊電子とのコインシデンス条件を課し,原子核捕獲中性子のバックグラウンドを大幅に減らす事に成功した(図2)。

限られたビームタイムの中で、多くの温度、密度、オルソパラ比の実験データを取得するため、大容量のオルソリッチな重水素標的を繰り返し作成するための手法を確立する必要があった。D2ガスは標準状態ではオルソ:パラ=2:1のスピン統計比で構成され、たとえ低温にしても、オルソ・パラ間の変換には数ヶ月かかる。我々は低温重水素中に常磁性体触媒を混ぜる事で変換を促進する手法を用いた。次に述べる回転ラマン分光法と組み合わせる事で詳細な研究を行い、標準状態で40リットルものオルソパラ比をコントロールした重水素を、1日以内で作成する手法を確立した。

D2ガスの絶対的なオルソパラ比を短時間のうちに実験現場で測定する事は、今回の実験で最重要課題であった。そこで.我々はDPSSブルーレーザー(20mW-CW出力)を使用した、コンパクトなラマンレ-ザ-システムを開発し,μCF実験で初めて回転ラマン分光法を応用した。弾性散乱から来るレイリー光の膨大なバックグラウンドの中、その10-6程度の強度しかない微弱なラマン光を観測する事に成功し、重水素分子の回転状態を明確に知る事ができた。このシステムは日本からカナダTRIUJMF研究所に輸送され、実験を行いながらオルソパラ比を測定する事に成功した。それぞれの実験RUNの前後でラマン分光を行い、放射線等の影響で重水素標的のオルソパラ比が変化していない事を確認できた(図3l)。素標的のラマン分光スペクトル

以上のような実験手放におけるブレークスルーの積み重ねで固体、液体、気体の全ての領域においてオルソパラ効果を観測する事に成功した。それぞれの領域の結果を以下にまとめる。

まず、固体領域における結果は、オルソ標的を用いた場合の方がλ3/2、λ3/2 1/2共に低くなった。これは、孤立系の理論予想とは反対の効果で、以前の実験結果を支持するものである。より確実性の高いラマン分光によるオルソパラコントロール手法によって固体領域におけるオルソパラ効果の存在を確信できた。

次に、液体領域でのオルソパラ効果は実験前の予想に反し、孤立系の理論予想と逆で固体領域の結果と変わらない、という予期せぬ結果を得る事が出来た。上述の固体領域における様々な理論との齟齬の原因が固体特有の効果のみでない事が初めて示された(表1)。

固体液体領域では全ての温度点でλ3/2とλ3/2 1/2をオルソパラそれぞれについて決める事が出来たので、散乱による超微細構造遷移率λSC3/2 1/2、分子経由の超微細構造遷移率λBD3/2 1/2を求め、ddμ分子のスピン1/2からdμのF=1/2へのback decay率Γ1/2を求める事が出来た。結果は理論的なλSC3/2 1/2が理論値36μs-1より低い事を示唆している(表1)。

気体領域では更に驚くべき結果が観測された。まず、気体領域ではオルソの核融合中性子スペクトラムに時間構造に異常が観測され再現性もチェックされた(図4)。これは今まで気体領域のμCF現象をうまく説明出来てきた孤立系のμCF理論で説明できない新現象であると考えられる。原因としては非熱化状態のdμ原子の共鳴分子生成が有力であると考えている。従来の気体での理論は気体重水素中でdμが直ちに熱化するものとしており、dμ熱化は理論の根本的な仮定であった。我々の実験結果からその見直しが迫られ、非熱化効果を考慮した理論的解析が必要となっている。そして、気体領城ではオルソパラ効果によって初めてエネルギー生産性が向上するのを観測した。孤立系のμCF理論予想と同傾向でオルソ気体で収量が増加し、固体・液体とは効果が逆転した(図5)。共鳴条件が凝縮系中で変化している事を示す有力な証拠であるといえる。

図1:重水素系μCFサイクル

図3:実験で得られた典型的な重水

表1:固体・液体における実験結果

図4:気体での核融合中性子の時間スペクトラム。従来のμCF理論に従えばexponetial的に減衰するはずだが、オルソで異常な盛り上がりが観測された。

図5:オルソ・ノーマルそれぞれの標的からの核融合中性子収量の温度依存性。固体、液体と気体の間で傾向が変わった。(図のLHD=Liquid Hydrogen Density)

E.A.Vesman,Zh.Eks.Theo.Fiz.Pis.5,50(1967).(Sov.Phys.JETP Lett.5,91(1967))M.P.Faifman et al.,Muon Catal. Fus. 4,1(1988)P.E.Knowles et al.,Phys.Rev.A56,1970(1997)A.Adamczak and M.P.Faifman,Phys.Rev.A64,052705(2001)A.Toyoda et al.,Phys.Rev.Lett.90,246401(2003)
審査要旨 要旨を表示する

本論文は7章と7つの付録からなる。第1章は序論であり、ミュオン触媒核融合(μCF)に関わるこれまでの研究を概観し、特に本研究と関わりの深い、μCF現象における固体効果、及び、そのオルソパラ効果についてのこれまでの研究を詳細にまとめている。第2章は研究の目的とその戦略についてまとめ、第3章で、中性子検出器、重水素分子のオルソパラ変換法、実験装置、特に、重水素の操作系、ラマン分光計、オルソパラ変換のコントロール系、検出装置、データ収集系、を順次記述している。第4章は、本研究で得られたデータリストを、第5章では、データ解析法を記述している。第6章は、固相、液相、気相の全ての相におけるオルソパラ効果についての実験結果を記した本論文の核心部分となっている。第7章は本論文全体の結論である。付録では、ミュオンの性質、ミュオンの原子核への吸収反応、中性子検出器のキャリブレーション、ミュオニック原子やミュオニック分子の特徴、これまでの重水素ミュオン触媒核融合(ddμCF)に関わるデータ、オルソ状態パラ状態の特徴、及び、ラマン分光法、について本論文を読む際、参考となる事項がまとめられている。以下、本論文の重要な帰結、本審査会の評価について述べる。

負のミュオンを重水素分子標的に打ち込むと、先ずdμ-原子が生成され、これが共鳴的にddμ-分子を形成する。ddμ-分子の"原子"間隔はdde-分子の場合の約200分の1で、このようにd-d間が近距離に引きつけられるため核融合反応(d+d→3He+n,或いは、d+d→p+t)を引き起こされることになる。核融合後に放出されるμ-は寿命がつきるか核融合生成物のαに捕獲されるまで、この核融合反応を次々と起こす。論文申請者は、この核融合サイクル率を決定しているddμ-形成率のD2の相(気相、液相、固相)依存性、さらに、D2のオルソパラ状態を制御することによって回転状態依存性を包括的に研究し、広いパラメータ領域にわたって整合的なデータを得ることに初めて成功した。論文申請者は、この実験を遂行するため、(1)d-d核融合で放出される中性子の検出器を開発し、(2)大量のオルソ状態重水素を生成する装置を開発し、さらに(3)実験と平行して標的重水素のオルソパラ比を観測するためのラマンレーザー系を開発した。実験はTRIUMF研究所(バンクーバー、カナダ)で供給される負のDCミュオンビームを用いて行われた。

以上の実験的研究を通じ、論文申請者は、(1)固相における反応率は理論的に予測されるように下がらず、液相での反応率と同程度であることを確認し、(2)固相でもオルソパラ効果が存在し、オルソ状態では反応率が下がり、孤立系の理論的予想とは逆であることを確認し、(3)液相でも固相と同じオルソパラ効果が存在し、孤立系の理論では説明できないことをはじめて見出し、(4)気相のオルソ状態はノーマル状態より反応率が高いことを確認し、(5)気相のオルソ状態では核融合中性子の時間スペクトルは200-300nsの領域に異常を示し、指数的に減衰しないこと、を見出している。(2)と(3)は孤立系の理論との違いがこれまで考えられてきたような固体効果ではなく、むしろ凝縮相の効果として説明すべきこと、(5)は気相の現象にもこれまでの理論的取り扱いでは説明できない重要な効果の存在することを示している。論文申請者はこれがdμ-原子の熱化過程と関係しているのではないかと推測している。いずれの結果も信頼性が高く、かつ"驚き"を含んだもので、今後のミュオン触媒核融合研究に重要な貢献をすると考えられる。

本論文はいくつかのグループを含む多数の共同研究者との研究成果であるが、論文提出者が主体となって装置の基本設計から、立ち上げ、実験、分析を進めたもので、論文提出者の寄与が十分であると判断される。

従って、博士(理学)の学位を授与できると認める。

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